第三章 神埼美紀
十二月九日。月曜日。時刻七時五十分ちょうど。
今日もいい天気。
いつもの時刻に教室につく。この時間にはまだほとんどの生徒が登校していない。ホームルームまで二十分もあるのだから当然といえば当然なのかもしれない。教室にはあまり話したことのない男子が三人、挨拶程度の仲の女子が二人だけだ。
特にすることもなく携帯に目をやる。昨日の夜に来た優一からのメールを見る。
『OK!んじゃ茂久に話しておくから』
『茂久と尾上のこともいいけど少しは自分のことも考えたら?』
『幸成のことだよ。ちゃんと幸成も誘っておくから安心しろよ』
テストが終わればカラオケが待っている。加奈と藤原くん、うまくいけばいいんだけどなぁ。
少しすると山本恵美と尾上加奈が教室に入ってきた。
「おっはよう美紀」
「グッモーニン美紀」
相変わらず陽気な二人だ。この二人とは高校からの付き合いで、別のクラスの幼馴染の長谷川愛を含めた四人でいつもいる。ちなみに加奈も別のクラスだ。恵美も加奈も成績と運動は平均的。明朗快活。恵美は身長は151センチほどでとても可愛らしい。一方の加奈は身長167センチと女性にしては大柄で、整った顔立ちも相まってモデルのような印象を受ける。
「やっほー。今日は早いね二人とも」
私の言葉に恵美が、
「加奈、今日は朝からめちゃめちゃテンション高いの。うざいくらい」
「だぁって、テンションも上がるよ。カラオケすっごい楽しみなんだもん」
加奈は本当に嬉しそうだ。
三人でカラオケで何を歌うかという話で盛り上がっていると、聞きなれた声が教室の入り口から聞こえてきた。
「おはよう」
彼だ。彼の背は身長160センチの私よりも顔一つ分ほども高い。すらっとした体型と整いすぎているとまで思える顔は、全ての女性の目を奪うのではないかとまで思わせる。おまけに頭もよくて運動も出来る。完璧って言葉は彼にこそ似合う。
「おはよう速水くん」
思わず声をかける。出来るだけの笑顔で。
「おっす神崎」
そっけない返事を返すと彼はそのまま窓際の席へと向かった。今日はこれでいい。一日に一回、挨拶を交わすだけでいい。それだけで、今日一日を笑顔で過ごせる。
すぐ横で話をしているはずの二人の声がやけに遠くに感じる。視線は完全に彼に奪われたまま。もっと近づきたくて、もっと知りたくて、それなのに出来なくて、させてもらえなくて。歯痒い。心をえぐられるほどに愛しい人が目の前にいるのに、手を伸ばせば触れられるほどの距離にいるのに、この手は彼に手を伸ばせないまま。
「ねぇ美紀、あの歌なんていうんだっけ?」
加奈の声に気づくと
「あの歌って?」
と呆けたまま返す。
「ほら、車のCMのやつ」
「ごめん、わかんない」
真剣に思い出そうとすればもしかしたら思い出せたかも知れない。しかし、それを奪われた視線が許さなかった。今、私を支配しているのは私ではなく、彼。彼の存在そのもの。本当に、あなたが愛しい。
登校してきた藤原くんが彼に話しかけている。藤原くんが馬鹿なことでも言ったのだろう、彼は綺麗な顔を崩して笑っている。
声が好き。笑顔が好き。困った顔も、悲しそうな顔も、真剣な顔も、好き。
「よぉ」
彼と話を終えた藤原くんが私たちに話しかけてきた。
「おはよう藤原くん」
元気な声で加奈が答えた。その後についで、
「おはよう」
恵美と同時に答えた。
「神崎さん、優一から話聞いたけど、カラオケって結局誰が来るの?」
どうやら優一は詳しく話をしていないようだ。藤原くんの問いに答えようとすると、
「私たち三人と愛の四人」
一歩早く加奈が満面の笑みで答えた。
「可愛い子ばっかりじゃん。おいちゃん興奮しちゃうわ」
少し下品な笑いとともに藤原くんが言った。
ホームルームが始まると、もうすぐテストが始まるのでしっかり勉強するように、と担任の中杉が周囲を見渡しながら喋り始めた。言われなくても頑張りますよ、先生。
ふと視線を中杉先生から窓際に向けると、彼は外を向いていた。何を考えているのだろう。机にひじを立て、あごを手に乗せたまま外を見続けている。顔は当然こちらに向いていないので表情は分からない。何を考えているのだろう。
私と彼の関係は炎と酸素に似ている。私が炎なら彼は酸素だ。私が熱く燃え上がるためには彼という存在が必要不可欠で、彼なくして私は生きることも出来ない。それは自然の摂理であって変えようのないもので、変えるつもりもない。彼がいるから私は燃えることが出来る。出来るなら彼にとって私が酸素でありたい。
ホームルームが終わると、加奈と二人で昨夜のドラマの話を始めた。横目で彼の姿を追う。藤原くんと話をしている。
「ドラマみたいな恋したいなぁ」
眉をハの字にして加奈が言った。
「藤原くんとしたらいいじゃん」
