第七章 速水幸成 その2
十二月十四日。土曜日。時刻、十ニ時五十一分。
昼間なのに外は夜のように暗い。朝から雨が降り続いていた。雪に変わる様子も無い。
天気、雨。
この三日間はテストだった。明後日のテストを終えると、待望のカラオケが待っている。
ここまでのテストは難無く出来ている。明後日は英語と古文。問題は無い。
波多野はテスト終わりに悲鳴を上げていたが、茂久は余裕しゃくしゃく。懸念していたカンニングもせず、単純に勉強をしていたらしい。
「マジ完璧。百点とっちゃうよ俺」
自信満々な茂久。結果が楽しみだ。あいつの落胆した顔が目に浮かぶ。
浮かんだ茂久の顔が徐々に歪み、それは母の顔と変わり、あの日の泣き顔へと。
あの日から親とは一言も喋っていない。沈黙の食卓は鉛のように重苦しいもので、一秒でもその場から早く解放されたい俺は夕食をほとんど噛まずに咽へと流し込み食事を終える。しばらくあの糞みたいな食卓が続くと思うと吐き気を催す。思い出すだけで咽の奥がすっぱくなる。嫌な酸味だ。
こんな家庭で生きていくなら、死んだほうがましだ。
死にたい。
この苦しみは、まさに生そのものだ。生きることとは苦しむことで、その苦しみが終わるのは死という解放のみがもたらす。生命にただ一つ平等に与えられるもの。その崇高なものこそ死そのものであり、その崇高さには終わりという言葉がよく似合う。生まれた瞬間に決まっている、死。人生をマラソンに例えると、ゴールとは死であり、人は死ぬために命のレースを必死で繰り広げる。死ぬために生きること。この矛盾に悩み苦しむことこそ生の醍醐味であり、意味である。死がゴールならば生者がなすべきこととはなんなのだろうか。俺は聖人でもなければ神でもない。真理なんてわかろうはずがない。それでも俺なりの考えを述べるなら、死というゴールを迎えたときに生のプロセスを限りなく幸福だったと感じることではないだろうか。月並みな言い方だが笑って死ねたら、それは生の成就と言えるのではないだろうか。俺は今死んで生を成就することが出来たと言えるのだろうか。一番欲するものに手を伸ばせぬままで、なにが生の成就だ。
俺は、笑って死にたい。
俺は俺でよかったと、思いたい。
でも、それももう叶わない。
もしも死後の世界があるのなら、そこで幸せな家庭に生まれたい。母と父の愛を受け、それを喜びと感じ、二人にも幸せを与えたい。そうして日々を笑ってすごしたい。出来るなら生きているうちにそれを叶えたかった。
見てみぬ振りをしてきた、自分を殺すという行為。それを実行することがリアリティを帯びてきた。生きていくことが辛い。生きていたくない。それは生活そのものが苦痛でしかないことも理由としてあるのだが、単純に、最も愛されたいと願う相手を傷つけたという思いと、母の涙がそこにはあった。俺は生きる意味を完全に失った。それは生を捨てるには十分すぎるほどで、世界を捨てるのにも十分だった。
俺は、死にたい。
生きていたくない。
俺は生きることを諦めようとする弱虫だ。かといって、命を自ら断つことも出来ない根性なしで、結局は後悔を纏って惨めに生き恥を晒す事しかできない愚か者だ。もがけばもがくほど水面は遠ざかっていく、泳げない子どもだ。こんなに情けない人間を俺は、初めて見た。
高校を卒業したら地方の大学へでも行こう。この家を出るんだ。十六年間も我慢できたのだ、あと二年間ぐらい我慢してやる。そしたらこんな思いもしなくて済む。誰の涙も見なくて済む。
テスト勉強もそっちのけで机の上で寝ていた俺は、ベッドの上に無造作に置かれた携帯電話の発する音に驚く。誰からだろう。
携帯電話を手に取ると画面には優一の名前。
「もしもし」
「もしもし、幸成?」
「あぁ、どうした?」
「今どこにいるの?」
「家だよ。今日は一歩も家から出てないよ。明日も一歩も家から出る予定はねぇよ。どうだ、ざまぁみろ」
「なにがざまぁみろだ。家にいるならさぁ、今からお前の家に行ってもいいか?一緒に勉強しようぜ」
「別にいいけど」
