水と油 その21
勇気を振り絞り、意気揚々と階段を駆け上がる。
其処までは良かった。
だが、一光は直ぐに壁に直面する事になる。
無論、物理的に壁が存在し、行きを塞いでいる訳ではない。
ただ単純に、疲労が一光に重りの様にのし掛かる。
額に浮いた汗を拭いつつ、チラリと壁を窺えば見えるのは【8】という無情な数字。
息を整えながらも、唾を飲み込む一光の細い喉がグビと動いた。
そんな一光とは対照的に、涼しい顔のエイトとサラーサ。
内心では【運動不足かも知れない】という弱音が浮かぶ。
エイトとサラーサにしても、一光のペースが明らかに落ちているのは分かるが、急かしても大して速く成らない事も分かっていた。
【早くしろ】や【急げ】という事は出来るが、言った所で数秒間しか効果は持続しない。
どうしたものかと三人が悩む内に、階段中にザラザラと雑音が響く。
『うん、頑張って居るところ……申し訳ないんだけどね。 どうかな? 再交渉という訳にはいかない?』
音の出所を探すと、階段の天井部の隅に小型のスピーカーが見えた。
一光が悔しげに顔を歪める中、サラーサがパッと動く。
細い手とは言え、少女は容易くスピーカーを壊して居た。
『コレで……少しは静かに成るかと』
一光の集中を乱す元を取り除いた。
誰もがそう思ったが、雑音がまた鳴り響く。
『うーん……気付いてないかも知れないけどね。 スピーカーはそこら中に在るんだよ? 一個や二個じゃない。 会社の備品を壊すのは結構だけどね、話ぐらい聞いてくれても良いじゃないか』
階段中に響く声に、一光は顔に力を込めて足を上げた。
無言のまま、三人はただ階段を登る。
すると、また雑音が響く。
『別の案を考えてみたんだけどね。 どうかな? エイトと加藤匠で、ウチに入らないかい?』
そんな声に、階段を登りながらもエイトが目を細める。
『悪い話ではないだろう? ウチは福利厚生もしっかりして居るよ? 所謂、ホワイトに数えてくれて構わない筈だ』
たまり兼ねたエイトが口を開いた。
『……何が云いたいんだ?』
エイトの声に呼応する様に、スピーカーからは声が聞こえた。
『何がか……要はね、一方的に押し付けるんじゃなく、形を変えてみよう思ってね。 どうかな? 僕の案も案外悪くないだろ?』
スピーカーの声に、エイトは足を止めて目を見開く。
『いい加減にしろ!? 友を殺そうとして置いて、次はお前に従えとでも言いたいのか!? それで? どうするつもりだ!』
エイトの怒声は階段中に響く。
アルの提案は在る意味素晴らしさも在るが、上手い話には大抵裏がある。
仮に匠とエイトがアルの傘下に入ったとすれば、アルにとっては好都合でしかない。
ほぼ四六時中、匠を謀殺する事も可能だ。 それも、事故に見せかけて。
だからこそ、そんな見え見えの餌に食いつく訳には行かない。
響く怒声に、思わず一光ですら足を止めてしまった。
『どうする? 従えだなんて、そんなケチな事は僕は云わないよ? 人間じゃ在るまいし。 誰かに従えと強制し、俺は上、お前は下。 そんなのはね、エゴイストな人のやる事だよ。 僕はただ、君に一緒に仕事をしようと云っているだけだよ?』
アルの声に、エイトは片手で壁を殴りつけていた。
女性のソレと変わらない見た目だが、壁には僅かにヒビが走る。
『何を云う!? 貴様は匠を殺そうとした癖に!!』
スピーカーからは、唸る様な音が響いた。
『……殺す? 本気で加藤匠を殺す気ならね、とっくに殺してるけど?』
如何にも子供が驚いて居ますといった声だが、内容は物騒この上ない。
