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メリーゴーランド  作者: 湊 亮
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私が小学校に入学する前のことだった。


父親から「お父さんとお母さんどっちが好き?」と聞かれたことがあった。


当時の私は、「空気を読む」ことができず、「母親」と答えた。その問答が終わってから、急に父親の私への態度が変わったことを記憶している。


私が抱きつこうとすると、あからさまに避けたり、態度が冷たくなった。幼少期の私は、あの質問に「母親」と答えたことが問題だったと思い、父親にこっそり「やっぱりお父さんの方がいいや」と言った。


その時の父親の表情はよく記憶していないが、「そうだろ。初めからそう言えばいいんだよ」という感じだったのではないかと思う。


それから父親の私への態度は、「普通」になった。私は、この経験からも「父親の望む答えを提示しなければ、私は生きていけない。見捨てられてしまう。」という感覚を植え付けられてしまったのだと思う。


もちろん、「私が父親の望む通りに生きなければ見捨てられる」と感じるようになった経緯は、この一つのエピソードのみからきたものではないだろう。


不安定な家庭で常に生きることを強いられた少年は、防衛本能としてその感覚を身につけたのだ。


なぜこのエピソードを思い出したかといえば、先日実家に妻と一歳の息子を連れて帰省した際に感じた違和感と関係している。息子はまだ一歳で、祖父母(私の両親)に会うのが二回目だった。


ほぼ初対面の祖父(私の父)に抱っこされた息子は、案の定、大声で泣き始めた。私の妻にバトンタッチすると、安心し、泣き止むのである。


そしてまた私の父親に抱っこさせようと妻が近づけると息子は泣き始める。いわゆる「人見知り」の一種で普通の赤ちゃんならでは、の光景である。


それに対して、私の父親は衝撃的なことに、「ああそう。来たくないなら来なくていい」と言って、はねのけたのである。一歳の赤ちゃんに対して「泣くんだったら来なくていい」というような非情な姿勢を見せたのである。


私はその光景を隣で見ていて「デジャブ」というか、昔経験したような感覚が心に沸き上がり、不思議な不安な気持ちになった。「ああ。以前なんかこれ経験したことあるなー」という不思議な気持ちである。


それは、「その行為は、普通の人の行為じゃない」という違和感でもあった。自宅に帰った後、その違和感を突き詰めた結果、私には常に「社会に、家族に、見捨てられてしまうのではないか」という不安があることに気づき、その不安の原因の一助となっているものが、先のエピソードだと気づいた。


私が抱いている「罪悪感」についても言及したい。


私には二つ年下のいとこがいる。父親の妹の息子である。祖父の家で祖父、叔母、いとこの三人で生活していた。小学校の長期休みには、家族で祖父のところを訪れていた。


その際、いとこと野球をし、釣りをしながら無邪気に遊んだ。しかしながら、その子供同士の無邪気なふれあいにも父親と母親の暗い影が向けられた。


祖父の家に行った際、父親は何かしらの農作業や仕事をすることがあった。いとこは、父親の作業の様子を隣で眺めていたことがあったらしい。


時には簡単なお手伝いもしていたのかもしれない。私の父親はその様子にひどく感激したらしく、「いとこはえらい!」「お父さんの作業をずっと横から見て観察している。」「将来は大物になるぞ。」と恩着せがましく私に言ってきた。


「私もいとこの行動を見習うべきだ」「父親の作業を手伝うことが正義だ」と言わんばかりに常に強調して「いとこのお手伝い」を称えるのである。


私に直接、「いとこを見習え」と言ってきたことも何度かあったと記憶しているが、大方は、「いとこはお手伝いをしてえらい」と言うのみで、直接的に私に言わず、「お前はお手伝いもしないで遊んでいる。ぼーっとしている」ということを「いとこをほめる」という行為で、私を「暗に」責めてくるのである。


この「他者を称えることで暗に子供を攻める」行動は、父親と母親の専売特許であった。母親もそのような傾向があり、それが元々の母親の特性なのか、父親から伝染したものなのかはわからない。祖父の家に行った際、両親が祖父から「いとこは小学一年生なのに三年生の問題集を解いている」ということを聞かされた。


そのことを母親と父親はまた過剰に「称える」のである。私の前でこれ見よがしに「いとこはすごい!いとこはすごい!二年上の問題集を解いている!すごい!すごい!」と過剰に「称える」のである。


決して「あなたも頑張りなさい」とは言わない。ただただ恩着せがましく「称える」のである。しかし、彼らの「称える」行動の裏にあるのは、「あなたもそうでありなさい。私達の思っている通りにあなたも行動しないと認めないよ」という両親の「脅迫」であった。


彼らにその意識があったかは不明だが、少なくとも幼少期の私は「脅迫」として受け止め、「ありのままの自分ではだめなんだ」という、ある種の「罪悪感」を持ったのである。


「どこどこの息子さんは東大に行ったそうよ。すごいねー。」「どこどこの娘さんは、まだ小さいのにこんなことができるのよ。すごいわー。」「どこどこの息子さんはこんなお手伝いをしているそうよ。すごいねー。」という、他者を称える私への脅迫は、幼少期の私に暗い影を落とした。


直接的に「こうしなさい」「こうなりなさい」とは決して言わない。ただただ「他者を称える」のである。


何から何まで「他者よりも優れていなければならない」という感覚が幼少期に植え付けられた。


「ありのままの自分じゃ生きててもダメなんだ」そんな感覚を植え付けられた。

そのある種の「罪悪感」を植え付けられた少年は、過酷な戦場を生き抜くために、また自分を歪めていくのである。


好きでもないのに、二学年上の問題集を解き始める。それを持って母親に「承認」を求める。テストで常に百点を取るために勉強する。「好き」でやっているわけじゃない。「ありのままの自分ではだめだと思っているから」「そうしないと両親に認められないから」頑張るのである。


戦場で生きる少年は、その被害妄想的「脅迫観念」によって、自分の意志・想い・充足感を無視して走り続ける。それがこの戦場で生きていく最良の手段であると信じて。


つまり少年にとって「他者」とは、何かを協力して成し遂げる「仲間」ではなく、自分の地位・生存権を脅かす「脅威」になるのである。他者よりも常に優れていなければならない。


その他者を蹴落とさなければ、自分は生きていけない。なぜなら少年にとって「他者より優れていなければ生きている意味がない」からである。


他者は「敵」なのである。「ありのままの自分ではだめなんだ」という「罪悪感」は、少年の今後の人生にも常に重くのしかかる。その「罪悪感」が他者への「脅威」につながり、良好な人間関係を築くことが困難になる。


両親から植え付けられた「罪悪感」と「焦燥感」に関連して思い出すことがもう一つある。


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