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  作者: ふく
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第ニ章 斎藤美雪

この作品には一部残酷な発言があります。

「もうすぐ満開になりますね」

斉藤美雪は微笑みながら車椅子を押していた。


その手が止まったのは、一本の桜の木の下だった。


美雪が勤める介護施設『憩い』。

建物は、なだらかな坂道を下った先にある。

その坂道を登ったところに広がる小さな芝生の空間に、毎年見事な花を咲かせる桜が一本立っていた。


美雪は車椅子に座るおばあさんに目をやる。

今日もよく晴れた穏やかな日差しが、その表情を優しく照らしていた。

「今日も良い天気で気持ちいいですね」

美雪が声をかけると、おばあさんはうっすらと目を開け、穏やかな微笑みを返した。

しかし、そのまま心地良さそうに目を閉じてしまう。

眠ってしまったのだろう。


美雪はそっと草の上に腰を下ろした。

桜の木の陰は心地良く、近くを流れる川のせせらぎが聞こえる。

川辺では子どもたちが遊んでいる。

その声を聞きながら、美雪はふと遠い未来の自分を思い描いた。


(私もいつか……子どもがほしいな)


そう心の中で呟いた美雪は、桜の木の枝に目を移した。

まだ咲いていない小さな蕾がいくつも見える。


手を伸ばせば触れられそうなその蕾を見つめながら、美雪の心の中にほんの少しだけ、希望のようなものが灯るのを感じた。

それは、忙しい日々の中で失いかけていたものだったかもしれない。


まだ咲かぬ桜の蕾を見つめながら、美雪は少しだけため息をついた。


「今年も咲くのかな、この桜……」


目の前の大きな桜の木は、この施設に勤め始めた頃から変わらずそこにあった。

けれど、少しずつその枝振りには老いが見え始めているような気がしていた。


「咲くよ。今年もきっと見事にね」


突然、背後から声がした。

驚いて振り返ると、少し先の坂道に立っていたのは年配の男性だった。

施設の常連ボランティアで、近くの農園を営んでいる竹内という人だ。


「竹内さん……」

美雪はそっと立ち上がり、手を軽く振った。


「この木はね、まだまだ元気だよ。ちょっと傷んでいるように見えるかもしれないけど、根はしっかりしてる。それにこの桜はね、人を癒す力を持ってるんだ」


竹内はゆっくり歩いてきて、車椅子に座るおばあさんの顔を一瞥すると小さく笑った。

「ほら、ここに来ると眠れるって言ってたよな、このおばあさんも」


美雪も微笑む。

そういえば、このおばあさんが「桜の下に来ると不思議とよく眠れる」と話していたことを思い出した。

それはまるで、この木が人々を抱きしめるように包み込む力を持っているかのようだった。


「……私も、癒されてるのかもしれませんね」


美雪はそっと木の幹に手を触れた。

粗いけれどどこか温かい感触が、指先から伝わってくる。


「今年も咲く。お前さんも、この桜みたいに強いんだから、大丈夫だよ」


竹内の声はまるでこの桜の木そのものが語りかけているように優しく響いた。

美雪は頷きながら、桜の木をもう一度見上げた。

その蕾のひとつが、ほんの少しだけ開きかけているように見えたのは、気のせいだったのだろうか。


川辺で遊んでいる子どもたちの笑い声が風に乗って聞こえてきた。

美雪の胸の中にほんの少し、春の訪れが感じられるようになっていた


その日の仕事もなんとか無事に終わり、美雪は疲れた足取りでマンションの前まで戻ってきた。

春の夕暮れはどこか柔らかく、風も心地よい。


建物の陰が伸びる路地を曲がったそのとき、足元から小さな黒い影が現れた。


「クロ!」


思わず声を上げた美雪の目の前で、一匹の黒猫が嬉しそうにとことこと近づいてくる。


美雪は駆け寄るとしゃがみ込み、猫を抱き上げた。

柔らかくて温かい毛並みに顔を埋めながら、小さく笑う。


「ただいま、クロ~」


『クロ』は美雪が飼っている雌の黒猫だ。

数ヶ月前、偶然マンションの前で「にゃあにゃあ」と小さな声をあげているのを見つけた。

近寄っても逃げないので飼い主がいると思い、しばらくは様子を見てたけど毎日同じ場所で鳴いているので、お腹が空いてると思い、餌をあげていたのだが、誰かに飼われてる感じもなく夜中も時折、鳴いているのを見かけたので遂に飼う事にした。

