3 ドラゴンを倒しましょう
★猪戸伊織
とうに日は落ちていた。森の中は暗く、そして騒がしい。ちょろちょろと川が流れる音、葉擦れの音、そして獣や虫、あるいは何だか分からないものの鳴き声。俺は太い木の根元に腰を下ろし、ぼんやりと幹に背を預けていた。
――ここは、どこだ?
腕時計を信じるならほんの何時間か前、俺は乗っていたバスから、唐突に外へ放り出された。窓や壁の存在を無視して、見えない手に掴まれ、引っぱり出されたような感覚だった。シートベルトしときゃ良かった、なんて場違いなことを考えたりもした。
引っぱり出された、と思った直後に意識が飛んで、気がついたらこの森の中だ。疲れたし、寒いし、怖いし、腹も減った。携帯は圏外、GPSもダメ。絶対おかしい。GPSってのは、地球上にいりゃどこでも使えるもんじゃないのか。ならばここはどこだ。夢か、幻覚か。あるいはどこか違う星か。だとしたら、俺たちはUFOに連れ去られてきたとでも言うのか。あの見えない手が、宇宙人でないとは言い切れないのが難しいところだ。せめて死後の世界じゃないことを祈っているが、あながち否定もできない。
なにせさっき、俺は英谷愛梨の姿を目撃した。修学旅行では同じ班である英谷は、バスでは俺のすぐ前の席に座っていた。もしもバスが事故に遭って、その衝撃で俺が死んだというのなら、前の席の彼女もまた、きっと死んでいることだろう。
電車に乗ってたら地図にない駅に着いてしまったとか、そういう類のやつかとも思ったが、あれはいちおう日本っぽい場所にたどり着くのではなかったか。英谷を連れて行った人間たちの服装は日本人には見えなかった。そのくせ彼らは日本語で英谷に呼びかけていて、いまひとつ状況の判断がつかない。
でもって、気になることはもうひとつある。
俺がいくら呼んでも、英谷もほかの人間たちも、俺の声にカケラも反応してくれなかったのだ。
英谷も同じ状態なら、ふたり揃って幽霊にでもなったのかと考えるところだが、無視されたのは俺だけだ。もしも英谷が生きているのだとすれば、たとえ俺が死んでいるとしても、ここは死後の世界ではない。
ぐう、と腹が鳴った。いや、やっぱり俺は生きている。少なくとも腹は減っている。死んでいるなら食べ物なんていらないだろう、たぶん。
「なあ、おっさん、アンタなんか知らないか……?」
力なく問いかけた相手は、返事をしない。まあ、そりゃそうだろう。少し離れた場所にうつぶせで倒れているおっさんは、どう見ても死んでいる。血の臭いがする。普段なら悲鳴を上げて逃げるところだろうが、さっきこのおっさんの死体を見たとき、俺は真っ先にこう考えてしまった。
――ああ、もう、どうでもいいや。
逃げるなんて行為は、そこに安全地帯が、あるいは助けてくれる存在がいると思うからできることだ。どこにも行くアテなんてない現状、死体から逃げる理由なんてない。少なくとも死体は、近くにいたって襲ってきたりしないんだから。たぶん。今のところは。
誰かがこのおっさんを探しに来てくれれば上々だ。そうなれば一緒に助けてもらおう。他力本願、大いに結構。
おっさんを殺したものの正体は見当がつく。さっき英谷たちを襲った、あの変な巨大トカゲ、あるいは小型の恐竜みたいなやつだ。うん。ありゃ勝てねーわ。次に襲われたら……おっさんを盾に逃げよう。まだ新鮮そうな死体だし、少しは気を取られてくれるだろう。倫理観なんてジャングルには必要ない。弱肉強食の世界は厳しいのだ。いや、ここがジャングルなのかどうかは知らないが。
◇
かれこれ一時間ほど前の話だ。俺は薄暗くなってきた森の中で、女の声を聞いた。彼女はたしかに、「菱山南高校の皆さん」と呼びかけていた。俺たちを探していることは明らかだった。
もちろん俺は声に応えて叫んだし、声のするほうへ向かいもした。やがて、十人ほどの集団が、森の中を歩いているのを見つけた。べつの声が聞こえたのはそのときだ。集団は俺の声には構わず、その新たな声のほうへと向かってしまった。急ぎ足の彼らを、俺はくたくたになりながら追いかけて、その先で英谷愛梨を見つけた。
英谷はその集団と何やら話して、彼女たちについて行くことを決めたようだった。置いていかれる、と思った俺は、とにかくしがみついてでも同行しようと距離を詰めた、のだが。
その瞬間、頭上からヒト型の何かが降ってきた。
