第一章 記憶を扱う男
十ニ月十四日。木曜日。天気、曇り。
世間はクリスマス一色。まだ十日先の話であるにも関わらず、イルミネーションで眩く街全体が輝いている。クリスマスムードの人々の合間を一人の男が無表情で歩いている。眩いばかりのイルミネーションには目もくれず、ただ一点を見据えながら歩いている。黒のベロアのジャケットを羽織り、その下にはこれまた黒のパーカー、首元にはチェックのマフラー、そして薄めのジーパンを履いている。肩には茶色の鞄をかけ、両手はズボンのポケットに深々と入れている。
「さむい」
男は一言つぶやくとポケットから両手を出し、はぁっと息を吐いた。それでも大して手は温まらなかったようで、すぐにまたポケットに手を入れなおした。
「・・・」
寒さからか眉間に皺を寄せながら、男は腕時計に目をやる。時間はニ十一時半分をすぎたところだ。
「ちょっと遅くなったかな」
腕時計から視線を前方に戻すと視界に一際大きなクリスマスツリーが飛び込んできた。高さは十メートルはあるだろうか。色とりどりのイルミネーションが巻きつけられ、鈴や雪を模した綿などがクリスマスツリーを美しく化粧している。人々の半数はそれがそこに存在するのが当然というようにその場を通り過ぎ、残りの半数は立ち止まり、ツリーに魅了されている。男も自分の視線を奪ったクリスマスツリーに魅入られるように足を止め、相変わらず眉間には皺を刻んだままツリーを見上げた。
「クリスマスって一人身の奴にとってはただのうざったい一日だよなぁ」
周囲に聞こえない程度の大きさでつぶやく。しばらくツリーの美しさを堪能すると、また男は歩みを戻した。
街中を進み、小道に入り、暫く進むと鮮やかな大通りからは打って変わって閑静な住宅街に出る。マンションや一軒家が立ち並び、それぞれの窓から漏れ出す光がそこにいくつもの人の営みが存在することを教えてくれる。その光の数だけ生命があり、想いがあり、喜びや悲しみといった様々な感情が存在すると想うと嫌気がさすのか、男は歩きながら光を睨む様に見据えている。どこかからか聞こえてくる話し声や笑い声、その一つ一つが耳障りで、自分を嘲り笑っているように感じているのだろうか。
「・・・」
立ち並ぶ住宅の中の一つ、周囲の住宅と大きさの変わらない、なんの変哲もない一軒家。それがこの男の家だ。庭に入ると一匹の犬が男を出迎えた。
「ただいまドンべえ」
ドンべえと呼ばれた犬は尻尾をめいいっぱい振りながら擦り寄ってきた。頭をなでられると嬉しいのか目をつぶっている。暫く撫でた後、
「じゃあね」
と言い残し、男は玄関に向かった。
ポケットから家の鍵を取り出し、玄関の鍵を開ける。ノブを右側に回しゆっくりと扉を引く。
「ただいまぁ」
玄関を閉め、鍵をかけると同時に男は家中に聞こえるように言った。返事はなく静まり返った空気と暗い廊下がこの空間には今自分のみしかいないことを告げる。
男は何かつぶやこうとしたが止め、電気も点けず暗い廊下を通りリビングに入った。カーテンを閉めた部屋は男に軽い恐怖感を与えるほどの暗さを持ち、一定のリズムを崩さずに鳴り響く時計のカチッカチッという音が恐怖感をさらに煽る。電気の位置を手探りで探し、リビングの電気を点ける。灯りの点いた部屋は先ほどの恐怖感をすでに持たず、男にはやっと安堵感が訪れた。
「あぁ、腹減った。晩飯どうしよう。なんか用意してくれてんのかなぁ」
小奇麗にしてあるリビング。一般家庭にしては比較的大きめのテレビ、それを取り巻くように配置されたソファー。ソファーの中心には小さめのテーブルがあり、その上には今日の日付の新聞が無造作に置かれている。ソファーから少し離れた位置には木製のダイニングテーブル、その上には何も置かれていない。
