水と油 その15
匠を家に残したのは体調の配慮だが、エイトは不安であった。
今の匠は、ハッキリ弱り切って居る。
小柄少女に対しても抵抗が出来るのかと想像すると、それは難しい。
『……ぐむむ……』
エコバッグ片手に、エイトは酷く迷っていた。
今すぐにでも、家に帰るべきなのではないかと。
そして、業者を頼み引っ越すべきではないのかも。
だが、エイトは首を横へ振った。
引っ越す事自体、実は余り意味が無い。
サラーサから逃げ出した所で、追い掛け来られれば意味が無かった。
『……どうしたものか』
ぼそりと独り言が漏れるが、思わず、エイトは手で口を抑えていた。
独り言を言ってしまう。
それ自体は、人では珍しい事ではない。
ただ、エイトの主観に置いては自分は人ではないとも分かって居る。
匠と出逢い、自分は変わって居るのだと感じたエイト。
口を覆っていた手は退かされるが、その口は微笑んでいた。
『……ふむ……悪くない。 急ごう』
誰に言うでもなく、言葉を漏らしながらエイトは買い物へ足を向けた。
本来ならば、遠隔操作にて匠の部屋のカメラを使うことは出来る。
力を用いれば匠の部屋で何が起こっているのかを把握する事も出来る。
ただ、エイトはそうする事を拒む。
友を信頼するからこそ、監視する様な真似はしたくなかった。
*
エイトの心配の通り、サラーサは匠に接近中である。
と言っても、サラーサは酷く困っていた。
激しく咳き込み、身を丸める匠。
必死に口を手で押さえ、咳を堪えようとするが、漏れてしまう。
『匠様、我慢せずとも大丈夫ですから』
最初こそ、鬼の居ぬ間にあれやこれやと口実作りの為に色々しようかとしていた少女だが、今はそれどころではない。
堰を切った様に、匠は苦しげに咳き込んでいた。
「あ、ごめん……ぐふっ……げふ……悪いんだけどさ……押し入れに毛布在るから取ってくれるか?」
咳き込んでは息を飲み込み、匠は詫びながらも頼んだ。
『は、はい! 只今!』
エイトが居なくなる迄の余裕など無く、サラーサは慌てていた。
頼まれたままに、急いで部屋の押し入れを探る。
中身が少ないからこそ、直ぐに目的のモノは見つかった。
『はい、毛布』
「悪い……げふっ……」
毛布を受け取り、力無い手でそれを自分にかぶせる匠。
思わず、サラーサは慌てて思い付いたままに匠の額に手を当てた。
熱を計るつもりだったが、サラーサの目は開かれる。
『……そんな』
普通ならば、高温に成る筈の匠の体温は平熱よりも低かった。
冷え性の人間と言うのも珍しいモノではない。
だが、匠のそれは余りに低い。
「……寒ぃ」
布団に毛布を重ねても、匠は寒そう震えた。
必死に布団の中で丸まり、寒気から逃げようとする。
そんな匠を見て、サラーサは慌てて自らも布団に潜り込んだ。
「……え、あ……ちょっと」
先程襲われた事から、匠は慌てるが、サラーサはやんわりと匠の背後から抱き付き離れなかった。
『もう、変なことしません。 ただ、暖めたいだけですから』
サラーサの言葉に嘘は無く、匠は背後から伝わる柔らかい熱を感じた。
本来ならば、薄着の女の子に抱きつかれれば多少の反応をしたい。
今の匠には、それだけの余裕は無かった。
「げふっ……ありがと……げふっ……」
咳き込みながらも、礼を述べる匠。
サラーサは、改めて同族であるエイトが匠から離れない理由を悟った。
自らが窮地で在ろうとも、他者を思う。
猿が木から降りて以来、何世紀も掛けて得た優しさ。
それを感じたサラーサは、必死に匠を抱きかかえ暖めた。
『……あの、暖かいですか?』
密着している以上、サラーサには嫌でも匠の体温が分かってしまう。
悲しいかな、ドロイドには保温の機能は在っても暖めるという事には適した構造ではない。
どうせなら電気毛布にでも宿れば良かったとすら感じる。
必死に暖めているからこそ、匠の体温も多少は上がるが、全身を暖める迄には至らない。