今ではすっかり家族の一員だ。


クロを迎えるため、美雪はペット可のマンションを探し、引っ越しまでした。

それでもこの猫との生活が心に与える幸福感は何にも代えがたいものだった。


「今日もお迎えしてくれたのね、ありがとう」

美雪が頬を寄せると、クロは「おかえり」と言うかのように彼女の頬をペロッと舐めた。

その仕草に思わず微笑みながら、そっとクロの頭を撫でた。


美雪は幼い頃からずっと兄弟姉妹に憧れていた。

一人っ子の自分には得られなかった、誰かと一緒に過ごす日々。

そんな寂しさを埋めるように現れたクロの存在は、まるでずっと夢見ていた妹のような感覚だった。



家の中に入り靴を脱ぐと、クロは素早く部屋の奥へ駆けていき、お気に入りのクッションに飛び乗った。

美雪はその姿を見て小さく笑う。

「クロ、晩ご飯にしようか」


彼女の声に振り向いたクロの金色の瞳がキラリと光る。

そんな日常が美雪にとって何よりの癒しであり、かけがえのない時間だった。



お風呂に入り、湯上がりの火照った身体を冷ますために美雪は窓を開け、涼しい空気を吸い込みながら夜空を見上げた。

都会の空にもかかわらず、いくつかの星が瞬いているのが見える。


「明日も晴れるといいのにな……」

そう呟いた時、突然電話の音が響いた。


振り返り、ソファの上に置いていたスマートフォンの画面を見ると、『母親』の文字が表示されている。


「はい」

美雪は窓を閉めると、ソファに腰を下ろして電話を取った。


「もしもし、美雪?お母さんだけど、結婚式の準備はもう終わったのかい?」

電話越しの母の声は、いつも通り少し早口だ。


「うん、後は最終的な打ち合わせをするだけかな」

美雪は左手でスマートフォンを耳にあてながら、右手で化粧水のボトルを取り出した。

コットンに適量を浸し、顔に優しく叩き込む。


「派手な式にするんじゃないよ。質素でいいんだからね、質素で」


「わかってるってば、お母さん」


「それで、親戚の方にはちゃんと挨拶したのかい?」


「もう、しました。会社にも挨拶したし、心配しなくても大丈夫だって」


コットンを使い終わると、美雪は無造作にゴミ箱に向かって投げた。

だが狙いは外れ、コットンは床の上に落ちてしまう。

すぐにクロが興味深そうに近寄り、クンクンと匂いを嗅ぎ始めた。


「それを言うなら私よりお父さんの方が大変だよ。挨拶の言葉を考えるのに、仕事から帰ってきたら寝るまでずっと机に向かって紙と睨めっこしてるんだから」

電話越しの母が「あの人らしいわね」と笑う声が聞こえた。


美雪も父のその様子を想像すると、思わず吹き出しそうになる。


「お父さんにも伝えといて。『大丈夫だから』って。今からそんなに心配してると、ハゲるよって」


「わかったわよ。けど美雪、ちゃんとご飯は食べるのよ。結婚式だから痩せなきゃなんて思わなくていいんだからね。それと、誠二さんにもよろしく伝えといて」


「はいはい、わかりました」


そう言って、美雪は電話を切った。


電話を置いてクロに目をやると、まだコットンを嗅ぎ回っている。


「クロ、それ食べられないよ」

美雪は小さく笑いながら床に落ちたコットンを拾い上げ、ゴミ箱に入れた。



部屋には再び静寂が戻る。

けれど、心にはどこか温かさが残っていた。

家族とのやり取りのひとつひとつが、結婚式という大きな節目を迎える前の、ささやかな幸せを実感させてくれた



誠二と出会ったのは、友人の紹介がきっかけだった。

お互い、一目見た瞬間から恋に落ちた。

お世辞にもかっこいいとは言えない。

だが、美雪にとって彼はまさに「白馬の王子様」のような存在だった。



「まったくもう、心配性なんだから……」

母との電話を切り、そう呟きながら視線を洋服箪笥の上へ移す。

そこには、介護試験に合格したときに家族三人で撮った写真が飾られている。

懐かしい写真を見つめながら、美雪は両親のことを思い返した。


(私が結婚するって言ったとき、すごく怒ったよね……)


