6.真実の切れはし
「……最悪の状況を、逆に味方にする」
キコキコキコ。
「最悪な地面だけど、上半身のバランスとバネを使ってうまく乗りこなす」
ギコギコギコ。
俯いてブツブツ言っている。
前の雨にぬかるんだ地面と格闘しているようだ。
舗装された道路とは違い地面には穴もあいていれば、ところどころ斜めにもなっている。
歩いているだけでは気にもならない砂利や小石も、車いすの走行には邪魔となってしまう。
彼は車輪を己の手でキコキコ動かし、小さく頷いては口の中でゴニョゴニョと不明瞭な言葉を呟いていた。
「大丈夫。うん、この地面にも慣れてきた」
その傍らに立つカイ・クォークは、実に手持ち無沙汰な体で腕を組んだ。
「マリリン……あ、いや」
己に失笑する。
マリリンって……。マリリンはないだろう。
長い付き合いだが、あらためて考えるとこの男の名を知らないことに気付いたのは最近だ。
兄がつけたアホらしいあだ名で呼ぶのも気が引けるが、今更尋ねるのも逆に恥ずかしい思いがある。
「あの、マリリン?」
「ひぃ!」
しかし声をかけた途端、男は悲鳴をあげた。
震える目でこちらを見上げる。
すっかり怯えられているようだ。
「何ですか、いいトシした大人がその態度はないでしょう。そんなに僕が怖いですか?」
コクコク。無言で小刻みに頷く。
「どこが怖いんです? 言ってみなさい」
「そ、そうやって追求するところ。あと、人のミスを的確に指摘するところ。あと色々聞いてくるくせに、突然面倒臭くなって丸投げるところ。あと、すぐにイライラするところ。あとは……」
「…………それは申し訳ないですね」
意外と不平不満の多い男だと分かった。
悪口がだだ漏れてる。
こめかみをビクンと波打たせつつも、カイは彼の言葉が途切れるのを待った。
「人の嗜好に理解を示さないところとか、人の話を聞いてる顔して実は何も聞いてないところとか。何考えてるのか分からないところとか。何せちょっと怖いところ」
言いたいだけ言って、あとは虚ろな感じで懐に大切に忍ばせていた女優の写真を取り出して眺めている。
「……僕の周り、こういう人多いな」
マリア・モンテズといったか。
写真の中のエキゾチックな美女が、どことなく目の前の気弱な男と釣り合っていない気がしてカイは苦笑した。
「マリリン? マリリン……?」
返事はない。
食い入るように女優の写真を睨んでブツブツと賛辞の言葉を並べているこの男。
怒鳴りつけたいのを、奥歯を噛み締めぐっと堪える。
「さて。マリリン、尋ねてもいいですか?」
「はっ!」
本音をぶちまけすぎたと気付いたマリリン、全身を硬直させる。
「だから、マリリンじゃなくて名は? 僕はあなたを何と呼べばいい?」
「……おれの名はマリリンだよ?」
チラチラッと上目遣いにこちらを見る視線に、カイは極限までの忍耐から生み出した笑顔で答える。
「じゃなくて、本名の方を」
「……ギニー・リスト」
「じゃなくて。本名の方を」
「本当だよっ!」
マリリン──ギニー・リストだって?──は、珍しく早口で続けた。
「本当はギニー・リストだよ。でも、違うの。この名はあげたから。だからマリリンでいい。おれには名前がないんだ」
「あげた?」
「うん、あげた。多分、君がGリストって思ってる人に」
どういう意味です?
