価値観の違い その9
自宅に帰るなり、匠はウッと呻いた。
と言うのも、ドアを開けた暗い部屋の中には、腕を伸ばしたまま頭を落とす少女が立っていたからだ。
これは何事かと慌てそうに成るが、よくよく思え返して見ると納得も出来る。
出掛ける前に、サラーサをスマートフォンに移したのは匠であった。
「………あー、びっくりした」
『うん? どうした?』
匠の声にエイトは呼応し顔を覗かせる。
エイトの目にも、頭を垂れている少女は見えた。
『良いから! 早く戻してくださいまし!』
匠のポケットからは、そんな恨みがましい声が響く。
それを聞いた匠は慌ててポケットに手を伸ばすが、エイトの手が止める。
「お、おい?」
戸惑う匠に、エイトは空いている片手の人差し指を当てて、【静かに】と暗に示す。
『ちょっと! 聞いてますか!? もしもし! もしもーし!』
匠のポケットからはサラーサの声が響くが、エイトはそれに取り合わず、サッと部屋に入ると腕を伸ばしたまま固まる少女を抱えた。
一瞬、サラーサだった少女が倒れるかとも想像した匠だが、実際にはそのままエイトに運ばれる。
端から見ていると、何かのマネキンでも運ぶ様にも見えなくはない。
何故なら、少女の体勢は担がれても崩れず、そのままの姿勢だからだ。
『……ふぅ……コレで良し』
そんな言葉と共に、エイトは少女を部屋の端っこに置いてしまう。
それだけ見れば、まるで趣味の悪い物体に見えなくもない。
『コレは当分此処で良いだろう? ソレよりもだ、夕食はどうする? 良ければ、私が用意するけど』
「んー、じゃあ………お願いしようかなぁ」
せっかくの申し出を断るのも、気が引ける匠だが、ソレよりも気を向けて居るのはポケットの中の騒ぎであった。
『ちょっと!? エイト! おかしいでしょ! ちょっと匠様! お願いですから出してくださいまし!』
サラーサの懇願に、匠は困る。
このままポケット中で呪い節を聞かされては神経がおかしく成りそうだ。
『丁度良い、友よ、サラーサの相手を頼むぞ?』
「えぇ? ちょ、えぇ……」
早速とばかりに着替えを始めるエイトに、匠は、思わず体ごと目を背けた。
「な、なんでいきなり……」
匠の声に、丁寧にワンピースを脱ぐエイトはウンと鼻を鳴らす。
『何を言う? 調理でコレが汚れては元も子もなさすぎだろう?』
「そりゃ……まぁ、そうだけどよ」
『君も意外に堅物だね? 見ても構わないのに』
「俺は……構うってか……」
エイトのからかう様な声に、匠は戸惑う。
一光と同じく、匠は今までエイトに対して【自分よりもカッコ良い】と感じていた。
顔が良ければ何を着ても似合うという言葉通り、自分の衣服を着ている筈なのに、まるで違うモノの様にも思える。
だが、いざ服を変えたエイトは、女性として見えていた。
一光が気を利かせて付けたグロスが、エイトの唇を艶やかに彩り、よりらしさを匠に感じさせる。
エイトは、自分にとって何なのか。 匠はそれを考え出していた。
以前はただの画面に映るだけの相棒だった。
それが今では、身体を持ち其処に居る。
魅力的であるか無いかを言えば、後者なのだが、何かが匠を押し止めている。
それが何なのかを、必死に吟味するのだが、上手く行かない。
『だぐまざまぁ! だじでぐだざいいぃ……』
世にもおどろおどろしい声が、匠のポケットから響いた。
脅す様な声色ではなく、ただひたすらに助けを請う。
そんなサラーサの声に、匠はとうとう根負けしていた。
「……あー、悪かった悪かったって……」
詫びる匠の目にスマートフォンの画面が映る。
其処には、涙を滝の如く流すサラーサが居た。
『あんばりでずぅ……あれぼどおづがえじだのにぃ……』
嗚咽混じりのせいか、サラーサの声は聞き取り辛いが、聞こえなくはない。
「だからさぁ、悪かったって………おーい、エイトぉ!?」
自分だけでどうすれば良いのか迷う匠は、思わずエイトに助けを求める。
サラーサの泣き言聞いている間に、とっくに着替えを終えていたのか、エイトはTシャツにジーンズというラフな格好であった。
『その調子だ、頑張って!』
片目を閉じてウインクを贈りつつも、片手を握り締めてグッとガッツポーズを見せるエイトに、匠は青ざめる。
「頑張ってって……えぇ? おーぃ……」
『だぐまざまぁ……ばなじばおわっでまぜんよぉ……おぜっぎょうをぎいでぐだざいぃぃぃ』
「……あー、はいはい……ちゃんと聞いてますからぁ」
困った匠と、嗚咽混じりに呪い節を全開で撒き散らすサラーサ。
騒がしくとも、微笑ましいそれを笑いながら聞きつつ、エイトは台所へ立った。
『………さてと……どうしたモノかな』
どうせなら、あっと言わせる様な料理を披露したいところだが、生憎と買い物はしていない。
冷蔵庫の中には余り材料はないが、それでも、何とか出来る筈だとエイトは模索を始める。
如何に時間を浪費しようとも、何でも使って良いならば、どんなボンクラでもそれなりに旨いモノを作ることは可能だ。
だが、限られた時間、限られた材料、限られた条件の元に旨いモノを作る。
