自惚れフルスロットル
六月を目の前にして湿気を帯びだした空気は、夜とともに涼を得、扇風機に背中を押され、さながら純文学のチープな色気すら醸し出した。空に架かる工業油の虹が、この街の衰退を永遠のものにしている。ビルに仕掛けた歯車が、畳を歩くように軋んでいる。常識的に振る舞うしか能がない。憧れからは離れなくちゃならないという自意識と、分解されたアルコールとに尊敬の念を払い、僕はとめどなくにやける自らの顔を想っては、その口角と笑いジワに自信を失っていくのだった。
僕のしている仕事とういのがごく簡単で、もはや自分でも何をしているのか、多々分からなくなることがある。早朝に漁港で依頼人と待ち合わせをし、その依頼人を海に突き落として、しばらく経ったらまた引き上げる。こんなことでも毎週三件ほどは依頼が入るもので、今はなんとか専業である。
昨日、住んでいたアパートが燃えた。帰りの空に、夕焼けを二か所に目撃したのは、あれは片一方が僕の家の炎であるということだった。近所には人だかりができていて、駆け付けた消防士たちによる消火活動も行われたが、結局は彼らの務め及ばず、アパートは全焼してしまった。
今朝は、おかずを好き放題よそったプレートにありついていた。急ぎで部屋の取れたここのビジネスホテルが案外いいところで、朝食はバイキングだし、隅に小さく盛っておいたカレーライスがやたらうまい。
『依頼
ご無沙汰しております。今度の日曜日はまだ空いていますでしょうか。予算は前回と同じく一万ほどでお願いしたいと考えております。』
『Re:依頼
今度の日曜なら空いています。また依頼料の話ですが、都合上引き上げさせていただいて、二万からでお願いしています。予算の都合が合いましたら返信ください。』
もう一杯カレーを取りに席を立つその際、知らない女に話しかけられる。
「あなた、カレーばかりお食べになるんですね。」
「はあ、まあ。美味しいですよね。」
「ああ、すみません。すてきだと思って。美味しいから、って素朴な理由だけで取る物が選べるなんて。こんな時代ですから、その性格は大切になさってくださいね。」
「ええ、美味しいですもん。」
バイキング会場を去る女の目には涙が浮かんでいた。
『Re:Re:依頼
日曜日が空いていたようでよかったです。二万でお願いします。』
『Re:Re:Re:依頼
承りました。当日は宜しくお願い致します。』
一回目よりもカレーライスは多めによそった。昨晩は部屋に入るなりシャワー、次いでベッドと他に迷う気力がなかった。あんなに古くてぼろくて臭かったアパートが、昨日あれだけぼおぼお燃えたのだ。もしや僕は築五十年の着火剤に暮らし、家賃を払い続けていたのだろうか。
『依頼
今日の昼からお願いできますか。急な依頼ですので報酬はいくらでも構いません。ただ一応、希望は五万です。』
『Re:依頼
原則は早朝のみ受け付けておりますが、承りました。時間はお昼の十二時でよろしいですか。』
『Re:Re:依頼
ありがとうございます。時間は本日正午でお願い致します。』
本日正午本日正午本日正午……今朝はよく眠れたからもっと寝ていたくてまだ眠いのである。だらだらカレーとプレートの残りを食べて会場を出ていった。ロビーにあの泣いていた女の姿はなく、心底ホッとすると、それによって余計に増した眠気が、僕のことを正午まで漁港へとすっ飛ばした。波がコンクリートに打ち付けられている。
「あの、私が依頼していた者です。これ、メールで約束した通り、五万あります。」
なるほど。ムッと退屈そうに唇を結んで、計画性のかけらもなく目の周りの肉がたるんでいる。これが突然海に突き落とされたくなったという男なのか。即座に五万を支払える経済力はあるらしい。
「確認ですけど、自殺目的ではありませんよね。」
「まさか。そんなことないですよ。」
「いえすみません。念のために、みなさんに聞いているんですよ。桟橋、出ましょうか。」
昼のここは朝に来るのとはまったく違った。漁を終えた船が岸に着いて、港というところは、乗り物や人が集まるほどに、休みのムードが漂っているので変に安心してしまう。桟橋の揺れ方が足に馴染んできた。小屋の外、漁師の食っているご飯は一見、がさつでとても豪勢である。
「じゃあ落としますよ。」
