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メリーゴーランド  作者: 湊 亮
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健全な次女の元で、すくすくと健全に成長している、姪や甥とは違って、長女の子供たちのことに思いを馳せずにはいられない。


自分の家族写真入りカレンダーを、恩着せがましく、郵送してくる長女である。(第30話参照)


きっと自分の、身勝手で、傲慢な「メリーゴーランド」を「弱者」である、子供たちにも強いているに違いない。


そのことを思うたびに、私は、涙が出そうになるのである。


もちろん、そのことは、私が心配することでもないし、心配したからと言って、改善される類のことではない。


しかし、考えずにはいられないのである。


一刻も早く、長女が、自分の「弱さ」と「過ち」に気づき、子供たちに自分と同じ運命を背負わせないようにすることを願うばかりである。


しかしながら、その子供たちは、その「運命」「宿命」を背負って生まれてきたのだ、と解釈する方が適切かもしれない。


なぜなら、子供に親を選択する権利も機会もないからである。


ただただ、そこに生まれ堕ちてきただけだからである。


夫は妻を、妻は夫を、選択できる。嫌だったたら離婚すればよい。


民主主義社会における、労働者は、職場を選択できる。嫌だったら辞めればいい。


つまり、継続することも、止めることも、本人に「その気」さえあれば、できるのである。


しかし、「幼い子供」は、親と離れることも、関係を継続することも、自分の力量では選択できないのである。


それが、「悲劇」でもあり、「宿命」でもある、ということである。


彼ら(私も含めて)は、その「現実」を、いかに捉えて、いかにその「宿命」を乗り越えていくのか、を考えなければならないのである。


それは、決して簡単なことではないかもしれない。


その「不平等感」と「無念さ」に押しつぶされそうになるかもしれない。


しかし、それは、その「子供たち」が背負った、生きる「責任」なのである。


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