第二十二章 速水亮
満員の電車に揺られる。朝、晩。それが日常。
昼は下げたくもない頭を下げて、家に帰れば泥のように眠るだけ。
下らない毎日かもしれない。
それでも、後悔はしていない。
駅に着くと、大きなクリスマスのイルミネーションが眩しいほどに煌いていた。
クリスマスが過ぎれば正月。どちらもオレにとっては無いに等しい。どうせ休日返上で働かなきゃならないのだから。
「もう何年もクリスマスや正月に家族と過ごしてないな」
小声で呟くと寒気から身を守るためにコートに両手を突っ込む。しかし大した暖はこの程度では取れない。
先ほどの独り言が頭にこびりつく。クリスマスや正月?違う。家族で団欒なんてした覚えがここ何年もない。大した大黒柱だ。
世間の喧騒は耳障りで使命からの逃避を促す。それに身を委ねてしまいそうになる自分に何度叱咤したことか。
数え切れないほど通った道。何の変哲もない、変わり映えのない、悪く言えば退屈な、よく言えば穏やかな道。これまで何度も通った道は、今日も変化はない。
変化というのは心地のいいものでそれが無い日常ほど耐え難いものはない。大人になるということはその変化のなさに耐えうるだけの心を得るということだ。結局、耐えるという行為を苦と思わずにいられることが、大人というカテゴリーに属するための条件なのだ。それは大人と子ども、どちらにも片足を突っ込んだ状態の人間にとっては屈辱以外の何物でもなく、心を蹂躙されているようなものだ。それでも、それを許容することが出来なければ、結果として大人というカテゴリーに属することはできない。世にチャイルディッシュアダルトが闊歩するのも仕方無い。耐えるという行為は難解な行為であるからだ。
自分は大人であると認識したのはいつだろうか。初めてセックスをしたとき。高校を卒業したとき。成人式を迎えたとき。どれも違う気がする。
悩んだ挙句、結果答えは出なかった。
「今何時だろう?」
そう思いながら腕時計に目を配らず、どうせいつもと同じ時間だ、と自分に言い聞かせる。見るだけ無駄だ。
地面に向けられていた視線を前方に向けると、見慣れた後ろ姿があった。朝、いつも同じ時間の電車に乗り、夜、いつも同じ時間の電車で帰ってくる男。全くの赤の他人ではあるのだが、毎日自分と同じ行動をしているためか奇妙な親近感が彼に対して湧いていた。まぁ名前すらも知らないのだが。
背丈は170cmほどだろうか。中肉中背。見た目は三十代前半もしくは三十代半ば程度に見えるのだが、白髪の多さは年配を連想させる。きっと後姿だけを見たら五十過ぎであると思われるに違いない。意に反するだろうに。
子どもの頃は大人に見られたかった。一歳でも年上に見られるように、大人びて見てもらえる様に気を使ったものだ。気がつくとその考えは一変していて、少しでも若く見てもらおうと思うようになる。若さに特別憧れがあるわけじゃない。それでも人は歳を取れば若さに魅了されていく。若さとは繁栄で、老いとは衰退。欲するのも仕方が無い。衰退なんて好む人間はいはしないのだから。若さが欲しいのではない。繁栄の状態にいつまでも身を起きたいだけなのだ。衰退はやがて消滅へとつながるのだから。
目の前の男も例外ではないだろう。きっとその白髪の一本一本に憎しみの念を抱いていることだろう。かといって老いと向き合うことから目を背けることは出来ない。それは自分の否定になってしまうからだ。
自分の否定とは迷い。迷いとは弱さ。弱さを抱えながら生きることは容易ではない。その弱さを強さに変えることが出来なければ、生きることは難しい。
しばらく歩くと細い路地が見えてくる。そこでこの名前も知らない友人とはお別れだ。
彼と別れたら家はすぐそこだ。もう見えてくる。
ほら、見えてきた。
ゆっくりとインターホンを押す。確認もせずに扉は開くだろう。
