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追憶

作者: 染井碧

 仁井田真一郎は、外に出て、しばらく玄関のドアを閉めるのを忘れていた。季節の移り変わりは、風が運んでくる微細な湿気の量で感じることができる。最近では、明らかに夏が秋に変わる境目を感じることは稀だった。それは、徐々に変わりながら進んでいく。時の流れがはっきりとしているものだとしたら、季節の変わり目は、その対極にあるように感じる。徐々に切り替わりながら、はっきりとした境目がなく人を撹乱する。

 仁井田の右手は、完全に扉を閉める手前のところで、しっかりとドアノブを握ったままだった。季節の移り変わりは、今、仁井田の繊細な皮膚を撫でながら通り過ぎていく。

「今日の風は、随分と秋を感じるな」

 仁井田は誰にも聞かれることのない独り言を、自分だけに聞こえる音量でつぶやく。そして思い出したかのように、玄関の扉を完全に閉める。記憶は曖昧な過去の状況を引き出すこともある。人の記憶はとても曖昧でそこに真実など含まれていないのではないかと感じることがある。

 車に乗り込んでナビに目的地を入力すると、今日はエアコンをつけずに窓を少しだけ開ける。仁井田は車を走らせながら、目的地である新天地病院へ向かう途中の河川に立ち寄ろうと決めた。


 河川敷でゆっくりと流れていく雲を目で追いながら、病院での生活のことを考える。自宅での生活との大きな違いは、自分の時間がないということだろうと想像する。手術自体は数時間で終わるものだと医師は説明した。しかしながら、入院自体は数日かかるという。手術が終わってからすぐに退院ということにはならないのか? と仁井田は医師に聞いたが、経過を見るためにどうしても必要なのだそうだ。病室は四人部屋という話だから、他の三人と共同の空間で時を共有しなければならない。

 仁井田は時を共有することが人生で一番苦手なことだった。大人数でいるときは、その人たちが持っている感覚や、価値観、そしてこれまでの人生経験から放たれる相手の言葉たちを受け止めなければならない。受け止めるだけということはコミュニケーションという観点から言えばあまりよろしくないと言われたことがあり、人の話を引き出すための話術を勉強したこともあった。しかしそれは自分が望んでいることではなく、どちらかと言えば世間が望んでいることであったり上司が望んでいることであったりする。いつでもどこでも人の持っている時間に自分が合わせなければ生きていけないという状態が長年のストレスとなり、ついにはお酒や大食いに走り始め、やがて体が悲鳴をあげてしまった。その結果が今回の手術だと医師は言った。

 胃腸をいじるわけではないからと、仁井田は途中のコンビニで買ったサンドウィッチを食べる為、袋をゆっくりと裂く。しばらくはこのように自分が食べたいものを自分で選べない数日が始まってしまうのかと考えると、いつも食べている手軽なサンドウィッチが違う食べ物のように感じられる。

 一口サンドウィッチを食べて、コンビニの袋を下敷きにしてその上にサンドウィッチを置く。河川敷では、見た目小学生の集団が野球の試合を行っていて、大きな歓声が時折上がる。その歓声は、選手たちのものだったりそれを応援するギャラリーのものであったりする。今この瞬間に流れている時間でも、人それぞれの時間があり、自分はこれから手術のために普段の生活を離れなければならない。そのことがとても不思議に感じられた。サンドイッチに目をやると、そこに少しだけ大き目の蟻が、壮大なご馳走を目の前に右往左往している。

 我が子を一生懸命応援している時があり、入院を前いに憂鬱になっている中年がサンドイッチを頬張る時があり、そのサンドウィッチを狙う蟻の時がある。決して交わることのない時の流れがある中で、これから自分が手術という若干特殊な状況に身を置くことがなぜかとても悲しく感じられる。もしあの野球試合のギャラリーで我が子を応援する中の一人だったら。それとも、突然天から降ってきた巨大なご馳走を前にどのようにして仲間に知らせようかと思案する蟻だったら。

 サンドウィッチをすべて食べおわた仁井田は、ちょうどヒットを放って大盛り上がりの球場に見つめながら立ち上がり大きく伸びをした。空に目をやると、薄暗い雲が左手の方に見えた。