「ならすぐ行くわ。十分くらいでそっち着くし、また連絡するから。待っててなぁ」
そう言うと優一は電話を切った。少し部屋でも掃除しておこうかと思ったが、わざわざ優一のために部屋を掃除するのも面倒で止めた。
俺は待つという行為が好きじゃない。待たせている者は時間を短く感じ、待たされる者は時間を長く感じる。その互いの時間の相違が生じることが耐えられなかった。同じ時間を共有しているはずなのに、確実に異なる時間に互いは存在する。それが耐えられない。
優一を待つ十分間は、嘘のように長く感じた。待つ間は勉強にも向かう気にはなれず、ただ呆ける以外にすることもない。この状態も好きではなく、待つことが好きではない理由の一つになっている。
十五分くらい経っただろうか。少し遅いな、などと考えているとチャイムがなる音が遠くで聞こえた。どうやら優一が着いたようだ。
一階に急ぎ足で下りると玄関のドアを開ける。そこには優一の姿。
そのはずだった。優一の姿は無い。玄関には優一の代わりに神崎が立っている。
「へぁ?」
思わず変な声が出る。動揺。意味が分からない。そこに立っているはずなのは優一のはずで、神崎では決してない。であるにも関わらずそこに立っているのは紛れも無い神崎美紀。
「こんにちわ」
傘をたたみながら神崎は言った。元気な神崎の声が余計に動揺を誘う。
「なんで?」
それしか言葉が出ない。
「なんでって言われても、優一が速水くんちで皆で一緒に勉強しようって。ちょっと早く来過ぎた?」
「早いとかじゃなくて、聞いてない」
「なにを?」
「そんな話、優一に聞いてない」
優一からは一言も聞いてない。優一だけが来るんじゃないのかよ。それよりもなによりも、何故あいつは神崎を呼んでるんだよ。
「優一から話きてないの?昨日あいつちゃんと話しておくって言ってたのに。相変わらず適当なんだから。恵美と加奈と愛も誘ったんだよ。もちろん波多野くんも藤原くんもね」
聞いてないし、おまけに決まったのは昨日の話かよ。さっきじゃん、連絡来たの。
「ところで、その優一は?」
「少し遅れるって、今さっきメールきた。寝てたんだって」
あいつ、何考えてるんだ。
「とりあえず、上がる?」
「うん。お邪魔します」
初めて見た神崎の私服は、たまらなく可愛らしかった。ファーの付いた黒のダウンジャケットに濃いめのデニム。足元のブーツは真新しいのか傷も汚れもない。
ブーツを脱ぎながら、
「買ったばかりのブーツ履いてきちゃった」
ニコっと笑いながら神崎は言った。その笑顔が好きなんだ。誰よりも優しい、その、笑顔が。
自室に行くと、神崎はきょろきょろと辺りを見回している。
「どうした?」
「いや、ここが速水くんの部屋かぁって思って」
「珍しいものなんてないよ」
間違いでもなく夢でもなく神崎が俺の部屋にいる。いい匂いがする。香水かな。胸の昂揚は危険なくらいだ。
「ねぇ」
「ん?」
神崎が少し険しい表情でこっちを見つめている。
「勉強の前にさぁ、少しだけ話しない?ほら、速水くんとちゃんと話したことってあんまりないしさ。聞きたいこともあるし」
俺も聞きたいことだらけです。
「別にいいよ」
まともに話せるだろうか。自慢ではないが女と喋るのは大の苦手だ。
「じゃぁ、はい」
高く神崎は手をあげた。
「はい、神崎さん」
神崎の大きな瞳がこちらを見つめている。
「前から聞きたかったんだけど、文化祭のとき看板直したの速水くんだよね。なんで隠してるの?」
予想もしていない問いに少したじろぐ。
「俺じゃないよ」
「見たんだよ、生徒会室で看板直してる速水くん」
どうやら見られていたようだ。観念して理由を言うことにした。
「せっかく皆で頑張って作ったのに、それが壊されてて、すごい腹が立って、あの日遅くまで残って直したんだけど、なんだろう、なんて言うのかな、手柄を俺だけのものにしたくなかったって言うか、俺が一人で直したって言わなかったら主役は皆のままなわけじゃん。俺が直したって言ったら主役は俺一人になって・・・上手く言えないや、ごめん」