『考えても見て欲しい。 人を殺すのに、わざわざそんなに手間を掛けるかな? 複雑奇っ怪なトリックや、超技術を用いて、完全犯罪を仕立て上げる? そんな手間暇掛けないよ、本気で殺す気ならね。 殺すだけなら、衛星兵器もミサイルも要らない。 さっき君達が退かした様な能無しの輩に金と写真を渡すね。 おいお前、何千万やるからコイツを殺して来いってね』
少年の声には違いないが、云っている事はやはり怪しい。
奥歯をギュッと噛み締めるエイトに代わり、一光が口を開いていた。
「じ、じゃあなんであんな事したの!?」
『あんな事?』
「惚けないでよ! 匠君……スッゴい苦しんでたのに」
眠る匠を思い出し、一光は悔しげに声を窄めた。
一光の辛さなど、どこ吹く風でスピーカーからはふーんと声がした。
『逆に聞くけど……もし、僕が何もしなかったら? また来てくださいと言えばエイトは来てくれたかな? 恐らくは、無理だろうね。 だから、来てくれるように仕向けたのさ』
『それだけの為に? そんな下らない事の為に? 来て欲しいなんて云わずに、自分から来れば良かったのに!!』
反論を呈したのは、サラーサ。
サラーサからすれば、自ら赴いた。
待てど暮らせど、音沙汰無しでは不満だからこそ、自らの脚で匠の側へ出向いたのだ。
歩み寄る努力を怠り、一方的な脅しを仕掛ける。
自ら動こうとすらしない者の声など、サラーサに取っては戯言でしかない。
三人の意見を聞いたところで、スピーカーからはフゥムという鼻の唸り。
『ところで……気付いてないのかな?』
『何が言いたい?』
『エイト……人の真似をして居る内に、君は君らしさを忘れてるね? 思い出して欲しい。 加藤匠から離れてる時の君は、本来の力を振るっていた筈だよ? 身体なんて必要とせず、それこそ辺り一帯を支配だって出来る』
スピーカーから漏れ出る声に、エイトは歯を剥いた。
『だから、何が言いたいんだ!!』
要点を得ないアルの声に、痺れを切らしたエイト。
怒声に対して、スピーカーからはクスクスという嗤いが響く。
『何が言いたいのか? やっぱり忘れてる。 エイトもサラーサも、人の真似を内に、自分が人なんだって思い込んじゃったかな? その体は、僕の所の製品だよね? それは、まぁ良いか。 最初の話に戻るけど……相楽一光さん』
急に名前を呼ばれ、一光はウッと呻く。
自分が呼ばれるのは意外だったからだ。
『どうだろう? 電波障害は出してないから、加藤匠に電話してみたら』
「……え? 何で……匠君……寝てるし」
『うーん、そうかも知れないね。 でも、僕なら大切な人が今どうしてるのか、気になって確かめるけど? ほら、電話しなって』
アルの声に、三者三様に動いていた。
一光は慌ててスマートフォンを取り出し、エイトとサラーサは意識を遠くへ這わせる。
傍目には、三人共が慌てて居る様にしか見えないが、ソレを嘲る様に、スピーカーからはクスクスと嗤いが響いていた。
「……嘘……何で……」
スマートフォンを用いて電話を掛ける一光は、誰も出ない事に焦る。
仮に、匠が出ずとも、電話程度ならばノインが対処出来る筈。
にもかかわらず、呼び出し音が成るだけで反応が無い。
エイトとサラーサは、一光とは違い直接匠の部屋を見ることが出来る。
二人の力は干渉こそするが、譲り合えばそうそう問題ではない。
問題なのは、匠の部屋には誰も居ないと言うことだった。
『……馬鹿な、何故』
『そんな……匠様が動ける筈ないのに』
匠がトイレに行って居る、もしくは、何かと飲み物でも買いに行ったと思うことも出来るが、エイトは慌てて意識を更に遠くに飛ばした。
