タイムスリップしてまで昴兄ちゃんを助けるんだから、耳かきくらいしてくれるよね!
ちりりりん。ちりりりん。
なんの音だろう。鈴?鈴なんて家にあったっけ?ああ、これ、あれの音だ。風鈴。そう、風鈴。懐かしい。久しぶりに聞いた。
近所の家からだろうか。
ちりりりん。ちりりりん。
瞼をうっすらと開く。茶色のぼやけた視界。ヘッドボードの眼鏡に手を伸ばすも、私の指先は空回る。
不思議なこともあるもので、裸眼なのに勝手にピントが合ってくる。
一面の茶色の正体は天井の木目だった。
「香奈ちゃん、起きたんやね。昴がもう少ししたら帰ってくるよ」
懐かしい祖母の声。聞き違いだろうか?でも今、確かに「昴」と言った気がする。
私はゆっくりと上体を起こし、周囲を見渡そうとした。体が異様に軽い。
私の手のひらは小さく、その下に畳がある。
広々としているのに、どこか埃と湿気が潜む和室。綺麗好きの祖母が毎日掃除をしても、高齢ゆえ、手の届かない場所があったからだ。
全てが、思い出のまま。
「どうしたん?狐に摘まれた顔しとるね」
少し腰の曲がった祖母が庭に立っている。生前のように優しく微笑んでいた。いつもの淡い紫色のエプロンを身に付け、洗濯籠を抱えている。
私は飛び起き、縁側を飛び越え、裸足のまま彼女に抱きついた。
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
「どないしたん?怖い夢でも見たん?香奈ちゃんは怖がりやねぇ。だいじょうぶ。だいじょうぶよぉ」
祖母を呼ぶ私の声は幼い。掃き出し窓の硝子面には、祖母にしがみつく少女が映っている。
晴れた大空。入道雲。湿り気のある熱くて重い空気。
そして、抱き付いた祖母の首から漂う匂い。まるで古書のような。でも安心する匂いだ。
何もかもが生きている。全てがリアルに感じられる。夢にしてはおかしい。
私の脳はとうとうストレスでやられてしまったのか。それとも漫画や映画みたいに、本当に、過去に転び落ちてしまったのか。
この部屋で目覚めるまで、ただの会社員だったのに。
そう、どこにでもいる、疲れ果てた、睡眠不足の会社員。
「おばあちゃん」
「なぁに?香奈ちゃん」
「今日って、何年何月……」
玄関の方で門扉が開く音がした。続けて、引き戸がガラッと開く。何かぼそぼそとした声が聞こえて、重い足音が廊下を渡った。私達がいる庭に近付いてくる。
「ばーちゃん」
縁側に黒髪の背の高い学生が立っていた。
体格がしっかりしているから、大人が制服を着させられているようにも見える。けれど、どことなくツンとして機嫌の悪そうな表情が、まさに少年のそれだった。
見間違えるはずもない。昴兄ちゃん。
「……香奈ちゃん、もう来てたんやね。来るの夜やと思ってた」
大きな肩掛け鞄を縁側に置き、昴兄ちゃんは屈んで言った。記憶よりもずっと整った顔だった。鼻筋は真っ直ぐで、目元は凛々しい。髪は男性にしては長めなのに、嫌味がなかった。
私を見つけた途端、機嫌の悪そうな顔がぱっと明るくなる。
私の心の底に沈め、固く閉じたはずの缶の蓋が一気にこじ開けられる。
仕舞われていたのは、淡く小さな、けれどずっしりとした私の初恋だ。
「大きなったな。正月に来たときより」
「何言ってんの。あんたもまだ子供やのに」
祖母が昴兄ちゃんを窘めながら、私の髪を撫でる。昴兄ちゃんの登場に、私の全身はままならない。
「台所の戸棚にお菓子があるから、二人で食べてき?昴、あんた、食べる前に手洗いや」
「言われんでも洗うわ」
昴兄ちゃんが私を手招きする。その所作に私の体は震える。
今が夢でも構わないと思った。おばあちゃんも生きていて、あの頃の昴兄ちゃんがここにいる。そして私を呼んでいる。
それならば、叱責ばかりの現実じゃなく、この夢に浸っていたい。
私はなんとか足を動かし、昴兄ちゃんの後に続いた。二人で台所の棚を覗き込む。その近さに狼狽える。
和紙の包装紙をぴりりと開けると、昴兄ちゃんは一口で栗饅頭を食べ切った。思春期なのにニキビ一つない頬がハムスターみたいに膨らむ。
私は昴兄ちゃんに目を奪われ、饅頭の包装紙を持ってその場に突っ立っていた。
昴兄ちゃんは饅頭と私を交互に見やり、包装を私の手から取ると、ズボンのポケットに突っ込む。
「小さい子は饅頭よりも、ケーキとかクッキーの方が食べやすいよな」
昴兄ちゃんの誤解を解こうとするも、彼は既に庭へと繋がる縁側を目指していた。
「香奈ちゃんとフジワラに行ってくるわ。饅頭一個じゃ俺も香奈ちゃんも足らへん」
「ええけど、アンタ、あれに香奈ちゃんのこと乗せんとってな。あれ。あれよ、スクーター!」
「スクーターちゃうって言ってるやん。バイクやって。そんなんに乗せへんよ」
「気ぃ付けてよ」
「わかってるって」
昴兄ちゃんは一見、人を寄せ付けない空気を纏っている。けれど、こういう世話焼きな一面があって、従姉妹である私の面倒をよく見てくれた。
父親同士が兄弟で、互いに一人っ子。帰省のたびに、遊んでくれる昴兄ちゃんが、私は大好きだった。嫁の立場である母親のことも考えず、祖母の家に行くことばかり強請っていたものだ。
「香奈ちゃん。お待たせ。行こか」
緊張していた私は、ついぞフジワラ商店こと雑貨屋に行く流れに逆らうことができなかった。正確に言えば、昔よく昴兄ちゃんに連れて行ってもらったフジワラにもう一度行きたい気持ちが抑えきれなかったのだ。
青々とした緑の畑と、焼けつくような灰色のアスファルトを行く。ぼろぼろのガードレール側を昴兄ちゃんが歩く。私はきょろきょろと辺りを見回す。
バス停の標識には「竹木」と駅名が記載されていた。一日に二本しか運行がないことも私の記憶と一致していた。
間違いない。祖母の住んでいた町だ。
不便なところは多々あるが、時間がゆっくりと流れるこの場所が私は好きだった。
友達に気を遣うことはなく、テストや習い事に行く必要もない。祖母が温かく迎えてくれた。
そして何より、ここには昴兄ちゃんがいた。
青空に浮かぶ積乱雲を昴兄ちゃんと眺めていると、私は都会にはない浮遊感と高揚、それと残り時間への焦燥を感じるのであった。この凪いだ時間はいつまで続くのか。
この夏の膨らむような空気は、間違いなく、あのときのものだ。
「香奈ちゃんは今、何にハマってるん?」
ガードレールの内側に描かれたスプレーの落書きをちらと見ながら、昴兄ちゃんは問いかけた。
