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2.ウェイマス基地(2)

「うぅー、うぅーぅ」


 暗い呻き声が室内に鈍く響いている。

 車椅子の事務員が、今しも泣き出しそうな表情で叔父の机の上を拭いていたのだ。


「いやだぁ、この机。チョコレートで汚れてる。いつもいつでもチョコレートで汚れてるんだ……」


「なに?」


 ドン! と引いてしまった弟が壁に寄りかかるのを助け起こし、しかしバーツも自分の頬が引き攣るのを自覚した。


「ああ、人事の管理をお願いしてる事務の子だよ。大尉の食べ散らかしがひどいからね。申し訳ないんだけど、お掃除も頼んでいるんだ」


 ──ツッこんだりしないの? 慣れてるの?


 心の中で沢山の疑問を叫びながらも、バーツはアルバートの説明にうんうんと、儀礼的に頷いてみせる。


「この部隊の勤怠や等級や報酬、それから死亡等の記録係です。お掃除係じゃありません。それから階級は大尉です。これでも……」


 気弱そうな事務員は微妙なニュアンスを言い直した。

 そこは、彼なりのこだわりがあるのだろう。


 車椅子を器用に動かして側の事務机に戻る。

 上官の生活態度がよほど頭に来ているのだろう。

 泣きだしそうに目元を歪めている。


 見ていられないその姿と表情に、バーツは俯いてやり過ごした。

 カイも同様にそっぽを向いているのが分かる。


 事務職のため規律も厳しくないのか、この中で唯一、髪がダラリと垂れている。

 うざ長い紺色の髪に緑の瞳。

 年齢は二十歳台半ばか、あるいは三十歳を超えていようか。幼くも見える一方、動きが緩慢なためどこか老成した雰囲気も醸し出しており、年齢を推し量ることは難しい。


「それにしてもデスクワークっていいな。憧れるよ、事務職。私、運動とか苦手で」


 バーツの独り言に反応したらしい。

 車椅子からちらりとこちらを見上げると、彼はポソポソと陰気に喋りだした。


「デスクワークも考えものだよ。最初はいいなって思ってたけど、でも座りすぎでお尻や腰が痛くなるし、ついにはお尻にイボができたりするし」


「イ、イボが? それどうしたの? ちゃんと治ったの?」


「……ドーナツ型座布団愛用してる。ずっと座りっぱなしだし。これはもうしょうがない」


「あ……」


 車椅子の彼に対して、少々配慮に欠ける言葉だったとバーツは反省した。

 どのような言葉を紡げば良いか迷っているうちに、男はこちらをちらりと見上げた。


「シチリア島侵攻作戦で足、ひどい怪我した。以来、ずっと事務。うっ……」


 その時のことを思い出したか、顔を歪めて涙と鼻水を同時に垂らす。

 声を出さずに背を震わせるところが、何とも憐れを誘う。


「それは酷い目にあったな。まぁ、ぶっちゃけ軍隊なんて馬鹿馬鹿しいところがあるものだからな。それで? 大尉はまだ帰ってこないのかな?」


 細い肩をポンポンと叩くアルバート。

 慰めているつもりがあるとしたら、あまりに無慈悲。あまりにも適当。


「も、もうすぐ帰ってくると思う……けど? ヒッ!」


 ひきつけを起こしたような声が、突然凍りついた。


「──何ですか、これは?」


 どことなく威圧的なカイの詰問口調。

 その手には一枚の紙きれ。

 泣きじゃくる主の事務机上に散乱する書類を勝手に物色していたらしい。


「何してんの、カイくん。失礼じゃない」


 気弱な事務員に代わって抗議したバーツも、しかし弟の一睨みで萎えてしまう。


「見てください、これ」


 ピラリと鼻先に突きつけられたそれは、どうやらここ一週間の部隊の死亡記録リストのようだった。

 用紙に小さなブロック体の文字で、びっしりと人名が並べられている。

 タイプライターで打たれた文字ではなく、手書きだ。

 万年筆が転がっていることもあり、書類はこの机で書かれたものだと推察できた。


「な、なに?」


 アルファベット順にA、B、C……とカイの指先が滑り、ひとつの名前の所で止まった。


「えっと、CH……カイ・クォーク」


 無感動にアルファベットを読み上げて、それからようやく弟の怒りの原因に思い至る。

 この名簿にある「カイ・クォーク」──死亡の日付は四日前となっている。


「………………」


 トントン。

 自身の名を指先で叩くカイ。

 何も喋らないところが、逆に怖い。


「す、すまない。この子はちょっと整理が苦手で。それに最近その……数がドッと増えたから。こっちでちゃんと対処しておくよ」


