第四章 足の重い帰宅
十二月九日。月曜日。天気、晴れ。時刻十六時ちょうど。
一日の終わりを告げるチャイム。
ざわめく教室。ごった返す廊下。
軽く伸びをする。下らない一日が今日も終わった。
「帰ろうぜ幸成」
声をかけてきたのは波多野。
「おう。今日も美里ちゃんかい?」
「悪いかよ」
「悪くはない。ただ毎日毎日よくやるなぁって思って」
「案外悪いもんじゃないぜ。このときのために今日一日耐えたって思えるぐらいだもん。幸成も恋しろよ。速攻でからかうけど」
「からかうのかよ。恋ねぇ。まぁいつかはするんじゃない?」
俺は部活には入っていないためすぐに帰宅をする。優一と茂久は部活。波多野は学校が終わると一駅先の別の高校に向かう。彼女を迎えに行くためだ。よくやるよ、毎日毎日。疲れないのかな。暇だから駅まではいつもついていくけど。
「帰るのか?」
することも無いので帰るしかないことを知っているくせに、茂久が言う。
「帰るよ、やることないもん」
「お前はどうせ美里ちゃんだろ。お前に聞いたんじゃなくて幸成に聞いたんだよ。勘違いするな、このデブ」
「デブって言うな」
「うっさいデブ」
「効かん」
「黙れデブゴン」
「おい、デブゴンはやめてくれ」
こいつらの会話はいつ聞いても漫才みたいだ。
「デブゴンはきついんだな。チェックしとくよ」
「燃えよデブゴン」
「おい、まじで止めてくれ」
馬鹿らしい会話を終えると、茂久に別れを告げ波多野と二人で帰宅をすることにした。
教室を出ようとしたとき、いつものように、
「速水くん、ばいばい」
と神崎の声がした。
「じゃあな」
我ながらそっけない返事だ。情けない。
「あれ?俺には?」
「波多野くんも、ばいばい」
「俺はついでかよ。やっぱデブゴンだからかな・・・」
「いつまでも気にするなよ、ゴン」
肩を叩きながら言った俺に、
「ゴンって言うならいっそもうデブも付けてくれ」
と苦笑いの波多野。
神崎は、笑っている。
神崎は陸上部で短距離の選手。優一の話だと結構早いらしい。そういえば一年生ながら都の大会で準優勝したという話を聞いたことがある。これから部活なのだろう。毎日お疲れ様です、ホント。
もういちど神崎と別れを告げると教室を波多野と二人で出る。
階段を下り下駄箱から靴を出し、履いていた上靴を下駄箱に入れ、靴を履き校舎を出る。二年前に新築された校舎は二年経っても真新しい様相を保っている。
校舎から出ると冷たい外気が頬を撫でる。季節は冬。寒いのは当然だ。両手をポケットに押し込むと学校を後にした。
波多野もポケットに手を入れながら、
「うぅ寒い」
と一言。
「お前でも寒いんだな」
それに突っ込む俺。
「脂肪があっても寒いものは寒いの」
「お前と茂久の会話のが寒いよ」
「いつも笑ってくれてるじゃん」
波多野はかなり大柄だ。身長は俺と同じくらい。百八十センチ程度だろう。ただ横がかなり広い。何を食べたらこんなに太れるのだろう。身体測定のときに知ったのだが、体重は百キロをほんの少し超えている。気は優しいしお調子者で人気者。茂久とはいいコンビ。こういう性格なら多少太っていても、それも愛嬌になるのだろう。俺たち四人の中で唯一の彼女もち。おまけに彼女は結構可愛いということで、茂久は多少妬んでいる。芸人とか向いていそうなキャラクターだ。
「お前カラオケ本当に来るの?」
「なんでだよ」
「彼女いんじゃん。怒られないわけ?」
「怒られるよそりゃ。けどたまには別の子とも遊びたいのよ。たまにはね。浮気するわけじゃないしいいじゃん。黙っとけばばれないし。ばれたらばれたで皆のせいにするよ。人数合わせに無理やり連れて行かれたってね」
「てめぇ」
茂久や波多野や優一の性格が羨ましい。誰とでも話せる性格。俺にはないものを持っている。俺にはない大きなもの。
