水と油 その25
叩き飛ばされたとしても、アルに取っては大した問題ではない。
叩かれた場所には支障が在るが、まだ動ける。
問題なのは、怒りに顔を歪めて棒を振りかぶっている一光だろう。
降伏しなければ、このままアルをボロボロに成るまで殴りそうな勢いである。
このまま、ジッと黙って耐えれば或いは勝てるアルだが、それは選びたくなかった。
「待って………」
片手を伸ばして、手を広げて何も持っていないと示す少年。
その様は、【負けました】という雰囲気ではない。
それでも一光の反らす事は出来ていた。
「何?」
怒っている一光の声は、言い残す事が在れば早くしろと言わんばかりである。
そんな声に、アルはパタンと身体を倒していた。
「……もう良いよ……僕の負け」
この場を収める為に、アルは言いたくない言葉を漏らした。
もっと悔しい気持ちに満たされるかとも思って居たが、意外な程に気分は悪くない。
しかしながら、勝手に降伏したからといってそれを一光が受ける道理はなかった。
「負け? 何が負けなの? あんた……あんだけの事して……すいませんで済ませる気?」
一光は、未だにサラーサを潰された事を怒っている。
ただ、その潰されたサラーサもまた、怒っていた。
アルと一光から少し離れた所では、少女を押し潰した大型の蜘蛛ドロイドが起き上がって居たのだ。
ガキャガキャと喧しい音を立てながら、蜘蛛は猛然と一光とアルの元へ走る。
『ソ ノ ト オ リ デ ス!!』
野太く実に聞き取り辛い合成音声が、蜘蛛から吐き出される。
見える光景は異様であり、一光は勿論、エイトも目を細めていた。
大きな機械蜘蛛は、同じ様な虫達を押し退けながら走る。
エイトとサラーサが苦戦した事自体、まるで嘘の様であった。
ガシャコンガシャコンとけたたましい音を立てながら走る蜘蛛。
その様は、まるで暴走特急と言えない。
エイトが抑えて居た筈の虫ですら、大型の蜘蛛は容易く踏み潰して退けて進む。
『ドウシテクレルンデス!? コンナブザマナスガタ!! タクミサマニハトテモミセラレナイノニ!?』
抑揚は最低限しかないが、それでも、蜘蛛が酷く怒っていると同時に、酷く悲しんでも居るというのは、一光にも理解が出来た。
但し、その口調、言葉遣いには憶えが在る。
「あ……えと……サラー……サ?」
思わず、一光は思い付いたままに呼んでみるが、すると、蜘蛛は幾つものであるカメラを一斉に一光へ向けていた。
『ハイ、ソノトオリデスガ? ナニカ?』
「………し、死んだんじゃ?」
『シンダ? ワタシガデスカ? カッテニコロサナイデクダサイ! タクミサマヲタスケズニ、キエルワケニハマイリマセン!!』
サラーサが死んでは居ないという事実は有り難い一光だが、野太い声は余りに耳に心地良いモノではない。
ましてや、三メートルは在りそうな大型の蜘蛛が喋っていると言うのは、実に珍妙かつ不気味な光景でしかなかった。
「あー……うん、ごめんなさい」
とりあえず一光が慌てて謝ると、大型の蜘蛛は溜め息でも吐くかの様に頭を落とすが、直ぐにソレをアルへと向けていた。
『デ? ドウスルンデス? サッサトチリョウヤクヲワタシナサイ!! サモナキャ、コノヘンイッタイヲコワシテマワリマショウカ?』
ドスの利いた野太い声で、蜘蛛は少年を脅す。
ソレを聞いたからか、アルは目を閉じていた。
「勘弁してくだいよ。 負けたって言ったでしょうに」
蜘蛛に責められたらからか、少年は面倒くさそうに半身起こすと、ポケットから小瓶を取り出し、一光の方へ転がす。
「……あ…ちょっと」
一光は少し慌てるが、小瓶を拾ったのはエイトだった。
小瓶を大事そうに抱えながらも、エイトはアルを見下ろす。
その目に冷たさは無く、寧ろ憐れむ様な色が在った。
『何故こんな事をした?』
エイトの声に、アルは俯く。
傍目には、まるで母親が子供を叱っている様にも見える。
そのせいか、一光と蜘蛛は黙ってしまった。
問われたアルは、俯きながら笑う。
「何故かぁ……前も言ったよね? エイト、一緒に仕事しようってさ」
『あぁ、今日も言われた』
「僕はたぶん、寂しかったんだと思う。 それに……」
『それに?』
「彼奴が……羨ましいからかな」
少年はスッと頭を上げた。
痛みは無い筈なのだが、一光に殴られた部位を撫でる。
衛星経由で、別の計画が失敗している事もアルは既に知っていた。
小熊が奮闘し、匠を助けた事も、ナナが急いで救助を要請した事も。
誰もが、匠を助けようと必死である。
それに対して、少年は苦く笑う。
「こんな風にさ、皆が助けてくれる。 構って貰える……それが、凄く羨ましかったんだ」
アルの声に呼応する様に、ガキンと音がする。
蜘蛛が怒った事を示すが如く地団駄を踏む。
『ダッタラドウシテミズカラアユミヨロウトシナインデスカ!? タクミサマガウラヤマシイ!? ジブンガカワイクテ!? ハズカシカッタ!? ソンナツマラナイリユウデタクミサマヲ!?』
大型の蜘蛛は怒り狂った様に脚を踏み鳴らす。
余りの勢いに、床が抜けるのではないかとすら一光は恐れた。
『こら、お前も同じ様な事をしただろう?』
エイトの一声で、蜘蛛は地団駄を止め、縮こまる。