美雪はそっと目を閉じる。

あのときの記憶が鮮明によみがえる。


一人娘が家を出ると聞いた両親が激怒したのは当然だった。

だが、誠二は毎日のように美雪の実家を訪れ、何度も頭を下げた。

それでも許してもらえず、殴られたこともある。

それに、美雪自身も父親に頬を叩かれたのはあれが初めてだった。


(お父さんに殴られたとき、家を飛び出して一緒に泣いたよね……桜の木の下で……)


美雪は涙を浮かべたあの日を思い出す。

自暴自棄になった自分を、誠二は全力で止めてくれた。


「死ぬのは簡単だ。でもそれが本当に俺たちが望んだ結果なのか? 挫折も、自殺も、人生の一部として受け入れるしかない時もある。でも愛があれば生き抜けるんだ。自分への愛、他人への愛。お前も両親への愛があるだろう? 俺も同じだ。だから愛がある限り、いつかきっと分かり合えるさ」


彼の真剣な言葉に美雪は救われた。


最終的には、誠二の熱意に心を動かされた両親が涙を流しながら「娘を頼む」と言ってくれた日のことを、今でも忘れられない。


「我儘な娘でごめんなさい。ありがとう、お父さん、お母さん……」


小さく呟きながら俯いた美雪の目に映ったのは、ぽっこりと出た自分のお腹だった。


(とりあえず結婚式までに痩せないとな……)


お腹のお肉をつまみながら、先ほど母に「痩せようなんて考えなくていい」と言われたことを思い出し、さらに肩を落とす。


すると、近くで寝そべっていたクロが「知らないわよ」とでも言うようにお尻を向け、尻尾をパタパタと振った。

その何気ない仕草に、思わず美雪は笑みを浮かべる。


「クロ、こっちおいで!」


抱き寄せたクロの柔らかい毛並みを撫でながら、美雪は頬っぺたに何度もキスをした。

その温かさに心が満たされる。


家族の愛情に包まれ、仕事にも恵まれ、手のかかる妹のような愛猫クロと過ごす日々。

そして大好きな人の花嫁になり、新しい命を授かる


(世界中で私が一番幸せ……)


窓の外に目をやると、夜空には銀色に輝く月が浮かんでいた。

美雪はその月を見つめながら、静かに微笑んだ


ある日の帰り道、夕暮れが差し込む街角で美雪は人だかりを見つけた。

道行く人々が立ち止まり、ざわざわと声を交わしながら車道の方を見つめている。


(何だろう……芸能人でもいるのかな)


そんな軽い気持ちで美雪もつい足を止めた。

興味本位で人だかりの一番後ろに立ち、背伸びをしてその先を覗き込む。


人と人との隙間から見えたのは――


血だらけの黒い猫の姿だった。


(うわ……猫が轢かれちゃったんだ……運転手さんも災難だったな……)


瞬間、頭をよぎったのは自分が飼っている黒猫クロのことだった。

美雪は不吉なものを見たように眉をひそめる。


(早く帰ってクロを抱きしめてあげよう……)


踵を返してその場を去ろうとしたとき、不意にその黒猫の首輪が目に入った。


その瞬間、胸に鋭い痛みが走る。


(まさか……そんなはずない……)


嫌な予感に駆られ、美雪は人ごみを掻き分けて一番前に出た。


そして目の前の光景に言葉を失った。


血まみれで横たわっている黒猫――


それは間違いなくクロだった。


足が震え、呼吸が浅くなる。


美雪はクロのもとに駆け寄ろうと震える足を動かした。


しかしそのとき、何か柔らかいものが彼女の足元をかすめた。


白い猫だ。


その猫は痩せ細り、毛は所々抜け落ちている。

弱々しい体つきながら、その目には不思議な力が宿っていた。


白い猫はクロの元へまっすぐに駆け寄ると、悲痛な声で何度も鳴き続けた。


「にゃあ……にゃあ……」


その切なげな声に美雪の胸は締め付けられる。


やがて白い猫はクロの首元に顔を寄せると、口でそっと咥えた。

そして体を引きずるようにして、クロをゆっくりとその場から運び始めた。


周囲の車は立ち往生し、ドライバーたちはクラクションを鳴らしたり怒声を上げたりしている。

それでも白い猫は動じることなく、クロを運ぶことに集中している。


美雪は慌ててその後を追った。

他の人々も気にかけて近寄ろうとするが、白い猫は唸り声を上げ、近づく手を引っ掻いて拒絶する。


(私も触っちゃいけない……邪魔しちゃいけないんだ……)