二つのテーブルの上に目的の物がないことを確認すると、すぐ横のキッチンに移動し、大きめの冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中もリビングと同様で綺麗に整頓されている。ニリットルのミネラルウォーターを取り出し、それを飲みながら冷蔵庫の中、目立つ位置に置かれたコンビニ弁当を取り出す。
「今日は、から揚げ弁当か」
先ほど飲んだミネラルウォーターと弁当を持ってソファーに座る。それらをテーブルの上に置くと男は鞄を下ろし、一息ついた。
男は一人の時間や空間といったものを嫌いではなかった。一人でいることは時には苦痛をもたらすこともあったが、それ以上に男に安堵を与える。他人と時間を共有することも嫌いではないのだが、それ以上に一人の時間を男は好いた。一人のときに特別に何かをするというわけではなく、そこでただ様々なことを考えるのを好んでいるのだ。特に決められた何かを考えるわけではなく、その日あったこと、その日出会った人のこと、自分の今や過去、未来。そういったことをただただ考えるのを男は好んでおり、それが日常化していた。
何気なくテレビのリモコンを手に取り、テレビを点ける。テレビからは呑気な笑い声が聞こえてくる。くだらないことを大きく笑いその光景が驚くほど滑稽で、思わず男は苦笑してしまった。最近人気のお笑い芸人が得意のギャグを披露している。
気に入らないのかチャンネルを目まぐるしく変える。どれもあまり気に入らないようで何度も何度もチャンネルを変えたのだが、最終的にはニュース番組にチャンネルは落ち着いた。
弁当を包装しているビニールを乱暴に開けると、冷たいままの弁当を食べ始める。黙々と食べながらニュースに目をやる。ブラウン管からはどこかの国で飛行機事故があったニュースが流れている。
「死者は現在確認されているだけで八十六人。さらに増えると思われます」
神妙な面持ちで真面目そうなキャスターがそう告げた後、
「日本人の搭乗者はいないようです」
と少し表情を変え続けた。
ブラウン管の中の出来事は男にとって非現実的で、なんの感情も産まないほど、リアルではなかった。しかし、それは確実に現実であり、疑うことの出来ない事実であり、男の無表情と無感情はあまりにも無神経だった。しかし、かといって男は他人に興味がないわけでもなく、どちらかといえば他人に対する思いやりは深いほうである。単純に、リアルではないだけなのだ。道の反対側で困っている人がいれば無心で助けるであろうが、地球の反対側で人が苦しんでいるという事実が男の眼前にぶら下がっても、男の脳を刺激し心を揺らすのには無力であるのだ。それらを無理に同情したり、自分の手で困った人々を助けようなどといったことを考えることを男は必要以上に嫌った。さらに、そういったことをしようとする人々をも必要以上に嫌った。偽善者。そういった人々を、その言葉でくくり、嫌悪の情しか彼らに抱かない。それは男にとって至極当然の考え方で、他人にそれは間違っていると指摘されても何故違うのか、男には全く分からなかった。見知らぬ人間の生き死にほど興味の湧かないものは無く、それに無理やり肩入れすることにも同様に興味が無かったのだ。何故こうも無関係の人間に人は興味をもつのか。何故助けを乞われたわけでもないのに自分勝手に手を差し伸べるのか。何故それらの行為を自慢気にするのか。そして何故、それらの行為を自らのアイデンティティーとするのか。男には、全く、理解できなかった。したくも、なかった。
最後のから揚げを食べ終わり、ミネラルウォーターを一口飲み、食事を終えると、時刻は二十二時半に指しかかろうとしていた。
「ふぅ、満足」
それからしばらくニュースを見ていたが、突然テレビを切り食事の片づけをし、男はリビングの電気も消さぬまま鞄を持って二階へと向かった。
二階へと続く階段は大した段数も無いのだが暗闇のままだといつまでも、どこまで続くように感じられた。