マリリンという男。ぽつりぽつりと、思ったことをそのまま話すものだから何を言いたいのかさっぱり要領をえない。
「つまり、名義貸しってことですか?」
「あーっ!」
今更である。しまったと露骨に顔をしかめ叫ぶ男。
しかし脅されているという自覚はあるらしい。マリリンは案外あっさりと喋った。
「つ、つまり、死亡扱い受けてる人がいたんだ。軍の籍の上で」
「死亡扱い? それは何かの手違いで?」
「知らない。その人はいい人だし、おれのこと助けてくれた。おれは作戦で足を怪我して車いすがないと困る生活になっちゃって……軍を辞めるしかないって思ってたところだったから。だから籍も名前も階級も全部その人にあげたんだ。おれは何回か怪我して、その度に階級が上がってたから。思いのほか、大尉まで出世してたし」
皮肉なからくりを、しかし何となく誇らしげに喋る。
つまり、戦場で助けてくれた恩人が軍の中で不安定な立場だったため、自分の名であるギニー・リストと軍籍を差し出したということか。
何もかもをその人に譲って辞めるつもりだったギニー・リストだが、上官の計らいで事務の仕事をあてがわれ何とか軍に残れたのだと言う。
陸軍全般の事務ではなく、所属部隊に関する書類管理の仕事だ。
それは思いのほか幸運なポストであった。
Gリストの軍籍の矛盾を追及されないように書類を改ざんすることもできる。
死人がいようが人が入れ替わっていようが、人事の書類を管理しているのは自分なのだから、諸々出てくる問題に対する誤魔化しはいくらでもきくわけだ。
「……そういう事でしたか」
思えば英雄『Gリスト』は一九四三年の夏頃から一気に有名になったものだ。
成程。それまでは地味で目立たない本名ギニー・リストがいた……そういうカラクリだったわけか。
活躍していたのは彼が軍籍を差し出した恩人であったのだ。
「マリアたん、マリアたん。おれは間違ってないよね」
写真に向かってブツブツ話しかけている本名・ギニー・リストに、カイのイライラは爆発しかける。
いきなり無線で呼び出され──極秘と言うから兄にも黙って出てきたというのに。
車椅子のアイドルオタクとフランスの大地をのんびり散策するために僕はこんな所にまで来たわけじゃない。
マリリン?
ギニー・リスト?
呼びかけを躊躇った後、結局名前を呼ぶことは止めた。
「何故こんな所に居るんですか? 無線で話した時、すでにフランスに来ていたってことですよね。まさか一人で来たわけじゃないでしょう。誰と? 何を企んで……いや、何をしようとしているんです?」
「か、回収」
「何の?」
「……し、死体の」
「死体……誰の?」
「………………」
自称・Gリストはそれきり口を噤んでしまった。
思えばこの男、ものすごく怪しい。
「ああ、こんな時に兄がいれば……」
苛立ちをぶつける対象としてくらいならば役に立ってくれるだろうに。
カイはGOLDを指先でもてあそぶ。
車椅子の男も、さすがにこれ以上は喋らないだろう。
何となく──という予感は今や言いえぬ不審に変わっていた。
兄弟がフランスに渡った時の船の爆発──思えばここからすでにおかしかったのだ。
上陸作戦成功から二日が経っていたのだ。
陸からの砲撃というのはありえない。
不自然すぎる。
まるで仕掛けられていた爆弾がタイミングよく爆発したかのような印象。
否応なく、浮かびあがる人物が一人──ワイザー・ナイト・クォーク。
兄弟の叔父である。
ようやく霧が晴れかけた。
ああ見えて、爆発物に関して叔父は一級の腕を持っていたではないか。
船舶の隅に、あの程度の爆薬を仕掛けるなどわけもない。
そもそも彼は軍の汚職事件による大量解雇の恩恵を受けて、華々しいまでに出世した一人なのだ。
それが幸運ではなく、仕組まれたものだったという可能性は?
予測不可能な陰謀を、彼がその胸に秘めているということは?
カイはGOLDを前歯でギリギリ噛みしめた。
甘い香りが立ち込める。
カイの双眸に煌く光も、次第に虚ろなものになっていった。
もう、どうでもいい。甘い空気の中に、このまま埋もれてしまいたい──そんなろくでもない甘美な思考を、不意に破る者が現れる。




