三
飲み屋の多い鶴屋町から横浜駅を通って相鉄口へ抜けた。この通りは西口のメインストリートで、ビブレもあればROUND1もあればラーメン屋もあり、もちろん居酒屋も多い。週末の夜は路上に人が溢れていた。帷子川の暗い水面に、色とりどりの看板の電飾が反射して揺らめいている。蒸し暑い夜の空気に触れて歩いているうちに、笑い出しそうだった気分もすっかり落ち着いた。
ビックカメラの前に居酒屋の客引きが何人かいて、ちょうど声をかけてきた金髪の店員さんの店へ案内してもらった。居酒屋はビルの三階にあった。そこそこ混んではいたが待たずに席まで通された。
「わりい、ちょっとトイレ行ってくるわ。 適当になんか頼んどいて」
隆正は財布とスマホをテーブルに置くとそう言って席を立った。
「あいよ、中生でいいか?」
「うん」
おしぼりを持ってきた店員さんに生中とコークハイを注文し、俺は手を拭きながらほっと一息ついた。やっとあの拷問から抜け出せた。これで落ち着いて隆正の話を、向こうが納得するまで聞いてやれるだろう。
「おまたせしました、こちらあんこうの天ぷらです」
頬杖つきながら隆正が戻ってくるのを手持ち無沙汰に待っていると、髪を明るく染めた女の店員が隣のテーブルに料理を運んできた。あんこうの天ぷらなんて珍しいものを出してるんだなあと思ってちらりと隣に目をやった。
「あれっ」
隣のテーブルでは男が二人、向かい合って飲んでいた。その一人の着ているシャツが真っ先に目に飛び込んできた。水色の生地に男の子の顔がいくつも描かれていて、表情に合わせて英語のセリフが書かれている。反射的に男の横顔を確認すると、坊主頭に太い眉毛、間違いなくさっき出てきた店で、隣の席で飲んでいたげんたくんだった。はっとしてもう一人の男を見ると、平安貴族顔のきくちゃんである。
「えっ、えっ」
俺は二人の間に目を泳がせながら一人で狼狽していた。俺と隆正は鶴屋町の居酒屋を出て十分ほど歩いて西口の繁華街のほうまで来たのだ。今こうして隣にこの二人が座っているはずがない。酔っているのかと思ったが、さっきの店ではビール二杯とジントニック一杯しか飲んでいない。幻覚を見るほど泥酔しているってことはないだろう。
もしかすると、俺たちが店を出たあと、この二人も店を変えて、偶然また同じ店に入って隣同士になってしまったのかもしれない。だが二人のテーブルの上には空になったのと半分ほど残っている料理の皿が数枚あるし、げんたくんの飲んでいる一合入りの日本酒の瓶も残り少なくなっている。きくちゃんの焼酎のグラスにはほとんど溶けて小さくなった氷が浮いている。見たところ飲み始めて一時間以上は経っているはずだ。
まずい、と思って立ち上がろうとした時に、隆正が戻ってきた。
「お前もトイレ?」
「い、いや」
逃げよう、と切り出す前に注文した飲み物が運ばれてきてしまった。さすがに今から違う店に行きますとは言えず、どうしようと思いながら俺は一度浮かせた腰を落とした。
「結局、決心はついたのか?」
俺は隆正と青木さんとの進退について話を振って会話を生み、なんとか隣の話し声が聞こえてこないよう取計らった。
「うーん」
隆正は腕を組んで、考え込むように黙ってしまった。作戦は裏目に出た、逆効果だった。
「そういえば聞いたかい、勅使河原さんとこ、来月またお子さん産まれるらしいな」
「またかい。奥さんも大変だなあ。八人目だろう、たしか」
「いま次男が家にいないから、実質七人だそうだ」
「おや次男はどうしたんだい」
「なんでも島流しにされたらしいぜ」
「島流し? なにやったんだい、一体」
「さすがにそれは聞けなかったけどなあ。でも相当やばいことやったんじゃないか。百姓一揆かそこらだろう。なんせ島流しだからなあ」