昴兄ちゃんは制服からして今は高校生。引き算すると、私は小学校低学年ということになる。たぶん、その頃はシール集めや子供向けのアニメに私はご執心だったはずだ。
これが夢かタイムスリップかはわからない。けれどこのまま昴兄ちゃんと話していたい。それならば、私は小学生を演じるしかなかった。
「シールを集めるのが楽しいよ」
私が答えると、昴兄ちゃんは片眉だけを上げて、首の裏をかいた。それからほっとした様子で眉を下げる。
「そっか、ゲーセンブームは去ったんや」
「ゲーセン?」
「こないだ、友達とゲームセンターに行くのが好きって言うてたやん」
私は急に居心地が悪くなって、視線を下げた。麦わら帽子のつばで昴兄ちゃんの綺麗な黒い瞳と目が合わないようにした。
小学生の頃、ゲームセンターには一度だけ行ったことがある。普段遊ばない友達に誘われて、そこで写真を撮ってシールにした。
ただそれだけの経験だ。母親に伝えると、しばらくお小遣いがもらえないほどに怒っていた。
それなのに、昴兄ちゃんには「ハマっている」と幼い私は称していたようだった。
見栄を張ったのだろう。昴兄ちゃんに少しでも近付きたかったのだ。ゲームセンターが当時の私にとっては、大人の遊び場だったから。
本当の大人になったら、そんな時間もないのに。
黙り込む私に、昴兄ちゃんは前を指差す。
「あ、フジワラが見えてきたで、香奈ちゃん。何買う?兄ちゃんな、バイト代が出たからなんでも買うたるよ」
爪の整えらえれた指先に、汗をかいた首筋。耳たぶにはピアス穴がいくつも並ぶ。
昔は気付かなかったけれど、このときはもう、昴兄ちゃんはやんちゃだったんだ。
「行こ、香奈ちゃん」
∴
昴兄ちゃんとフジワラに行ったその晩、いつもどおり皆で食事を取る流れになる。
仏間で二つの座卓をくっつけ、伯父家族と我が家、それと祖母で食べるのが常だ。祖父はこの時、既に他界している。
祖母は利口な人だったから、決して嫁達に配膳をさせなかった。むしろ二人の息子を上手く使っていたように思う。
祖母の心配りが、伯父家族との同居と、私家族の帰省を円滑にしてくれていたのだろう。少なくとも、私の前で母と伯母が、祖母を軽んじるような発言はしなかった。
出前の寿司を粗方食べ終わり、大人達はお酒をゆっくり楽しむ時間になっていた。
箱型テレビは現役で、昼間の甲子園の結果がダイジェストで流れる。父親と伯父が酒を片手に少年に戻っていた。
昴兄ちゃんはもういい年だから部屋に戻りたいはずなのに、つまらなさそうにしても、部屋に戻ろうとする素振りは見られなかった。
伯母さんはあまり酔っていない。同居の嫁だから深酒しないようにしていると気付いたのは、もっと後になってからだ。
一方で、私の母はとても酔っていた。いつも母が一番、酔っ払っていた。これはとても幸せな証拠だったのだ。
「ね~え、昴くん。お願いがあるの」
母がビールを呷る。一瞬、皆がテレビから視線を外して、昴兄ちゃんと母を見る。
「香奈の耳、かいてあげてくんない?この子ったら、私の耳かきを拒否するのよ~!耳鼻科なんてもうね、絶叫!」
耳掃除の話になると、皆の視線は各々の興味へと戻っていった。
「いつものやつか」ということだろう。
小さい頃、私は耳掃除をされるのがとても嫌いだった。厳密に言えば、大人になった今も苦手だ。
母の耳かきは、削るという表現が相応しく、とても痛かった。無慈悲な耳鼻科にはアレルギーを持っていたと言っても過言ではない。
しかし、私が最も恐れていたのは、昴兄ちゃんに耳をかいてもらう口実がなくなることだった。
もし母なり病院なりに耳を綺麗にされようものなら、理由がなくなってしまう。
昴兄ちゃんはそわそわした様子で、私の母と伯母を窺って、「でも」とか「香奈ちゃんももう大きいし」と遠慮していた。
小学生とはいえ、私が女の子であることを気にしたのだろう。
そういえば、毎回この問答があった。でもこのやり取りが始まると、最後にはかいてもらえることを私は知っていた。
母は「いいのいいの」と豪快に笑うし、伯母さんは「香奈ちゃんが嫌やなかったら」と気をつかう。
私はあの感覚を、ほとんど中毒者が久しぶりに対象に触れたかのような熱狂をもって、首を縦に振った。
「昴兄ちゃんに、かいてもらいたい」
「香奈、今日は素直じゃない!」
昴兄ちゃんが苦笑する。けれど、あるとき急に、軽やかな足取りで、仏間を出て行った。
伯父さんが揶揄する。
「かっこつけんと、『かきたい』ってあいつも言えばええのにな。昴はほんまプライドが高いわ」
「まあまあ、お義兄さん。あれだけ背が高くてイケメンで勉強もできたらプライドもそりゃあ高くなりますよ」
少ししてから昴兄ちゃんが仏間に戻ってきた。重装備だ。片手にクリアケース、残りの手に桶を持っていた。脇には首の調節できるタイプのスタンドライトを抱えている。
クリアケースには、金属製や竹製の耳かきが数種類と大小二つのピンセットが整列している。
つまり、昴兄ちゃんは耳掃除をするのが大好きなのだ。加えて、とても上手なのである。
「ほんなら、香奈ちゃん、ここに寝てくれる?膝枕、恥ずかしない?」
「膝枕がいい」
「よっしゃ、おいで」
昴兄ちゃんが膝をぽんぽんと叩く。私の胸は否応なしに高鳴る。昴兄ちゃんは私の母に体を向けて正座した。保護者の視界で行う方がいいと判断したのだろう。
小さな体で、私はころんと寝転ぶ。子供の体の身軽さに少し慣れてきた気がする。
男性の固い膝の感触に、私は緊張した。昴兄ちゃんの爽やかな香りがする。でも少し汗の匂いもする。
「まずはあったかいタオルで耳を拭いていくな」
「うん」
昴兄ちゃんは横に置いた桶の中で、タオルを絞った。お湯の散る音にときめきを禁じ得ない。
温かいタオルが耳殻を拭う。布地が通った部分が、すうっと清涼感を帯びる。耳のひだに肌触りのいいタオルが忍び込んでくる。
ひとしきり耳を拭われた後、お風呂上りのようなぽわぽわとした心地になった。旅疲れもあり、もうこの時点で私は眠気に誘われる。
昴兄ちゃんの笑うような吐息。
「じっとできて、香奈ちゃんはえらいな」
「ほんと昴君なら大人しくしてるのにねぇ!なんで私は駄目なのよぉ!」
酔った母親が茶々を入れる。父が「ママのはなんというか情熱的だからさ」とフォローを入れるも、それがフォローになってないものだから、伯父さんと伯母さんが横で笑っている。