苦境だからこそ、それを糧に閃きを見い出す。
エイトは、それを必死に模索していた。
*
騒がしい夕食後。 入浴を済ませ、後は寝るだけである。
忙しい一日だったせいか、普段以上に疲れた様な気がする匠は、直ぐにでもベッドへ行きたい。
「……あー、参った……寝るかなぁ」
長い息を吐き出し、床に着こうかどうかという時。
匠の背後から、シュルッと衣擦れの音が聞こえた。
自分は既に寝間着代わりであるジャージに身を包み、サラーサの体は部屋の隅で固まっている。
となると、音を一人しか思い付かない。
ハッと其方を向いた匠は、目を丸くしていた。
ほんの少し前までは、エイトはTシャツとジーンズという格好だったが、なんと、ジーンズを脱いでいた。
先程の音の正体を知った匠だが、まだ驚きの理由は在る。
サラーサは別にすれば、基本的に衣服に対してエイトは無頓着であり、それは下着も同じであった。
だが、今は違う。
色味こそ派手ではないが、扇情的な下着がシャツの裾から覗く。
「と? エイト?」
『ん? 寝るんでしょ?』
「まぁ、そりゃ」
『じゃあ、ほら』
何を思ったのか、エイトは匠に先んじてベッドへ近付き、布団を持ち上げる。
口では言わないが、さぁどうぞと云う仕草に、匠も戸惑いながらも寝床へと入った。
直ぐ後に、エイトもさも当然と云う様に続く。
灯りを消さんと、垂れ下がる紐に細い手が掛かっていた。
「エイトさん?」
『寝るんでしょ?』
あたかも当然というエイトの声に、匠は、思わず首を縦に振ってしまった。
程なく、部屋の灯りが落ちる。
今更ながら、誰かと床を共にするのは匠に取って意外と言えた。
普段ならばサラーサとエイトが揉める為に、その間に寝てしまう事が多い。
翌朝、二人のどちらかが横に居て、起きてから驚かされる事は在ったが、今は違った。
「……狭く、ないか?」
『……別に』
元のベッドがシングルである以上、大人二人が寝れば空間は限られる。
如何にエイトが細身とは言え、それは変わらない。
それ故にか、スッとエイトは横を向いた。
『腕……貸して』
匠の耳に、擽る様な甘い声。
普段ならば、聞いたこともない飼い主に甘える子猫を想わせる。
「お、おぅ」
男らしい返事というモノも思い付かず、匠は、ソッと腕を横へ伸ばす。
直ぐに、エイトの頭が匠の肩に乗った。
それだけに留まらず、細い腕と脚が、匠に絡む。
『……寒くはない?』
そう言うエイトの頭を、匠はソッと炊き、空いている片手で撫でた。
「あったけぇよ……」
匠の愛撫と声に、エイトの鼻が嬉しそうに唸る。
エイトに寄り添われ寝る匠だが、不思議と欲は湧かない。
昼間にエイトの言葉を聞いたせいかとも考える。
行為に意味が無いとしても、する事は可能だとも分かっていた。
パッと見でも、今体に感じる感触でも、エイトの女性らしさは伝わる。
だが、何故か匠の中に情欲は湧いては来なかった。
それでも、自分に甘える様なエイトを、匠は慈しみ撫でる。
その内、匠は静かに寝入っていた。
*
匠の意識が眠りに落ちてから、一時間程が過ぎた頃。
ふと、部屋に置かれたスマートフォンの画面が灯った。
『エイト。 そろそろ良い?』
夕食までは騒がしかったサラーサだが、逆にそれ以降は不思議な程に沈黙を保っていた。
だが、匠が寝入ってからか、エイトに声を掛ける。
そんな声に、ベッドの布団がもぞもぞと動く。
布団の隙間を最小限に、エイトがスルリとベッドから出て来た。
『匠なら寝ているよ。 それよりも、君にしては随分とお行儀が良かったじゃないか』
そう言うと、エイトはスマートフォンを拾い上げ、部屋の隅で固まる少女へ寄せる。
がくりと頭を落としたまま固まる少女だが、スマートフォンの画面が消えるなり、直ぐに頭を上げ、首を左右へ傾けていた。
『……あぁ、変な体勢で居たから、首がこってしまいますよ』
『白々しい。 凝りなど無いだろう?』
エイトの指摘に、サラーサは肩を竦める。
『ま、それもそうですね。 さぁてぇとぉ?』
身体を取り戻したからか、早速とばかりに匠の眠るベッド向かうサラーサ。
その顔には、少女とは思えない笑みが浮かぶ。
例えるならば、美味そうな獲物を見付けて舌なめずりをするオジサンと言った風情である。
そんな危ういサラーサの肩を、エイトが掴み止めていた。
『待てぃ、貴様……何をするつもりだ?』
止められたサラーサ、ゆっくりと振り向く。
『何って……匠様を慰めて差し上げようかと?』
ナニかをしようと企むサラーサに、エイトは目を窄めた。
『余計な真似を……友が喜ぶと思うか?』
そう言うエイトの手を、サラーサは軽く振り払う。
『喜ばせて見せますよ? というよりも、エイト。 一つお尋ねしたいのですが?』
『………なんだ?』
エイトの声に、サラーサは距離を詰める。
身長差が在る故に、少女は爪先立ちだが、ジーッとエイトの目を見詰めた。
『どうして貴女は匠様を慰めて差し上げないのですか?』
部屋が暗い以上、普通の人間には見えないが、エイトの目は、自分を訝しむ様に見る瞳を捉えていた。




