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父親が大好きな「メリーゴーランド」で遊ばせてもらえなかったことを示すエピソードがある。
父親が、私に何かお願いごとをする際に、枕ことばのように、いつも言っていたことがある。
「お父さんは、妹達の高校受験や大学受験の際には、いつも付き添いに行ってあげていた。受験先までの行き方、宿泊先を事前にいろいろ調べて、妹達の親代わりとして、いつも付き添ってあげていたぞ。」
である。
いつもの恩着せがましい表現と雰囲気で、私に言ってくるのである。
それは、私にお願いごとをする際の「免罪符」のような響きを持つ、枕ことばだった。
そうやって、間接的に、「助け」を求めてくるのである。
決して、
「困ってるから、手伝ってくれない?」
とか、
「わからないから、教えてくれない?」
等の素直で、直接的な表現ではないのである。
「俺は、家族(両親)のために、自分を犠牲にして、やってきたんだ!」
「お前も、自分を犠牲にして、両親に奉公しろ!」
という「悲鳴」なのである。
当時の私は、その「悲鳴」に、どんよりとした「重み」を感じて、ただただ、従うのである。
なぜ、そのような「免罪符」を掲げる必要があるのだろうか。
ここに、父親の「悲劇」がある。
つまり、彼は、妹達の面倒を見ることが嫌だったのである。
そんなことしないで、自分の好きな「メリーゴーランド」に乗りたかったのである。
その気持ちを押さえてまで、妹達に付き添っても、両親には、褒められない。
両親からの「承認」「感謝」のために、妹の面倒を見たのに、いっこうにそれらの「欲求」が満たされないのである。
その「不満」を、心の奥底に、積もらせて成長していくのである。
そして、やがて、その不満を弱者である「自分の子供」にぶつけるのである。
しかし、本人は、無意識に、そのように「強いられる」ことが子供ながらに嫌だったことを知っている。
つまり、彼は、自分の子供に「強いる」ことに「罪悪感」があるのである。
だから、弱者を従わせるための「免罪符」が必要なのである。
「免罪符」を掲げながら、「自分が嫌だったこと」を自分の子供にもしてしまうのである。
それが「無意識」だからタチが悪い。