祖母は静かに端でお茶を飲んでいた。
「香奈ちゃん、耳、触るで」
二本の指が耳穴を挟むように添えられる。耳たぶを引っ張らない時点で母の耳かきとは一線を画す。穴の覗き方がプロっぽいのだ。
一度、検索したことがある。昴兄ちゃんみたいな耳掃除が好きな人を、ミミカキストというそうだ。
「あ、塞がってもうてる」
上機嫌に昴兄ちゃんは言った。
昴兄ちゃんの指が、手術道具のように綺麗に並べられた道具のうちから、竹製の耳かきを取り出した。少年と青年の間の、繊細な指先で柄を摘まむ。
通常の耳かきの匙部分よりも、ずいぶんと細く見えた。その耳かきの先で私の耳の入口をそろそろとなぞる。
勿体ぶるようになぞるものだから、私は楽園の渦に巻き込まれていく。渦の底で、カチカチという音が鳴った。
幼い私が耳掃除から逃げ回っていたため、詰まっていたのである。
私の肌は油分が多い。思春期にはニキビが悩みとなり、大人になった今でも、肌のテカりが気になってしまう。
だから新陳代謝が盛んだった幼少期には、耳垢が非常に溜まりやすかったのである。
昴兄ちゃんの喉がごくりと鳴る。
細い匙が耳の壁から耳垢を剥がそうとしている。
ぺり、ぺり、がさり。
大きな耳垢が動く度、私は筆舌に尽くしがたい痒みに苛まれる。けれど決して不快ではない。
「か、かゆい。昴兄ちゃん」
「ごめんな、香奈ちゃん。もうちょっと、待ってな」
細い匙が丁寧に耳壁と耳垢の間に隙間を作っていく。
昴兄ちゃんは器用だったけれど、私の耳の中に巣食う魔物が大き過ぎる。鼓膜に届く音は凄まじい。
ばり、がさ、ぐぐ。
その音が聞こえる度に、痒みへの悩ましさとその先にある解放感への期待で板挟みになる。
あるとき、匙がズっと深めに沈みながら耳壁から垢を剥がした。瞬間、私は快感とも痺れとも判別できない強い刺激に襲われた。
痒みが臨界点を超えた。そう感じた。
「もう終わるで。頑張ってな……!」
本来であれば耳鼻科にお世話にならなければならない案件だろう。昴兄ちゃんは諦めず、根気よく剥がしていった。ピンセットが出動する。さあ、もう終わりだ。
ピンセットが、私の耳を塞ぐそれをしっかりと掴む。ずず……という音の間に、べり、べりという響きが合いの手のように入る。
「よし、いける。いけるわ」
昴兄ちゃんの静かな興奮の声の中、最後は一気に引き抜かれた。
ずぼっという音が耳道を渡り、それがいなくなったのだとわかった。周囲の大人から「おー」という声が上がる。
昴兄ちゃんはピンセットに挟んだまま、耳の穴の形をした塊を見せてくれた。
「香奈ちゃん、よう我慢できたな。動かんかって、お利口さんやったな」
広げられたティッシュの上にさっきまで私の耳の中にあったものが転がっている。昴兄ちゃんは「もう少し見てみよか」と私を元の体勢へと促した。
もう一度耳を触られると、まだ痒いように感じる。
「残ったやつを綺麗にしよか。香奈ちゃん、まだ頑張れる?」
「うん」
取れた耳垢を見るために、父親や伯父さんがテレビに一人で喋らせ、こちらまでやって来る。
「相変わらずすごいなあ」だとか「昴も香奈ちゃんもすごいわ」だとか盛り上がっている。けっこう恥ずかしい。思春期の私だったら耐えられなかったかもしれない。
耳垢が去って敏感になった穴の壁を匙がなぞる。気持ちよさに頭がぼうっとしてくる。匙の先と残った垢がぶつかって、固い音が弾けた。小刻みに動き、耳垢をぐらつかせる。その根元が耳壁を揺るがす度に、信号が快感に変わる。
私は思わず「あー」と間抜けな声を漏らしていた。そしてまた昴兄ちゃんがくすりと笑う。
「気持よさそうでよかったわ」
ティッシュの上と耳の間をピンセットが幾度も往復する。あの量が子供の耳の中に入っていたのかと思うと驚愕する。
かりかりかりかり。
大物がいなくなった耳の中を、名残惜しそうに耳かきが滑る。最後の最後に綿棒で耳の外側を拭き取り、それが内側まで到達すると、私はいつの間にか意識を手放してしまっていた。
「おやすみ、香奈ちゃん」
大人たちの騒がしい話し声の中で、昴兄ちゃんの声だけがくり抜かれたようにはっきりと聞こえた。
昴兄ちゃん。大好きだった。お嫁さんになりたかった。
従兄弟でも結婚できると知った日は、何もかもが輝いて見えた。
どうして、大人になった昴兄ちゃんは普通の道を行かなかったのだろう。
公立の学校で成績も優秀で、親子仲も悪いようには見えなかった。あんなに優しかったのに。
でも小さい頃から知っていたんだ。本当は。
時折、カーテンの向こう側にいるみたいに、近くて遠い場所に昴兄ちゃんが立っていたことを。
∴
翌朝、目が覚めても、昨日と何も変わらなかった。ここは近畿地方の端っこにある、祖母の家。
昨夜はあのまま寝てしまった。起きてすぐ、準備された朝風呂に浸かり、風呂上がりには食卓に朝食が配膳されていた。しかも菓子パンや栄養補助食品ではない。
子供とはいえ、いいご身分だ。違った、子供だからか。
ブラック企業勤めの人間に癒やしが染み渡る。
土曜の朝だけど、大人達はもう家の中にはいなかった。皆、それぞれの理由で出かけていた。
朝食を終え、トイレに向かおうとすると、途中で声が聞こえた。昴兄ちゃんが仏間の隅で誰かと携帯電話で話している。
いつもと違った雰囲気だったので、私はおはようを口の中に閉じ込めた。
「ええって。そっちはもう俺がやるわ。あんまり目立った行動は止めろって森川に言うとけ」
投げ捨てるような言い方だった。同級生だろうか。
昴兄ちゃんのこの面が真実だとはわかっていても、認めたくない気持ちはあった。それは間違いなく、私のエゴだった。
あれは高校を卒業して三年後に起こるのだから。
「蓮井さんに謝りに行くよな?俺らの仕事ってあの人らありきやねんから。とにかく俺は明後日までは動かれへんから。任せるで」
ぱたんと携帯電話が畳まれる音がする。そうだった。この頃はまだスマートフォンがそこまで普及していなかった。頭は暢気に過去の文明に飛びつく。一方、心臓はしっかりと私の心を代弁していた。ばくばくと脈打っている。
私はその場を離れて、トイレの中へと逃げ込んだ。扉は古いけれど、中のトイレは水洗の洋式にリフォームされている。
用を足した後、先ほどと同じ場所に、昴兄ちゃんは立っていた。
「香奈ちゃん、今日、神社で夏祭りあるらしいで。お兄ちゃんと行かへん?」
