ノルマンディー沖・洋上爆撃(2)
「おっと、揺れた」
足元の動きに合わせ、弟の体がバーツにぶつかる。
その拍子に写真が手から離れた。
「あっ、フィーマちゃん! あぁぁ……アッ!」
ぼんやりアイドルの切抜きが灰色の波間へ消えた事すら目視できなかったのは、急に視界がぼやけたからだ。
「あぁぁ、私のメガネメガネ」
両目を細めて、左右の手を空中に泳がせる。
足元でカシャンと音がしたのは分かった。
外れた眼鏡が海に飛んでいかず、甲板に落ちたのは幸いだ。
バーツは屈みこんだ。
「メガネがないと何も見えない」
でも何だか弟クンがすぐ近くに立って、こっち見下ろしてくるのだけは分かるんですけど。
「眼鏡眼鏡言って這いつくばっている、うちの兄が……」
「いや、キミ。不必要に兄を貶めた状況説明しなくていいからさ。探すの手伝ってよ」
眼鏡がないものだから何も見えず、すぐ側に落ちているだろうそれを探し当てる事すら適わない。
手伝う素振りすら見せない弟の視線の辛辣さだけは、何となく肌で感じられるのだけど。
「それでよく特殊部隊に入れましたね。視力が良いのが入隊の最低条件じゃなかったですか。コネですか?」
「いや、ものすごく痛いとこついてくるけど、キミだってコネじゃないの! 兄弟なんだから。キミだって目は悪くて……アレ?」
指先に軽く触れた金属の触感。
やっと見つけた眼鏡を救いの神とばかりに自らの顔に押し付ける。
見上げたその先──短い金髪を荒れる風に靡かせ、こちらを見下ろす整いすぎたその顔に──自分と同じものはない。
「一ヶ月前に、近視矯正の屈折矯正手術を受けたので」
「屈折矯正手術って……この時代にそんなハイテク技術を? どこで? いくらしたの?」
「………………」
それは前世紀にネーデルラントの学者により発案された近視矯正のための手法だ。
角膜を切開することで光の屈折率を調整し、一定の視力回復効果を得ることができるという。
ただし費用、成功率どれをとっても実用化されているとは言いがたいのが現状だ。
技術は日々進歩しているとはいえ、この時代そんな手術を受ける民間人は皆無といって良い。
「ねぇ、お金かかるでしょう! どこで手術うけたのッ?」
兄の大概しつこい言い回しに、弟がイラついているのが分かる。
「……イギリスです」
「いくらしたの? 金額だよ! お金だよ! モッタイナイ。そうまでして軍隊にいたいの? あさましい子ッ!」
つい詰ったら、軍用ブーツの踵で尻を蹴られた。
「あぐッ! まったく容赦ないんだから。カイ君てば。ウフ。大っきくなるにつれ、お兄ちゃんのことイジめるのが快感になってきたんでしょ」
ニマニマするちょいM兄を、どちらかと言えばサディストの弟が見下ろす。
「大きくなるにつれ? いえ、物心ついた頃からですが。何か?」
「ああ、そうだったかもしれない……うん、そうだったかも……」
色々反芻しているっぽい兄。
「それにしても近視矯正の手術なんて……。君、給料いくらもらってるの? 私といっしょだよね。いや、弟なんだから私より少ないよね? 少なくあれ!」
「僕はバァさんみたいな半端者じゃないですから、それなりに貰っていますよ」
「えぇぇ……そんな言い方ってある?」
「ふふっ」
徐々に近づく陸地を、どちらともなく眺める二人。
暫しの沈黙は、ある意味平和且つ静かな時だ。
しかし貴重なその時間は長くは続かない。
船の揺れが大きくなると同時に、艦内は上陸に備えて慌しさを増していったのだ。
客員待遇で乗り込んでいる彼らも、何となく忙しなげにハンモックを片付け始める。
上陸用舟艇には、激戦のオマハへの後続部隊として二百名の将兵が乗っていた。
二人に目もくれず、統制された動作で上陸準備に取り掛かる彼ら。
その動きが──一瞬、ブレたような気がした。
「アレ、カイ君?」
不自然な揺れが激しく足裏を突き動かす。
波、あるいはエンジンの振動ではない。
耐え切れずバーツはその場にうずくまった。
何が起こってるんだ?
