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私が中学に入学した時には、大学進学のため、長女は実家を出ていた。長らく続いた戦争が終わるかと思いきや、「夫婦喧嘩」という新たな戦争が始まった。
長女がいるときには、戦争の火種は「長女の態度」になることが多かった。しかし、長女がいなくなった家庭で、父親のターゲットになったのは、母親であった。
私が中学の時は、最も夫婦喧嘩が激しいときだったと記憶している。その内容について、いちいち覚えてはいないが、私の塾のことや勉強のことで両親がけんかになったことがあり、それを不安な気持ちで聞いていたことを記憶している。
両親のけんかと私の行動で思い出すエピソードがある。
私の友人の姉が些細なことがきっかけで,私の父親に興味を持ったことがあった。
その友人は私の小学校からの同級生で、私と同じサッカー部に所属していた。サッカー部の試合の帰りか何かに友人の姉が私の父親と話したことがきっかけで、ある種の「憧れ」を私の父親に抱いたらしい。
その姉は私の二歳上で、当時中学三年生だった。
「中学生の女子がちょっと大人の男性に憧れる」
その程度の感情だったと思うが、ある日、私が教室にいるときに、父親に手紙を渡してくれ、と友人の姉がやってきた。便箋に手紙が入っており、しっかりと封がしてある。面倒だとは思ったが、それを父親に渡すべく持ち帰った。
その夜、早速渡そうかと思ったが、またいつものごとく夫婦喧嘩が勃発していた。
何がきっかけかわからないが、かなり激しめの夫婦喧嘩で、今このタイミングで女子中学生の「恋文もどき」を父親に渡すと、母親が怒りだして、また夫婦喧嘩がエンドレスに続いてしまい、最終的には「離婚」という話になるのではないかと不安になった。
その日に手紙を渡すのを止めた。
手紙を渡すタイミングはなかなか来なかった。
つまり、それだけ夫婦喧嘩が日々行われており、私が手紙を父親に渡す機会を何度も逸していたということなんだと思う。
そうこうしている内に、私はまず手紙の内容を確認しようと考えた。
父親には悪いが、内容を読んで、その内容がシリアスでなければ、どのタイミングでも、つまり、夫婦喧嘩のタイミングでも渡してよいのではないかと考えた。
もし、そこに「二人で会いましょう。」とか「好きです。付き合ってください。」といった内容が書かれていたらすぐに破棄しようと思った。我が家の安定のために。
どきどきしながら手紙を読んだ。
その内容は、本当になんでもない内容だった。
あまりにも内容がなさ過ぎて何も覚えていない。とにかく夫婦喧嘩のどのタイミングに渡しても「問題ないレベル」だったのである。
どきどきしながら手紙を開封した私が、ばからしくなった。どのタイミングで手紙を父親に渡したか、今となっては忘れてしまったが、特にそのことに関して、たいした問題にはなっていないと思う。
ここで言いたいのは、それだけ青年期の私は、家庭の不安定さに揺さぶられていたということである。
「両親がけんかして離婚したらどうしよう」「これからまだ高校にも行くのに、生活が不安定になるのは不安だなー、嫌だなー」ということを抱えて生活していた。これは幼少期の「不安」とはまたちょっと違う、「成熟した不安」だった。
この時の私は、先に述べた抑圧感情により、異常なまでにテスト勉強をしていた。
「頑張らなければ、テストでいい点を取らなければ両親に認められない」
「他者より優れていなければ生きている価値がない」
といった、「強迫観念」と「焦燥感」、また長女や父親に対する「劣等感」からテスト勉強をするのである。
「学問の面白さ」や「知識欲」からくる勉強ではなく、「他者よりも優れるため」の「テスト勉強」なのである。
「勉強」ではなくて、「テスト勉強」である。テストの点さえとれれば良いのである。
そのために職員室に居座り、先生達を捕まえては、問題集のどの問題が重要か(テストにどの問題がでるか)を聞きまわるのである。その努力の源は、自分の内なる欲求ではなく、外部(両親)からの「脅迫」と、そこから派生した「焦燥感」である。
中学生の私は、「自分」を意識したことがなかった。常に外部(両親や先生)からの目を気にして生きていた。
「ありのままの自分」なんて考えたこともない。
その当時の他者は、自分の生存権を脅かす「敵」であり、彼らに常に勝ち続けなければいけない。テストの成績という勝負で負けてはならないと思い込んでいた。
そうすることで、両親から認めてもらい、根底の「劣等感」を隠しながら生きていくことができたのである。ただただ、「褒められる」ことを求めていたのである。
親も先生もテストで良い点をとると褒めてくれる。チヤホヤしてくれる。その「称賛」のみが、その青年が自分の価値を確認できる唯一の「証」だった。
他者から与えられるその大事な「証」だけを求めて、そして、握りしめて、彼は走り続けるのである。
それが自分の「内なる欲求」「充実感」であるという勘違いをしながら。