私は即座に返事をした。先ほどの冷たい横顔をかき消すためには、思い出の昴兄ちゃんを足さなければ私の不安は止まらなかったからだ。
「行きたい」
「よっしゃ、ほな行こか!浴衣着たい?着たいならばーちゃんに去年のやつ出してもらおな」
「丈が足りるかな?」
昴兄ちゃんは私の頭に手を置くと、「そっか」と感慨深く呟いた。その哀愁は、おおよそ高校生が持ちうるものには見えなかった。
「そっか。香奈ちゃんがお兄ちゃんと遊んでくれるのも、あと少しやねんな」
そう、あと少し。そしてそれは私側の問題ではなく、昴兄ちゃんがいなくなるからだ。
「女の子は大きくなるのが早いんやって」
「昴兄ちゃんと遊べなくなるの?」
私は未来を知っている。昴兄ちゃん本人に嘘でもいいから否定して欲しかった。
昴兄ちゃんは屈んで子供の視線に合わせると、私の小さな頭を撫でた。
「俺はな、めっちゃめっっっっっちゃ!遊びたいねん。ほんまやで。でもな、香奈ちゃんが大人になったらきっと兄ちゃんとは遊んでくれなくなる」
「私、そんなこと言わないよ」
「ありがとうな」
そこからお兄ちゃんを囲む空気は、ぴりっとしたものへと変わってしまった。続きを話したくなかったのだろう。今は私の中身が大人でよかった。小学生の私ならこの会話で昴兄ちゃんに嫌われてしまったと夏祭りどころじゃなかったはずだ。
高校生の昴兄ちゃんは、私が当時感じていたよりも本当はずっと幼かった。より幼い私がそれに気付けるはずがなかった。それだけのことだ。
∴
竹木神社にはこの街の子供が全員揃っているかのような賑わいだった。
事実、住宅同士には距離があるのに、境内には人が溢れかえっている。歩くのがやっとな子供から、昴兄ちゃんと同じような年頃まで。
太陽が沈む頃には熱気が視認できそうな勢いだった。温度と湿度が高く、ばあちゃんにきつく巻かれた帯の下には汗をかいていた。
竹木神社は身も蓋もない言い方をすればボロい神社なのだが、その分、歴史がある。
基礎を残しつつ、修繕を重ねているから、昔の形を保ったまま今も地元に愛されている。
夕方からは高校生が屯するから一人で遊びに行かないようにと過去の私は言われていた。
この時間に、太陽が沈みきっても遊べるという冒険が、子供達の今の熱気を生み出しているのかもしれない。
「香奈ちゃん、次は何が食べたい?それとも金魚すくい、もう一回やる?」
昴兄ちゃんは左の手首に綿菓子の袋を提げ、手には食べかけのかき氷、頭にはお面をずらして付けていた。
凜々しい目鼻の上に赤レンジャーの顔が乗っている。
チョコバナナやフランクフルト、イカ焼き、とうもろこしの消化に尽力している私の胃にこれ以上の余裕はない。育ち盛りの昴兄ちゃんはまだまだ足りなさそうだ。
出店はまさにお祭り価格で、普段スーパーで百円の商品が五百円で売っている。それでも昴兄ちゃんは出し渋らなかった。
歳の離れた従姉妹のためなのか、はたまた学生にしてはお金を持っていたのか、私にはわからない。
できるだけ遠慮せずに、でも使い過ぎずにと念じていたのに、結局、昴兄ちゃんがあれもこれもと買ってくれた。
「もうたくさん遊んだから大丈夫だよ」
「ほんまに?子供が遠慮したらあかんで」
こんなに優しく微笑む人がどうして、わざわざああいう道を選んだのだろう。成績も良くて、上京すればいくらでも就職できたはずだ。
昴兄ちゃんが好んで選んだのだろうけれど、大人になった今でも理解できない。
「昴!昴やないか」
ベビーカステラの屋台の前で呼び止められた。その裏から厳めしい男の人がエプロンを着けたまま、のれんをくぐる。
三十代ぐらいだろうか。筋肉質な体に少し脂がのっていた。若い頃、やんちゃをしてそうな。むしろ今もそうかもしれない。
ポン菓子を売っていたおじいさんとは違うタイプの露店屋さんだ。テキ屋という単語がしっくりくる。
「角田さん。こんばんは」
「角田さん」と呼ぶ昴兄ちゃんの声は、わずかに強ばっていた。しかし夜の挨拶は非常に紳士的だった。
「『こんばんは』やて!そんなん言うの俺の周りやと昴くらいやわ。他の奴が言うたら、『キモ』言うてどついてるで」
角田さんと呼ばれた男性は、自分へ主導権を引き寄せるような話し方だった。早口で、イントネーションが明確で、でもひょうきんさはない。
私の苦手な話し方だった。嫌でも会社の上司を思い出す。
「今日は可愛い子連れてるやん?」
「ああ、友達の妹で」
とっさに、昴兄ちゃんは嘘を吐いた。なんの引っかかりもなく、滑らかな嘘だ。私の胸がちくりと痛む。
「誰の妹?俺の知ってる奴?」
「高川春斗って知ってます?」
「いや知らん」
「三谷高校の」
「あーその辺、ちょっとわからんわ」
男性は私を見た。目が合った瞬間、私の背中に蒸し暑さとは別の汗がじわりにと滲む。
この人は食べる側の人だ。食べられる側の人ではない。私はいつも食べられる側だ。
男性が背を曲げ、私の方を向く。
「ベビーカステラ、好き?」
私はこの人には何もされてない。今、見た目や雰囲気だけで判断している。なのに、体は芯から揺り動かされ、脂汗をかき続ける。
駄目だ。遠くで上司が吼えている。みんな根性出してやってんだぞ!すみません。すみません。
「あ、あ、は、はい」
「『はな』ちゃん。自分、卵アレルギーやろ?」
私は昴兄ちゃんを縋るような表情で見上げた。テキ屋のお兄さんが怖いのか、偽名がすぐに出てくる昴兄ちゃんに驚いたのかわからない。私を守るための嘘なのに、薄情にも昴兄ちゃんとの間に溝を感じてしまう。
ああ、本当にあの環境のせいだ。職場で思考を失うまでの指示と叱責。私は何もかもを真っ直ぐ受け入れられなくなっている。
「アレルギーかあ、なら仕方ないなあ。おっちゃん、残念やわ」
「すんません。……僕なら大歓迎ですが」
昴兄ちゃんの軽口は社会人のそれで。私は口をぱくぱくとするだけで。
「言うたな~、お前。来年うちの事務所に来たら使い倒したるわ」
「ははは、楽しみにしてます」
「蓮井さん、お前のこと気に入ってるからな。俺も楽しみにしてるわ」
もうこの頃から昴兄ちゃんにはこういう人達との関係ができあがってしまっていたのだ。大学には進学せず、消えてしまったのはそういうわけだったのか。
まだ溌剌な少年なのに、未来まで決めてしまって。
「それじゃあ、角田さん。また」
「おう!」
昴兄ちゃんが私の手を引っ張る。ヒーローの仮面を私にかぶらせる。縁日の戦利品をゴミ箱にごっそり捨てた。