何かが変だ。
顔を見合わせようと弟の方を凝視するも、彼がこちらを向く様子が一向にないので断念する。
仕方なく頭を巡らせた甲板──バーツの視野の端で忙しなく動く兵士が突然、飛んだ。
「!」
弾き飛ばされたかのように海面に叩きつけられる。
周囲に指揮官もおらず、船の一画は混乱に陥った。
「カイくっ……!」
悲鳴と同時に振動が激しさを増す。
小さな破裂音が遠くで響いた。
「銃声──いや、爆発か?」
弟の声にも、さすがに緊張感が滲んでいた。
「陸からの爆撃? いや、味方が上陸に成功して海岸の砲台はすべて制圧したか、無力化されたはず……」
カイが呻く間にも振動と衝撃音は断続的に彼らの足元を襲った。
熱風を顔面に浴び、爆発が徐々に近付いている事を実感する。
音の度に周囲の兵士が海中に、まるで塵のように投げ出される姿が見えた。
航行不能だ、という叫びが向こうから聞こえる。
「カ、カイくん。逃げなきゃ」
「どこへ? バァさん、こんな海の上で逃げる場所なんてどこにもない。それに……」
至極もっともなその意見は、しかし途中で激しい爆音にかき消された。
バーツは全身に爆風を受けるのを感じる。
足元が軽くなり、体がフワリと浮遊する。
一瞬の無重力の後、彼の体は海面へと叩きつけられていた。
「ギャぶ……ブッ!」
悲鳴と共に海水を多量に飲み込む。
陸上、船上、空中、さらに水中の訓練も何もかも駄目なバーツは、とにかく側にあったモノにしがみついた。
瞬間、尻にいつもの衝撃。
「オブッ! ブブッ!」
「せめて自分で浮いてください」
目の前にいる金髪青年が苦々しくこちらを睨み、バーツはそれが恐ろしい弟クンだとようやく気付く。
「陸は近い。バァさん、泳ぎますよ!」
鮮やかな動きでカイは荒れる波間を進み始める。
「ちょっ、ムリだよ。待ってよ、ゴブッ! ち、近くの船に救助してもらおうよ。ブフッ!」
しかし弟はこちらを見ない。
「駄目です! 任務の性質上、無闇に他者と接点は持てない」
「い、今更ぁ?」
とにかく泳ぎますよ。水中でまたもや尻を蹴られた。
「あぐっ! でもでも今の、何?」
救助を待って浮いている兵士達の間を縫うように進むカイの背にしがみつくバーツ。こんな状況で追求する術はないが、しかし今の爆発は不自然すぎる。
カイは、しがみついてくる兄の手を振り払いながら、それでも賛同の頷きを返した。
「あくまで可能性の話ですが。陸の味方から撃たれたか、あるいは船内部で爆発が起こったか。その場合、事故か故意か」
「何で、オブッ! 味方同士で何で? ま、まさか私たちが狙われたんじゃないよね。恐ろしいよ、ゴフッ!」
しがみついた腕を完全に振り払われた。
「うるさいですよ。さっさと泳げ!」
「と、突然イラッとするのやめてよ。ゴボッ!」
他の上陸用舟艇の間を抜け、一マイル程泳いだろうか。
二人の前に陸地が迫る。
兄を背負うようにして泳ぎきったカイは、さすがに息を切らしていた。
「も、もうすぐです。バァさん」
「あ、ちょっと待って。カイくん、放して」
「は?」
弟の背で、突然暴れだすバーツ。
「今、超いいポエム思いついたから! 書き留めなきゃ」
「ぽえむ………………?」
そうそう。ノートノート……あんまり濡れてなきゃいいんだけど。
ゴソゴソとポケットを探り出したバーツの体が、海上できれいに回転した。
「ワッ、ギャッ!」
頭から海中に落とされる。
懸命に水上に顔を出した彼の前に、美貌を恐ろしげに硬直させた弟が。
「ヒィ!」
バーツは思う。
何だコレ。ひどすぎるよ。私のせいじゃないし、そもそも私は関係ないのに。まったくもって理不尽ナリよ。あぁぁ、目つむって面白いこと考えてる間に恐ろしい事態や、ややこしい展開のすべてが上手い具合にカタついてりゃいいのに。あぁぁ、心底そう思うよ。
しかし事態がそう都合よく進むはずもなくて──。