だめだ笑うな、よそのお宅の不幸話だ、絶対に何があっても笑うわけにはいかない。それに目の前には相変わらず傷ついて落ち込んでいる親友がいるのだ。ここで笑ったら俺は感情を持ち合わせていない人間、二十一世紀のスキッツォイドマンのそしりを受ける羽目になる。俺は内ももをきつくつねりながら、頼むからもうお前ら黙ってろと鋭い目をちらっと隣に向けた。
「大体において室内犬ってのはだね」
きくちゃんが何か言いかけたと同時に、彼の手元に置いてあったスマホがピコンと鳴った。
「おーっ!」
きくちゃんは体をびくっとさせて驚いた。手に持っていたグラスから焼酎が溢れた。俺はきくちゃんが叫んだ瞬間、眼鏡の奥で瞳が白目を剥いたのをタイミング悪く目撃した。きくちゃんはスマホの画面を確認している。
「おや、珍しい。ニンニキ三等兵からラインだよ」
「ニンニキ三等兵? 彼は死んだんじゃなかったか、まむしに噛まれて」
「死んださ。一回死んで生き返ったのさ。今は自分の血液から血清を作って毒ヘビ用の抗体を開発してしこたま儲けてるぜ」
「へえ。それで、ニンニキ三等兵がなんだって言ってきてるんだい」
「どらどら、ちょっと読んでみよう。”旧暦の歳の夜、山の狸が演芸会をやって盛んに舞踏します。その歌にいわく、来いさ、としの夜で、御山婦美も来まいぞ。スッポコポンノポン”」
「なんだいそりゃ、人を馬鹿にしてるじゃないか」
腹から湧き上がってくる笑いが肺のあたりで沸騰し、今にも喉を切り裂きそうになっている。限界が近づくにつれてふつふつと怒りが湧いてきた。なんで俺がこんな苦しい思いをして笑いをこらえなきゃならんのだ。隆正も彼女が浮気したくらいで世界の終わりみたいにうじうじしていないでとっとと別れて次の彼女を探せばいいのだ。俺の知っている限り、周りで失恋から立ち直れなかった奴は一人もいない。みんな恋人と別れたり片思いの相手にふられたりしてしばらくは今の隆正みたいに絶望してご飯も喉を通りませんみたいな顔をしているが、一ヶ月もすれば違う恋人とよろしくやってるか新しい片思いの相手を見つけているもんだ。なかには失恋して首をくくってしまったり高いところから投身かます御仁もいるが、そういう人は失恋から立ち直れなかったのではない、立ち直る前に死んだだけだ。
そうは思うものの、俺はやっぱり親指の先を強く噛みながら、喉から吹き出しそうになる笑いを理性の力で押さえ込んでいた。小さい頃から、人の痛みがわかる人間になりなさいと家や学校で言われ続けた。人が嫌がることはせず、友達が嬉しい時は一緒に喜び、友達が苦しんでいる時は一緒に苦しんであげられるのが優しい人間であると。はっきりいって、今こうやって目の前で隆正が感じている苦しみなど、俺には一つも理解できていない。青木さん以外にも女の子はいくらでもいるだろ、これが俺の本音だ。が、口には出さない。小さい頃に植え付けられた「優しい人間像」の外殻をなぞって、わかっているふりをしているだけだ。
いまここで優しい人間像を演じなければ俺と隆正の友情なんてあっという間に崩壊を遂げる。友情を続けるために「お前の痛みを俺はわかっているぞ」というふりをしなくてはならない。隣から面白い話が聞こえてきても決して笑ってはいけないのだ。だが、それもそろそろ限界を迎えるらしい。
「このアンコウの天ぷらはなかなかおいしいじゃないか。−−おっと失礼、電話だ。はーい、もちもちぃ。うん、今ねぇ僕、きくちゃんとお酒飲んでるのぉ。うん、また飲み終わったら電話ちまちゅ」
げんたくんは甘ったれた声を出しながらデレデレとにやけた顔で通話していた。
「誰からだい? 電話は」げんたくんが通話を終えるときくちゃんがニヤニヤしながら聞いた。
「いや、なに」げんたくんは照れながら坊主頭をぽりぽりと掻いた。俺は覚悟を決めて目を閉じ、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「泉ピン子さ」〈了〉