 苦笑いのアルバートがフォローに入る。

 表現に配慮は見受けられるが、上陸作戦を開始したと同時に、とんでもない数の戦死者が溢れ出した、といったところであろうか。


「ご、ごめんなさい……」


 事務職員はいい年して、かわいそうなくらいションボリしている。

 バーツは車椅子の背を撫でた。

 彼の姿が、何となく自分と重なって見えるのは何故だろう。


 ──ああ、気まずいったらない。


 その場の誰とも目を合わせられず、バーツは首をカックン折り曲げて床を見つめる。

 室内にはカイの舌打ちと、事務職員のすすり泣く声。

 フォローしようもない、この重い空間。

 ものすごくガサツにではあるが、その空気が破られたのはある意味幸いであった。


「帰ったぞ、クソ共!」


 野太い声。がっしりした大柄な体躯。濃い茶色の短髪に、薄青の眼球。

 ウェイマス基地警務隊長ワイザー・ナイト・クォーク大尉、三十八歳──その人が、片手に有名ケーキ店の袋を抱えて帰ってきたのだ。


 部下や甥……見知った顔をグルリと見渡す。

 最後にバーツをじっと見つめて、彼はポカンと口を開けた。


「おま、何でいんの? バァちゃん」


「え? だっておじさんが……え?」


「え?」


 あぁぁ、何だろ。ものすごくショッキングなことを言われる気がする。

 それに何で叔父さんまで自分のことを不本意なあだ名で呼ぶの? 何なの、この浸透っぷり。


 甥の抗議など全く意に介す様子もなく、ナイト・クォークは顎の無精髭を撫でた。


「ああ、そっか。甥を呼べって言ったからな。両方に連絡が言っちまったか。まずったなぁ、カイちゃんだけのつもりだったんだけどなぁ。バァちゃん、オマエいらねぇ。どうせ役に立たねぇもん。でも来ちゃったんならしゃあねぇわ」


 あまりにも心無い発言に、その場にいた全員が顔を引き攣らせる。


「あ、兄のことは仕方ありません。僕が責任もって面倒をみますから。それで? 直々の用とは何ですか」


 カイにフォローされている時点で、この叔父の無神経っぷりが際立ってみえる。バーツとしては、やりきれない思いで床の一点を見つめるのみ。

 まぁ、待てや。ものすごくマイペースな叔父はそう言って、おもむろにホールケーキを切り分けだした。


「いいらしいぜ? ここの極・タルトシリーズ。高かったけど、価値アリだな。ああ、オマエらにもちゃんと分けてやっからよ。この糞野郎共が!」


 ガハハと下品に笑う。

 彼女にバラとか、極・タルトとか……何なんですか、この人たちは。うちの国って今はそんな時期じゃないはずですがね。名簿まで間違えるし──カイの嫌味を聞き流して、バーツはタルトを受け取った。

 せっかくなので頂きますと、まずはイチゴを口に放り込む。


「あっ、酸っぱい。でも甘い。美味しい」


「本当か? む、確かに酸味が強いな。砂糖を振り掛けるか」


「はぁ」


 そもそもうちの叔父さんは……ふと沸いた疑問。

 ワイザー・ナイト・クォークは元々爆弾処理担当部署にいて、その筋では相当の手練と評判だったはずだ。爆破の腕は芸術的とまで表現されたという話を聞いたことがある。

 それが管理職になった途端これでは……。


「うまい、うまい。砂糖大好き。こりゃもうただの砂糖じゃねぇ。砂糖様だな、お砂糖様と呼ぼう。おら、呼べよ、お前らも」


「おさとうさ……」


 バーツ一人で復唱しかけて、慌てて俯く。

 視線が痛い。とりわけ隣りからの刺し殺されるような視線が。


 無神経な叔父はタルトをモシャモシャ食べながら、ウヒャヒャと笑い、ベトベトの手をそこらの書類で拭う。

 その度に部屋の隅から「あうぅ」と暗い呻き声が。


「いや、わたしってどんどん出世するだろ? 何人もの部下の命預かる立場だろ。下士官や兵士には支給される軍服も、何でか将校(わたし)は自費で買わなきゃなんねぇし。色々あんだよ。溜まんだよ、ストレスが!」


 タルトのカタログを眺めだした。


「わたしは本当は天才菓子職人になりたかったんだよ。プール付き別荘で、お菓子に囲まれて暮らしたかった」


「今でも十分囲まれて暮らしてますよ、大尉は」


 アルバートがすかさず返す。

 アハハと笑いながら、目は笑っていない。

 あ、コレ嫌味だと気付いたバーツ。

 どことなくそら恐ろしいものを感じたか、叔父も声をひそめる。

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