波多野ののろけ話に付き合っていると、気がつくと駅についていた。帰宅する学生や会社員でごった返している。学校に行くのに一番近い道は駅なんて通らない。だから朝は駅前を通らずに登校するのだが、おそらく朝もこんな風に人が多いのだろう。電車は満員ではないだろうか。それが嫌で歩いて通える高校を選んだわけだが。
今通っている高校に進学することを決めたとき、周りからは猛反対をされた。もっと上の高校に行けるんだからそっちを選べ。中学の先生も親も皆が口をそろえて同じことを言った。人ごみの嫌いな俺は聞く耳を持たずに進学をした。後悔なんてしてない。むしろ良かったとすら思う。満員の電車に乗るなんて考えただけでぞっとする。
「あばよ」
「おう。美里ちゃんによろしく」
「よろしく言っておくわ」
そう言って波多野は人ごみと同化していった。
波多野と別れるとやっと帰路につく。わざわざ毎日遠回り。その行為も日課のようになっていた。最初のころは波多野に無理やり連れて行かれていたのだが、今は進んで駅までついていっている。めんどくさいと感じていたのは最初だけで気づけばなんともなくなっていた。
「さぁて帰るか」
重い足を自宅へと向けた。
すれ違う人々。見覚えのある顔、ない顔。それらを全く無視しながら歩く。まるで視界にも入っていないかのように歩く。足が重い。家に帰るのが嫌で仕方がない。それでも帰るところはあそこしかない。自分の境遇に軽く舌打ちをした。
今日一日を振り返り、やがてその行為自体の意味のなさに気づき思考を止め、ただ歩く。頭の中は限りなく真っ白で、今この瞬間に「何を考えているのか」と聞かれたら「別になにも」としか答えようがない。見慣れた道も見慣れた街並みも、何の感動も与えてくれはしない。
突然の強い風。寒さで身震いする。頬が痛い。それでも心地いいとすら思う。冬は、嫌いじゃない。
「もうすぐテストかぁ」
なんでも出来た。たいていのことは人の何倍もこなせる。スポーツも勉強も。顔も。テストなんて大体トップスリーにはいつも入っているし、運動もなんでも得意だ。おそらく周囲の人もなんでも出来る奴だって思っているに違いない。
それが、たまらなく、嫌だった。
俺は、スーパーマンじゃない。
速水幸成という人間は今ここにいる俺。しかし、速水幸成という人間はこの世界に無数に存在する。優一の中にも神崎の中にも、俺のことを知っている人の中に、身勝手に作り上げられた速水幸成がいる。それは、今すれ違った全くの赤の他人の中にすら存在するのだ。それは本当に身勝手な話で、本人とは形の異なる俺が丁寧に作りあげられて、存在する。他人の中に存在する嘘の俺は、俺に無言のプレッシャーを与える。速水幸成ならこれもあれも出来る。そう勝手に思われているのだという考えが頭の片隅にあると、それは俺を束縛する。奇妙な話。他人の中の嘘の自分が今ここに存在する自分自身を支配しているのだ。俺はその嘘の俺を壊さないように、他人の中の俺と同じスーパーマンになることを強要される。嘘の俺を壊さぬように、他人の中の俺と同じ俺を必死で演じさせられる。
本当の俺は、スーパーマンじゃない。
しばらく歩くと家についた。帰りたくもない家。それでも帰るところはここしかないのが、変えられぬ事実。
ポケットから家の鍵を取り出し玄関の鍵を開け、扉を開き家に入る。どうせ誰もいない。リビングには向かわずそのまま自室へと階段を上る。
自室に入ると特にすることもなく、鞄を机の上に置くとベッドに寝転んだ。
リビングにいるわけにもいかない。と言うよりはいたくない。なるべく顔も合わせたくなかった。それが俺の毎日だ。やってられない。
時計に目をやると、時刻は十六時四十八分。時刻を確認すると、
「晩飯まで寝よ」
そうつぶやいて目を閉じる。ゆっくりと睡魔に身を委ねる。
薄らいでいく意識の中、窓の外から子どもの無邪気な笑い声が聞こえた。