キティ
猫の目がほしい。ある日突然思い立った。
「にゃあ」
天井を見つめて私は鳴いてみた。猫の鳴き真似。ばっかみたい、そう思って一回でやめた。
ベッドから起き上がり、部屋を見渡す。テーブルの上にはビールの空き缶や食い散らかしでごっちゃごちゃだ。それを見ると頭痛が襲ってきた。
「まったく」
そう言うとなんだかみっともない。テーブルを散らかしたのは他の
誰でもない、私なのだから。
部屋の隅っこへ投げ捨ててあったビニール袋に空き缶やたべのこしを突っ込んで台所へ持って行く。布巾を濡らし、きつく絞ってからテーブルを拭く。角から角へ沿って。
不意に、涙が出そうになった。まだ開けていなかったビールを手に取り、瞼を閉じてぐっと一口飲む。
「ぬるい」
私は再びベッドに横たわり毛布を被った。
昨日という日を消せないだろうか、と相談する夢をみた。誰に? スーツを着た猫に。ネクタイをきちんと締めて、金色の時計をしていた。身体は真っ黒けで、目はエメラルドのような透明で深い緑色をしていた。
「なぜ消したいのですか?」
白木のテーブル越しに質問する猫に、私は泣きながら答えた。猫の目はぎらりと光る。
「昨日のあの人が嫌いだから」
涙が止まらない。人前で泣いたことのない私が。“猫前”ならいいか、と思った。
「しかしながら、過去を消すことはできません」
猫はキッパリ言った。ぎらりと光る目で。そして、時計を見て指を鳴らした。
ジリリリリリリ……。
また記憶に深い天井が眼前に迫る。目をこすると濡れた感触がした。涙。私は起き上がり、叩くようにして目覚まし時計を止めた。
テーブルの上には飲みかけのビール。床にはバッグと脱ぎ捨てた服。それでいて閑散とした部屋。私は今度こそ起きると決め、ベッドを出た。
薄暗い洗面所に立ち鏡を見る。私の目は猫のようには光らない。光らない。視界の隅に歯ブラシとコップ。それらを見て私は息が詰まる。赤と青の二本の歯ブラシと、二人で選んだ黄色いコップ。涙が込み上げた。
鏡を見ると、光って見える。私の目。ばっかみたい。
「ばっかみたい」
ばっかみたい、私。
まだこんなに好きだ。
尚樹と知り合ったのは夕方だった。秋の晴れた日の夕方。銀杏の並木道。
「落ちましたよ」
尚樹が手袋を落としたのを私が拾って追いかけた。
「ありがとう」
尚樹は笑って言った。うまく言えないが、すぐに壊れてしまいそうな、そんな笑顔だった。
「じゃあ」
私はマフラーを巻き直して言った。
「よかったら、お茶でも」
尚樹は私の背中に向かってナンパした。私はそのナンパを了承した。私は赤いコートを着て、尚樹は青いジャケットを着ていた。
私たちはすぐにアパートを借りた。尚樹たっての希望で、ビルの無い空の見える場所。尚樹は嬉しそうに空を眺めた。そして、幾枚もの写真を撮った。
尚樹はカメラマンを夢見ている。何処へ行くにもカメラを下げていて、何かを見つけては写真に納めた。そして、必ず一枚は私を入れて撮った。
「茉耶は笑顔も泣き顔も素敵だよ」
尚樹は私にそう言った。何度も。笑顔も泣き顔もみんな、尚樹に撮ってもらえたつもりだった。つもりだったのに……。
ベランダに出て空を見上げる。もう薄暗い。私は洗濯物を取り込んで、ソファに放っておいたカーディガンを羽織った。赤いサンダルをつっかけ玄関を出る。
目的地は無い。あなたから遠く離れられる場所。そんな場所なんて無いのに。それを知っていても足は進む。真っ暗な路地を。
見上げた空にはもう月が浮かんでいる。それを見てまたふと思う。猫の目がほしい。なんたって猫の目は暗闇で光るのだ。暗闇で光る、なんていい響きだろう。他に何が思い浮かぶ? 月くらいだ。それから、星。あとは猫の目だけ。人工のヒカリだなんてちゃちなもんはいらない。
月と星が輝く空の下、あたしは猫とはち合わせた。猫の目はぎらりと光る。しばらく見とれてから言ってみる、
「ちょーだい」
猫の目はぎらりと光る。私のすべてを見透かすみたいに。私の中の昨日を。昨日の尚樹を。
尚樹は手を繋いでいた。笑顔で。満ち足りた笑顔で。空の見えないビル街で。私が尚樹を見間違えるわけがなくて、でも、尚樹が他の誰かと手を繋ぐことは信じられなくて……私は立ち尽くした。夢を失ったように。
猫の目がほしい。暗闇でも目が見えれば、あなたの浮気も見抜けたかもしれないじゃない。そう思うの。
*miz*