お祭りの輪から遠ざかっていく。どこに行くのかと、仮面の小さな丸い穴から、私は足下と昴兄ちゃんを交互に見た。参道の不安定さと人混みでこけてしまいそうになる。
いつもの昴兄ちゃんなら歩幅を合わせてくれるはずだった。こんな強引なことはしなかった。
「角田さん、今日は来ん言うてたやないか……」
並ぶ提灯を横目に、人の流れに逆らう。入り口近くの鳥居をくぐると、祭りに遅れてきた親子連れとすれ違った。
盆踊りの曲が遠くなり、神社の温かな光がおぼろげになる。
私達はあぜ道を歩いていた。
やっと昴兄ちゃんはいつもの昴兄ちゃんに戻り、歩幅を私に寄せた。
「ごめんな。足、痛ない?」
「い、痛くないよ」
本当は、鼻緒が足の甲に擦れて、けっこう痛かった。
街灯が飛び飛びに設けられているとはいえ、田舎のあぜ道は暗い。大げさではなく、一歩踏み外せば、田んぼや溝などにはまってしまうこともある。
昴兄ちゃんは私の足をじっと見て、暗さで見えないとわかると、その場にしゃがみ込んだ。
携帯電話の光で足を観察し、私の言葉が嘘だと知られる。
昴兄ちゃんは屈んだまま、向きを変え、私に背を見せた。
「おいで」
おんぶを提案する昴兄ちゃんに向かって、私は首を横に振った。色んな感情が混ざり合っていた。
恥ずかしいのと、子供扱いされたくないのと、昴兄ちゃんが遠いのと。それでも、大好きなのと。いなくなって欲しくないのと。
「その足で歩いたら、もっと酷くなるで」
私が口を閉ざすと、昴兄ちゃんは何度か頷いて、最後には諦めた。
また歩き始めると、鼻緒が柔らかくなった皮膚を柔らかく削っていく。
徐々に私の歩き方がおかしくなると、昴兄ちゃんは女性の恥じらいよりも少女の無事を優先したようだった。
「香奈ちゃん、ごめんな。俺さ、おばちゃんに怒られてまうから」
昴兄ちゃんは私の母親の怒りなど恐れていない。こう言えば、私が折れざるを得ないことを知っているからだ。
私はおずおずと昴兄ちゃんの背に近付いた。両肩に腕で掴まる。筋肉の付いた背中に身を這わせると、昴兄ちゃんの体はぴくりと跳ねた。
昴兄ちゃんでさえ気まずく感じたのか、空気をごまかすような笑いがあった。
「ははは、背は高くなったのにめっちゃ軽いわ。……裾でしっかり足隠しや」
昴兄ちゃんのあったかい背中にもたれかかる。夏の蒸し暑さのなか、切り抜いたようにその温度だけが伝わる。
昴兄ちゃんと私は二人で一つのお化けになったみたいに、よたよたと夜のあぜ道を行った。
昴兄ちゃんは夜の闇を怖れながらも慎重に歩く。夏休みの時期にもなると、カエルの大合唱は止み、虫の無秩序な演奏が響く。
空間に音があって助かった。二人とも会話の始まりを自分から始めようか、相手に委ねようか身をすくめていた。
先に勇気を出したのは、「年上の」昴兄ちゃんだった。
「お祭り最後まで楽しみたかったやんなぁ。ごめんなぁ」
「ううん」
私はその次に続けるべき言葉を必死に探した。けれど、角田さんという男性と昴兄ちゃんの会話が脳裏に焼き付いて離れない。彼らについて言及すべきか、別の話題を探すべきか。
普段の私ならこういう敏感な部分にわざわざ自分から触れるようなことはしない。必要以上に流れに身を任せてしまう。
でも、それでいいのだろうか。
私はここに来てからずっと考えていた。どうして子供時代へとやって来たのか。
残業と怒鳴り声による頭痛と胃痛は、ついに私を夢路へと連れ出してくれたのか。
確かに私はこの田舎で頭の中が空っぽにすることが叶っている。義務による負債は脳内にはない。
子供時代は疲れきった私を優しく抱き締めてくれる。
それにしても、それにしてもだ。
おばあちゃんの懐かしい香り、両親のまだ衰えていない肌、耳をなぞった昴兄ちゃん指先。全ての感覚があまりも現実だ。
本当にタイムスリップしているなら、どうして私がここにいるのだろう。
それに私を癒やすためなら、子供時代は「ここ」でなくてもよかったはずだ。
これから険しい道を行く昴兄ちゃん。私の手が力む。言わないと後悔する。何もわからないけど、未来に後悔するという確信だけはある。
流されずに生きるためには、私も受け入れるだけじゃ駄目なんだ。
「昴兄ちゃん」
「なあに?香奈ちゃん」
「行かないで。さっきのお祭りの人達のところへ行かないで」
「大丈夫、もう戻らんよ。このまま家帰ろうな」
気持ちがぐちゃぐちゃのときに上手く喋れる人ならよかった。
「違うの。高校を卒業したあと、あの人達のところに行かないで」
「……香奈ちゃん、もうわかるんやね。ごめんな、嫌な話聞かせて。でも大丈夫やで、兄ちゃんは、……行かんよ」
嘘だ。
昴兄ちゃんは高校を卒業してから三年後、小さな白い壺になって田舎に帰ってくる。それからずっと、私の心には砂混じりの風が吹いている。そこに流し込まれたのが仕事だった。
私は昴兄ちゃんの訃報を聞いた未来に想いを馳せる。目の奥が熱くなるのを止められなかった。零れた涙が背中を濡らし、暗闇の中で昴兄ちゃんは従姉妹の香奈ちゃんが泣いていることを知る。
「あかんねん」
そうだろう、ただの従姉妹が未来を変えるほどの影響力を持つわけない。
「……俺、香奈ちゃんに泣かれるのだけはほんまにあかんねん。嘘だけで俺がほんまの悪者に思える。他の奴らにはいくらでも適当なこと言えんのにな」
「昴兄ちゃん。昴兄ちゃん」
「嘘ついてごめん。兄ちゃん、卒業したらあの人らと働くことになってんねん。香奈ちゃん、お願いや。おかんらに言わんとって」
最後の方の声は震えていた。私はその声で、昴兄ちゃんの幼さを痛感する。
「最初は軽い気持ちやってん。俺、自分で言うのもなんやけど、何でもできる思ってた。だからそういう人らとも上手くやれてる自分に酔っててん。『あ、やばいわ』って気付いたときにはもう抜けられんかった!!!ごめん、香奈ちゃんに聞かせる話やないのに」
「しくったなあ~、俺が天才やったばっかりに」と昴兄ちゃんは引きつった声で冗談を言う。
私はもうタイムパラドックスとか存在の消滅とか、SF小説の怖い単語を外に追いやって、勢いのまま話した。
「私が大人になったら、昴兄ちゃんと会えなくなるの。伯母さんも伯父さんもみんなが必死に探すけど、会えなくて。伯母さんなんて憔悴しきって」
「気持ちは嬉しいけど、おかんの名前は出さんとって。香奈ちゃん」
