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僕と彼女とトロンボーン

 僕の自宅の直ぐ近くに結構大きな公園がある。でも、何故か?その公園は人がほとんどいない事が多かった。僕が中学二年生に進級して、学校に通うのがとても嫌になって自宅に引きこもるようになった頃。毎日夕方になると、あの公園から変な音が聴こえてくるようになった。

「何だよ……うるさいなぁ……」

 最初は、その不快な音が耳障りで仕方がなかった。

 僕は、自宅のベランダから見えるあの公園から聴こえてくる音の正体を確かめようと思った。


「女の子……?トロンボーン?」

 公園のベンチに座って、ツインテールに髪を束ねた多分僕と同じくらいの年齢の少女が、下手くそな演奏で、それでも一生懸命にトロンボーンを吹いていた。

「学校の部活動でやればいいのに……はた迷惑だなぁ……」

 僕は、その子の演奏を引きこもりを続けている以上は毎日、決まった時間……だいたい夕方四時くらいから五時くらいまでの約一時間。聴きたくなくても聴かざるを得ない状況に置かれてしまった。


 一週間、二週間、そして一ヶ月……僕は名前も知らない彼女の演奏を聴き続けた。と言うよりも勝手に耳に入ってきた。

「少しはましになったけど……やっぱり下手くそだな……」

 僕は、その頃には彼女が練習しているトロンボーンの演奏を、まるで音楽評論家のように細かく評価し始めた。

「もう少し音程が安定すると良かろうに……でも、最初から比べればかなり進歩したなぁ……」

 相変わらず自宅に引きこもっていた僕は、夢も希望も何もかも失くしていたような精神状態だった。


 だけど、最近の僕は一つだけ大きな楽しみというか……希望があった。

 あの女の子のトロンボーンの演奏を毎日聴けることが。そして、その成長を実感できることが。僕にとっては、ささやかな幸せのような感覚だったんだ。


「おかしいな……?今日は、聴こえてこない……」

 数日後、毎日続いていた彼女のトロンボーンの演奏が、その日からいつまで経っても聴こえてこなくなってしまった。



 それから一ヶ月。僕は、どうしても彼女の演奏を聴きたくて数カ月ぶりに恐る恐る自宅から外出した。ほんの数十メートルの距離にあった、あの公園のベンチまで……


 公園に着いた僕は、いつも彼女が演奏していたベンチに辿り着いた。

「やっぱりいない……」

「ひょっとして、引っ越しちゃったのかな?」

 僕は、そんな事を考えながらしばらく公園の中を散策した。


 少しだけ元気になった。


 あの子には逢えなかったけど、逆にあの子のおかげで僕は自発的に外に出て、散歩まで出来たんだ。


 次の日から、僕は毎日夕方になるとあの公園まで出かけて散歩をした。あんなに怖かった外の世界は、一度勇気をもって飛び出してしまえば生きていることを実感できる素晴らしい世界だと分かった。


 自宅に戻った僕は、夕食の支度をしている母親にこう言ってみた。

「母さん。僕、明日から学校行ってみるよ!」

 母は少し面食らった様子で驚いていたけど、直ぐに満面の笑みを浮かべて、

「そう……無理しないで!本当に……」

「何だよ母さん、泣いてるの!?」

「ううん、何だかとっても嬉しいだけよ!」

 次の日から、僕は中学校に復帰した。

 最初は人が怖かったけど、ひょっとしたらあのトロンボーンの女の子に逢えるんじゃないか?そんな、淡い期待も確かにあった。


 一週間、学校に通う事が出来た。僕は、あんなに嫌いだった学校を少しずつだけど好きになってきた。だけどあの子は、学校には居ない様子だった。



 僕が吹奏楽部に入部を決めたのは、学校に復帰してから一か月後の事だった。

「ようこそ、吹奏楽部へ!!」

 顧問の先生、そして大勢の吹奏楽部の生徒たちから僕は大歓迎を受けて入部した。


「やりたい楽器は?」

 顧問の先生にそう言われて、吹奏楽の知識なんてまるでなかった僕は、しばらくの間考え込んでしまった。

「ト、トロンボーンをやりたいです……」

 僕は、無意識にそう答えていたような気がする。


 一か月後。学校生活にすっかり馴染んだ僕は、楽しく充実した日々を送っていた。


 部活の練習が終わってから僕は、仲良しになったフルート担当の女子生徒に聞いてみた。あの公園で毎日。夕方トロンボーンの演奏をしていた少女の事を……


「そうだったんだ……あの子、死んじゃったんだよ……」

「えっ!?」

 僕は、驚いてしばらく何も言えなくなってしまった。

「好きな人が、あの公園の近くに住んでるって言ってたよ……」

「でも、突然学校に来なくなっちゃったから、私が毎日トロンボーンの演奏を聴かせてあげるんだっ!!……そう言ってたの……」

「彼女は、どうして……?」

「先天性の難病だったみたい……余命も分かっていたみたいだよ……」

「……」

 何も言葉が出てこなかった。


 僕は、一度たりとも彼女には逢っていないし話してもいない。


 彼女は、ひょっとしたら僕の事を知っていたのかな?


 それで、毎日あの公園でトロンボーンの演奏をしてくれていたのかな?


 僕は自宅のベランダから見える、確かに彼女がトロンボーンの演奏をしていたベンチを見つめていた。


「ありがとう……君のおかげで僕は……」


 月日が流れて、僕は高校受験を終えて中学校を卒業した。


 卒業式の帰りに僕は、あの公園に足を運んでみた。


 ベンチには、まだ小学生くらいの女の子が一人で座ってシャボン玉を吹いていた。


「きれいだねぇ!シャボン玉!」

 女の子は、しばらく不思議そうに僕の顔を見上げてから、

「うん!」

 元気な声でそう答えた女の子は、満面の笑みで僕の方に向かってシャボン玉を吹いてくれた。

「ハハッ!凄いなっ!」


 僕は毎日夕方、ここで演奏されていたあの女の子のトロンボーンを思い出していた。


 彼女がくれたもの……


 それは、僕の人生を大きく変えてくれたのかも知れない。


 女の子の吹くシャボン玉は、きれいに膨らんで宙に舞っては静かにはじける動作をずっと繰り返していた。


 僕は、微笑みながらその様子をじっと眺めていた。


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