空っぽの島へ その13
バビロンには外国人の客も多く、言語は様々に飛び交う。
それでも、特に匠が言葉で困るという事は無かった。
店舗などに置いては、翻訳機が設置されており、それに話し掛ければ自動的に相手に伝わる様に配慮されている。
貨幣にしても、腕時計型の機器によってクレジットカード式の電金を使うのか、自前の財布から払えば良い。
幸いにも、バビロンは世界中の国際通貨が使える。
その事に感謝しつつ、匠は、ホテルの売店で買い物をしていた。
スポーツドリンクやお茶入りのペットボトルは問題無い。
だが、いざ目的の品を手に取るとなると、匠には躊躇が在った。
買った事が在るのか無いのかを言えば、在るには在る。
但し、それは店舗などで買うという形ではなく、自動販売機や通販でコッソリという事が殆どであった。
他の客の眼も在るからか、どうにも小さい小箱が手に取れない匠。
棚のモノは手を伸ばせば直ぐに取れるのだが、それが上手く行かない。
人が来る度に、サッと動いて違う品を見繕っている様に振る舞う。
人が退いてから、また悩む。
間違い無く、匠は時間を浪費していた。
実際の所、匠とは違いサッと【小箱】を買って行く者は多い。
旅行先だからか、寧ろ開放的な気分となり、連れ、もしくは旅先で出逢った異性と楽しむ。
事実、一光にしてもそれが起因と成り、匠との関係を一歩進めようとしたのだ。
まだ日は高い。 夜でなくとも、それらが必要な者は多かった。
「……参ったなぁ……情けねぇや」
本来なら、勢い込んでサッと小箱を手に取り、会計へ向かえば良い。
売店の店員にしても、やたらとペットボトルを抱えてウロウロしている方が気になる。
そもそも、一日何百と客が訪れる以上、その客一人一人が何を買い、どんな顔をしていたのかなど覚えて居られる筈もない。
もし、それが可能ならばその人物は途方も無い記憶力の持ち主か、実に明晰な頭脳の持ち主といえる。
店員が、チラリと匠の方を窺えば、未だに何かを迷い彷徨いていた。
買って意気揚々と部屋に帰れば良いのだが、悲しいかな、匠に其処までの大胆さは無い。
ソレが原因で、一光ともなかなか仲が進まなかったという事の原因であった。
*
匠が、売店の棚の前を発情期の熊の如くウロウロしている時。
連れである一光は、とうに昔に風呂で全身を磨き上げ、準備を終えていた。
バスローブとショーツだけという色っぽい姿でベッドにうつ伏せに成り、脚を泳ぐ様にパタパタとさせる。
「……匠君……遅いなぁ」
頭を頬杖で支えながら、一光は悩ましい息を吐く。
スポーツドリンクを買いに行ったしては、余りに遅い。
準備万端にも関わらず、余りに暇なので、一光は持参のザックに目を向ける。
「ね、ノイン」
呼び声に、ザックからは毛に包まれた手がにょきっと生える。
そのままもぞもぞと蠢くと、小熊が顔を覗かせた。
『はい、ご主人』
「お願いなんだけどさ……その、えーと」
自分がこれからナニをするのかを言い難い一光に対して、小熊は目を閉じて頷く。
『分かっております。 彼が帰ってきたならば、僕はスリープモードで待って居ましょう。 そうすれば、外部からコンタクトされない限り僕は何も見えないし、聞こえませんから』
ノインの気遣いに、一光は「そっか」と軽く返す。
一旦は顔を小熊から反らした一光だが、そのままだと暇だからか、今一度ノインへ顔を向けた。
「ねぇ、ノイン」
『はい?』
ザックの中へ戻ろうとしていた熊は、のそりと顔を出す。
「……変な質問かも知れないけどさぁ……私と匠君ってどう思う?」
一光の質問は、将来への不安を現して居た。
肉体的な関係を結んだからといって、それが将来の約束とはなり得ない。
セックスイコールは結婚ではないからだ。
主の質問に、小熊は眼を窄めた。
『これは仮定ですが、もし、ご主人が加藤匠を不満に想うので在れば、今すぐこの部屋から出て新しい雄を探す事をお勧めします』
「……え?」
一光は当惑するが、ノインからすれば当たり前の話であった。
エイトやサラーサがそうである様に、ノインもまた、一光を想っている。
匠を応援しこそすれども、何も匠の絶対的な味方でもない。
「な、なんで……そう思うの?」
うつ伏せを止め、アヒル座りに体勢を変える一光に、小熊は小さな片手で窓の外を示した。
『此処は、世界中でも有数のリゾートで在ることに変わりは在りません。 それこそ、世界中からお忍びで有名人著名人、富豪など、加藤匠以上の男性は山と居ますよ? ご主人がその気ならば、それらの人物とコンタクトを取り、彼等と関係を結んだ方がより良い環境を得られるかも知れません』
ノインの声に、思わず一光は窓の外を見た。