「だって、本当なの。伯母さんが一番悲しいよ、今も」
「『出さんとって』って言ってるやん。それになんや、香奈ちゃん見てきたように言うんやね」
昴兄ちゃんは前を向いて歩き続けていたけど、こちらを振り返る素振りはなかった。必要以上ににこやかに、突き放すように言った。
それは今まで私が経験したことのない彼の対応だった。冷たくて、私は負けてしまいそうだった。
「見てきたんだよ。私、今、中身は二十八歳の香奈なの」
「何それ?そうなん!?……はは、面白いわ」
今度は見下してくる。だけどもう退けない。
「で、二十八歳のレディの香奈ちゃんはどうしてここにおるん?」
「わからない。帰省した日に昼寝から起きたらこうなってた」
「へー、わからんの!設定が甘いな。ほんで?香奈ちゃんが二十八歳のとき、俺はやくざとずぶずぶで、行方不明。ほんなら香奈ちゃんは何してんの?」
「不動産関係で働いている」
「『不動産関係』やて!ここは頑張ったな。勉強したん?」
必要以上に壁を作る昴兄ちゃんに腹が立つよりも込み上げる感情がある。感情の半分は悲しみだ。
しかし彼からすれば小学生の戯言でしかないのは当然だった。すぐに信じる方がおかしい。
もう半分は悔しかった。
「勉強したん?」の問いに関して、嫌な記憶が呼び起こされる。勉強した。勉強して、資格が取れたご褒美はさらなる仕事だった。
それなのにまだ研鑽せよとの美辞麗句が並べられる。
「勉強した。いっぱい勉強したけど、仕事が増えるだけだった。消化しても消化してもすぐにやってくる。期限や納期って聞くだけでも嫌だった。いっぱいいっぱいになって全部投げ出したかったけど、言えなかった!」
私が大人げなくぼろぼろと泣くと、それまでの昴兄ちゃんの空気は一変した。背中から私をおろすと、今度は屈むだけでなく、地面に膝を付けて跪いた。
そして、腕を立てた方の腿に置くと、頭を下げた。
「ごめんね、でええんかな。ごめんなさい?大人の香奈さん。……俺の知ってる香奈ちゃんが俺に嘘ついたことなんてなかったもんな」
それは決して茶化しているようではなかった。私はまた涙が止まらなかった。最後に押し寄せた嬉しさで。
昴兄ちゃんが信じたかどうかが問題ではない。私の話に耳を傾けてくれたのだ。
「おっさんになった俺に会えなくて、香奈さんは悲しんでくれましたか?」
「とってもとっても泣いた。私も探した。もう一度会えたらそれ以上、望まないとも思った」
「どうして香奈さんは理解してもらわれへんってわかってて、俺に言えたんですか?」
「絶対後悔するってわかっていたから。馬鹿にされても、もう一度昴兄ちゃんに会えるならそれでいいと思ったから」
昴兄ちゃんは額に手を当て、目を瞑っていた。そして「それは。それは……」と呟くと、数秒だけ沈黙した。
りんりんと虫が鳴く。どこかで鳥が羽ばたいた。私は未だにしゃくり上げている。
「それは、あかんね。香奈ちゃんが泣くんはあかんね。俺も頑張らなあかん」
その言葉のあと、昴兄ちゃんは「おんぶは駄目ですか」と言いながら、また私を背負おうとしてくれた。
昴兄ちゃんが私を本当に二十八歳だと思っているかは定かではない。だけど、私の方は妙に気恥ずかしくなって、鼻緒の痛みを我慢することを選んだ。
昴兄ちゃんに支えられて歩き出す。
私は知っていた。夜は暗いけど、優しい。どんなものでも受け入れて、包んでくれるのだ。
「俺、未来で香奈さんにお礼をしなきゃ駄目ですね」
年上だから要らないよと返そうとした瞬間、私はあの甘美な耳の心地を思い出し、年甲斐もなく、彼にせびった。
少し不道徳かもしれないが、この夏の小旅行がなんとなく、もう終わる気がしていた。だから最後に欲張ったのだ。
そして私の予感は当たることになる。私は昴兄ちゃんの耳掃除に酔いしれ、そのまま寝てしまったのだ。
∴
まぶたを開くと、見慣れ場所だった。一人暮らしの女が住む、ひどく散らかった部屋だった。
目覚める前から日付は一日しか進んでいない。つまり夜に寝て起きただけなのか、時の小旅行に行ったのかは判別できない。
しかしそれにしても寝覚めにしては、意識が明瞭だ。田舎で過ごした数日を、ありありと思い出せる。
私は祈るような気持ちで、何か未来が、今の私にとっては現在が、変わっている証拠を探した。
あと三十分もしたら通勤のために家を出なければならなかったが、取り憑かれたようにスマートフォンで「昴」の文字を検索した。
出てくるのは思い出話ばかりで、どれも決定打にならない。やっと父親からのメッセージでその名を見つけた。
日付は一年前。
私の体から力が抜ける。
―――昴君、残念だったよね。昔はカナとすごく仲が良かったのにね。
ああ、やっぱり駄目なのか。やっぱり夢だったのか。脱力して、しばらくうなだれたあと、馬鹿な私は通勤準備を始めた。
行動をパターンに落とし込めば、考えなくて楽だった。
時間を浪費してしまった分、いつにも増して最低限の服装に着替える。
鍵を閉め、マンションの一階に下りると、ポストが目に留まる。前に山ほど溜めてしまって、色々と期限を破ったことがあった。
しまったと思い、ポストを開け、ぱらぱらと確認すると、今時珍しい、個人からのはがきがある。
絵柄は紫の背景に、白い蓮の花が控えめに咲いている。
おばあちゃんの一周忌のお知らせだった。
―――香奈ちゃん、お元気ですか?去年の葬式では引っ込んでいたドラ息子が、今年はきちんと列席するそうです。香奈ちゃんに会いたがっています。忙しいと聞いているけど、できれば来てもらえると嬉しいです。
鞄の中のスマートフォンに手を伸ばす。すぐに母親に電話した。要領を得ないまま、私はまくし立ててしまった。
「急にどうしたの?おばあちゃんの一周忌に昴君が参加するかもって前に言ったじゃない」
「そのとき、私はどんな感じだった!?」
「あんた大丈夫?もう今の仕事辞めたら?……喜んでたに決まってるじゃない。でも今ほどじゃないかな」
ふふと笑う母親に礼を言うとすぐに電話を切った。
そのまま一心不乱に文字を打つ。嫌な辞め方だけど、私はもう止まれない。「今までお世話になりました」と定型文で白々しく書いて、メッセージの送信ボタンを押す。
上司からすぐに電話がかかってきた。私はもう辞めますと壊れたみたいに毅然と繰り返した。
一旦、社内で話を聞こうと言われても、もうどうでもよかった。
