秘密
秘密
「寝坊したー」
と大きく口をあけて欠伸をしながら、起きてきたのはミルガだ。彼のトレンドマークでもある、ミルクティー色の髪の毛は、綿菓子のように、ふわふわと思い思いの方向へとうねっている。
「おはよ、寝癖すごいね」
「えー、寝癖どうなってる?」
同じタイミングで起きてきたライアは、にこにことミルガの寝癖を笑いながら、カップ片手に椅子を引いた。ミルガは、着ようとしていたシャツを中途半端に羽織ったまま、適当に髪を手で解かしている。まだ目が覚めていないのか、緑の瞳は半分閉じている。
「朝から声おっきいぞ、ミルガ」
その一方で、ジェノヴァが心底邪険そうにミルガを見遣る。彼は既にきちんと制服を着て、自分の席に座り、分厚い本を開いていた。その小馬鹿にした視線を受け止めて、ミルガは身体の向きをぐるりと変えて、笑った。にやり。その笑みに、ジェノヴァは一歩、身を引く。
「な、なに」
「ジェノヴァー。そんなこと言うなよぉー」
「苦し……」
「うわぁ、ミルガ、ジェノヴァがっ」
ミルガの腕が首に絡み付いたジェノヴァが、顔を白くする。
慌てたライアが立ち上がった拍子に、大きな音を立てて椅子がひっくり返った。
「ううっ……」
「ああっ、ジェノヴァしっかり!」
朝から騒がしいのは七刃の間。正式名称はリディアの間と言い、神話の美しい武神に因んだ名が付けられているのだが、撃滅の七刃の共用の部屋であるが故に、そう呼ばれるようになってしまった。
折角の綺麗な名前が、とんだ殺伐とした名前に変えられたもんだ、と王オルガは嘆いていた。ここでは、軍議や事務を行うこともあるが、専らこうやって自由な時間を過ごすのに使われている。早い話、レイとジェノヴァ達従者の為の、共有スペース兼憩いの部屋である。
「朝っぱらからなんの騒ぎだ」
「あ、レイ、おはよ」
レイは王子らしかぬラフな黒のズボンとシャツを着て、欠伸を噛み殺しながら部屋に入ってきた。取っ組み合う二人を見て、格闘技ごっこ? と首を傾げる。
「あ、またそんなの着て。アリスに見つかったら、くどくど言われるよ」
眉尻を下げて言うカルキに、レイは、「いいんだよ」と手をひらひらとさせ、適当に返す。彼は珈琲を淹れると、一人机に突っ伏して寝ているヴェイドの隣に座って、新聞を開いた。
大国にて治安の良い安定した国としての地位を確立して、はや四半世紀。ここ最近一面を飾るのは、すっかり穏やかな話題だ。良い事ではある。
「お前等……。なにしてんだ」
呆れた声音の彼の前には、未だ乱れたままの服で床に転がるミルガ。見かけによらずがっしりしたミルガの腕に締め付けられ、瀕死寸前のジェノヴァ。ジェノヴァを助けようと、あたふたするライア。最早寸劇だ。
訊ねたレイに、当の本人であるミルガはきょとんとした表情を浮かべ、脇にジェノヴァを抱え込んだまま、口を開く。
「なにって……、ジェノヴァを愛でてる」
「これのどこが愛でてるんだ」
息を吹き返したジェノヴァが、これでもかとミルガを蹴って、自力で脱出した。
「朝から無駄な体力使わせやがって」
立ち上がった彼は、痛みに呻き声をあげるミルガを見下ろして、容赦なく追加の足蹴りを入れてから、冷たい視線を送る。
「ジェノヴァ、ちょっと来い」
レイが、指を何度か折る仕草でジェノヴァを呼び寄せた。新聞を適当に畳み、湯気の立つ珈琲を一口飲んでからソーサーの上にカップを戻す。彼は、不思議そうにやって来たジェノヴァの、シャツの襟元に手を伸ばした。彼からは、珈琲の香ばしい香りがする。レイの骨張った、長い指が首に触れた。「へ?」と間抜けな声を洩らして、ジェノヴァは少しだけ息を呑んだ。
「……ほら、襟が折れてる」
「あ、あぁ……サンキュ」
自分の襟元をちらりと見て、ジェノヴァは横を向いた。彼はいつまでもこうやって、ジェノヴァを子供扱いをする。そんな二人の様子を見て、床に胡座をかいたミルガが、膨れっ面で抗議の声をあげた。
「あー、レイずるい」
