二
だいぶ前に運ばれてきた二杯目の生ビールに隆正は一口も手をつけておらず、泡はすっかり消えてしまっている。取り分けたサラダにも手を伸ばそうとせず、皿の上で冷めきった焼き鳥は、タレが固まってしまってひどく不味そうに見えた。
酔客の笑い声の響く居酒屋の中で、隆正だけが青白い顔をしてもう十五分も黙ったままだ。俺は二杯目の中ジョッキを飲み終えて、ジントニックをちびちび口に運んでいた。胃の淵でアルコールの酔いがかすかな熱を持ち始めている。
今日に限ってはそろそろ飲むペースを抑えないとまずい。俺は酔うと楽しくなってきて、それこそ箸が転がっても鶏が鳴く前に三回知らないと言ってもげらげら笑ってしまうたちである。隆正は大学を卒業したら青木さんと結婚も考えていたらしく、時おり俺に「おれとはるかの結婚式には絶対に出席して友人代表のスピーチをして欲しい」と言っては一人で照れていた。そんな大切な彼女に浮気されて絶望している親友の前で酒の勢いで笑ってしまうのはさすがに俺個人の人間性にかかわってくる話である。
少し潤んだ目を伏せながら隆正は相変わらず黙っている。テーブルにはサラダや焼き鳥の他に揚げ出し豆腐だのきゅうりのお新香だのが並んでいるが、この空気ではなんだか箸を伸ばしにくい。俺も無言でジントニックを飲み続けた。
「お待たせしました、そば焼酎の水割りです」
地獄のような空気の中に、男性の店員がさわやかに酒を給仕してきた。
「あれ? 頼んでないですよ」
俺が少し困ったように言うと、「あ、それこっちじゃないですか」と隣のテーブルから声がかかった。
「あ、ほんとだ。すいません」
店員は伝票を確認し、照れたように笑って焼酎の水割りを隣のテーブルに置いていった。
隣のテーブルでは男が二人、向かい合って楽しそうに飲んでいた。一人は小柄な小太りの男で、下膨れの顔に黒ぶちの眼鏡をかけて、髪を真ん中で分けている。なんとなく平安貴族を連想させる顔だった。もう一人はがっちりとした体格の坊主頭の男だった。筆で書いたようなくっきりした眉毛をしている。なんだか柔道部の副将といった雰囲気だ。副将の着ている洋服が僕の目を引いた。人のファッションにとやかく口を出せるほど自分もおしゃれではないが、そんな俺から見てもそのシャツはひどくダサかった。水色の半袖シャツで、白人らしい少年の顔のイラストがいくつも描かれている。その顔は喜怒哀楽さまざまな表情をしており、吹き出しがついて「oh my gosh!」だの「yummy!」だの、表情に合わせたセリフが書かれていた。二人はだいぶ飲んでいるらしく、目の周りが真っ赤になっている。
隆正がずっと黙っているので、自然と隣のテーブルの会話が俺の耳に入ってきた。お互いが呼び合うのを聞いていると、平安貴族の方はきくちゃん、柔道部の副将はげんたくんというらしかった。
「それにしても、梅雨も明けたしどこか温泉でも行きたいね」
平安貴族顔のきくちゃんが焼酎のグラスを口に運びながら言った。
「温泉かぁ」坊主のげんたくんの声は酒の酔いのせいか、幾分うっとりとしていた。「草津か鬼怒川あたりいいんじゃないか」
「どうだい、今度休みが取れたら男二人で電車に乗って、一緒にポロリ途中下車の旅でもしてみようじゃないか」
「おいおい、男二人でポロリはまずいだろう。捕まっちまうぜ。へへへ。それをいうならぶらり途中下車の旅だろうよ」
不意打ちを食らって俺はジントニックを吹き出しそうになり、あわててむせたふりをしてごまかした。危なかった。ここで笑ってしまったら俺は隆正の身を裂くような一世一代の苦悩を軽く見ていると思われかねないのである。愛した恋人に裏切られて傷心の親友に追い打ちをかけるわけにはいかなかった。ちらりと上目で隆正を見たが、俺がポロリ途中下車の音韻に思わず吹き出しそうになってしまったことには気がついていない。相変わらず目を伏せたまま沈んだ表情を浮かべている。俺はほっとして口元を引き締めた。
