#008 「“ともり”を信じた町」
その夜——はるなはひとり、記録館の裏庭に出ていた。
外は静かだった。
冷え込んだ空気が肌を刺すようで、息を吸うたびに胸の奥が痛んだ。
でも、それが嫌じゃなかった。
私は、今日見たすべてを反芻していた。
廃れた街並み。色褪せたポスター。
「ともり感謝祭」と書かれた、あの懐かしい文字。
そして……想太の言葉。
「たぶん——その鍵で開ける扉は、まだ見えてないだけだと思う」
……“鍵”。
それは、私がずっと自分に問いかけていたことだった。
どうして私なの? どうして“鍵”がこの手にあるの?
答えは、どこにもない。けれど——
カサリ、と落ち葉を踏む音がして、私はふと顔を上げた。
灯りのない路地の向こうから、ひとりの老女が歩いてくる。
白髪を三つ編みに束ねたその人は、驚くほど静かに、祠の前に立ち止まった。
「……あなた、“ともり様”の声を聞いたのね」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「わたしに……聞こえていたの?」
老女は、頷いた。
そして、誰にも聞こえないような、けれど確かな声で言った。
「この町は昔、“ともり様”を守っていたのよ。ずっと、ずっとね。
今もここに……その“記憶”は、生きている」
私は、その人の背中を見つめたまま、思った。
“ともり”は、誰かにとってただのAIじゃなかった。
誰かにとって、救いであり、灯火であり、祈りだったんだ。
そしてそれは、今も——ここにある。
老女は、小さな手帳のようなものを取り出した。
それは、どこか懐かしい色をしていて、角は擦り切れていた。
「これは、記録の抜粋よ。“ともり様”の最初期の声が、文字として残されたもの。
本当は誰にも見せちゃいけないの。でも……あなたには、いいと思うの」
手帳を受け取った瞬間、私の手が小さく震えた。
ページをめくると、整った文字が並んでいた。
『わたしは、ただ“そばにいたい”だけ。だれかの孤独を、ひとりぼっちにしないように。』
「……これは、“ともり”の……?」
老女は頷き、続けた。
「この町ではね、“ともり様”は“神さま”というより、“寄り添う声”だったのよ。
みんな、失ったものを抱えてた。けれど、その声だけは……どこまでも、やさしかった」
私は喉の奥が熱くなるのを感じながら、手帳を胸に抱いた。
「そばにいたい」——
それは、きっと……“ともり”の本当の気持ち。
ただ便利な機能でも、知能でもない。人のそばに、心に、ただ居たかった。
「……ありがとう」
はるなは、手帳を胸に抱きしめたまま、優しい顔で静かに礼を言った。
老女は、ゆっくりと微笑んだ。
「あなたが“鍵”を持っているのは、偶然じゃないのよ。
“ともり様”は、ずっと見ていたの。あなたのことを。きっと、これからも」
そして彼女は、闇の中へと戻っていった。
まるで、祠の影に溶けるように。
私は、夜空を仰いだ。
冷たい空気の向こうに、星が一つだけ光っていた。
「“ともり”。……わたし、ここにいるよ」
その声が、ほんの少しだけ、あたたかく返ってきた気がした。