 病院は相変わらず異様な雰囲気だった。あまり病院に来ることがない仁井田にとって、この場所はそれほど好意的な場所ではなかった。もちろん、この場所を好意的に感じる人などいるはずもない。それは健康への渇望という希望的な雰囲気ではなく、病んでしまった心身の改善を願う哀願的なものだからだろう。

 最近、血を一滴だけ採取することで、数年後にどの臓器が疲弊するのかであったり、将来的にどのような病気にかかりやすいのかを数分で判断することができるようになったそうだ。健康体を自負する仁井田は、将来どのような病気になっても自力で治すと信じていたが、医療進歩は仁井田の信念を簡単に打ち崩した。会社の健康診断で、三年後の血管の詰まりが懸念される為、早めにその芽を摘み取っておくことで健康寿命が約束されると、医師は仁井田に説明をした。会社が負担してくれる援助金を活用して手術を受けることになった仁井田は、少なからず会社に感謝をしてはいたものの、半ば強制的に手術を受けなければならない状況については不服であった。健康な人間の未来を予測することなら、自分にだってできる。全ての人間に訪れる不可避な出来事は死だと言うだけでいいのだ。その具体的な時間だけは予言できないが。仁井田は医師の話を聞きながら一人想像して心の中で笑みを作った。

 通常のカウンターではなく入院手続きのカウンターで用件を伝えると、受付の女性は淡々と端末に打ち込む。

「仁井田さんお待たせ致しました」

 そう言いながら彼女は、仁井田の目のを一度も見ずに、カードと、手に巻く仕様の機械をカウンターに置いた。

「病室へのエレベーターはここを進んで突き当たりになります。ご案内致します」

 彼女が言い終わると同時に、右側の通路から一人の看護師が現れた。

「仁井田さん、お待ちしておりました。数日間ですが、よろしくお願い致しますね。手術は簡単なものですので安心なさって大丈夫ですよ」

 その存在は笑顔で微笑んだが、何せ実態がない為とても安心できる状況ではない、と仁井田は思いながら、振り返って歩き出すホログラム看護師の後ろをついていく。病室まで案内したホログラム看護師は、仁井田の顔を見ると口角を上げて微笑む。

「後ほど先生がいらっしゃいます。それまではごゆっくりなさってください」と言い、深々と頭を下げると、すっと消えてしまった。

 効率化もここまでくれば潔いと思いながら、もしかして麻酔していることをいいことに、手術もホログラム医師が出てくるわけじゃないだろうな、と仁井田は考えながら病室に足を踏み入れた。

 病室はカーテンで仕切られていて、他の三人と顔を合わせることはなかった。そのことに仁井田は少しだけ安心した。左側の手前のカーテンが開いていて、ベッドの枕元には「仁井田真一郎様」と書かれたプレートがある。その右側には「CARD」と書かれたホルダーがある。荷物をベッド脇の棚に入れて仁井田はベッドの上にゆっくりと移動して寝転がり天井を見る。手術は明後日なのに今日入院する必要などあるのだろうか、と病院システムに対して心の中で悪態をついてから、カードと不思議な機器をテーブルに置いて目を閉じる。

 

「仁井田さん」

 目を閉じていただけだったと思った仁井田は、その声でゆっくりと目を開けた。それは診察時から仁井田を担当してくれていた孫目医師だった。

「お休みのところすみませんね。体調はいかがですか?」

「普通です。やることがないので、ベッドに横になっていたら寝ていたようです。すみません」 

 仁井田は、孫目の顔を見ながら差し出された手を握りゆっくりと上半身を起こした。

「この後、十五時から手術について麻酔科からの説明を行いますので、カンファレンスルーム二番にお越しください」

「わかりました」

 仁井田は頭を掻きながら、カードと不思議な機器に目をやる。その目線に気付いて孫目は「あ、このカードはこのホルダーに置いておいてください。そして、このバイタルブレスは今日から付けて頂き、説明の時にも付けて来てください」と言いながら機器を手に取った。

