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そんな中でも、次女は、両親の手厚い庇護のもとに育った。
「社会でスムーズに生活していってもらいたい。そのためには、普通の学校に通わせた方がよいだろう」
という、両親の「押し付け」的な願望のもとで、次女は、健常者が通う、普通の公立学校に通った。
当然、公立学校の勉強のスピードは「耳の聞こえない」次女には、とてもついていけず、週末は、両親が朝から晩まで付きっきりで次女に勉強を教えていた。
宿題や予習を付きっきりで教えていたのである。
このことは、少なからず、私の特性に影響を及ぼしていると思う。
この頃、休日は、両親が次女に付きっきりだったため、私は両親に「かまってもらえない」と感じていた。
そして、「もっと僕をかまって!」と思っていた。
障がい者の次女の事情は、幼いながら理解していたものの、やはり「かまってほしかった」のである。
「かまってもらう」には、どうすればよいか。
「私も次女のように、朝から晩まで勉強すればよいのではないか」
と思ったのである。
先に、私が勉強に励んでいた理由を、両親の「他者称賛」による「劣等感の植え付け」からだと書いたが、その要素が大半だったものの、「次女のこと」もなかったかと言えば嘘になるだろう。
次女は、高校からは実家を離れて、母親の父親、つまり私の祖父のところで下宿をしていた。
やはり、公立高校だったため、休日には、母親が次女の勉強を見るため、祖父の家に頻繁に行っていた。




