秘密
ジェノヴァには、秘密がある。
階段を登り廊下を曲がり、部屋に戻って勢いよくドアの鍵をかけた。乱れた息もそのままに、クローゼットから革の練習着を乱雑に取り出す。白と銀でしつらわれた制服のシャツを脱ぎ捨てれば、白い布が巻かれた緩やかなカーブを描く肢体が現れた。彼、いや、彼女というべきか。彼女はすぐにその男ものの服を身につけ、制服を洗濯籠に放り込んでゆく。
ばふっ、と飛び込むようにして彼女に不釣り合いな程大きなベッドにその体を沈めた。仰向けになった彼女の瞳には、真っ白な天井だけが映り込んだ。
ばかジェノヴァ、無心になれ、無心になるのだ。
言い聞かせても尚、心の内をぐるぐると巡るのは、整理のつかない葛藤。いつの頃からか、この説明のつかない不思議な苦しさが胸の内で渦巻くようになった。しかし、本能がこの渦に呑まれるなと、警告を鳴らしている気がして、ジェノヴァは逃げ続けている。
「俺は、あなたの従者だ」
そう。従者だ。
その言葉は彼女を無意識に呪縛する。そうして、彼女はゆるりと瞳を閉じた。
「……くぅぅ」
しばらくして、伏せた顔と枕の隙間から、唸り声が漏れた。火照った頬を抑え、一人ベッドの上をゴロゴロと転がり、悶絶する。
「ばかルイ!品格!王子としての振る舞い!身だしなみ!ちゃんとしろよコノヤロー……」
ジェノヴァの出口の見えない葛藤は、まだ続きそうである。やっとのことでベッドから立ち上がったジェノヴァは、枕を放って、着替える時に外してあった短刀を徐に鞘から抜き払った。カーテンに遮られ、部屋に差し込む薄い光の中、刃こぼれが無いか、刃の隅々まで丹念に確認する。これはある意味、精神統一にもなる。
「そろそろ研がないと、かな」
そして、短刀をベルトごと腰に巻き付け、部屋を出た。この練習着も、普段着用する制服と同様の位置に武器を仕込めるよう作られている。彼同様、七刃のメンバーだけでなく、戦術を会得している高官には、各々の戦闘スタイルに合わせた制服をしつらえてもらえるのだ。ジェノヴァは接近戦が専門の為、沢山の小さな武器を服に忍ばせている。その為、気持ち程度服が重くなる。とは言っても、近年武器の性能はぐんぐん上がっていて、軽くて丈夫な武器が出回るようになった為、動きに支障の出る重さにはならず、大助かりである。常人が持てやしない大剣を、普段から持ち歩くライアの気がしれない。
ジェノヴァは城の裏手に周り、軽快な身のこなしで、城壁の上に登った。
「あっ、ジェノヴァ様。お疲れ様です」
「よ、ラザ。お疲れ様」
門兵のラザが、ジェノヴァに気付き、挨拶をくれた。
「見回りですか?」
「うん。ちょっとした野暮用だ。今日も門番よろしく頼むよ」
「はい!ジェノヴァ様もお気をつけて」
ひらりと手を振り、ジェノヴァはふわりとその身を空へ投じ、壁の向こう側に飛び降りた。今日は、訓練の前に城下の要監視区域の偵察を済ませなければならない。内密な調査は、ジェノヴァが適任なのだ。
「よっと」
人間は、他の生物から学びを得る機会が多くある。戦いの動きであっても、それは同様だ。ジェノヴァは、猫が歩く道を好んだ。彼等のように移動することで、行きたい場所への最短ルートを選択でき、且つ人目につかず動くことを可能にしてくれる。家々の狭間を通り、ベランダの手摺りの上を伝い、屋根から屋根へ飛び移る。
今日も天気が良く、気持ちよく偵察の仕事がこなせそうだ。帰り際に、お気に入りの果物屋にでも寄ろうかと思案していた時だった。え、とジェノヴァが目を見張ったのも束の間、突然目の前の窓がパーンッと勢いよく開かれ、何かが飛び出してきた。
「おわっ」
咄嗟に飛び出てきたものを受け止める形になったが、思いの外その物体が重く、受け身もままならないまま、ジェノヴァは落下した。う、と地面に背中を叩きつけられた衝撃で一瞬息が止まる。
「す、すまん!」
掠れた視界に焦点が戻ってくると、自分が受け止めたのが人間だと分かった。
「なんなんだ……」
「ごめん、お兄さん。大丈夫か」
茂みに落ちたのが不幸中の幸か、打撲程度で済みそうだ。
「いや、いいんだ。すまん、俺の落ち度だ。もう少し慎重になるべきだった」
謝る彼を制し、彼の差し伸べた手を取って、腰をさすりながら立ち上がりつつふと顔を上げると、固まった彼の表情と対峙した。
「ジェノヴァ、様?」
「あ」
「やっぱジェノヴァ様なんだ!うわぁ、本当ですか?こんなところで会えるなんて!とても嬉しいです!」
「そ、そうか、ありがとう?」
ジェノヴァの左手を固く握りしめ、ぶんぶんと振って、彼は興奮気味に目を輝かせる。
「本物ですか?え、なんでですか」
「奇跡でしょうか!裏路地なんかで何をなさってたんですか?」
「あ、でもあんま言わない方がいいやつですよね。俺気が利かなくってすみません!」
ジェノヴァはぴ、と彼の眼前に制止の意味を込めて空いている方の掌を突き出す。
「ちょ、ちょっと待って、落ち着いてくれ」
ジェノヴァの困り顔に気づいたのか、彼はピタリと動きを停止させ、焦ったようにジェノヴァの手を離した。
「ごめんなさい!俺、ダーグルっていいます。ここ俺ん家で、少し狭いんですけど、休んでいってください」
「気遣い感謝する。しかし用事があってな、今すぐ行かなくてはならないんだ」
ジェノヴァはズボンについた土と草を、ぱんぱんと手で払った。
「そうですよね……。お忙しいのに、すみません」
少し眉尻を下げたダーグルをちらりと見て、はぁ、と息を吐いたジェノヴァは、腕組みをして壁に寄りかかった。
「俺は素早さが取り柄だからな。仕事も早い。ということで、少しだけ、ここで休んでいく」
「えっ」
明らかに目を爛々とさせた、自分より歳上の青年の純粋な笑顔に、ジェノヴァは苦笑するのであった。
翌朝。
「お前、隈くますげえぞ。どうした」
「うるさい!お前のせいだ!」
「はぁ?」
論点のわからぬ言い合いがあった事は、ちょっとした小噺である。