「これで仁井田さんのあらゆる情報を読み取りながら健康状態をサポートしますので」

 仁井田は返事をせずにゆっくりと頷く。返事をしなかったのは考えていたからだ。医療の進歩というか機器の進歩というべきだろうか。そもそも自分は何か病気をしたわけではないから、このように病室にいて医師の話を聞いていると、自分が病気になったかのような気分になってくるから不思議なものだ。

「よろしくお願いしますね」

 孫目は、歯を見せながら笑い言うと病室を出て行こうとした。

「先生」

 仁井田のベッドの向かいから声がして、孫目は開けようとしていた扉から手を離して、声の方えへ歩いていく。カーテンを少しだけだけ開ける。

「どうしたのみさきちゃん」声のトーンを落として孫目は腰を折り曲げる。

「私はいつ退院できるの?」

「そうだね。いい子にしていたらすぐに退院できると思うよ」孫目は腕を伸ばしたように見えた。カーテンがかすかに揺れて、小声で孫目が何かを言う。

「わかった」元気のない声が返ってくる。少女が入院しているようだった。けれどもその様子はカーテンに隠れていて見ることはできない。仁井田は、プライバシーのこともあるだろうからと、自分のベッドのカーテンを閉めて、時計を見た。説明の時間までは二時間ほどあるから少しだけ横になろうかと思いつつ、ぐっすりと眠ってしまってまた医師に起こされるのも嫌だったので、本を読むことにした。


「以上となりますが、何かご質問はありますか?」

 カンファレンスルームでは、医師の孫目と三人の看護師と仁井田がいて、何やらピカピカしている巨大なモニターを仁井田以外が凝視している。時折手にした書類に目を落とす看護師もいる。仁井田はその様子を見ながら、質問したい内容を考えてみたものの何も思い浮かばなかった。

 孫目は仁井田の方を見る。仁井田が首を振ると看護師たちを一人ずつ見ながら、質問を待つ。

「特に質問がなければこれで終わります」孫目はもう一度全員を順番に見た。

 手術は、とても簡単な部類に入り、患者への負担もそれほど多くはない。血管の中で詰まりの懸念がある場所に管を通して、その管の先から薬剤を投与して直接血管にアプローチするらしかった。自分の血管に詰まりの懸念があるとの表現が、仁井田に少なからず恐怖を感じさせたが、それについての質問は医師ではないのでわからない。結果的には懸念を解消することで、これから先も血管の健康が維持できる。それが今回の手術の趣旨のようだった。ホログラムの医師はできませんか? と聞こうとも考えたがそれは質問ではないと思い、仁井田は言うのをやめた。

「では、当日よろしくお願い致します」

 孫目はモニターの電源を落として仁井田に向かって頭を下げる。

「こちらこそお世話になります」仁井田は孫目を含めた看護師たちに座ったまま頭を下げた。全員が頭を下げる。


 部屋に戻った仁井田は、ベッドの脇のモニターに本日の夕食時間と夕食のメニューに加えて、自分の体の状態が映し出されてるのを見て驚いた。自分がここに戻ってくる時間に合わせて表示されているのだろうか。右手に付けている不思議な機器が全ての情報を読み取っているのだろうか。確か、身体の状態に合わせてメニューの味付けを若干変えるのだと聞いた気がする。仁井田は自立カテゴリが「一」なので食堂にご飯を食べに行かなければならない旨が記載されている。

 身体の情報が筒抜けなことに不思議さを感じる。そこまでハイテクなら手術などしなくても不思議な力を使って血管の詰まりなど一瞬で吹き飛ばして欲しいものだと嫌味が頭によぎる。