そう直感した美雪は、一定の距離を保ちながらその後を追い続けた。


どこへ向かおうとしているのか。


なぜ、この白い猫がクロを――。


胸を締め付けるような疑問と不安を抱えながら、美雪は静かにその後を見守り続けた



白い猫はクロを引きずりながら歩き続けた。

美雪はその後ろを、気づかれないよう静かに追いかけた。


そして、やがて二匹がたどり着いたのは――


あの大きな桜の木の下だった。


白い猫はクロの体をそっと地面に寝かせると、その傍らでじっと座り込んだ。

美雪も遠くからその光景を見つめるだけで、動くことができなかった。


桜の花は満開を迎えようとしていた。

風に吹かれた枝が揺れ、まだ咲ききらない蕾が微かに震えている。


白い猫はクロの体を見つめたまま、小さく鳴き声を上げた。


「にゃあ……」


その声は弱々しく、どこか儚い響きだった。

それでも繰り返される鳴き声には、確かな悲しみが込められているように感じられた。


すると突然、白い猫が一際大きな声で鳴いた。


「にゃあああ……!」


その声に、美雪の胸が締め付けられるような感覚が襲った。

目の前の現実を直視するしかなかった。


(クロ……死んじゃったんだね……)


美雪は直感的にそう悟った。

膝が崩れるようにその場に座り込み、肩を震わせながら声を殺して泣いた。


桜の木が風に吹かれて音を立てる。


枝が揺れ、葉がざわざわと鳴る。


その音がまるで、桜の木自身が美雪と一緒に泣いているかのようだった。


涙が止まらない。


それでも美雪は白い猫とクロ、そして桜の木の下に広がる風景を、ただじっと見つめていた。




やがて夜が明け、朝靄が薄く立ち込める頃、美雪は微かな音で目を覚ました。


砂を掻くような音


(いけない……眠っちゃってたんだ……)


草の上に座ったままだったせいで、お尻が痛む。

体を少し動かしてみると四月の冷たい朝の風が身を包み込み、ぶるっと肩をすぼめた。


どこからか雀のさえずりが聞こえてくる。

穏やかなその音に混じって、桜の木の下から砂を掻く音が続いていることに気づいた。


(あの白い猫は……どうしたんだろう……)


美雪はそっと目をやった。


そして目の前の光景に心が締め付けられるような思いがした。


白い猫は静かに地面を掘り返していた。

穴の中にはクロが横たわっている。

白い猫はクロの体に土をかぶせながら、ひと掻き、またひと掻きと、その作業を淡々と続けている。


どれくらいの時間が経ったのだろうか。


白い猫はクロの体をすべて埋めると静かにその場を離れた。

とぼとぼとした足取りで、どこか遠くへと歩いていく。


美雪はただ、その後ろ姿をじっと見つめていた。


(あの猫……クロの子供だったのかな……)


胸の中で呟くように思った。

その小さな体に込められていた愛情を思うと、胸が熱くなる。


美雪は掘られた土の上まで行き、まだ見えていたクロの足にそっと土をかぶせた。

優しく押さえて固めると、震える声で呟いた。


「クロ……ここが好きだったの……?じゃあ、ここでゆっくり眠ってね……」


喉が詰まりそうになるのを堪えながら、クロとの日々を思い返す。


「クロ……あなたと出会えて、幸せだったよ……本当にありがとうね……おやすみ……クロ……」


吹き抜ける朝の風が美雪の頬を静かに撫でていく。

桜の木の枝が微かに揺れ、その木の下でクロが静かに眠りについたのを桜も知っているかのようだった。



部屋に戻った美雪はリビングの棚に飾られた写真立てを手に取った。

その中にはクロと一緒に写った笑顔の写真が収められている。


一緒に暮らしていた時間は決して長くはなかった。

それでも美雪にとってクロはかけがえのない存在だった。


誠二と喧嘩して泣きながら帰った夜も、仕事で先輩に怒られて落ち込んだ日も、クロはいつもマンションの前で待っていてくれた。


クロは親のように温かく、姉のように頼もしく、妹のように愛らしく、友達のように寄り添ってくれる存在だった。


写真を見つめているうちに、美雪の目から一粒の涙が零れ落ちた。

小さな滴が写真の表面を濡らす。


胸の中に、ぽっかりと大きな穴が開いてしまったような感覚があった。

それでも美雪は自分に言い聞かせるように深く息を吸った。


(いけない、こんなことじゃ……もうすぐ誠二さんと結婚して、幸せになろうとしてるのに……)