手足があるだけで人間には似ていないが、さりとてサルでもない。身長二メートルくらいで直立二足歩行する、トカゲ人間、って感じの生き物だった。そいつは俺に目もくれず、集団へと襲いかかる。逃げようと背を向けた俺だったが、しかし振り返った先には、のしのしと歩いてくる恐竜みたいなものがいた。ティラノサウルスみたいに、短い前肢を垂らして後ろ肢だけで歩いている。図体は、きのう行ってきたばかりの動物園の動物でたとえるなら、ゾウよりは小さいが、ホッキョクグマやライオンよりは大きい。
――あ、これ、襲われたら死ぬな。
そんなことを考えた俺の背後では、鋭い号令のような声がかかり、爆発音が響いている。戦ってるのか。振り返ってみたが、薄暗くて様子はよく分からない。
ただ、その様子を見ていて、俺はひとつ確信を抱いた。
このトカゲ連中も、俺のことをきれいに無視している。
相手が人間なら、なにか事情があって俺を避けている可能性もあった。だが、こんな凶悪そうな生物にまでスルーされたとなると、これは本格的に、俺の身体がどうなっているのか気になるところだ。
背後の集団は、トカゲ人間をどうにか倒したようだった。だが恐竜を見て騒ぎ立てている。こいつのほうがヤバいのか。
集団が恐竜になにか筒のようなものを向ける。たぶんあれは銃だ。撃たれた恐竜がたたらを踏む。
「がはっ!?」
不意に、背後からなにかが襲ってきた。それが恐竜の尻尾だと気がついたのは、力いっぱい木に叩きつけられたあと。痛いというより熱いような感覚。
その瞬間、恐竜がこちらを見た、気がした。
それも一瞬のことで、すぐにヤツは集団のほうへと目を向けたが。
喉に何かが絡まって、咳をすると口の中に血の味が広がった。とっさに身体をかばった左腕は、ぶらんと脱力して、……と思ったが、気がついたときには普通に動いていた。明らかにヤバい痛みがあった胸元さえ、急速に違和感が消えていく。
「……何だコレ」
治った、のか?
もう、何から何までワケが分からない。俺はいったい、どうなってるんだ?
ケガは治るようだ。
人には無視されるようだ。
トカゲ連中にも無視されていたが、尻尾で殴られた瞬間だけは、こちらに気付いていたような気がした。
となると……触れていれば無視されない、とか?
そんな思考の中に沈みながら、俺はぼんやりと目の前の戦闘を眺めていた。
集団が逃げていく。いや、戦いやすい場所に恐竜を誘導するつもりなのかもしれない。声が遠くなっていく。追いかける気は起きなかった。また尻尾で殴られたら、今度こそ治らないかもしれない。そもそも、どうやら、腰が抜けて歩けないようだった。
◇
しばらくして、ようやく精神的にも肉体的にも復活した俺は、英谷と集団が向かった先を目指して歩き始めた。
途中には恐竜の死体が転がっていた。結構なことだが、始末くらいはして行けばよかっただろうに。いや、あれだけ大きいと、運ぶにしても一苦労か。自然に還るままに任せるのがいいのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、俺は集団が残した移動の痕跡を見失い。
そしてほぼ同時に、おっさんの死体を見つけたのであった。
「……おっさん」
そばに近づき、両手を合わせて冥福を祈る。闇に慣れた目でよく見れば、死体は思っていたほど「おっさん」という年ではなかった。せいぜい三十歳くらいだろうか。うーん、まあ、おっさんでいいか。
「成仏してくれよ。……あと、ごめん」
どうやら頭を殴られて死んだようで、こめかみのあたりから血が流れている。白っぽい上着は草の汁や土で汚れていた。俺はそっと、その上着をおっさんの死体からはぎ取る。臭いは……大丈夫、これくらいなら我慢できる。
「寒くて死にそうなんだ。この上着、ちょっと貸してくれ」
返す予定はないが。
おっさんのズボンのポケットに財布が入っていることに気づき、これもありがたくお借りしてしまうことにした。財布、だと思う。金属製のコインがじゃらじゃらと入ってるし。
「にしても……マジでここ、どこなんだろうなぁ」
丸みを帯びた五角形と七角形のコインを、つまんで月明かりにかざす。
何種類かあるそのコインには、これまでまったく見たこともない、謎の文字らしきものが書かれていた。
★英谷愛梨
「はぁー……そないなことになっとったんか」
話を聞き終えて、うちはどうにかそれだけ答える。
あかん。ワケわからん。
話をしながら食ってたメシは正体不明のシチュー的なシロモノだったけど、これがまた相当にウマかった。タダで食ってええんやな? あとで金払えとか言わんよな? と思わず確認したくなるくらいだ。北海道の食い物はだいたい何でもウマかったけど、これはそういうのとは方向性が違う、高級な味がした。素材の味とかじゃなくて、その組み合わせや調味料、それから裏ごしだの何だのといった手間で味を作ってるような感じだ。この味、仰木のデブならもっと上手に感想を言えるんだろうけど、うちのバカ舌じゃ「めっちゃウマい」以上の感想が出てこない。