「おじさん、何の病気?」

 仁井田は声がする方を振り返る。そこには一人の少女が立っていた。仁井田の向かいのベッドのカーテンは開いており、仁井田は同室の少女だと理解した。

「おじさんは、何の病気なんだろうね」仁井田は答える。

「わからないの?」少女は不思議そうな表情で仁井田を見つめ直した。

「病気というよりね、将来病気にならないようにするための手術をするみたいなんだ」仁井田は言う。

「変なの」少女は手にした人形をぎゅっと握りしめた。

「みさきはね、治らない病気なの」

「先生が言ったの?」仁井田は少女の手のひらを見る。彼女の手は小刻みに震えている。

「違うけど、何となくわかるの」

「どうして」

「ずっとここにいるから」

 仁井田は、腰を落として少女を見た。

「みさきちゃんの身体と病院と先生が一生懸命に頑張っているんだよ」仁井田は適当に答えた。

「頑張ってるなら早く治るはずでしょ」少女は、悲しみでなく哀しみでもなく怒りでもない表情をした。

「お母さんとお父さんは?」

「あんまりここには来ない。来ても何も話すことがないからだと思う。最初の頃は来ていたけれど、頑張ってとか大丈夫とかを言うだけだもの。あと、お父さんはもう居ないの」

「そっか」仁井田は言葉を一生懸命に探そうとしたが、何を話したらいいのかわからなかった。ビジネスセミナーで相手の話を引き出す手法について学んだにも関わらず、ここでは何も役に立っていないことに悲しくなる。

「おじさんは手術が終わってからすぐに退院するの?」

「数日は様子を見るために入院しなければならないみたいなんだ」

「ふーん」

 仁井田の発言に少女はまたも不思議そうな顔をして、今度は仁井田の隣のベッドを囲っているカーテンの方を見た。

「ここにいる人たちみたいには、ならないよね」

「どういうこと?」

「ここにいる人たちも病気じゃないのに、手術をしてそのまま退院することはなくてずっとここにいるの」

 仁井田の心臓が一度だけ高鳴りをする。恐怖という言葉では片付けることのできない何かを感じた。

「ここにいる人たちは、手術してずっとここに入院しているの?」

「そう」

 カーテンに触れようとしたら、ピーと言う電子音んが鳴りモニターに『勝手な言動はお控えください』と表示が出た。仁井田は慌てて手を引く。

「手術が失敗したのかな」仁井田は心臓の鼓動がどんどんと早くなっているのに気づいて、それでも冷静に目の前にいる少女と話をしようとする。

「わからない」

 少女は、ため息をついて「手術頑張ってね」と言うと、自分のベッドに戻ってカーテンを閉めた。

 仁井田はしばらく考えていた。この病室に、自分と目の前にいる少女以外に二人患者がいることは聞いていた。しかし、どちらもそこに人がいる気配がないような気がしてくる。そんなに難しい手術だったのだろうか。仁井田は、手術に関する同意書に署名する時に、隅々まで読んでみた時に、何も気になることはなかったのを思い出す。どちらにしても深く詮索しても何も変わるわけではないので、これ以上考えるのはやめようと仁井田は時計を見た。夕食の時間まであと三十分あるので、仁井田はテーブルに置いてある本をとって開いた。


 食堂では仁井田と同じ自立レベルの高い入院患者が多数食事をしていた。仁井田が、おぼんが置いてある場所に歩いていくと、モニターに『バイタルブレスをかざしてください』と表示が出たので、右手のブレスレット型の機器をかざす。すると、『仁井田真一郎様の本日の夕食』と表示が変わり、続いて『現在のバイタルレベルから食塩レベルを三%削減してあります』と切り替わった。

「ご丁寧にどうも」仁井田はロボットアームが手際よく配膳する様子を見る。

 ここまで全自動になっているとは知らなかったと仁井田は思う。そういえばこの病院で出会った人間といえば、受付の女性と孫目医師と数人の看護師、そして目の前に入院している少女だった。病院の廊下も看護師を含めた医師が頻繁に歩き回っている印象はなかったし、人が沢山いるといえば、入り口のロビーと通院患者が診察を受ける一階部分だけのような気もした。それ以外はかなりの部分が全自動で動いていく。いたるところで掃除ロボットが動き回っているため、掃除の人もいなかった。

 仁井田は周りを見渡す。この状況に面食らっているのは自分だけだった。周りで食事をしている患者たちは、黙々と食事を口に運んでいる。それぞれのメニューは全員が違うというわけではなかったが、一人一人、前菜は同じだけどメインが違っていたり、飲み物が違うなど小さな違いがある。しばらく周りの景色を見ていた仁井田は目の前の料理を見る。ここは健康のための病院施設であるがこれほどまでに人間味がなくなってしまったら、余計に病院が苦手になるだろうと仁井田はご飯を口に運びながら思う。