確認を入れて相手の背中を押す。押された相手は溺れて水面から手を生やして四方にかき回し、その現代的な体力を使い果たしたと見えると、こんどは僕が海に身を乗り出して、精一杯に相手のことを引き上げる。そして引き上げてからは、やはりどうしてもこの沈黙を避けることができないのだ。
「……。」「はぁ……はぁ……。」
けれど、僕の方から歩きだしさえしてしまえば、相手はやるせなくなって、その後を付いてくるしかできないのだ。不安定な桟橋からコンクリの地上へと足が着いて、昼飯を食べている漁師たちの横を通り過ぎる際、
「おおよかった。仲直りしたみたいだな。オレたち警察呼ぼうかと思ったんだぜ。」
「はは、どうも。」「いえ、どうも。」
僕は、海に落とした相手と仲良くなることなどないが、いつもなぜか、向こうの方が少し僕に似てしまう。マネされているみたいで、忌々しく思うときもあるが、お金を貰っている以上そう態度を悪くするのはいけない。こんなときは、だいたい双子がいたらこんな具合なのかもと気を紛らわしてみるのが常で、海、母、出産、二卵性と連想したところで、
「あの、そんなに私に似ていましたっけ。あなたは。」
向こうが我慢できずに口を開くのも毎度のことなのだ。
「僕たちが似ているも何も、海ってのは人間のふるさとじゃないですか。」
「はあ、それはどういった意味でしょう。」
……おかしい、朝方ならこれで完全にキマっているはずなのに。ここはあえて黙りこくって、あとの思考をすべて相手に委ねることにした。
この人はずっと、さっきのセリフについて考えてくれていたのだろうか。お互いに黙ったまま近くの大学まで歩いていた。別に考えなしでこの道のりを選んだのではない。僕にはここでやることがあった。
「そういえば、僕今からここで授業やるんですけど、良かったら出ます? 暇だったらでいいんですけど。」
「へえ、教授だったんですね。ちょっと見てみたいです。」
「いや、教授というか趣味ですよ。かわいい学概論。二コマ分です。」
いついかなる時も、校舎の外も中もザワついているのが大学というところだ。だからこそ誰も知らないびしょ濡れの男が侵入していても、そう気づかれることがないのである。いつものごとく課題提出から講義が始まった。
「今日はどっからだったか……かわいさと革新性の関係からか。えー、かわいいものと新しいものというのは大抵、噛み合わせが悪いです。ある人が目の前の事態をかわいいと思うとき、その目の前の事態は、すでにその人にとって容易に正当化可能なことである、これは前回の講義で話した通りですが、つまりかわいいを引き起こすには、革新性と矛盾するわけです。たとえば、カッコいいと革新性の関係では、新しいことで度肝を抜くというのがきわめて有力な手段になり得るわけですが、かわいいの場合は度肝を抜くのではダメで、新しさを伝えたうえで、瞬時にそれが相手にとって正当化可能であると思わせる必要が出てくるのです。したがって……」
以降の内容は学生も僕も、誰も聞いていない。居心地だけの講義が、あと一時間半は続いて、あの海に落とした男も、話を聞き流すうちにすっかり学生の一人になっていたから、時間が来て講義が明けるなり、彼はもういなくなっていた。
帰り道の商店街、僕は知らない男の顔面を一発ずつ、確かめるように殴っていた。その殴られている男はくたばっている訳でもないのに静かで、腫れあがった目で僕をじっと見つめながら、掴まれた胸ぐらを崩そうともしない。また連れと見える男も、静かにただ殴る殴られるの構図に目を向けているだけ、まるで止めに入ろうとしない。かといってその表情はまったく怯えておらず無表情そのものである。この二人がおかしいのか、僕がおかしいのか。さっきからいくら殴ってみても、これがまったく明確になってくれないのだった。
向かいの肉屋から親子が出てくる。
「母さん、雷が電気ってほんとう?」
「嘘おっしゃい。ガスの時代からありますよ。」
「泣けよ。痛いって言えよ。初めて人殴ってんだよ。」
「……。」「……。」
相手の頬にも僕の拳にも、鼻血がべったりこびりついている。そろそろ僕の方が手の痛みに耐えられなくなってくるころで、それでも歯を食いしばって殴り続けるが、とうとう限界が来て一緒に胸ぐらも離してしまう。離された男はそのまま膝を着いて、しばらく動かなくなったかと思えば意外にもすっと立ち上がり、
「ラーメンでも食いに行こう。」「いいですね。そうしましょう。」
「……。」
ホテルに帰って今日は寝た。




