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父親の「写真を撮る行為」というのは、「メリーゴーランドに何度も乗りたがる子供の行為」と同じなのである。
子供が大人とメリーゴーランドに乗る。
楽しい。もう一回乗りたい。
「ねぇねぇ、お父さん、もう一回乗ろうよ。」と、大人にせがむ。
大人は、しぶしぶ「いいよ」と言い、もう一度メリーゴーランドに乗る。
子供はやはり、楽しい。また乗りたいと思う。
大人に「また乗りたい」とせがむ。
そして大人はエンドレスに子供とメリーゴーランドに乗る羽目になる。
大人は、嫌だが、子供のために「しぶしぶ」付き合うのである。
そして、遊園地の閉演時間になる。
最終的には「もう帰るよ!」と言って、子供を説得する。
大人は、経済力、体力もあるので、子供は逆らうことができない。
子供は「しぶしぶ」納得し、メリーゴーランドを降りることになる。
これは、どこにでもある、普通の親子関係だが、その役割が逆転してしまったときには「悲劇」に変わる。
つまり、「大人」が「メリーゴーランドに乗りたい」と言い出した場合である。
子供は、絶対的な弱者である。
その弱者が「メリーゴーランド」に興味がなくても、
本当は乗りたくなくても、
「大人」と一緒に乗らないといけないのである。
なぜなら、子供は自分の「生存権」を「大人」に委ねているからである。
子供は嫌でも、「大人」が飽きるまでメリーゴーランドに乗らないと、ご飯が食べられないのである。
そして、嫌々ながら、メリーゴーランドに乗っていた少年は、「嫌だ」という自分の本来の感情を消してしまい、メリーゴーランドに乗ることが「普通」になるのである。
しかし、そのメリーゴーランドが大好きな「大人」は、子供もそれが楽しい、と思っているのである。
もっと正確に言うと、子供が楽しいか、楽しくないか、は関係ないのである。
「自分が楽しければそれで良い」のである。
それは、子供だと普通に許される行為だが、「大人」はしてはいけない。
しかし、その「大人」はそのことに一向に気づかないのである。