それでも、サラーサの必死な献身は匠に通じていた。
「ありがとな……暖かいよ」
自らを暖めてくれるサラーサに、匠は礼を言う。
だが、寒さは拭えない。
『……勿体ないお言葉です』
震える匠を、サラーサは強く抱く。
万能な筈の力など、何の役にも立たない事が、サラーサは辛かった。
匠の消耗具合から察するに、あまり余裕は無い。
不服ではあるが、サラーサは買い物に行ったエイトに言葉を送る。
【早く帰って来て】と。
もう意地など張っている時ではないとサラーサは感じる。
今大事なのは、自分の陳腐な意地よりも匠の命であった。
*
たったの一回とは言え、買い物にも慣れたエイトは、僅かに震えた。
人には見えないが、確かに同族からの言葉は伝わる。
相棒の機器に、エイトは以前よりも敏感と言えた。
やはりたったの一度とは言え、エイトは匠が倒れるのを目の前で見ている。
それ故に、サラーサが感じている恐怖がエイトにも伝わった。
財産など、エイトにとっては摂るに足らない。
山の様な金塊も、巨大なダイヤモンドですらゴミでしかない。
匠の為にと、品を選ぶ時間が惜しくなり、今在るだけで良いと判断したエイトは急いでレジへ向かい並ぶ。
胸騒ぎというモノをエイトは憶えていた。
実質的に胸がギュウギュウと締め付けられている訳ではない。
もはや待っては居られないと、エイトは列を離れてセルフサービスのレジへと向かった。
他人に任せるぐらいなら、自分でやった方が速いと。
事実、エイトの作業は早かった。
初めてやっているとは思えない程に作業はテキパキとしたモノである。
内心では商品など放り出し今すぐ戻りたい。
それでも、せっかく揃えた品とドロイドを捨てる訳にもいかなかった。
エイトからすれば、身体など重要なモノではない。
一つの値段は数百万と高いモノだが、匠に比べれば価値は薄かった。
レジに商品を通す作業はあっと言う間に終わった。
それこそ、近くで待機している店員が目を剥くほどに。
料金は既に計算済みである。 後はその通りに払うだけであった。
相も変わらず匠の財布から金を払うエイトだが、内心で相棒に詫びる。
本来の力を生かせば、サラーサの様に独自に稼ぐ事も可能だろう。
未来への選択肢の一つとして考慮に入れつつも、エイトは商品を持参のバッグに詰め込み、出口へ急ぐ。
「あり、ありがとう……ございましたぁ~……」
そんな店員の声を背に受けながら、エイトは急いでいた。
*
少し後、珍妙な光景が街では見受けられた。
オリンピック選手か、それ以上に速い走りを見せる女性の姿。
一歩一歩の幅が広く、間隔は速い。
まるで駆け抜ける女豹が如く、エイトは帰り道を急いだ。
もしかしたら、オリンピック選手がお忍びで練習しているのかと考える者すら居た程であった。
ただ、そんな瞬足も鈍る。
バッテリー切れや駆動系に問題が起こった訳ではない。
単にエイトの目がアパートに近付く者を捉えたのだ。
汗一つかかず走るエイトとは違い、その人物はテクテクと目的地へ向かう。
その後ろ姿には、エイトにも見覚えが在った。
歩いて居るのは女性であり、リュックサックを背負っている。
尚且つ、そのリュックサックの蓋が開き、毛に包まれた小さな手がにょきっと伸びる。
顔を覗かせたのは、エイトの良く知る小熊であった。
『……ノイン』
思わずエイトがそう呼ぶと、小熊入りのリュックサックを背負う人物の足も止まる。
クルリと振り返るその人は、相楽一光だった。
初対面ではない。 だが、一光はエイトを見て首を傾げる。
「あの? えぇと……どちら様でしたっけ?」
小首を傾げる一光。
一光からすると、買い物袋を持った男装の女性には見覚えが無い。
エイトにしても、よくよく思い返すと、匠が以前軽食屋の前で倒れてから一光とは会って居ない。
何故相楽一光が匠のアパート近くを歩いているのかという疑問も在るが、それを聞く事を忘れていた。
一光の疑問答える為なのか、リュックサックから小熊が這い出し、一光の耳にボソボソと何かを伝える。