電気も点けず一歩一歩確実に段を上っていく。足元にはちゃんと安定した足場があるにもかかわらず、暗闇という要素が不安感を駆り立てる。
暗闇の中階段を上るという行為は人生に似ている。男はそう思った。
自分の部屋に着くと、電気を点け、鞄を机の上に置きながらその横にあるパソコンの電源を点ける。男は自分の部屋に入ると必ずパソコンの電源を点ける。パソコンが立ち上がるまでの間、着ているベロアジャケットを脱ぎそれをベッドの端に掛けるように無造作に置き、ベッドに寝転び、目を閉じた。
男の部屋はリビング同様きちんと整理整頓され綺麗にされている。机にベッド、テレビに二人掛けのソファー、本棚と比較的シンプルな部屋になっている。本棚には小説と漫画本が並び、特に変わった本は置かれていない。
しばらくベッドの上で寝転がった後、男は立ち上がるとパソコンに向かった。既にパソコンは完全に立ち上がっており、男はメールのチェックを始めた。メールは一件もなく、それを確かめるとインターネットを始めた。
何か特別な調べものがあるわけではない。パソコンを立ち上げたついでといった感じでインターネットをしているようだ。今日のニュースから、男の趣味なのだろうかプロ野球やサッカーの速報にも目を通している。
ニュースを読み終わったと同時に、
「ただいまぁ」
と女性の声が下のほうから聞こえてきた。
「おかえり」
男は少し声を張って言った。
「洗濯したいし早くお風呂はいってねぇ」
同様に張り上げた声で女がその言葉に答えた。
「あーい」
男は言いながら立ち上がると、パソコンを終了させぬまま一階へと向かった
。
女が点けたのだろうか、先ほどとは異なり階段は照明によって明るく照らされている。明るく照らされた階段を鼻歌交じりで下りていく。暗い階段を上るときとは心境が異なるのか、男は少し微笑んでいるようにも見える。階段を降りきると、そっと階段の照明の電気を男は消した。
脱衣所に着くと男は相変わらず鼻歌を歌いながら、まずパーカーとその下のロンTを脱いだ。洗面台の鏡には筋肉質の引き締められた男の上半身が映っている。その姿は男がなんらかのスポーツあるいは格闘技をしていることを表していた。綺麗に割れた腹筋、筋がくっきりとわかる腕。プロテインで膨らんだ筋肉とは違い全体的に絞られており、日々の努力が垣間見える。
男は全裸になると、浴室へゆっくりと入っていった。
熱いシャワーを浴びながら何かを考えているのか、男は終始無言だった。シャワーから立ち上る湯気がまるで霧のように男の体を包んでいく。霧は足元から徐々に徐々に男の体を浸食していき、やがては男と一つになる。その光景は何処か神秘的だった。それは男の持つ雰囲気のせいなのか、それとも鍛えられた肉体のせいなのだろうか。
シャワーを浴び終わり、体に付着した雫を丁寧に拭き取ると、すぐそばの引き出しから下着を取り出し着用する。長めの髪は完全には乾かず、必要以上の水分を保っている。その水分が一粒の水滴となり、髪の毛から垂れ落ちた。それを鏡越しに見ていた男の顔は少し赤くなっている。
まだ乾いていない頭をタオルで拭きながら、また暗い階段を上る。数滴ほど階段に雫が落ちたが、特に気にもせず男は階段を上り、また自室へと戻っていった。
頭にタオルをかぶったまま、本棚にあった一つの小説を手に取る。読んでいた最中だったのか小説の三分の二あたりのしおりが挟まったページを開き、読み始めた。
時計の針が十二を回って二十分ほど経ったころ、男は丁寧にしおりを挟み、それを本棚のもとあった位置に戻した。部屋の電気を切り、机に座る。電子メールのフォルダをダブルクリックすると男の表情が険しくなった。帰宅中の時と同様に眉間に皺を寄せて、画面を直視している。
新着メッセージ一件。
クリックするとメールのタイトルが画面に現れた。
画面には「Re:記憶屋からのお知らせ」と出ている。