クロの姿を思い浮かべながら心の中で語りかける。


(クロも、私がこんなに落ち込んでたら心配して天国に行けないよね。元気出さなくちゃ……)


美雪は自分に言い聞かせるように立ち上がり、「よしっ」と気合を入れた。


だが次の瞬間、自分のお腹が空腹で音を立てたことに気づいた。


(そういえば、昨日の仕事が終わってから何も食べてなかったんだ……)


少し自嘲気味に笑いながら、冷蔵庫へ向かおうとしたそのとき――


美雪の足が止まった。


視線の先には、半分ほど残ったままの餌と水。

そして玄関に置かれたクロのトイレがある。


部屋の中は、これまでクロがいつも響かせていた鳴き声が嘘のように静まり返っていた。


美雪はその場に立ち尽くしたまま動くことができなかった。

お腹が空いていることさえも忘れて、クロがいた空間をただ見つめていた。


静寂が部屋を支配する中、美雪の心にはクロとの思い出が押し寄せていた。



その日は朝から快晴だった。

春風がそよそよと街を吹き抜け、桜の花弁をそっと揺らしている。

街中は花見客で賑わい、楽しそうな家族連れや仲睦まじいカップルが溢れていた。


美雪と誠二は渋谷駅で待ち合わせをして、結婚式場での最終的な打ち合わせや衣装合わせを済ませた後、桜の木の下へとやってきた。


そこはクロが眠る場所。

周囲に桜が少ないためか人影はまばらだった。


美雪はクロが埋められている場所の横に座り込み、昨日の出来事を誠二に話した。

彼は黙って頷きながら、じっと美雪の言葉を聞いていた。


「そうか……クロ、死んじゃったんだな……」


誠二はクロに何度も会っていた。

美雪がどれほどクロを大切にしていたかも、痛いほど理解している。

誠二は静かにクロが眠る場所に手を伸ばし、優しく土を撫でた。


「クロも美雪と出会えて、きっと幸せだったと思うよ。もしあの白い猫が本当にクロの子供だったなら、最後に愛する我が子に見守られて旅立てたことが、何より幸せだったんじゃないかな。辛いだろうけど、美雪がクロにしてあげられる最後のことは……忘れることだと思うんだ。」


誠二の言葉に美雪はハッと顔を上げた。


「忘れるっていうのは、クロを無にすることじゃない。前に進むために今を、そして過去を未来の妨げにしないための強さだよ。未来の自分に希望を持つために、クロとの思い出を胸にしまって……それでも一歩踏み出してほしいんだ。」