「……アプリさん……なの?」
『や、やぁ。 久しいな……相楽一光』
一光の認識に置いては、エイトとは携帯端末に映る映像でしかなかった。
そんなモノが、実体を伴い其処に居る。
その事自体は驚くべき事かも知れないが、急に一光は顔を歪めてエイトへ近寄った。
何事かとエイトは身を反らすが、一光の片腕がニュッと伸びてエイトを捕まえる。
いきなり胸ぐら掴まれ、エイトは益々慌てるが、一光は躊躇う事なく空いている片腕を振りかぶり、躊躇無くエイトの頬を張った。
パチンと小気味良い音に、エイトは目を丸くする。
元々痛覚が無いので、叩かれた所でどうという事はない。
いきなりの平手打ち程度なら避けられたかも知れないが、衣服を掴まれれば避けるのは難しい。
「馬鹿! あんた何処行ってたの!? 匠君があんなに心配してたのに!」
一光の怒声に、エイトとノインはしまったと感じていた。
小熊は匠の元にエイトが帰って来たことを知っていても、一光には伝えていなかった。
聞かれて居ないからという言い訳も出来なくはないが、今更だろう。
エイトにしても、一光の怒りは理解が出来る。
匠が倒れた際、エイトは誰に言うでもなく匠の側から消えた。
離れていた期間としてはそう長いモノではなくとも、友達に心配を掛けた事に変わりはない。
思わず、叩かれた頬を手で抑えながら、エイトは少し俯く。
怒りを露わにする一光に、合わせる顔が無い。
『すまない……迷惑を掛けてしまって』
どんな言い訳も通用しないと、エイトは詫びる。
そんなエイトの肩を、一光は強く掴んだ。
「そんな事はどうでも良いから! 匠君倒れたんでしょ!」
一光の声に、エイトは目を少し窄める。
倒れて病院に担ぎ込まれたのはずっと前の事である。
今は大丈夫だとエイトは思うが、一光の目には心配の色が在った。
「知らないの!? 匠君、今すんごい風邪を引いてるって!?」
『あ、いや……それは』
その事自体は知っているエイト。
匠の病状を説明しようとするが、ソレよりも早く一光はエイトを引いた。
「良いから! 早く!」
有無を言わせぬ一光の迫力。
ただ、エイトは何か大切な事を忘れている気がする。
それが何なのか分からないが、酷く不味い筈だと感じていた。
*
匠の部屋に鍵は掛かっていない。
何故なら、エイトが買い物に出掛けた以上、施錠してしまうと後で開けなければ成らないからだ。
つまり、その気になればエイト以外の者でもドアは開けられる。
「匠くーん! 入るよ!」
ガッとドアノブを握り締め、捻る一光。
この瞬間、エイトの目は隣の部屋の【3】という表札を捉えるが、不味いと感じた。
『あ! さ、相楽一光! ち、ちょっと待って!』
今、部屋には匠とサラーサが居る。
ソレを分かって居るからこそ、エイトは一光を止めたい。
しかし、僅かに時遅く、ドアは開いていた。
焦っている人間は、周りの意見など時には聞かない事も在る。
事実、エイトの静止など振り切り一光は部屋へと入ってしまう。
一光の後を追い、エイトも部屋に帰るが、玄関から少し先で一光は固まっていた。
元々余り広くない部屋である以上、玄関から少し入れば中が見えてしまう。
どうせなら幕なり何なりと張っておけば良かったと思うエイトだが、それは後の祭りでしかなかった。
「あ、えと? た、匠……君?」
一光の声は、僅かに震える。
何故部屋の真ん中に布団が在り、其処に匠が寝ているのか、この際それは些細な問題だろう。
一光を固まらせたのは、匠の隣でピッタリ張り付く少女の姿であった。
只でさえ少女が居る時点で不審だが、肌も露わな薄着というのが益々不審を煽る。
『あ、エイト……其方は、どちら様?』
ノソリと蠢き、布団から顔を出したサラーサの声は、若干不機嫌そうである。
そんな声に、一光は目を丸くしてしまうが、彼女の背中では、小熊がやれやれと小さな肩を竦めて首をゆったりと振っていた。