部屋に戻って、思いつく限りの旅の支度をトランクに投げ入れ、ありったけの現金を財布に押し込む。化粧だけは念入りにし、一番お気に入りのワンピースに袖を通す。
足取りは軽く、背中には羽が生えている。飛ぶようにして新幹線へ乗車した。
あの人への「久しぶり」は絶対に、人生で一番、綺麗な私が言わなければならない。
既に向かっていることは伯父さんに連絡しなかった。言えば、するりとこのチャンスが逃げてしまうような気がしたからだ。
新幹線を下り、一年ぶりの私鉄に乗る。鈍行に揺られ、タクシーを拾った。窓から広がる景色は、昨夜と一部が異なっていた。新旧がモザイク状に調和している。
バス停が新しくなっていた。それなのにバス停の横にあるフジワラ商店の看板は昔のままだ。
寂れている部分も含めて、今までとは違って見えた。間違いなく、私の拍動のせいだった。
今は伯父さんのものとなった、おばあちゃんの家の前でタクシーが停まる。
電子マネー決済ができて助かった。おつりとじゃらじゃら戯れている時間さえ惜しい。
トランクをごろごろと引いた私は、伯父さんの家の扉の前に立った。インターホンを押す前に深く息を吸う。
そのとき、背後から背の高い男性がやって来た。歳は四十前後で、無精髭が生え、くたびれている。左足が不自由なのか、やや引きずるようにして歩いていた。
その人は私と目が合った瞬間、手に持っていた籠を落とした。色とりどりの野菜が転がり落ちていく。
「……香奈ちゃん?香奈さん?」
無精髭でも整った目鼻立ちを隠すことはできない。歳を重ねて、あの頃とは違う雰囲気になったけれど、紛れもなく彼は憧れの昴兄ちゃんだった。
「久しぶり、昴兄ちゃん」
人生で一番綺麗な私かは不明だ。だがはっきりと言えるのは、こんなに晴れやかな気持ちで告げた挨拶は今だかつてない。
昴兄ちゃんも覚えていた。夢じゃなかった。
「ひ、久しぶり」
すかさず、昴兄ちゃんは不自由な足の方を後ろに引いた。さっと右手で左手の甲を塞ぐ。成人した男性の手でも覆い切れない長い傷跡が、指の間から手首まで走っていた。
こっちの道に転がるために、きっと苦労したのだろう。
「私、昴兄ちゃんが考えてる香奈さんだと思う。でも、今は香奈ちゃんでいいよ」
「そうか……。すごいな。そうか……、こんなことあるんやな」
昴兄ちゃんは落ちた野菜をゆっくりと拾い上げる。私はそれを手伝いながら続ける。
「私は何でもいいの。昴兄ちゃんが帰ってきてくれたから」
朝からずっと興奮しっぱなしだから、やや大胆な言い回しになる。
目尻に浅いしわを浮かべて、昴兄ちゃんは眩しそうに目を細めた。
「これやから困るねん。女の子はほんま、綺麗になるんが早い」
野菜を全て籠に収めると、私達は一緒に伯父さんの家に入って行った。
伯父さんはわっと歓声を上げて私を迎えてくれた。今夜は伯父さんの家に泊めてもらえることになった。
昴兄ちゃんは少し離れた家で一人暮らしをしているらしい。
奥さんがいないことに心底、私は安心した。
夕食におばさんがすき焼きを準備してくれるという。二つの鍋で調理したいから昴兄ちゃんの家のカセットコンロを持って来てとお願い、もとい命令をする。
今や伯父さん宅のヒエラルキーにおいて、昴兄ちゃんは落ちに落ちているようだった。すき焼き鍋の回収命令を素直に受け入れていた。
これ幸いと、私は昴兄ちゃんの後を昔のように付いていく。
伯父さんの車を借りて昴兄ちゃんの家へと向かう途中、私は勇気を出して時間旅行の話をした。頭のおかしい女だとは思われなかったようだ。昴兄ちゃんは笑顔で聞いて、たくさん質問してくれた。
それから嘘か誠か、私との出来事が決め手となり、怖いおじさん達とは縁を切ることができたと言った。だけどそのときの勇気の結果が、足と左手の傷だったそうだ。
怪我がきっかけで、親とこの年まで疎遠にしてしまったこと。おばあちゃんの訃報を知って、戻ってきたこと。去年は私と顔を合わせる勇気がなかったこと。
私の話を聞くだけでなく、昴兄ちゃんはたくさん話してくれた。
「俺はプライドが高かったんやろうなあ。あほよな」
ハンドルを切りながら、昴兄ちゃんは苦笑した。車の運転は問題がないらしい。よかった。ここで運転ができないとなると、昴兄ちゃんはますます肩身が狭いと感じてしまうのだろう。
築年数の古い質素な一軒家でカセットコンロを回収する。帰りの運転は行きよりもゆるやかなになった。話が尽きなかったせいだ。
もうそろそろ伯父さんの家に着こうという頃、昴兄ちゃんはぼそりと呟いた。
「そういや、お祭りのあと、香奈ちゃんが俺に耳かきしてくれって言って、結局、寝落ちしてたな。ほんで起きたら、もう小学生の香奈ちゃんやった」
「だってあのときは『これが最後かも』って思ったから必死になってたから」
「ごめんごめん、意地悪してるんちゃうよ。びっくりして、ほんで嬉しかってん。させてくれるんや思って」
昴兄ちゃんが頭をかきながら言う。
「今度はちゃんとしたお礼せなあかんな。……と言っても、めちゃくちゃ恥ずかしいんやけど、今すぐ買えるものは限られとって、できたらその、待ってもらえるとありがたいんやけど」
「お礼?」
「そや。そらそうやろ。あのままズルズル行ってたら、俺は死んでたか行方知れずやろ?」
私の沈黙に昴兄ちゃんは察したようだった。私に気遣わせないように話し続ける。
「実はここに帰ってきてすぐ、昔の付き合いやった人らの事務所に行った。今はな、もうビルなかったわ」
「どう思った?」
「ほっとした。ほんで高三の夏を思い出した」
私は耳を触った。しばらく耳鼻科に行ってない。相変わらず、自分ではかけない。
私の耳をかける人が今はそばにいる。それは素晴らしいことだ。
急に耳が気になり始めた。ものすごく真面目な話なのに。
私は耳がものすごくかゆい。
「昴兄ちゃん、今も耳かきは好き?」
「うーん、まあ、正直言うと、好きやな……」
「耳かき動画とか見るくらいには」と長いまつ毛の目を伏せる。
「今、彼女さんとかいる?」
「ええ!?急に何なん!?」
「私に耳かきして欲しい。でも恋人とかいたら悪いから」
薄暗い車内でもはっきりとわかる。昴兄ちゃんの頬は赤く染まっていた。
「おらんよ……、そんなん。こんな貧乏な出戻り男に」
「じゃあ、昴兄ちゃんの家でかいてくれる?」
「アホ!!!女の子がそんなん冗談でも言うたらあかん!!!」
