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メリーゴーランド  作者: 湊 亮
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当時、小学五年生だった私は、その「焦燥感」から好きかどうかわからない「テスト勉強」をしていた。そして、良い成績もとっていたと思う。


周囲の友人は、私の生存権を脅かす「脅威」であったが、その「脅威」を突き放すために塾に行きたいと両親に申し入れたことがあった。


それは、両親から植え付けられた、歪んだ「罪悪感」「劣等感」「焦燥感」からの申し入れだったが、私の子供ながらの欲求だった。


その申し入れに対して、両親は懸念の表情を浮かべたのである。特に父親の方が「反対色」が強かったように記憶している。


「塾に行かないと勉強できないなんて、けしからん。」

「家で、自分で勉強しなさい。」

「塾はテクニックを教えるだけだから、本当に考える力が身につかない。」


という、子供に「罪悪感」と「劣等感」を巧みに植え付けながら、父親の歪んだ弁明がさく裂するのである。


しかしながら、歪んだ動機からではあるが、息子は「塾に行きたい」という意思を突き通して、なんとか懇願し、夏休みの一定期間のみ「夏期講習」に参加した。


しかしながら、それを許可した両親ではあったが、子供が塾に行くことを納得した様子はなく、しぶしぶ通わせた、という感じであった。


息子は、またいつものどんよりとした「罪悪感」を背負い込み、塾に通うのである。「なんか申し訳ないなー」そんな想いを抱えて、塾に通うのである。


塾に通った少年は、非常に楽しかった。それは、難しい問題集を解いて正解すると、そこにある種の「充実感」もあったし、なにより、先生が褒めてくれるからである。


つまり、先生が「承認欲求」を満たしてくれるのである。だから、少年は頑張る。いい成績をとる。難しい問題を解く。褒められる。楽しい。頑張る。


といったような「充実感」と「承認欲求」が同時に満たされるような、感覚があったのである。また、小学校で扱う問題とは違う、奇抜な問題や解き方、先生のわかりやすい、すっきりとした解説、面白い話、それらを前に、少年は何か新しい世界を見つけたような、わくわくした感情に包まれていたのである。


塾に行きたいと思ったのは、歪んだ動機からではあったが、そこには、子供らしい「わくわく」したような感情があったような気がする。


「気がする」というのは、遠い昔のことであり、長らく自分を見失っていた、今の私もその感情をはっきりと断言することはできないのである。ただ、「充実感」のようなものはあったような「気がする」のである。


しかし、ここからが重要な点なのだが、その「わくわく」とは裏腹に、その少年は、両親になんて言ったかである。


「塾は、微妙だよ。ただ、なんか問題の解き方のテクニックばっかり教えてて、イマイチだね。」というような主旨のことを両親に報告するのである。


両親からどんよりとした「罪悪感」を背負った少年は、自分の本当の感情ではなく、父親と母親が喜ぶだろう「虚偽の感情」を報告するのである。


そうしなければ、少年はその基地から追い出される、そうなれば、僕は生きていけない、と感じているからである。追い出されないためには、両親が「納得する」ことを言わないといけない、と考えているのである。


そして、その言葉を表面通り受けとった両親は、「そうでしょう?言ったでしょ。」と誇らしげに言うのである。その様子を見て、少年は、ほっとするのである。


今考えれば、「おめでたい両親」にただただ呆れてしまうのだが、その当時の少年は、その場所で生き抜くために一生懸命、その「呆れた両親」に取り繕わなければならなかったのである。それが彼のとるべき、唯一の「生存戦略」だったのである。


両親の言動の根底には、子供に対する「無関心」があるのだと思う。


「無関心」というのは、子供の生活面の面倒を見ない、経済的支援をしない、という意味ではない。「子供の感情に寄り添わない、または、寄り添えない」ということである。


「その子は何が楽しいのか、悲しいのか、どうしたいのか」に関心がないのである。また、「その子はなんで笑っているのか、泣いているのか」に関心がないのである。そこにあるのは、「子供を立派に育てなきゃ」とか「子供をいい大学に入れなくちゃ」等という、世間体を気にした、「自分の欲求」のみがあるのである。


子供はその欲求を満たす、便利な「道具」なのである。当然、小学生の少年は、自分が「道具」として扱われていることに気づくはずもなく、生きるために彼らに健気に奉公するのである。そして、自分の本当の感情を消し去るのである。


私の人生を支配していた感情をまとめると、


一 長女と父親にばかにされたことによる「劣等感」と「怒り」


二 その「劣等感」を克服するために、一日でも早く、彼らに追いつく(抜く)必要があるという「虚偽

の尊敬」に基づく「焦燥感」


三 父親に従わなければ生きていけない、という「見捨てられる不安」


四 父親に逆らうと、痛い目に合うという「恐怖」


五 両親の他者称賛によって植え付けられた、ありのままの自分ではだめだという「罪悪感」とそこから派生した「焦燥感」


の五つである。


しかし、少年は、その五つの感情を無意識下に抑圧しながら生活しなければならなかった。不安定な家庭という戦場で一人のみの力で自立して生きていくには、少年は幼すぎた。


母親、父親、姉に先の五つの感情を抑圧してでも平穏に生きようとしなければ、あの戦場では生き延びられなかったのである。そしてその五つの感情は、少年の人生に重くのしかかる。


そこには自分で喜んで掴み取った感情がない。自分で掴み取った充実感がない。


ただ戦場を生き抜くために否応なく掴み取らざるを得なかった感情。


少年が生き延びる手段として選んだ、その当時の「悲しい」最良の決断。


今の私は、その少年の選択を褒めてあげたい。「よくやった」と言ってやりたい。


今までの私は「弱い人間」だと思ってきたが実は違ったのではないかと思い始めたのである。五歳にして戦場をしっかりと、たくましく「生きよう」としてきたのである。


しかしながら、幼少期の戦場は、長女が大学入学を機に実家を出た後にも続くのである。


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