其処でふと、一光はブランドショップ街の事を思い返す。
匠と一光が値段を見て目を白黒させている横では、平然とそれらを買っていく者は多かった。
寧ろ、値段など些末な事を彼等は見ていない。
気に入ったモノが在れば、端的に【コレをくれ】と買っていく。
客の中には、匠と一光が何故気に入った品を買わないの不思議がる者まで居た。
「えっと……でもさ……そう言うのは」
『おかしな事ですか? より良い環境、より良い異性を、配偶者候補を求めて、此処へ来る人間は多いですよ? 旅先で富裕層へ近付き、あわよくば自らを広い上げて貰おうとする者は多い。 事実、このホテルにも居ますよ。 一番安い部屋に複数人で共同して泊まり、機会を窺って居るのでしょう』
ノインの言葉に、一光はそれらの者達が軽薄だとは思わない。
ヤドカリが背負う貝殻を変える様に、必要ならばそうしようとする気持ちも分からなくはなかった。
「ノインは、それで良いの?」
一光からすると、小熊は必要ならば匠を切り捨てろと言っている様にしか聞こえない。
『良いも悪いも……僕はご主人に幸せに暮らして欲しい。 常にそう考えていますから。 彼は友人ですが、必要ならば、そうしてください』
ノインの声には、一光は頷きそうになる。
正直に言えば、ブランドショップ街でも欲しいモノは多かった。
買って帰り、身に付け、自慢したい。 そんな欲は一光にも在る。
だが、慌てて首を振ってそれを払う。
欲に限りが無いことは一光と分かっていた。
欲しい欲しいだけを拗らせると、それは際限なく膨らんで行く。
最後には、何も残りはしない。
ただ、ふと一光はノインの【友人】という言葉が気に掛かった。
「あれ? ノインは、匠君と仲良かったっけ?」
一光の主観に置いては、匠とノインの仲はお世辞にも宜しいとは言えない。
何せ、事ある毎にノインは匠がこう駄目だと罵ってすら居た。
主の質問に、小熊は鼻を少し唸らせる。
『僕の意見は……』
「良いから、聞かせてよ」
一光から頼まれれば、ノインも断る訳には行かなかった。
『あくまでも僕は僕の意志で語ります。 彼は友人であり、僕は彼をそれなりに買っては居るんです。 僕も彼に助けて貰ったし、僕も彼を助けましたからね!』
この時のノインは、ヤケに自信有り気に鼻を鳴らした。
そんな小熊の声に、一光も興味が湧いていた。
「へぇ……匠君てさ、ノインから見てどんな奴?」
『悪く言えば馬鹿野郎です』
「は?」
いきなりの発言に、一光は目を丸くする。
友人へのほめ言葉としては、【馬鹿野郎】は的確とは言い難い。
『ですが、良く言えば、放って置けない奴でしょうか? 一応、僕も彼には恩義は感じて居るんです』
「何か……在った?」
先を促す一光の声に、ノインは少し悩んだ。
今の主である一光と出逢う前、それまでしていた事は誉められた事ではない。
だが、特に口止めもされては居なかった。
『ご主人は憶えて居ますか? 彼が三十円を置いて行った時の事を……』
目を閉じて語る熊の声に、一光は以前の事を思い返していた。
以前、匠とエイトがノインを連れて来た時、どうやって連れて来たのかを語っては居ない。
唐突に【頼む】と言われただけだ。
「あー……なんか、懐かしいかなぁ」
朗らかに過去を懐かしむ一光に、ノインは自分の過去を語るべく記憶を呼び起こす。
『あの時、僕は前のご主人に仕えて居ました…』
「………え?」
自分よりも前に、ノインに持ち主が居た事に一光は驚く。
当たり前だが【はいどうぞ】と譲る人間など、居はしない事は分かっていた。
試した事はないが、尋ねてみたことは在る。
ノインにしても、同族の誰もが、電子機器に好きな様に干渉し、ネットワークを思うがままに操れる。
その力自体、今まで一光は悪用した事は無かった。
仕事である商店の経営に没頭していた事も在るが、万が一を考えると恐ろしい事すら可能だろう。
となると、簡単に【前の主人】がノインを簡単に明け渡すとは思えない。
事の真相を聞くべく、一光はノインの声に耳を傾けた。
『今考えれば、情け無い話です。 言われるがままに動き、人のお金を盗んでいた。 あの時は、僕もそれが【悪い事】だとは想ってませんでしたから』
小熊の話は、段々も影を増していく。
これ以上話を聞くのは止めようかと一光は悩んだが、興味が勝っていた。
「え、じゃあ………前の……人は……どうしたの?」
『悲しいとは、僕は思ってません。 元々良い主人とは言えませんでしたから。 とは言え、死体に鞭打つ気は在りませんよ?』
小熊の所見はどうであれ、ノインの前の主人は死んでいた。
その事実に、一光は唾を飲む。
「えと、し、死んじゃったんだ? じ、じゃ、もしかして?」