この昴兄ちゃんの言葉は私を大いに喜ばせた。一応、意識はしてもらえているようだったから。
「じゃあ、お礼は?」
「お礼は、そやな。お礼……」
「おばあちゃんの家、じゃなかった。伯父さんの家だったらかいてくれる?」
「まあ、うーんそやな。うーん」
「私、実は半年以上、耳掃除してなくて」
やっぱり彼は生粋のミミカキストだ。さっきまでとりつく島もなかった昴兄ちゃんは急に目に輝きを取り戻した。
このまま押せばいける。確信が確率を引き寄せる。私は昴兄ちゃんにずけずけと踏み込んでいく自分に驚いた。私の道も変わったのかもしれない。
「自分でかくのも、お母さんに頼むのも、今でも無理で。昴兄ちゃんなら大丈夫だと思う」
「この町の耳鼻科行きいな?細田さんとこ明日……あ、あそこ今、早めの盆休み中や」
「伯父さん達がいても駄目なの?」
そしてついに伯父さん宅の駐車場に到着した。私の懇願に昴兄ちゃんは観念した。
車を停めると、ハンドルにもたれかかる。伏せたまま言う。最後に顔だけをこちらに向けてくれた。
「まあ、うーん、そやな。親父かお袋が横におったら……ええよ。今度またちゃんとお礼させてくれたら」
伯母さんにはとても申し訳ないけれど、すき焼きの味はあまり覚えていない。夕食後のお風呂上がりに、昴兄ちゃんの耳かきが待っていたのだから。
∴
「ははは、昴、お前、役得やな!!!」
伯父さんが豪快に笑っている。氷がグラスに当たるカランという音がなんとか耳に届く。耳掃除をさぼり過ぎて、聞こえが悪くなっていた。お風呂上がりは耳垢が膨張して特に聞こえにくくなる。
ホットアイマスクを付けているから周囲の状況もなんとなくでしかわからない。おそらく、伯父さんは私達の奇行を肴に、ウィスキーをロックで飲んでいる。
残念ながら、流石の昴兄ちゃんも膝枕は許してくれなかった。意識してくれているようで何よりだ。
日々の疲れとぽかぽかした温かさ、低反発の枕のおかげで眠気は既に限界に達している。しかしここで寝てしまったら、私と昴兄ちゃんの二十年ものの秘密が砕け散るような気がして、必死に堪えた。
「じゃあ、耳のマッサージからしていくな」
昴兄ちゃんの指先が耳殻に触れる。人肌に優しく揉まれ、頭がふわふわしてくる。ひとしきり揉み終えると、今度は耳たぶを柔らかく引っ張ったり、耳殻を軽く折りたたまれたりする。マッサージをされるほど、外の音がくぐもる。
血のめぐりがよくなり、耳全体がふっくらしてきたせいだろう。私の眠気のせいも勿論ある。
耳穴を囲んだ指がくいと開かれた。
「えらいすごいな。いや、褒めてんねんで。嬉しいねん」
耳かきの先端が私の耳を塞いでいる大物に触れる。その瞬間、私の背骨が震える。かゆい。あまりにかゆい。どうして今まで放置できていたんだろう。
「大人になって肌質が変わって、耳垢の質も変わってるな」
玄人発言である。昴兄ちゃんがやけに嬉しそうに言ったので、相当、大きな耳垢なのだろう。私も不安で身を固くする反面、開放される時を待ち望んでいる。
「これ壁際の古い皮膚が輪っかになってるパターンやわ」
「お前、ほんま気持ち悪いな」
伯父さんも嬉しそう。
「親父は黙っといてえな」
なかなかマニアックな会話だ。二人とも大声で言い合っているはずなのに、こもって聞こえた。
「香奈ちゃん、耳かき入れるで」
匙の先が耳の壁沿いの垢を刮げる。ぺりり、ぺりという音が大反響する。あまりのかゆみに、私の喉奥が引きつった。
「もうちょっと頑張ってな」
その刮げる作業時間はほんの少しのはずなのに、永遠のようにに感じた。かゆみが絶えず押し寄せる。最後にピンセットでずぼりという懐かしい音を聞くと、周囲の音が何段階も大きく聞こえた。
「おお、これは……えらいこっちゃ」
伯父さんの驚く声。わかっていたけれど、居間で耳をかくとはそういうことなのだ。しかも今は恥ずかしさよりも開放感が勝る。
「親父、止めたりいな。女の子やねんから」
「おお、すまん」
昴兄ちゃんはすぐさま匙をまた耳にいれてくれた。とてもかゆかった場所に欲しい刺激を与えられ、私の唇は歓喜の吐息を漏らした。昴兄ちゃんの体がびくりと反応し、耳掃除が中断される。
器用な昴兄ちゃんが珍しい。咳払いをしてから耳掃除が再開される。
かりかり。ごり。
残った垢に匙が当たると、優しく丁寧に取り除こうとしているのが伝わる。匙が穴の縁に沿って移動していく。これが一周すると、終わってしまうのかという妙な焦燥感があった。
「いや、まだ片方の耳がある」と自分に言い聞かす。
でもこの心地よさのまま眠ってしまいたいとも思う。
匙がついに一周し、私の耳の聞こえも快適になった。終焉は私をひどく落胆させた。
「アイマスクしててもわかるわ。そんなに気持ちよかった?ありがとうな」
「うん。きもちよかった」
私は呂律が回らないままなんとか口を動かす。
「最後に綿棒で綺麗に拭いて、反対側しよか」
「おねがい、します」
「了解」
湿らせた綿棒が耳にそろりとやって来る。再びの来訪者を私の耳穴は歓迎する。綿棒が過ぎ去った跡に爽やかな夏の風が吹き込んだ。
私はとても満足した気持ちになって、昴兄ちゃんの促すまま、反対を向いた。反対もとても溜まっていたようだった。
昴兄ちゃんの温かな指が、私の耳の上で軽快に、慎重に踊っていた。
この時期も変わらず虫は鳴いていたのだと今になって知る。
両耳が終わって、やっと眠れるというとき。私は天国に寝転んでいた。甘くとろとろとした眠気が私の気を緩ませる。
そして、伯父さんの目の前で言ってしまったのだった。
「ああ。しあわせ。あのときと同じくらい。いとこは、結婚できるって知ったときくらい」
もう私の意識の幕は閉じようとしている。まずいことをしたかな。でも、こんなにしあわせなのは、ほんとうにひさしぶり。
ねむたい。もうばれてもいいや。昴兄ちゃんのおよめさんになりたい。そのために戻ってきた。
「良かったなー!昴!お前、『耳垢の多い子が好み』なんやろ!?」
おじさんがなにか言ってる。ふわふわして気持ちいい。明日、しごとにいかなくてもいいんだ。明日も昴兄ちゃんにあえるんだ。
「まあ、いくら息子でも、お前みたいなん、よう勧めんわ。大事な香奈ちゃんに」
「……ほんまにな」
「あれ、お前……?まさか」
しばらくはこの町にいよう。
どれくらいまでいようかな。大家さんにマンションのこと……。
「ああ、そやで。その『まさか』やったら悪いんか」