「げんたくん、知ってるか。炊飯器でケーキが作れるんだぜ」
「へえ、そりゃ初耳だ。どうやるんだい」
「なに簡単さ、生地をお釜に入れて炊飯ボタンを押せばいいだけさ」
「それだけでいいのかい。どら、今度僕もやってみよう」
「こないだその応用でお好み焼きが作れないかと思ってね。昨日、材料を買ってきてやってみたのさ」
「へえ」
「お好み焼きの粉に千切りにしたキャベツとイカ、豚肉、天かす、桜えびを混ぜて、チーズまで入れてね」
「そりゃ豪華だね、フルコースじゃないか」げんたくんが口についたビールの泡を拭った。「うまくいったのかい」
「うーんと」と、きくちゃんは難しそうな顔をしてしばらく考え込み、そしてニカッと照れたように笑った。
「どうだったか忘れちまったよ」
いやそこは覚えておけよと反射的に心の中でつぶやいたが、それがまずかった。急にまた笑いがこみ上げてきた。絶対に今は笑うわけにはいかない。目の前に愛する恋人に裏切られ、心に傷を負った友達がいるというのに、しかもただの友達ではない、小学校から長い間同じ時間を過ごしてきた生涯の友だ。隆正の心の痛みを俺も同じように感じてやらなければ親友とは呼べない。お好み焼きがどうしたというのだ。
そうは思うものの組んだ腕の下では腹筋が今にも爆発せんとびくびく痙攣している。俺は目を閉じて「人間失格」の冒頭を暗唱して心の平静を保とうとした。
「そういやさ、高梨くんいるだろう。ぼくぁ、この前彼から怖い話を聞いたぜ」
げんたくんが身を乗り出し、酔って赤くなった目を少し鋭くした。
「なんだい、やぶからスティックに」きくちゃんが腕を組んだままニヤニヤしている。「だがいいじゃないか、怖い話。ちょうど時期だね。聞かせてくれたまえ」
「それがね、彼は田舎の農村出身だろう」
「うん」
「やっこさん、小学生の頃は友達がいなくて、いつも一人で遊んでたそうだ。田舎だからね、川原なんかに行ってザリガニだのカエルだの獲ってたらしいんだね。子供なんてのは残酷なもんだからね、どこでそんなこと知るんだか、なんでも捕まえたカエルのケツにストロー突っ込んで、ぷっと吹くとカエルの腹がぷくっと脹れるらしいんだよ。高梨くん、捕まえたカエルを一匹一匹わざわざ膨らまして、川に流して遊んでいたんだって。カエルが膨らんだ腹を見せてぷかぷか流れていく様子をみては腹を抱えて笑ってたそうだ」
「ずいぶんひどいじゃないか。そんな話を聞くと彼の深淵を覗いてしまった気がするなあ」
「それで、その日も高梨の奴は近くの川に行ってカエルを捕まえては膨らまして川に流して遊んでたんだね。その日は滅多に見かけないようなでっかいカエルが一匹獲れたらしい。こいつは大物だってんで高梨くん調子に乗っていつもより大きめに膨らましてから川に流したんだ。そしたらそのカエルが膨れた腹を見せて流れていきながら『覚えてやがれっ』て怒鳴ったって話だぜ」
その光景を想像するともうダメだった。俺は血が出そうなほど唇を噛みしめて、沸き起こる笑いの発作をやり過ごそうとした。そういえば素数を数えると気分が落ち着くと聞いたことがある。さっそく実行に移したが、一が素数に含まれるのか忘れてしまっていて、どうだったか考えているうちになんとか笑いはおさまった。
「なあ隆正」
この好機を逃すまいと俺は隆正に声をかけた。
「店変えないか。この店さ、ちょっと冷房効きすぎてて寒いんだ」
「そうか? その割には汗すごいぞお前」
隆正は店を変えるのにそれほど乗り気ではなかったが、結局俺たちは会計を済ませてその店を出た。