「で? ドラゴン倒せばええっちゅーんは分かったけど、うちらはどないなるん? このまま、ここで三食昼寝つきの生活させてもらえるんかいな」
「頼めば、それくらいはさせてもらえるんじゃない?」
ボケたつもりだったのに、ヨモギにさらっとそう言われてしまった。ああ……そうか。うちら、この世界の救世主サマなんだった。そりゃ、向こうも腰が低くなるはずだ。
うちらにはひとりずつ、修学旅行で泊まっていたホテルよりゴージャスな部屋が割り当てられていた。ヒノキっぽい木で作った風呂桶にはお湯が張ってあるし、トイレも和式っぽい形の水洗。せいぜい、アジアのどこかにあるリゾート地のホテルに来ちゃいました、ってくらいの雰囲気で、日本っぽくないなとは思うけど、異世界、って感じはしない。いや、異世界っぽいってどういうものか分かんないけどさ。
バスのトランクにあったうちのキャリーバッグは、同じ班だった仰木が持っていた。ちなみに、財布や携帯が入ったスクールバッグのほうは、森の中で目を覚ましたときからちゃんと手元にある。うちらは五人の班だったけど、ほかの三人の行方は分からないそうだ。
ここにいない、ほかの連中はどうなったんだろ。森の中でも、クラスメイトには誰も会わなかった。うちらを襲ったあの恐竜みたいなやつに、もう食われてたりして。ありそうでイヤだなぁ、それ。
風呂に入って、用意してあった服――着方が合ってるかどうかはさっぱり分からん――に着替えると、うちは部屋を出る。休憩室として解放されている広めの和室には、すでに何人か、湯上がりのクラスメイトが来ていた。
「太一! もう大丈夫なのか?」
廊下から砺波の声が聞こえる。高坂が来たのか。うちが到着したときには体調を崩してた高坂だけど、そのまま別室で休んで、ようやく復活したらしい。
「心配ないよ」
「いや……マジでお前、大丈夫か? ダメじゃね?」
そんな会話を交わしながら、砺波と高坂が部屋に入ってくる。たしかに、高坂の顔色が悪い。とは言っても、こんな状況で元気いっぱいだったら、そっちのほうがどうかしてるだろう。
「平気だってば。それより、伝えておきたいことがあるんだ。先生、みんなも、ちょっと聞いて」
部屋の真ん中に立って、高坂はぐるりとみんなを見る。
「ここにいない人たちについて、話をしておこうと思う」
「分かるの?」
先生が真剣な顔で腰を浮かせた。ああ、先生、やっぱり可愛い。そしてこんな場所でも、ちゃんとマジメに先生してる。変な世界だけど、先生が一緒でよかった。先生のためなら、うち、ガンバれる。
「見えた範囲の話をするよ。……榊さんはすぐに合流する。でも、そこまで。ほかの人は、こっちには来ない。来るとしても、だいぶ先。期待はしないで」
「高坂くんの力があれば、誰がどこにいるかも分かるんじゃない?」
「まあ、分かるとは思うよ」
咲良ちゃんの言葉に、高坂があっさりと答えた。
「だったら、そこに行けば良くね?」
「ダメなんだよ。少なくとも、今はまだ」
それから、高坂はしばらく言葉を選ぶように口を開けたり閉じたりする。やがて、ためらいがちに話を続けた。
「なんて言うか……ここにいないみんなにも、それぞれ役目があるんだ。いま、その人たちをここに呼んでしまうと、未来が大きく変わってしまう」
どこか歯切れの悪い口調で、あらぬ方向へと目を逸らしながら高坂は言う。ウソつくのは得意じゃないんだろう。何を隠してるのかが問題だけど。
「変わったら、どうなるの?」
「……僕は、元の世界に帰りたい。だから、そうなるための道は、残しておきたい」
「んなこと言って、森ん中でバケモンに食べられて死んでもうたらあかんやん? そーいうことはないの?」
「それは、大丈夫だと思っていいよ」
穏やかながら自信を持った口調で、高坂は答える。
「みんなは、元気にしてるの?」
「生きてはいるみたい」
モヤッとした言いかただ。元気ではないってことなのか、ただ分からないだけなのか。
「心配しないで。たとえ何かあったって、僕たちが行かなくても、誰かがどうにかするから」
「そういう考え方、よくないと思う」
わずかに責めるような調子を含んだ唯ちゃんの言葉に、高坂は頬を引きつらせて、さっと周囲に視線を走らせた。なんで? 何かを、あるいは誰かを探してる? それとも警戒してる?