美雪は風に舞う桜の花弁をじっと見つめた。


その視線を追いながら誠二は少し照れたように笑う。


「クロの人生、いや、猫の場合は『猫生』かな……いや、どっちだろうな?」


頭をぽりぽりと掻いて悩む誠二の姿を見て、美雪は思わずくすくすと笑い出した。

その笑顔を見た誠二は、ほっとしたように胸を撫で下ろす。


「やっと笑ってくれたね。やっぱり美雪は笑顔が一番綺麗だよ。」


そう言いながら誠二は美雪の頭を優しく撫でた。


「ごめんね……いつも私、誠二さんにばっかり励まされて……」


「いいんだよ。君が落ち込んでたら励ますのは当然だろ?だって、俺は君の『王子様』なんだからな!」


誠二は大げさな仁王立ちのポーズをとり、えっへんと胸を張った。

それを見た美雪も立ち上がり手を差し出した。


「それなら王子様、姫の手に口づけをどうぞ。」


「かしこまりました、姫。」


誠二はポケットから小さな箱を取り出し、美雪の左手薬指にリングをそっとはめた。

そして、その手に口づけをする。


「誠二……さん……」


美雪は息を呑み、震える手を見つめる。

その瞳には涙が溢れていた。


「安物だけどさ。まだ渡してなかったことに気づいて昨日慌てて買ったんだ。結婚式ではもっといいのを渡すから、これで勘弁してくれ。」


誠二が照れくさそうに笑った次の瞬間、美雪は彼の胸に飛び込み、堰を切ったように泣きじゃくった。


「突然だったから……ビックリしちゃった……でも、本当に嬉しい……ありがとう、誠二さん……」


美雪は涙に濡れた顔で指輪を見つめ、笑みを浮かべた。

その様子に誠二も安堵のため息をつき、そっと美雪の頬を拭うように触れた。


「よかった……安物だから怒って帰るって言われたらどうしようかと思ったよ。」


そう言っておどける誠二に、美雪は涙混じりの笑顔で首を振った。


風が吹き抜け、桜の花弁がふたりの肩にそっと降り注いだ。


ひとしきり涙を流した後、美雪は誠二の顔を見つめた。


柔らかな眼差し、穏やかな笑顔、時折見える白い歯。

その姿は決して映画のヒーローのような完璧な容姿ではないけれど、美雪にとっては心の奥深くを包み込む暖かな存在だった。


クロが眠る場所には、風に舞った桜の花びらがふたりを祝福するように降り積もる。

それはまるで結婚式のライスシャワーのようだった。


誠二と美雪はその光景をじっと見つめながら、そっとお互いの指先を絡めた。


美雪の心はこれまでの道のりを辿っていた。


(長かった……ここまでの道程は本当に長かった。辛い時も、苦しい時もたくさんあったけど、それ以上に楽しい瞬間もあった。これからもきっといろんなことが待ち受けているけれど、誠二さんとなら乗り越えていける。誠二さんがいれば私は生きていける……)


遠い日の出来事を思いながら桜の木を見上げたその時、突然くしゃみが出て美雪はぶるっと身を震わせた。


「大丈夫?」


誠二が心配そうに顔を覗き込む。


「うん……たぶん、ちょっと冷えたかな。一晩中外にいたし……」


誠二は微笑みながら桜の木の下でそっと美雪の肩を抱いた。


「そろそろ暗くなってきたし、帰ろうか。」


繋いでいた手が離れると少し寂しさを感じたけれど、次の瞬間、誠二の唇が美雪の唇に触れた。

その優しいキスに美雪は驚きながらも頬を赤らめ、小さく「うん」と答えた。


桜の木の下を離れる二人の後ろで風が再び吹き、クロが眠る場所に降り積もった桜の花びらをそっと揺らしていた。



次の朝、美雪は身体が鉛のように重く頭がズキズキと痛むことに気づいた。

不安になって体温を測ると、37度の微熱があった。


(休もうかな……でも人手不足だし、みんなに迷惑をかけたくないし……)


迷いながらも仕事を休む選択肢は消えていた。

美雪は薬局で風邪薬を買い、マスクをして職場に向かった。


仕事場では、先輩に体調が悪いことを伝えた。

先輩は心配そうな顔をして、「無理しないで。風邪が移ると困るから、雑用だけやってていいよ」と配慮してくれた。

美雪はそれに甘え、皆から少し離れた場所で軽作業をこなした。


しかし、お昼が終わる頃には体調がさらに悪化していた。

体温を測ってみると、なんと39度まで上がっている。


(やばい、こんな高熱じゃ何か大変な病気だったらどうしよう……)


歩くたびに眩暈がして倒れそうになるので、先輩に伝えて美雪は意を決して病院に行くことにした。

帰って家で寝ていようと思ったけれど、結婚式を間近に控えているため、早く治したかった。


タクシーを拾おうとしたけど結婚式の費用で貯金を結構使ってしまったことを思い出し、ためらった。


(ここでお金を使うわけにはいかない……仕方ない、歩いて行こう……)