周りに聞こえぬような声で言う。
「真剣に頑張ります」
力強い言葉に聞こえた。
昼休みになるとこの教室に集まり四人で昼食を食べる。四人ともお弁当だ。教室は昼休みということもあり騒がしい。そんな中、校庭から声が聞こえてきた。いつもの声だ。窓から顔を出すと四人の男の子が寒空の下、昼食を食べている。寒くないのかな。
「まぁた速水くんですかぁ?」
にたにたしながら私のすぐ横から外に顔を出したのは長谷川愛だ。
「まぁた速水くんですよぉ」
私もにたにたしながら答えた。
食事の手を休めしばらく眺めていると彼がこっちを向いた。こちらに気づくと同時に、彼はすぐに目線をそらした。
「速水くんのどこが好きなの?やっぱ顔?」
後ろから加奈の声がした。
「優しいところ」
私は即答した。
三人は、ほとんど彼と関わったことがなく、私の言葉を理解できないという顔をしている。かくいう私もきちんと彼と話をしたことはない。
一番好きなところは優しいところ。嘘じゃなかった。
高校に入学してすぐに彼に目を奪われた。しかし、それはあくまでも容姿の話で恋心は全く抱かなかった。女の子とはほとんど会話をしようとしない、なんだか格好をつけているキザな奴。それが彼に対する印象。それはしばらく変わらなかった。確かにかっこいい。でも、それだけ。
その感情が恋に変わったのは文化祭のときだった。
文化祭で私たちのクラスはたこ焼きの屋台を出すことになった。準備はちゃくちゃくと進んでいき、明日が文化祭というその日に事件は起こった。クラスみんなで頑張って作った看板がぐしゃぐしゃに壊されていたのだ。犯人は結局分からずじまい。時間もなく、看板はなしで文化祭を迎えることにクラス全員で決めた、その日の放課後、陸上部の部活が終わり、文化祭の道具などが置かれていた生徒会室の前をたまたま通りかかったとき、ふと人の気配を感じて中をそっと覗いてみた。そこには黙々と何らかのことに取り組んでいる彼の姿があった。たった一人で一心不乱に。何をしているのかそのときは分からなかった。声をかけようか迷ったが、一生懸命なところを邪魔しても悪いなと思い、話しかけずに私は帰宅することにした。
次の日、文化祭当日、驚くことがおきた。朝早めに学校へとついた私は教室にある看板に目を疑った。壊されたはずの看板。それが今目の前にあるのだ。その瞬間昨日の彼の姿が脳裏に浮かんだ。あれは看板を作り直していたのだ。後から登校してきた生徒が大騒ぎをしたのは言うまでもない。
「誰が作り直したんだ?」
クラスは騒がしかった。中杉先生がホームルームでみんなに聞いても誰も自分だと答えない。彼はというと・・・いつものように外を眺めていた。
彼がどうして黙っているのかは分からなかったが、彼の考えを尊重して私も事実を伏せることにした。いつか聞いてみようと思う。何故隠しているのか。
それから、私の彼に対する感情は大きく変わった。私の中できざで嫌な奴というイメージは全くなくなり、優しい人というイメージに変わった。自分のやったことを自慢もせずに隠しているというところがたまらなくいい。こういう人だったんだ、彼は。そう思うとただのクラスメイトから気がつけば憧れの存在になり、さらに日が経つと完全にそれは恋へと姿を変えていた。そのときから、彼のことが、愛しくてたまらない。心臓の鼓動が恋を表しているなら、爆発しそうなほどのこの鼓動が彼に対する気持ちの大きさを示している。
「優しいところって、あんたあんま話したことないじゃん」
事情を知らないのだからこの恵美の言葉も当然ではある。
「優しいところが、好き」
それだけ言うとまた視線を外に向ける。四人はバスケットに夢中だ。どうやら彼と優一が同じチームのようだ。頑張れ優一。頑張れ、速水くん。
四人で昼食を食べながらいろいろな話をする。合間合間に彼に視線を移す。お弁当を食べ終わると、四人で窓から顔を出しバスケットを観戦しながら話を続けた。
彼らは熱中しているようで、私たちの視線になんて気づいてもいないようだった。彼のパスが優一に渡り、優一がそのままシュート。ナイスパス。あと、ナイスシュート優一。
「いっつもバスケしてるよね、この四人」
「スポーツ好きなんじゃない?」
「あんた藤原くんしか見てないでしょ」
「ばれた?」
私たちの下らない会話をよそに緊迫したゲームが続く。もうすぐ昼休みも終わる。どっちが勝つんだろうと考えながら見ていると、彼がボールを持った。
ほんの少し、あるかないかの時間をおいた後、彼の手からボールが飛んだ。ゴールに届くまでがとても、とても長く感じられる。リングに当たって、ボールはリングの中へ。
「ナイッシュー」
私は、思わず、声を上げる。
彼が振り向く。
彼の瞳に映る私は、今、どんな顔をしているのだろう。