元が大きい為に余り意味が無いようだが、シュンと成っている雰囲気は在った。
蜘蛛が止まった事から、エイトはアルへ目を戻す。
『とは言っても、サラーサの言うことも最もだろうな。 一方的な押し付けなど、誰も望まないぞ? 勿論、私もな』
エイトの声に、アルはハッとした様に顔を上げ、蜘蛛はギクッとした様に大きな体をガシャンと音を立てて震わせた。
それを取り繕う様に、蜘蛛は脚を二本上げて、ガチンと打ち合わせた。
『ソ、ソンナコトヨリ! タクミサマヲタスケナイト!』
蜘蛛から漏れ出る野太い声は、本来の目的を言い出す事でお茶を濁す。
それに対して、一光とエイトもハッとしていた。
「そ、そうだよ急がなきゃ!」
アルの声に嘘が無ければ、手に入れた治療薬に因って匠は治る。
嘘は言わないという言葉に、一光はエイトを急かす。
『アア、マドロッコシイ!』
何を思い付いたのか、蜘蛛はそう言うとスッと脚を伸ばしてエイトと一光を掴む。
「キャッ!? ちょ、何する気?」
『コラ! 何をする!?』
一光とエイトは揃って蜘蛛を咎めるが、それでも、蜘蛛は気にせずに二人を抱えた。
幸い、脚はまだ六本残っている。
『イツマデモココデアソンデハイラレマセン! チカミチヲシマス!』
野太い声でそう言うと、蜘蛛は窓へと向かう。
空いている脚を一本持ち上げると、窓のガラスへ押し当てた。
蜘蛛の脚の先にはプラズマトーチが取り付けられている。
つまり、大抵の物なら切断する事が可能だ。
ギィット音を立てて、分厚い窓ガラスは丸く切り取られる。
『アンタハソコデネテナサイ! アデュー!』
蜘蛛は少年に向かってそう言うと、窓の外へ身を乗り出す。
途中、一光がキャーキャーと喚いたが、動き止まらない。
騒がしい一団が消え、ドロイド会社の最上階階に風が吹き込まれる。
風に髪を撫でられたアルは、起こしていた身をパタンと倒した。
「やっぱり……羨ましいなぁ」
そんなアルの声は、外から吹き込む風に混じって流れた。
*
サラーサの語った近道とは、実に単純であった。
臀部に取り付けられたウインチを適当な場所へ引っ掛け、降下する。
階段やエレベーターよりも速い事は速いが、一光はいきなり宙に放り出された様で落ち着けない。
「ちょちょちょっとぉ!? 落とさないでよ!?」
別に匠の様に高所恐怖症という事でもない一光だが、自分を捕まえて居るのが蜘蛛の脚だけであり、その恐怖はかなりのモノと言える。
対して、同じ様に蜘蛛に抱えられているエイトは顔をしかめる。
『全く………近道とは、コレか。 まぁ、その図体では階段もエレベーターも使えないから。 仕方ないんだろうが』
身体の事を言われたからか、蜘蛛はギョロっと目を動かしエイトを睨む。
『ガタガタモンクバッカリイワナイデクダイ! コレデモイソイデイルンデス!』
エイトの声に、蜘蛛は反論を呈すが、野太い声はかなり怖い。
「い、良いから急いで……ね?」
何とか蜘蛛を宥める一光に、蜘蛛のウインチは加速する。
実のところ、自由落下と速度は大差が無い。
『アイアイサー! アトスコシデス! ショウショウオマチヲ!』
一光を安心させようとサラーサはそう言うが、正直な所、落ちる怖さとドデカい蜘蛛に捕まっているという事実に、全く安心出来なかった。
地面に近付くに連れ、蜘蛛のウインチがブレーキを掛け始める。
速度は見る見る間に遅くなり、蜘蛛は安全に着地した。
蜘蛛の脚から解放され、自分の脚で地面に立つ。
其処で、ようやく一光は一息付くが、まだまだ安心は出来ない。
何故なら、行きに使った車はどう見ても廃車であり、帰りには使えそうもなかった。
「どうしよ……」
走って帰るには余りに遠い。
『ゴシンパイナク! コンナコトモアロウカト、スデニジュンビハデキテマス!』
まるで何処かの科学者が如き蜘蛛の声。
蜘蛛の脚は一本伸び、その先から、一台の自動車が現れた。
『社用車も在ったのか……用意の良いのは有り難い』
エイトからしても、ドロイドのボディを捨ててでも匠の元へ駆けつけたいのは山々だが、そもそも治療薬が無ければ意味が無い。
早速とばかりに車に乗り込む一光とエイト。
だが、蜘蛛はその場で動かず乗ろうとはしなかった。
「ねぇ! サラーサはどうするの? えーと……」
一光が窓を開けてそう言うと、蜘蛛は脚で自分の身体をガンガンと叩く。
『ドウスルモコウスルモ……コノヨウナカラダデハ、タクミサマニアワセルカオガゴザイマセン! アイソヲツカサレテシマイマス!』
サラーサの野太い声に、一光の鼻は唸る。
確かに、目が覚めていきなりバカでかい蜘蛛が居たら、大抵の人間は驚くだろう。
『オフタリハサキニ! ワタシハ、カラダヲミツクロッテカラマイリマス!』
そんな声に、一光はああと納得した。
ドロイド会社ならば、在庫は山と在る。
サラーサはその中から頂戴する気なのだと分かった。
『相楽一光! 今は急ぐんだ! じゃあ、サラーサ! また後でな!』
エイトはそう言うと、車を動かす。
遠ざかる車に、蜘蛛は脚を手の様に振っていた。
『オキヲツケテ! タクミサマヲタノミマス!』
本当ならば、いち早く駆けつけたいサラーサも、今の体を匠には見せたくない。
不本意ながらも、遠ざかる車を素直に見送っていた。




