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【エピローグ】夜明けの空で(1)

 甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 濃い茶色の睫毛を震わせ、男は瞼を開いた。


 クンクン──目覚めるなり、バーツは鼻を鳴らす。

 甘い甘い匂い──知っている。

 鼻の粘膜に染みついているのではないかとさえ錯覚してしまうこの匂い。

 そう、これはカイの吸っているGOLDの香り。


「あれ、私……?」


 意識が明瞭になるにつれて感じる尻の振動と全身の痛み。

 自分が幅の狭い簡易寝台に寝かされていると気付き、バーツは飛び起きた。

 床からガタガタと小刻みなエンジンの振動が伝わってきて全身を震わせる。

 ここはどこだときょろきょろと周囲を見回していると、足元に腰掛けていた弟がこちらを向いた。


「ああ、気付きまちたか、バァしゃん」


 珍しくおかしな言葉を口走っている。

 えっと、カイ君……だよね、と脳の回転が一瞬停止した感を覚えたものの、バーツは返事をするように「ウンウン」と首を縦に振ってみせた。


「いちゅまでもスヤスヤ眠っているから、本当に眠らせてやろうかと思いまちたよ。なに、引金を一度ひくだけでちゅ。簡単簡単」


 実にカイらしい言い草で兄を貶める。

 寝台の足元にちょこんと腰かけた格好で、小動物のように頬をモゴモゴと動かしながら、カイは両手に板チョコを持って、休む間もなく齧っていたのだ。


「あれ? 私、死んでない……」


「死なせてたまりましゅか。もしもバァちゃんを殺すなら、僕がこの手で……」


 言いながら、金髪の青年はこちらににじり寄って来た。

 ひょいと顔を近付ける。

 GOLDの甘い匂い──いや、これはチョコのもの?


「ヒィッ、殺される!」


 バーツ、何の防御にもならないと分かっているが両手で自分の顔を覆った。


「何でしゅって?」


「だ、だってカイ君、物騒なことばっかり言うんだもん」


 いや、言葉ばかりではありまい。


「そうだ、私を殺そうとしたじゃないの実際に。首絞めて!」


「バァさん……」


 手に持ったチョコを全部口に放り込み、ゆっくり時間をかけてモゴモゴ味わってから、カイは呆れたようにこちらを見る。


「バアさんは頭が悪いですからね。あれ以上事態をかき回されてはたまらないから、失神でもしてもらおうかと思いましてね」


「何それ。何なの、その言い草!」


「違うよ、フィーマたん。カイはフィーマたんのこと助けようとしただけ。あの時点でカイ、おれのことも信用してなかったから。余計な情報知って、消されちゃうことを恐れたんだよ」


 キィキィ。

 小さな音を鳴らして寄ってきたのは車椅子だ。

 乗っているのは、気弱な笑みを浮かべる男。


「マリリン! 無事だったの」


「うん。ごめんね、フィーマたん」


「謝ることないよ。助かってよかったよ」


 おずおずとした動作で、マリリンは上着の胸ポケットから手の平大の丸い形の物を出す。


「これは──?」


 金色に光るそれには「ベルリンオリンピック」との文字が辛うじて読める。

 他の模様が判別できないのは、穿たれた跡があるからだ。

 その部分だけ金属の色合いに差異がある。

 形跡から、抉られたのはごく最近の出来事だと推察された。

 マリリンはちらりとこちらを見上げ、それからカイに視線を送る。


「ベタでごめんね。弾丸はコレに当たって、おれは助かったみたい」


 そんな馬鹿なという思いを共有して、バーツとカイは思わず顔を見合わせる。

 すると何か? 彼目がけて撃たれた弾丸は、その胸ポケットに忍ばされたメダルに当たって持ち主の命を救ったということなのか。


「ウソ! 映画みたいじゃないの! そんなこと現実にあるの? てか、それがGリストのメダル? ホンモノ?」


 マリリンは小さく頷く。

 微笑をたたえたその顔に一瞬、深い悲しみが過ぎった。


「ゴールドさんがアンツィオに出向く前、おれにくれたんだ。名前と軍籍をくれたお礼にって言って。ゴールドさんにとっては命の次に大切なもののはずだよ。形見になっちゃったけど……」


 メダルの存在が明るみになれば取り上げられるかもしれない。

 そう思ったマリリンはアルバートにも告げず、そして誰にも見せずに肌身離さずメダルを持ち続けていたのだという。


「そうだったの……」


 鞄から大きな板を取り出したのはカイだ。

 手の平二つ分くらいの大きさの板チョコレートである。

 銀紙を剥きながら、舌打ちを繰り返す。


「そんなモノを持ってるなら早く出せって話ですよ。どいつもこいつも。ややこしくてしょうがない」


 えらく機嫌が悪い。

 メダルで命は助かったわけだが、ハッシユ・バピーで撃たれた衝撃でマリリンはその場で昏倒した。


 アルバートに銃口を向けたバーツだが、反撃を受けたのは記憶に残っている。

 銃声が耳に残るが、弾丸は空へ消えたらしい。

 次の瞬間、バーツの額にハッシュ・バビーの銃底が振り下ろされ、そこで彼は意識を失ったのだ。


 残されたのはカイ。

 アルバートを取り押さえ、無線で助けを呼んで、倒れている者の応急処置をして……。

 皆が戦闘不能に陥っているため、カイはそれらを一人でこなしたらしい。


「あー、お腹痛い」


 自分もボディアーマーの腹に銃弾を喰らって、動きもままならない身体だというのに。


「本当に撃たれたクロエはともかく。マリリンはダメージ食らってないんだから、いいかげん起きてもいいはずなのにいつまでもスヤスヤ寝て。バァさんもちょっと小突かれただけてしょうが。気持ちよさそうに寝てるもんだから腹が立って腹が立って」


 ブツブツ言ってる。

 銃底で殴られた額はズキズキと今も痛む。

 ちょっと小突かれたという表現はあまりに無慈悲だと思ったが、とばっちりを喰らうのを恐れてバーツは知らんぷりして眼鏡の汚れを拭き始めた。

 レンズにこびり付いた血と泥が、どんなにこすっても取れやしない。


 足裏には小刻みな振動。

 時折、上下左右に床が揺らぎ重心が不安定だ。

 そこは薄暗い正方形のスペースで、壁面にはベンチが設えられてあった。

 見慣れた輸送用のヘリの内部だと分かる。


 ベンチの背後には小さな丸窓。

 そこに映されているのは、夜の空と北海の暗い海。

 彼らは上空にいた。

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