ほら、開いた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
良子もつい先ほど帰宅したのだろう。どこか疲れて見える。
大した会話もせぬまま居間へと向かう。
「ご飯にしよっか」
「あぁ。腹減った」
鞄とコートをソファーに無造作に置くと、テーブルにつく。おっと、その前にビール。冷蔵庫の中の冷えたビールを取り出す。触ると痛いほどに冷たい。
「このために生きてるってかんじだよなぁ」
そう言いながら飲む。ビールは美味い。
いつからだろう。昔はビールなんて大嫌いだった。コーヒーもブラックでは飲めなかった。気がつくとビールもコーヒーも好んで飲むようになり、朝のコーヒー夜のビール。これがないと苛々するほどになっていた。
「これも大人ってカテゴリーに属するための条件かもな」
言い聞かせるように呟くとこれまた勢いよく飲む。美味い。
一息つくとテーブルに夕食が並んだ。いつもの買ってきた惣菜だ。
「今日も美味そうだ」
悪態をつく。
「ごめんね。いつもちゃんと料理作れなくて」
申し訳なさそうな良子。その表情を見てしまったと思う。
「いや、仕方ない。お前だって毎日毎日大変なんだ。朝から晩まで働いて、その上飯まで作れなんて言えないさ。まぁ、たまには作ってくれよ。休みの日でいいからさ」
「えぇ。あまり上手じゃないけれど」
「昔から進歩はないな」
「うるさいなぁ」
良子は昔から料理が苦手だった。というより家事全般が苦手だった。そんな良子に無理に疲れてる上に料理を作れだなんて言えない。オレがもっと給料多ければこんなことにもならなかった。そう考えれば、原因はオレ自身にあるのだろう。ほんっと、大した大黒柱だ。
「幸成は?」
「今呼ぶわね」
いつも通りメールで食事のお知らせ。無機質だと感じるのはオレが古い人間だからだろうか。なんでもかんでもメール頼みの世の中ってなんだかつまらない気がする。
「・・・オレだけか?」
「なにが?」
「いや、なんでもない」
幸成を待たずに先に食べる。これも恒例だ。
しばらく箸を進めていると幸成が二階から降りてきた。
「いただきます」
そう言うと幸成も夕食を食べ始めた。
無言の夕食。いつ以来だろう。一家団欒というものの存在がこんなにも遠く感じるようになったのは。幸成が高校に入学してからだろうか。昔からどこか反発するところはあったが最近のそれは目を見張る物がある。反抗期というものだろうか。ならば仕方ないことか。
それにしても相変わらずこの重苦しい食卓は好かん。なにか喋ってみるか。
「あのさ・・・」
先に口を開いたのはオレではなく幸成だった。
下を向いたまま幸成は続けた。
「明日って、なんか予定ある?二人とも」
明日。特に無いがたまの休日くらい家でのんびりしたい。ごろごろして、先の一週間の栄養を蓄える時間にしたい。
「特に無いが。どうかしたか?」
「行きたい場所があるんだけど」
行きたい場所?この歳になって遊園地だなんてことはないだろう。かといって見当は全くと言っていいほどつかない。
「どこだ?」
「今は言えない。だけど行きたいんだ。だから明日一緒にそこに行って欲しいんだけど」
「どこか言ってくれなければ行きようがないだろう」
「とにかく、お願いだから、明日あけておいてよ。お願い」
幸成が頼みごとをするのなんて珍しい。真夏に雪が降るようなものだ。横目で見た良子の困惑の表情も納得いく。オレも同じような顔をしているのだろう。
家族でどこかいくなんて何年もなかった。それに最近は幸成とも喧嘩ばかりで親子という形を成せていなかったように思う。たまには団欒もしなければならないのかもしれない。
「わかった。良子もいいか?」
「えぇ」
良子は困った顔のまま言った。
その言葉に幸成は、
「ありがとう」
笑顔で答えた。
息子の笑顔を見たのは何年ぶりだろうか。