「……言い直すよ。僕たちが動いたら、はっきり言って邪魔なんだ」
答える高坂の声は、唯ちゃんを突き放すように冷えていた。
「たとえば、隣の国に保護されてる人が何人かいる。それで? それが分かったから、どうするわけ? こっちによこせ、って? 言っとくけど、この国、隣の国とはすっごく仲悪いからね」
まあ、日本だって隣の国とはいまいち仲良くできてないし、そういうこともあるよな。
「あっちの国はあっちの国で必死なんだよ。かんたんに勇者を手放したりするもんか。三橋さんだって、戦争とかしたいわけじゃないでしょ? だったら、僕たちが動いちゃダメだ。僕たちはもう、この国に属してしまってる。そういうふうに見られてる。下手に動くと、めちゃくちゃなことになるんだ。どっちにもついてない人たちもいるから、そっちに任せるべきなんだよ」
泣きそうな顔でひとしきり吐き捨ててから、高坂はどすんと腰を下ろした。
「……なあ、うち、針島とだけは戦争したくないんやけど」
「それ、ちょっと間違うと起きるから。詳しいことは分からないけど、とにかくヒドいことになるから。僕もぜったいイヤだ」
机の中からカビたパンを見つけたときのような、ものすごく嫌そうな顔で高坂が言った。
「べつに僕たちが頑張らなくたって、この国はこの国で、ちゃんと最善を尽くしてるでしょ。英谷さんを見つけたみたいにさ。それに、僕と同じように、みんなにもスキル――超能力があるんだ。そう簡単にやられたりしないよ」
不本意な顔の唯ちゃんに、真顔で声をかける高坂。それから彼は、開き直ったように声を大きくする。
「異世界なんていう、漫画やおとぎ話みたいな場所にやって来たのは確かだけど――これから先、僕たちは冒険の旅に出たりはしない。他のみんなを連れてくるのは僕たちじゃない。ドラゴンは倒さなきゃいけないけど、それはただ、それが僕たちの最低限の義務だからだ。どうやるのかはともかく、やるって運命からは逃げられない。逃がさない。逃げるな」
いちばん逃げたいのは高坂なんじゃないかと思えるような、きつい口調だった。なんだか目が据わってる。いつも温厚で、何をやっても怒らない印象のある高坂だけに、みんな思わず口をつぐんでしまう。
「高坂」
やがて、部屋の隅でじっとしていた逢沢斎が、眼鏡を押し上げながら立ち上がった。
「この先の未来を、詳しく占ったんだな?」
「ちょっとMPが回復したからね」
「無理をするな。何度もそんな無茶はできないぞ。次はそのくらいじゃ済まない可能性もある」
「分かるの?」
「まあな」
んん? 逢沢にも何か見えとるんかな?
それにしても……高坂はいったい、どんな未来を見たというのか。うちらが動いたら、いったい何が起こるっていうのか。
「なあ、高坂」
「なに?」
「うちらは、ここにおらん皆の足を引っ張らんように、大人しくドラゴンだけ倒してればええんやね?」
「そういうこと」
こっちを向いて苦笑した高坂。その顔に違和感があって、思わずまじまじと見てしまう。
ああ、分かった、目だ。
高坂の目はどこか遠くを見ているような、焦点が合っていないような感じがした。
猪戸伊織→影の薄さに定評のある陸上部男子。寡黙でもないし友達もいるのになぜか存在感がない。
針島柊也→国家議員の息子。謎のカリスマで信者を従える。なお、名前以外の出番は特にない模様。