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先日、妻と息子を連れて、私の実家に帰った。
空港まで迎えにきた両親だったが、出会いがしら父親が焦っているのである。
挨拶もほどほどに、急いで駐車場に向かっている。
私たち家族、母親を置いたまま、駐車場に一目散に走っていくのである。
理由は「駐車料金」だった。
空港の駐車場にとめて、三〇分以内であれば無料になる、ということだった。
駐車時間が三〇分を超えると二百円程度、料金がかかるらしい。
彼は、なんとしても無料にしたかったので、私たちを置いて、急いで駐車券発行マシンに向かったのである。
お恥ずかしながら、私も「このようなこと」を家族にする。
「ケチ」なのである。
「倹約」ではない。
「ケチ」なのである。
昔から父親は「ケチ」だった。
そして、家族にもその「ケチ」を強いるのである。
大学時代、私は父親に誘われ、嫌だったが、旅行に一緒に行ったことがある。
彼は、その旅行期間中、おしゃれなレストランで外食することを拒むのである。
地元のスーパーで安い「サンドウィッチ」を買って、食べ歩きをしながら、観光したがるのである。
「いろいろなところを観光したい」というわがままな言い訳をしながら。
ポイントは、それを家族にも強いる、ということである。
私が旅行中に何度か、あのバーでお酒を飲みたい、と言ったことがあった。
大学生の私は、あのおしゃれな雰囲気で、一杯飲んでみたかったのである。
しかし、彼は、見るからに嫌そうな表情を浮かべながら、「スーパーで買ってホテルで飲んだ方がよくない?あそこで飲むと、その分お金もかかるんよ。」と、これまた、恩着せがましく言ってきた。
その旅行の財布を握っている父親は、その「経済力」を盾に、私に「ケチ」を強いるのである。
そのようなことは、昔から私の戦場では日常茶飯事だった。
過剰に「ケチ」なのである。
そして、「経済的権力」を持った支配者は、権力を持たない弱者に「ケチ」を強いるのである。
その戦場で育った私は、いつの間にか、「お金を使う」ということに消極的になり、ある種の罪悪感を抱くようになった。
「お金を使うこと」に罪悪感を持った私は、新しいものを買ったり、挑戦することにも消極的になった。
高校の頃、クラスの大半の生徒が携帯電話を持っている中、私は、「いらない」と言って、買わなかった。
しかし、今振り返ると、「いらなかった」のでなく、お金を使って、携帯電話を買うことに「罪悪感」を感じていたのである。
本当は欲しかったが、ここでも、本当の自分の感情を消していたのである。
大学の頃、スノーボードを買いに行った。
その時にも「罪悪感」から父親に一報を入れた。
私は、新しいことをする、新しいものを買う、ということに常に「罪悪感」を感じていたのである。
先の旅行の話に戻すと、その旅行先で、父親の知り合いとレストランでご飯を食べる機会があった。
そのレストランは、その知り合いが予約した所だった気がするが、その料金は、父親が全額負担した。
ここでも「世間体」を大事にする姿勢は、健在だったのである。
そして、私は夫になり、父親になり、「お金を使うことの罪悪感」を弱者である、家族に植え付け始めるのである。
このように、父親の「駐車場へのダッシュ」から、私が家族に対してやっていることを「追体験」したのである。
そして、その「異常さ」と「ばかばかしさ」に気づいていくのである。
家族に植え付けようとする「罪悪感」を認識するのである。
まだ、私の「ケチさ」と「罪悪感の植え付け」を完全に解消することはできていない。
しかし、徐々にその「くせ」を取り除いていかなければいけないと思う。
自分が「押し付けていないか」を常に自分に確認しながら、生きていく必要がある。




