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はなのいろ~番外弐『勝山』

作者: デイジー


「姉さん」


二階の格子窓から外に意識を向けると、玄関先から鶴巻の芙蓉を探す声が聞こえる。鶴巻がこの吉原に来たのは数日前のこと。未だ馴染んだとは言えないが、芙蓉を頼る姿から大丈夫だろうと安堵して自室へ戻る。


アンタを必要としている人間は橘さんだけじゃない。


鶴巻が来たその日、彼女の面倒を見る姉役に芙蓉を推薦したのは何故かと問われ、橘が死んで哀しみ続ける芙蓉に初めて向き合い告げた言葉だ。己が発した言葉を胸の内で呟けば、がらんとした心によく響いた。


自分の身の回りの世話をし、慕う禿や新造達は外に出ていて今は傍に居ない。


珍しく自分の周囲が静かだから、こんな気持ちがするのか。そんな自分自身に情けないと自嘲の笑み溢したながら、同じ言葉をもう一度反芻してみる。


自分を必要としている人間は…


今の自分に置き換えて考えれば、面倒を見ている禿や新造といった妹達や廓の人間が思い浮かぶ。


そして継いで浮かんだ姿に、勝山は深くその目を閉じた。



その人物は、自分が一番必要としていた男であり、自分を残して現に帰っていった男だった。


白い肌にたった一筋薄く浮かぶ傷が疼く。もうとっくの昔に癒えている筈の傷痕に、この傷を自分で付けた時と変わらずその男を想っている自分を感じた。




男がたった一つくれた簪を弄ぶ。


忘れなくていい。


芙蓉にはそう言ったが、自分は忘れられるものなら忘れたかった時があったのを思い出す。

それでもこの簪を未だに持っているくらい、思い出もこの想いも捨てられなかったのだ。



あれは花魁になるずっと前の事。部屋持ちになって間もなくの頃だった。


元は有名な商家の娘だった勝山は、同じく大店の家の息子と許嫁であった。幼馴染みとして共に育ってきた二人は、許嫁だからではなく本当に互いを想い合うようになっていた。


しかし、父が病に倒れやがて繁盛していた店も傾き、母と娘二人の力だけでは限界があった。


元々店の繁栄の為にと結ばれた縁組みは、本人達がいくら望んでも叶わぬものとなった。


それからは生きるのがやっとの生活の中過労が原因で母を喪い、親類からは見放され恋しい男からも引き離されるように気がつけば吉原に入れられていた。





此処での生活は地獄だった。好きな男を想い他の男に抱かれ続ける苦痛と辱しめ。いくら美しいと言われても、好いた男ではない。いつしか平気だと笑いながら涙を流せなくなっていた。



そんなある日、ずっと夢見ていた男が何処から聞き付けたのか客として目の前に現れた。


恋仲だったとはいえ、男は女の身体に触れたことはなかった。男が初めて触れた女は、既に勝山という名で生きていた。


それから一月程は頻繁に勝山の下へ男は通うようになったのだが、ある日男は女に告げた。


自分はもう直、祝言を挙げる。だから後一回しか登楼出来ないのだと。


彼が抱いてくれるならば勝山としてでも構わない。それを拠り所にしていた女は男の話に言葉が出なかった。



かつての自分達のように、大店の娘を妻に娶り、近々自分が継ぐ店をより大きくするのだという。


こうして勝山の下に通い始めたのは、縁談が決まって未練を断ち切る為であったと続けた。


名を棄てた勝山を男はいつも新しい名で呼ぼうとはしなかった。しかし本当の名で呼ぶのは吉原の掟が許さない。


黙り込む女に、男は懐かしい渾名で呼び掛ける。


男が今でも自分を想っていてくれている。そう感じた女は、死んでもいいと思った。


アンタの邪魔はしない。だからアタシを殺してくれ。


その願いを男は断り、今の自分と同じ言葉を告げて生きろと言った。


お前が生きている限り、俺はお前を想っている。この気持ちはお前だけのものだ、と残して男は翌朝女が生きれぬ世界へと帰っていった。




それから二日後、男は最後の登楼をした。


一晩中互いを求め、一生分の契りを交わした。


やがて非情にも別れの刻限を迎え、これが今生と、男は女の唇に触れると呼び掛ける女を振り替えることもなく去っていった。女の想いは大門に阻まれ泣き崩れるより他なかった。



それからの自分は本当に記憶にないほど混乱していたと、勝山は思い出す。客の男に触れられる度に愛し男に罪悪を抱き、自分を案じる姉女郎の声も届かなかった。



胸を抉り続ける生に壊れていく自分に耐えられなくなった勝山は、心中立て用に売られている刃物を己の手首に当てていた。


妹の様子を案じた姉女郎がその場を目撃して男との約束を破ることはなかったが、あの時の自分は早く楽になることしか考えてはいなかった。



また疼く手首を撫でる。その時、部屋の前が急に騒がしくなり、襖が開けられたかと思うと、自分の大切にしている幼い妹達が何時もと変わらぬ笑顔で駆け込んできた。



「頼まれていた用事は終わったのかい」


「うん!姉さんに恥ずかしくないようにちゃんとやってきたよ」


元気よく頷いた一番幼い妹の髪を撫でてやる。これでは姉ではなく母親ではないかと可笑しくて笑みが溢れた。



今の自分には理由をくれたこの家族がいる。だから、未だ暫くは生きなければいけないのだ。




少し色褪せている簪を大切に仕舞い込み、自分も誉めてくれとはしゃぐ妹達の相手をしなければと耳を傾けることにする。


芙蓉にも、きっと笑顔が戻る日が来ると信じながら。





終わり。

この時の芙蓉は直五郎という存在に救われてはいても、廓自体には心休まる場所がないと気を張っています。だから、二人の事を抜きにしても頼りにしさせてくれる存在がちゃんとあるのだと気づいて欲しかった勝山姉さんです。


勝山にとっても橘は温かな存在でした。だからより身近の存在だった芙蓉を彼女なりに陰ながら心配しているんです。


一見派手に着飾ることを好むように見える勝山ですが、せめて生きるならば美しく胸を張っていたい。それが彼女の覚悟なんですね。噂になればきっと恋しい人の耳にも入る時がくる。だから尚更生きなければならない。妹分達の為だけではなく、約束を守って愛しているということを伝える為に生きているんです。



結果結ばれることはなかったとしても、これが二人の愛し方なんです。


ちなみに、邪魔はしないというのは、彼が万が一自分を身請けしたりするようなことがあったとしても、あまり周囲の聞えはよくないので枷になるようなことは絶対にしないということ。彼の迷いを見抜いての覚悟です。しかし他の男に抱かれて生きるのは地獄でしかないから、殺してほしい。それが叶わぬならば死にたい。


愛を貫く為に二人とも出家した平家物語の『横笛』を思い出します。




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