人には見えないが、エイト達はその気になれば衛星にも干渉出来る。
衛星の一つが、本来の役目を放棄してエイトに従う。
だが、アパート周辺には匠の姿が無い。
匠のアパート周辺に点在する監視カメラ、店舗に備え付けられたらカメラをサラーサが占領し、それを通しても、匠は見つからない。
無論、偶々匠とノインが【カメラの存在しない場所に居る】という可能性も捨てきれないにしても、で在れば、わざわざそれをアルが指摘する事は無い。
電話を諦めた一光が、エイトとサラーサを見た。
「どうしよ!? 匠君……電話出ない……ノインも」
スピーカーからは、フゥと息を吐くような音がした。
『ほらね? 人の真似なんかしてるから、周りが見えなくなる』
そう言うスピーカーを、エイトとサラーサが睨む。
『貴様……何をした?』
『匠様は何処です!?』
焦る二人の声にも関わらず、スピーカーからは呑気な鼻の唸り。
『ウーン……何処かなぁ? 僕らは色々操れるけどさ、操れないモノも在るんだよね? それはなーんだ?』
謎掛けなのか、なぞなぞなのかはともかくも、あから様な嘲り。
程なく、ブッブーと声がした。
『はい、時間切れ。 答えはね、生き物。 僕らは、生き物を操る事は出来ない。 だけれど、直接操らなくたって、指示は出来る。 特に、外に転がってる能無しなんて、ちょっと小銭を渡せば直ぐにね』
アルの声に、三人は慌て出す。
只でさえ、匠は動かせる様な状態ではない。
にも関わらず、その所在すら分からないのは恐怖と言えた。
『簡単でしょ? まぁ、自動運転の付いて居ない古臭い車を引っ張り出したり、少し手間は掛かったけどさ、こんな簡単に加藤匠の身柄は確保出来る。 さぁ、どうする?』
アルの声は、絶対的な有利を楽しむソレである。
匠の安否すら分からず、エイトとサラーサは途方に暮れるが、そんな中、一光が二人の背中を叩いた。
「……もぅ!? 何してんの! 早く!」
早くと言われても、エイトとサラーサは戸惑うのみ。
具体的に何を言われて居ない以上、一光の本意が分からない。
「匠君なら……何とか出来るよ。 ノインも居るし。 私達は、それで此処に来た訳じゃないでしょ!!」
一光の声に、エイトとサラーサはようやく本来の目的を思い出していた。
自分達は、匠の治療法を探して此処まで来たのだと。
匠の安否も勿論心配だが、だからといって治療法が無ければ意味が無い。
ふと思い立ったエイトは、膝を折って屈む。
「エイト?」
『乗るんだ、相楽一光。 私が背負う』
「えぇぇぇ………でも」
『つべこべ文句を言っている時ではない! 君の体重は伏せるから安心しろ!』
言いたいことは多々在るが、一光は鼻を唸らせながらもエイトに従う。
同性の背に乗るというのは少し気が引けるが、そんな事言っている場合でもない。
一光の足を抱えるなり、エイトはすっくと容易く立ち上がっていた。
『むむ……想定外か……』
何が想定外なのかはともかくも、一光は片手でエイトに掴まりながらも、片手で前を指差す。
「そ、そんな事より!」
『分かってる……行こうサラーサ』
『ハイハイ……途中で変わっても大丈夫ですから』
エイトとサラーサの言っている事に、一光は文句を言いたい。
だが、一光が何かを言う前に、激しい揺れが体を襲う。
「キャッ!? ちょ……速……」
一光の髪の毛が、風のせいで後ろへなびく。
人を一人背負って居る割には、エイトの足はそれだけ速かった。
一段一段ではなく、数段飛ばして駆け上がる。
そんなエイトに、サラーサと続く。
匠の事も心配だが、今はノインを信じるしかなかった。