『はい。 ですが、ご主人が考えている様に彼が殺してはいませんよ?』
ノインの前の主人を、匠が殺した訳ではないと知り、一光も安堵を覚える。
『彼は寧ろ……助けようすらして居ました。 ただ、バスの残骸に挟まれ、引っ張っても出なかった。 それをみた前の主人は何を想ったのか、僕を抱えた彼を突き飛ばしたんですよ。 もう良いって』
自分の知らない所では、凄まじい事が起こっていた。
その事に、一光は息を飲む。
「……そっかぁ、匠君……らしいのかな?」
今の主である一光の言葉を、小熊はウンウンと吟味する。
『そうですねぇ……僕の体は、別に守って貰わなくとも大丈夫。 ですが、彼は二度も僕を抱えてくれましたから』
「そうなの?」
『ナナと戦った時も、彼は僕を抱えてくれました。 まぁ、負けましたけど。 次は二回目の入院をした時ですね』
昔を思い返す小熊の声だが、一光は、匠が入院した事は知っているが、その間に何が在ったのかは知らない。
「え? ノインは匠君の面倒見てて……」
『ソレはソレですよ。 あの後、ご主人とオマケ二人が出た後の事です』
オマケが誰なのかは分かるが、それは問わず、一光はノインの話を聞く。
『変なアホウが何人か来ましてね……その後は大変でしたよ。 動けないフリを演じながら、八面六臂の活躍で僕は彼を助けたんです!』
小さい手が、ポフンと胸を叩く。
「………嘘」
匠の病を治す為に、自らも奔走していた一光だが、知らない裏ではとんでもない事態が起こっていた。
『嘘ではないのです! 悪党をバッタバッタとなぎ倒し! まぁ何とか成ったんですよ。 主に、僕のお陰でですけどね』
小熊の自慢話には、多少鰭が多かったが、概ね間違いではない。
『その後です。 拉致に使われた車が横転してしまいまして……その時も、彼は僕を抱えてくれました。 必要は無いんですがね』
誉めて居るのか罵っているのかで言えば、ノインはそれなりに匠を買っていた。
『非常時に置いては、本来生き物は自分を優先するモノです。 それが本能なのですから。 ですが、彼は他者を優先してしまう。 だからこそ、放って置けず、皆が彼を助けてくれる。 勿論、僕もです。 彼ほどの馬鹿野郎は、そうは居ないといえますね』
小熊の匠への評価に、一光はスッと座り直し、膝を抱える。
「もしだけどさ……私が危ない時でも、匠君は助けてくれるかな?」
何かを期待する様な主の声には、小熊も頷く。
『それは請け合いますよ。 まぁ、僕の方が先に駆け着けますけどね!』
「ありがと、信じてるから」
一光の声は、小熊に言ったモノだが匠への信頼を現してもいた。
*
小熊と主が話合う中、匠は買い物を無事に終えていた。
終始悩みに悩み抜いたが、最後は意を決して小箱を取って会計へと進んだのだ。
その際、余りにウロウロしていたせいで店員に顔を憶えられ、終いには【頑張れよ】と声まで掛けられたら程である。
応援は有り難いが、気が重い。
「………何だかなぁ……まぁ、買えたから良いけどさぁ」
結局の所、匠が買ったのは飲み物のボトル二つに小箱が一つ、後はサンドイッチである。
運動したら腹が空くだろうという事も在るが、本質的には小箱への迷彩を兼ねていた。
ともかくも、買い物を終えた匠がホテルの部屋に近付くと、誰かの姿が在る。
まさか一光かとも想ったが、それは違った。
綺麗に手入れが成されたホテルの制服を纏うのは、壮年の男性。
『カトウ様ですね?』
「はい? はぁ、そうっすけど」
低く落ち着いた声に、匠は相手を窺う。
ホテルの従業員らしい男性は、白い手袋に包まれた手で銀のトレイを持ち、匠を待っていた様だ。
「………何か?」
『これは失礼を……当ホテルの支配人から、サービスとしてコレが届いて居ります。 お納め下さい』
そう言うと、壮年の従業員はトレイを匠に差し出した。
銀色のトレイの上には、白い布が掛けられたシャンパンの瓶に、何かの紙が二つ折りにされ添えられている。
「あの、コレ?」
状況が飲み込めず、一応はトレイを受け取った匠に、壮年の男性は微笑む。
『シャンパンはサービスです。 便せんの内容は私には分かりませんので、ソレでは』
ぺこりと頭を下げると、従業員は踵を返し去ってしまう。
廊下に残された匠は、訝しみながらもソッと片手で便せんを持ち上げ、中に目を通す。
紙に書かれた流麗な文字を見るなり、匠の瞳はキュッと窄まる。
【拝啓 加藤匠様 エイトとサラーサは預かって居ります。 御安心ください、二人とも元気ですから。 さて、要件と致しましては、本日午後六時、其方へ迎えを寄越しますので、それに従ってください】
言葉こそ丁寧だが、便せんの中身は、誘拐事件の脅迫状としか見えなかった。