未だぼさぼさな頭で不貞腐れてみせる彼に、レイは投げやりな視線を送った。カップの蓋に唇をつけて、愉快そうにしてる。薄めの唇が、吊り上がる。
「どこがずるい、だ。お前は殺しかけてただろうが」
「これも愛情表現だ」
「どこがだ!」
ジェノヴァが横から、思わず噛み付く。
「へえ、俺も今度からミルガにそうやって愛情表現させてもらうね」
「カルキが言うと、脅しにしか聞こえないんだけど」
ミルガの名前を呼び、コーヒーカップを置いたレイが、わざとらしい溜息を大きく吐いて、肩を竦めた。そんな仕草でさえ様になるのだから、本当憎たらしい。
「まだなってねぇな。愛情表現ってのはな、もっとスマートにいかないと」
「お前もかっ!」
ジェノヴァの悲痛な叫び声が響いた。
カルキが、シャツを首元のボタンまできっちりと閉めた。さらり、彼の色素の薄い艶やかな髪が揺れる。
「そういやルーカスは」
「あの人はもう仕事に行ったよ。朝すれ違ったら、文官の作成した資料がなってないとかなんとか、隈のすごい目が殺気立ってた」
文官は相当毒舌を浴びることなりそうだね、とライアは眉尻を下げながらも笑う。
「ミルガ早く支度しないと間に合わないよ。ヴェイドもルイも。あと三十分後には仕事が待ってるんだから」
カチ、と蓋が嵌まる音を立て、カルキが時計を閉じて、チェーンが繋がった内ポケットに仕舞い込んだ。
「げ、あと三十分!? そりゃまずい」
カルキの言葉に、逃げる口実を見つけたミルガは、脱兎の如く自分の部屋へと駆け込んで行った。その隣では、朝に七刃の間に寄る意味がわからないほど、毎度寝ているヴェイドの肩を揺さぶり、ライアがこれまた毎度の如く起こしている。起きてー、とライアが必死に声をかけてやっと、ヴェイドは薄らと目を開け、無言でのそのそと支度を始めた。彼の寝起きの悪さは天下一品だ。
俺はあと着替えるだけ、とレイはその場でシャツを脱いだ。逞しく鍛え抜かれた身体が晒され、シャツを脱ぐだけで筋肉が盛りあがる。身体には、王子らしからぬ創傷が幾つか。彼らしい王子の在り方を示すそれは、とても眩しく見える。
「少し早いが、出るか」
「そうだね」
支度を済まし、部屋を出れば、朝の清涼な空気が、身体を包み込んだ。
「今日の午前の予定は」
カツカツと彼等の革靴の踵が大理石の廊下を打つ。反響した足音は、まだ人気の少ない朝の廊下で、綺麗に木霊する。
「九時からの謁見が終わったらすぐ、その十五分後から軍議です。あと、幾つかの案件の書類が届いております。できれば、正午までに儀典の件にも手をつけたいところですね」
カルキが手元の手帳を見ながらそう言ってから、思いきり顔を歪める。懐中時計を確認して、レイも目に見えて嫌そうな顔をした。
「うわ、今日結構ヘビーなんじゃない? 午後に書類整理とパーティーあるよね。書類整理は俺が出来るから、他の事に時間を割こう」
「ああ、任せた。ジェノヴァ、新規法律策定の書類は全部リーカスに回しておけ。明日以降でいいと言っといてやれ。今日だとあいつの怒りの矛先が俺に向いちまう」
「うわ、こうやってリーカスが被害を被るんだ」
二人の後ろについて歩いていた、被害を被る一人でもあるジェノヴァが、非難めいた声をあげた。早いところ謁見を済ます為に、レイとカルキ、そしてジェノヴァは早足で広間に向かっていた。
うわー、と横目で咎めるような視線を投げるジェノヴァを、レイは斜め上からニヤリと見下ろす。カルキは元々レイと行動を共にすることが多く、意外にもマメな性格のジェノヴァは世話係のようなものを押し付けられている。リーカスは様々な用事で城内を駆けずり回っている為、雑務となると、自然とこの三人で行動することが多くなっていた。
「じゃあ、この際全部ジェノヴァに押し付けようか」
それもいいな、とレイは薄っすらめくれた唇の間から悪い笑みを浮かべた。えー、とジェノヴァはすぐに抗議の声をあげる。
「やだよ。カルキがやればいいじゃんか」
「何、あの写真ばら撒かれたいの?」
「……やっぱ、好きなだけリーカスに押し付けちゃっていいや」
「ジェノヴァ、お前なにしたの」