第四脱
30年前、日本のとある高校で水道修理をしていた業者の橋本茂は
教室にいた高校生10名と共に異世界に召喚されてしまった。
彼らは元の世界へ帰る方法を探したが見つからず、
この世界で生き抜く事を誓い合った。
現地人たちは友好的であり、世界は概ね平和だった。
しかし文明レベルの違いから苦労する事も多く、
特に彼らを悩ませたのがトイレの問題だった。
それは彼ら以前に召喚された者たちも不満に感じていた事だった。
水道一筋30年の橋本は一念発起し、有志を募って会社を設立した。
それが“異世界に水洗トイレを作ろうプロジェクト”の始まりだった。
厳密には既に水洗トイレは存在していたが、あまりにも原始的な構造で
プライバシーなんて皆無の公衆便所だったので我慢ならなかったのだ。
橋本がまず作ったのは汲み取り式便所、俗に言うボットン便所だ。
水洗ではないし、現地にはもう似たような形式の物はあったが
陶器作りの心得がある友人の協力を得て作られた便器は
一部の貴族に美しい工芸品として目に留まり受け入れられ、
資金提供者を獲得するには充分な成果を挙げた。
続いて本格的に水洗の和式便所と浄化槽の製作に取り掛かり、
試作品を会社の敷地内に設置して社員や見学者に実際に使用してもらい、
使用感を聞いて改善点があれば直し、同時に現地人向けの勉強会を開いた。
それは水の学校と呼ばれ、子供たちに水の大切さを伝えるのが目的であった。
世界は違えど生物は皆、自然によって生かされているというのが彼の哲学だ。
水の学校は30年が経った今でも定期的に開催され、好評を博している。
彼らはトイレットペーパーの開発にも着手した。
ただし柔らかい紙の作り方を知っている人物がいなかったので、
こちらは完全に手探りで進めるしかなく作業は難航した。
ペーパー班は紙作りに専念するため子会社を設立して出向し、
現地の製紙技術を学びながら試行錯誤を重ねた。
そして、柔らかい紙を実現するヒントは革細工にあった。
凹凸の型押しによって模様を浮き彫りにする、エンボス加工と呼ばれる技術だ。
事業の旗揚げから3年、トイレットペーパーが大ヒット商品となる。
トイレが普及する前に広まったのは誤算だが、彼らの知名度は格段に上がった。
親会社の橋本も手をこまねいていたわけではない。
工場を建て、洋式便所の量産体制を整えていたのだ。
全ての家庭に個室のトイレ。現代日本人からすれば当たり前の事だが、
この世界でそれは上流階級の人間だけに許される特権であった。
橋本たちのプロジェクトに懸ける想いと確かな実績は人々の心を突き動かし、
興味を持った国王と直接対談する機会を与えられ、彼はその好機を逃さなかった。
全家庭にトイレを設けるには今ある下水道を拡張工事しなければならない。
それはもう会社単位の話ではなく、国家規模の大事業となるのは明白だった。
対談から数週間後、国王自らが橋本の会社に足を運び返答をした。
それは国内だけでなく大陸全土を巻き込む事業になるだろうという話だった。
大陸内の各国首脳と協議した結果、全員が橋本の計画に賛同したのである。
晴れてイージア大陸下水道事業団の理事長に任命された橋本は
日本で建築技師をしていた友人を仲間に引き入れて着工した。
当初、道具や人手の無さから100年はかかるだろうと予測されていたが
希少金属の発掘により、一攫千金狙いで協力を申し出る者が殺到するようになり
更にはその金属で作られた工具の性能の高さも相まって計画は加速した。
日本人村では今まで入手できなかった素材の登場によって
ちょっとした技術革新が起きていたが、それはまた別の話である。
こうしてわずか10年で完成した巨大下水道は“橋本トンネル”と名付けられ、
彼の生前に大陸内の全家庭の水洗トイレ普及率は3割を超えた。
橋本茂、享年72歳。
召喚されてから20年目に彼は寿命を迎えた。
先代国王よりも盛大な葬儀が執り行われ、
そこには大陸外から参列した王族の姿もあった。
彼が遺したものは便器や紙、下水道だけではない。
下水熱を利用したエネルギー産業は現在発展途上中であり、
近年では化学に興味を持ち学者を目指す若者が増加しているそうだ。
彼と共に歩んだ当時の高校生たちは“橋本軍団”と呼ばれており、
今や水道歴30年のベテランとなって後継を育てる立場にある。
現在は温水洗浄便座や擬音装置などの開発に心血を注いでいる。
橋本の情熱は彼らの中で息づいており、その火が途絶えることはないだろう。
「──んで、私たちが今いる場所がハシモトトンネルってわけ
ここに入ってくる人間なんて点検作業員くらいしかいないし、
大陸全土に繋がってるから逃亡には都合がいいのよね」
「ハシモトさん…… すごい人だったんだなぁ
トイレの歴史なんて考えた事ないや うぅ、涙が…」
「ガスマスク外せない時に泣くんじゃないよ、新入り
特にあんたは戦闘員なんだから視界が悪くなるのは困る
……つーか、勇者学校で習ったんじゃないの?
異世界人たちが口揃えて『真の勇者』とか言ってる人物でしょーが」
汚水を踏みながら言葉を交わす脱獄者3人。
彼女らが今装備している防護服やガスマスク、長靴なども
下水道工事中に開発・改良された代物であった。
「いやあ、座学は苦手だったんだ あはは…
僕はほら、実技で光るタイプの男だからさ!
冒険者やってた時も結構活躍してたから
魔物の相手なら安心して任せてよ!」
アレックスは力こぶを作ったが服の上からでは見えない。
彼は自分で言った通り実技の成績だけは高かった生徒で、
その強さを認められて卒業時に聖剣を貸し出された経緯がある。
“聖剣”とはヤンディール王国が108本所有する国宝の剣であり、
それを手にした者が“勇者”に相応しいかを判断するための道具だ。
アレックスは仲間の全財産を競馬で溶かし、その埋め合わせとして
聖剣を質入れしたのがバレて逮捕、更に勇者の称号も剥奪された。
「…念を押すけど武器を持ってない以上、
戦いになったらあんたの魔法に頼ることになる
ここでガスに引火したら逃げ場がないから
火属性と雷属性は絶対に使わないでよ」
「うん、わかってるよ 氷属性は苦手だけど、
今は冬だから他の季節よりは使いこなせるよ」
くるっと回した指先を冷気が追う。
苦手と言う割には随分こなれた仕草に見えた。
その直後、足元の汚水が波を打ち始め、段々と激しくなっていった。
地面が小刻みに揺れ、奥の方から獣の咆哮のような声が聞こえる。
それはただの地震ではなく、野生の魔物との遭遇だと確信した。
「さ、あんたの出番よ」
「了解、ボス」
アレックスは右手に魔力を集中させた。