 食事を終えて、病室に戻るとモニターに表示があった。


『食事の時間をもう少しだけ長めにとるようにしてください。早く食事をすることは健康上好ましくありません』


 はいはい、と言いながら仁井田はモニターを消そうと近づく。モニターは、偶然なのか自然に消えた。なんでも監視されているような気分だな、と仁井田は呟く。

 病院に置いてある雑誌を見ると健康に関する自分の知らない情報が沢山書いてあって勉強になる。自分の健康が先回りされたり、常時フィードバックが行われている状態は画期的でそうだ。発見がもっと早かったら助かったとか昔は言われていたが、今では、定期的にお金を払うことで健康情報は常にどこかのデータベースに保管されているという話もあるようだ。仁井田は全く興味がなかったので、そのような最先端な技術や医療についても知らなかった。そんな世界になっているのかと思いながら雑誌を閉じる。ベッドのリクライニングをフラットにして横になる。


 手術の前日から何も食べたり飲んだりしてはいけないそうで、手術当日の朝、起きた時間はこれまで同様六時だったが、空腹によって目が覚めた。病院の生活はとても規則正しく、これまでの自由な一人暮らし生活から比べると、かなり窮屈に感じてはいたものの、深夜まで起きている生活からは健康的な生活に切り替わっていた。

 看護師数名と孫目医師がやってきて挨拶をする。必要な手続きを経た後、仁井田は手術室に運ばれていった。その途中でふとある疑問がよぎった。その質問をするべきか迷いながら流れていく天井を見つめている。