足元がふらつき視界が霞む中、美雪は歩き出した。


とめどなく襲う寒気に耐えながら美雪は一歩ずつ進んでいた。

息を吸うたびに肺が焼けるようで視界は霞みがかっている。

それでも結婚式を延期するわけにはいかない。


誠二に迷惑をかけるわけにはいかない――


その一心で歯を食いしばり懸命に足を運んでいた。


ようやく病院の建物が見えた時、美雪の心に安堵の影が差し込んだ。


「あと少し……もう少しだけ……」


視線の先に見えたのは病院へ続く横断歩道。

その先に救いがある。

そう信じて美雪は汗で湿った額を袖で拭いながら車道に足を踏み出した。



その瞬間、耳をつんざくようなクラクションの音が響き渡った。


「パッパーーーッ!」


続いて聞こえたのは、急ブレーキの甲高い音――


「キィーーーッ!!!」


美雪の体は車の衝撃で宙に投げ出され、空中でくるりと回転してからアスファルトに叩きつけられた。


鈍い音が響くと同時に地面に広がる血の跡が見えた。


周囲が一瞬にして騒然となった。


「救急車を呼べ!」

「誰か医者はいないのか!」


道を行き交う人々の悲鳴が渦巻く中、運転手はハンドルを握りしめたまま震えた体で車を降り、その場に崩れ落ちた。

「ごめん……ごめん……」と繰り返し呟く声がかすかに聞こえる。


鳥たちが驚いたように一斉に飛び立ち、遠くで犬が吠え続けていた。


時間が止まったかのような静寂の中で、美雪の周りだけが怒涛のような動きに包まれていた。


彼女の薄れゆく意識の中で、桜の木の下で誠二と笑い合った記憶がよみがえった。


どこか遠くで誰かが「しっかりして!」と叫ぶ声がしたが、美雪の耳には届いていなかった。


揺れる視界にぼんやりとした光が滲んでいる。


頭の奥で熱い痺れが広がり景色が狭まりゆく中で、美雪の心には一つの姿が浮かんだ。


クロだ


「クロ……ただいま……」


どこか懐かしい感覚と共に彼女は微笑んだ。


いつも通り、マンションの前で待っていたクロの黒い毛並みが揺れて見える。


太陽が西に傾き、空を赤く染める黄昏時。


どこまでも続く広い空が広がる中、美雪は遠い日々の記憶を辿り始めた。


あの日、誠二と初めて出会った日のこと。


「王子様みたい……」と呟いた自分の言葉。


その時、誠二が驚いて口をポカンと開けた姿。


耳には誠二の声が蘇る。


「結婚しないか?」


「おばあちゃんになっても姫と呼んでくれるならね……」


桜の木の下で交わした約束。


誠二が優しく微笑んでいた記憶。


そして、初めて交わしたキス――


どれもが鮮やかに浮かび上がる。


美雪は震える手をゆっくりと空に伸ばした。


夕暮れの光に照らされて、薬指の指輪が小さくキラリと光る。


「誠二さん……」


彼の名前を心の中で呟くと、目の前に現れたのは薄紅色の一枚の桜の花びらだった。


それがふわりと舞い降り、美雪の頬にそっと触れた。


周囲に桜の木はない。


それなのに、どこからか現れた花びらに彼女は思う。


(桜……クロが連れてきてくれたのかな……)


次第に色を失いゆく視界の中で、美雪はかすかな意識の中ふと考える。


(ウェディングドレス……やっぱりマーメイドが良かったかな……)