上手く言えないけど、そう思ったんだ。自分だけの手柄にしたくないって。
「そっか。やっぱり優しいね。思ってた通り。私たちってさ、知り合ってもう半年以上経つのに、何回も挨拶もしたのに、全然お互いのこと知らないよね。好きな歌手も知らないし、好きな映画も、趣味も特技も知らない。同じ空間にずっといたのに、何にも知らないよね」
「話したことほとんどないし仕方ないんじゃない?」
「じゃぁ、これからは少しずつでいいから教えてね、速水くんのこと」
俺は、神崎のことを知らない。何一つ。神埼も、俺のことを知らない。知っているか、神崎。キミの笑顔一つで俺の世界は晴れ渡ることを。知っているか、神崎。たまたま見に行った陸上の大会で、前日に足を怪我していたキミは歯を食いしばって走っていた。ゴールした後の満面の笑み。それらの姿が目に焼きついて、その日から俺はキミを目で追うようになったんだ。その日から、キミを好きになったんだ。歯を食いしばって、綺麗な顔を歪ませて走るキミは、まるで太陽のように、野に咲く花のように力強くて、その強さは俺にはなくて、羨ましくて嫉ましくて、それでいて愛しくて。知らないだろう、神崎。俺は誰より、キミを好きなんだ。
それから俺たちはしばらく話をした。神崎は俺の面白くも無い話に終始笑顔で、もともと女の子に対して異常なほどに口下手な俺は、その神崎の反応にどれだけ助けられただろう。
「ねぇ、速水くん」
「ん?」
今まで笑顔だった神崎が急に真剣な顔になった。
「好きな人とかいる?」
答えられないよ。その問いには。
「別に」
それだけ返す。言えるはずが無い。キミが好きだなんて。言っていいはずが無い。情けなくて愚かで、そんな俺なんかが、キミを好きだなんて。言っていいはずが無い。
静まり返る空間。耳鳴りのような音が聞こえる。
「そうなんだ。そっかそっか」
そう言うと神崎は黙った。沈黙。その沈黙を破ったのは俺でも神崎でもなく、優一と愉快な仲間達だった。
「ただいま幸成」
でかい声の波多野。
「なにがただいまだ。おまえんちじゃねぇよ。体も太けりゃ、神経まで太いなお前は、このデブゴン。玄関開いてたし勝手に上がらせてもらったぞ、幸成」
相変わらず口の悪い茂久。
「あら、邪魔だった?」
おばちゃんみたいなリアクションの山本恵美。その横で笑う尾上加奈と長谷川愛。
一番後ろで少し笑っている優一。
「遅いよ、お前ら」
にぎやかだ。さっきまでの沈黙が嘘のよう。
「っていうか、お前ら部屋と人数のバランス考えろよ。狭すぎだろ。こんなんじゃ勉強なんてできねぇよ」
俺の言葉はもっともなはずなのに、周りは冷たい目。
「誰が勉強するって言ったよ?」
茂久はきょとんとしている。
「今日は勉強休みだよ。パーティーだよ、今日はパーティー」
「はぁ?なんのパーティーだよ」
「優一から聞いてないのか?優一、幸成に話してないの?」
優一はニコニコして、
「してない」
なんでしないかな。大事なところだよそこ。
「私も勉強会って優一から聞いたんだけど」
少し困り顔の神埼。
「神崎は真面目だから、テスト中に遊ぼうなんて言っても来ないだろ?だから少し嘘ついちゃいました」
呆れ顔の神埼。
「だからなんのパーティーなんだよ」
パーティーと言われても何がなんだか。わからない。
「テストの息抜きパーティー」
勉強って聞きましたけど。
「ちゃんと差し入れも買ってきましたよ、ほら」
波多野はコンビニ袋の中から大量のスナック菓子を取り出した。
「お前はこんなんばっかり喰ってるからデブるんだよ。少しはダイエットしろよなデブゴン。成人病になるぞ。あっ、すでになってるか」
「なってねぇよ。あと、デブゴンはやめろって言ったろ」
「燃えよデブゴン」
「だから、やめろって言ってんだろ。つーかワンパターン。もっと俺を面白おかしくしろよ茂久」
俺は久しぶりに、心から笑った気がした。
俺の気持ちをみんな知らない。それでもいい。気なんか使ってくれなくていい。ただ、いつものみんながそばにいれば笑顔でいられる。
俺は久しぶりに、母の涙を忘れられた。