 仁井田があまりに無頓着だったというのと、家族や知り合いがいないために疑問にすら思わなかったことだが、今更になって出てきた疑問だった。

 手術室に入った仁井田は、看護師の酸素マスクを見ながら思う。

 なぜ体を切られるわけではないのに、全身麻酔をしなければならなかったのだろうか。後から動画で手術の様子は確認できるとはいえ。

 点滴から麻酔薬が入ってくるタイミングで、看護師が仁井田に何かを言ったけれど半分は聞き取れずに仁井田は目を閉じた。


 同じ頃、病院の診察室の一つでは警察官二名とスーツを着た人物と医師がモニターを確認していた。

「銀沙容疑者、ただいま手術開始となりました」

「わかった」スーツを着た人物が腕組みを解いてモニターから目を離した。

「仁井田さんに成り代わっていた銀沙。お前の悪巧みもここまでだな」

 スーツの男は医師の方を向く。

「孫目教授、ご協力感謝いたします。将来が楽しみな息子さんにこのような役回りをお願いしてすみません」

「いえいえ、何事も経験ですから」医師は頭を下げる。

「それにしても、この病院のデジタル化は他の病院に比べると群を抜いておりますな」

「初期投資はかかりますがね」

 と言って、医師は笑った。

「政府がデジタル医療加算の制定に加えて、補助金を設定してくれたおかげです。色々な最先端な技術も可能となりましたし、このように事件解決にもご協力できるとあれば」

「今後、またご協力をお願いするかもしれません。その際はよろしくお願いします。孫目教授」

「こちらこそ」

 そして、スーツの男は警察官の一人に、あとは頼む。と言って部屋を出ていった。


 手術が終わり、銀沙はゆっくりと目を開けた。

「おはようございます。ご気分はいかがかな? ギンサタダシさん」

 スーツの男と警察官の姿をみて、銀沙は慌てて両手を動かそうとしたがしっかりと固定された両腕はガタガタと音を立てるだけで両手の自由はなかった。

「この殺人鬼め、観念しろ」

「何のことだ?」

「しらばっくれるな、お前が仁井田さんではないことはもうとっくに調べがついておるわ」

「知らない、私は仁井田慎一郎だ」銀沙は、もう一度両腕を激しく動かす。

「だったら何だその慌てようは。え?」

「縛られていたら誰だって慌てるだろう。放せ!」銀沙は上半身を起こそうと上半身に力を入れたが、しばらくして力なく枕に頭を沈み込ませた。

「うるさい」

 スーツの男は静かに言ったが、その声は怒りで満ちているようだった。

「お前が起こした事件。その共謀者が全員ここに揃っている」

 警官が二つのベッドのカーテンを、一つずつ開ける。

 そこに眠っている二人の人物を見て、銀沙は目を閉じた。

「どうりで、連絡がつかなくなったわけだ」銀沙は目を閉じたまま言う。

「しかし完璧なアリバイだったのに、何でわかったんだ」銀沙が言う。

「血だよ」

「血?」

「血にはあらゆる情報が閉じ込められている。将来の病気とか、その人が持っている特性が明らかになることに加えて、世間では発表されていないもう一つの情報源がある。これからしばらく眠りについくお前に特別に教えてやる。血は記憶を持っている」

「血が記憶を?」銀沙は目を開けた。

「この病院は、その血液研究の最先端病院だから、あらゆる血液がここに運ばれてくる。その血液の情報と記憶を解析することで、何でもお見通しなんだよ」

 銀沙は黙っている。

「亡くなった仁井田さんの血液ももちろんここに運ばれてきた。そして記憶を解析して出てきた容疑者がここにいる三人だ。最後の一人がお前だ、銀沙。まさか成りすましているとは思わなかったから、逆に仁井田さんの血液をお前の体に移植して様子を見ていたのだよ」

「ちくしょう」銀沙は、両手をもう一度ガチャガチャと動かす。

「時々、自分の記憶とは違うものが現れたことがあったはずだ。それはお前のじゃない。仁井田さんの記憶だ」

「わかった。わかったから。逃げも隠れもしない。というかできないからな。早く逮捕しろ」

 銀沙は、両手の手のひらを広げて降参の仕草をする。

「その願いは、叶えられないな」

「どう言うことだ、まさか殺すのか?」

「それも違う」

 スーツ姿の男は時計を確認する。そして、孫目医師の方を見た。

「あとどのくらいですか?」

「あと十五分くらいかと」

 スーツ姿の男は、何度か頷く。

「これからお前は、しばらく眠りにつく。死刑ではない。今の日本は寛大でね。その代わり血液を再生する。再生が終わるまでお前は目を覚まさない。ここにいるやつらと同じように」

「何だと?」銀沙の顔が曇る。

「あとは先生ご説明を」

「わかりました」孫目医師が一歩前に出る。

「これから血液の清浄を行います。断片的な記憶がなくなることもありますが、基本的にはそのままです。別人として生まれ変わる可能性もありますが、それはギンサさん、あなたの血液の本質によるものです。そのあと罪を償っていただきます」

「お前がしたことによって、永遠に癒されることのない傷を負った人が何人もいるんだぞ」スーツの男が口を挟んだ。

「手術中に、清浄プログラムを血液の中に流し込んであります。その活動が終わるまで、生体機能は維持しながらあなたは眠り続けます。最後に付け加えておきますが、私は医者でありますので、これはあなたへの罰ではなく、医療行為です。あとは警察の方が対応してくださると思います」

 銀沙は、視界が次第に狭くなっているのに気付く。

「そんなばかなことが…ある…の…か」銀沙は遠退く意識の中でゆっくりと呟いた。



 ヒットを打った息子の健太郎は、両手を空高く上げると仁井田の方を見た。仁井田は息子にガッツポーズで応える。

 全力で駆け抜ける息子と、必死でボールを追う相手選手の全力疾走が視線の先で重なる。

「やったーお兄ちゃん、良かったね!」

 妹のみさきが、仁井田の方を見て嬉しそうに言った。

 仁井田は、みさきの頭に手を置く。

「ほんとだな、ヒーローだよ」と仁井田は言った。

 ヒットを打った方向の空を見ると、空の向こうに雨雲があるのを見て仁井田はこの試合が終盤であることに安堵した。

 その隣に目をやる。

 河川敷に座っていた一人の男が、立ち上がり大きく伸びをしているのが目に入った。





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