それが彼女の最期の意識だった。



次に美雪が目を覚ましたとき、そこには深い闇だけが広がっていた。


「ここはどこ……?」


何も見えない漆黒の空間。


冷たい空気が頬を撫でる。


見回しても光もなく人の気配も感じられない。


ただ静寂が支配するだけだった。


「私……どうしちゃったんだろう……?」


誰かを探そうと声を上げる。


「すみませーん! 誰かいませんかー!」


しかし返事はない。


空虚な闇がその声を飲み込んでいく。


そのとき、遠くにぼんやりと白い光が浮かび上がった。


目を凝らすとそれは、あの一本の桜の木だった。


満開の花が枝を覆い尽くし、その下に小さな人影がうずくまっているのが見える。


「……誰だろう?」


美雪は引き寄せられるように歩み寄った。

そして桜の木の下でしゃがみ込んでいる人の顔を覗き込む。


驚きと動揺が全身を駆け巡った。


「誠二さん……?」


うずくまるその人物は、誠二だった。

彼は膝を抱え、大粒の涙を流している。


「どうして……こんなところにいるの? 何で泣いてるの?」


話しかけても返事はない。

誠二はただ、静かに泣き続けているだけだった。

その肩が震える様子に、美雪はどうしていいかわからず立ち尽くす。


しばらくして誠二が小さな声で何かを呟いた。


「美雪……何で……まった……」


最後の部分が聞き取れなかった美雪は、耳を傾けるために一歩近づいた。


すると突然、誠二が顔を上げて叫んだ。


「何で死んじまったんだよーーーっ!!!」


その声は深い悲しみと怒りに満ち、闇の中に響き渡った。


美雪の胸をえぐるような言葉だった。


「誠二さん……?」


その場に立ち尽くし混乱する美雪。


幻聴なのか、それとも夢なのか、自分がどこにいるのかさえわからない。


ただ子供のようにむせび泣く誠二の姿が目の前にある。


美雪はそっとその肩に触れようと手を伸ばしたが、彼には届かなかった。


彼女の手は空を切るように通り抜けてしまったのだ。


その瞬間、美雪の心に冷たい現実が押し寄せた。


「……私、本当に死んだの?」


広がる闇を見つめる美雪の目には、誠二の涙だけが鮮やかに映っていた。


脳裏には、これまでの人生の数々の出来事が鮮やかに蘇ってきた。


まるで走馬灯のように次々と映し出される記憶。


幼い頃、高熱を出したときに両親が交代で徹夜で看病してくれたこと。

介護の資格試験に合格し、友達と朝まで飲み歩いて親に叱られたこと。

恋愛に無頓着だった美雪を心配した友人が、「もう大人なんだから」と誠二を紹介してくれたこと。


そして、桜の木の下でのファーストキス。


誠二が真剣な目で告げた言葉――


「結婚しないか?」


けれど、そのプロポーズに対する返事が家族との衝突を招いた日のことも思い出す。


父親に「勘当だ」と怒鳴られ、頬を打たれて家を飛び出した。

泣きながら辿り着いた先は、やはりあの桜の木の下だった。


誠二に「一緒に死のう」と、震える声で懇願した日もあった。

そんな弱さをさらけ出せる相手は、誠二しかいなかった。


さらに、数日前のクロとの別れ。


あの冷たい朝、美雪が掘り固めた小さな墓の記憶が胸を締め付ける。


そこまで思い返して、美雪は立ち尽くしたまま小首をかしげた。


「……死んだ……? 私が……?」


疑問が胸を支配する中で、美雪は不意に気づく。


足元の感覚がない。


空間は無音の闇に包まれている。


「死んだ……私が……死んだ……?」


耳元で誰かが囁くような気がした。


その声は風の音のように曖昧で、けれどもどこか冷たく鋭い。


ふと見上げると、視界の端に揺れる桜の花があった。


真っ黒な闇の中に不気味に浮かぶその花は、満開でありながら妖しげに光り、美雪を見下ろしている。


まるで「そうだよ」と告げるかのように、ひとひらの花びらが美雪の前にゆっくりと落ちた。


冷たさを帯びたその一瞬、美雪の胸には確信が生まれた。


(私、本当に死んだんだ……)。


桜の花びらは妖しく舞い、美雪の心を深い闇へ誘うように、ふわりと消え去っていった。


美雪の唇が震え始めた。


それは止めようのない恐怖と混乱の現れだった。


胸の中で心拍が徐々に上がり、そのリズムが耳元で大きく反響する。


「あれ……?私、ここで何してるんだろう?」


独り言のように呟いた美雪の言葉は、闇の中に吸い込まれていく。


理性を保とうとする心が、崩れゆく現実に抗っていた。


夕陽の色が目の裏に焼き付き、断片的な記憶がフラッシュバックする。


目の前に迫るヘッドライトの眩い光、跳ね飛ばされる寸前の真っ赤な夕陽……。


後頭部に走った衝撃、揺れる視界、誰かの絶叫……。



残酷な事実を知った瞬間、美雪の精神は完全に理性を失い、狂気へと変わっていった。



崩壊の始まりだった。



「あら?私こんなところで何してたんだっけ?」


自分に問いかける美雪の声は、先ほどまでの恐怖とは無縁の穏やかさを帯びていた。


「もうこんなに暗くなっちゃって……早く帰らないと、クロが心配してるわ。」


唐突に現れるクロの名前。

彼女は心の中に光を見出そうとするかのように、平静を装い始めた。


「そういえば式場と料理の打ち合わせは終わったかしら? 帰ったらスタッフに電話して確認しないとね。まったく、誠二さんったら私に全部任せて……でも一生に一度のことなんだから後悔しないようにしなくちゃ!」


その声は次第に生気を帯び、まるで自分を励ますように高揚していく。


だがその裏側にある静けさは、どこか不気味だった。


心の中に広がるのは白く輝く桜の木と、凪いだ海のような虚無だけだった。




「もうすぐ満開になりますね。」


斉藤美雪は『ひとりで』桜の木の下にやってきた。


彼女の声に返事をする者はいない。


頭の中で繰り返される記憶――


それはビデオテープを巻き戻すような終わりなき反復だった。


季節が巡り時が流れても、美雪の中で「桜の木」と「幸せな日々」は静かにループし続ける。


ただひとつ違うのは、美雪の傍にはいつもクロが寄り添っていることだった。



永遠に閉じられたその世界で、彼女は穏やかな夢の中を歩き続ける。


〜fin〜


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