第十一章 速水幸成 その3
十二月十六日。月曜日。時刻、十二時七分。
職員室から見える空は、気分とは正反対の、晴れ。
ホームルーム後、担任の中杉に職員室に来るように言われ、状況をあまり理解できないまま、今オレは職員室の前にいる。
「失礼します」
一礼して職員室へと足を踏み入れる。
職員室では忙しそうにしている者あまりいなく、暇そうに呆けている者、新聞を読んでいる者、それぞれがそれぞれの行動をしている。聖職者としての威厳なんて感じられない。下らない。
侮蔑の目で周囲を見据えると、職員室の奥、窓際の中杉の席へと向かう。何かしらのプリントに目を通している。
「なんですか?」
一言、中杉に言葉を投げかける。
「おぅ、速水。ちょっと話があってな」
「はぁ。で、なんすか?」
心当たりはない。怒られるようなことをした覚えもなければ褒められる覚えもない。どうせ下らない話だろう。などと考えていると、思いもよらぬ言葉が返ってきた。
「先生に何か相談することないか?」
はぁ?突然何を言い出すんだこの人は。別に相談することなんてないし、仮にあったとしてもオレが他人に相談などとするようなキャラでないことは知っているだろうに。一体なんだと言うんだ?
「別に何にも無いっすけど」
あるわけが無かった。
「友人関係とか、家族のこととか、何かあるだろう?」
「いや、だから別に何にもないっすよ」
家族という言葉が引っかかる。なんなんだ、一体。それからしばらく押し問答が続く。何かを探っているのは明らかだった。
「正直に先生も話すから、速水も正直に答えてくれ。最近家族のことで悩んでないか?今日な、お母さんから朝、電話がかかってきてな、速水が・・・」
「電話ってなんですか?母から電話あったんですか?」
「あぁ。電話があったことは内緒にしてくれと言われたんだがな、お母さん随分心配してるみたいだぞ」
信じられない。何を考えてるんだ。確かにあれから毎日のように言い合いが続いて、唯でさえゴタゴタした家庭はより一層複雑に荒れている。時化のように波は高くなり、もはや息継ぎもままならないほどに荒れ狂った海は、恐怖にも似た疎外感を感じさせる。孤独。その言葉以外に最早、現状を表す言葉は無い。
「先生には関係ないことです。これは家族の問題なので」
苛立ちは臨界点にまで達していた。家庭内のいざこざ、それを外にまで持ち出した母。それがあまりにも簡単に平常心を奪う。親切心か義務かは分からないが、こうして今目の前で相談に乗ろうとしている中杉までも、苛立ちの対象になっていく。
「関係ないってことはないだろう。悩みがあるなら先生に・・・」
「関係ないって言ってんだろ」
荒ぶった声は喧騒に包まれた職員室を静まり返すには十分で、周囲の視線が自分に集中するのを痛いほどに感じる。好奇の視線が余計に心に波を立てる。最早、取り返しの付かないほどに心は濁りきっていた。
「速水、落ち着け、先生は速水の味方だぞ」
落ち着かせようとしているのだろうが、その言葉がさらに世界を壊していく。なんの感情もその言葉は与えてはくれない。
「なにが味方だよ。なんにも知らないくせに偉そうなこと言ってんじゃねぇよ」
自慢ではないが、これまで優等生でやってきた。特に教師に逆らったこともなければ問題を起こしたことも無い。教師に、いや、親以外にこんなに声を荒げたのは初めてで、自分でもその状況に幾らかの戸惑いがありながらも放たれた矢が戻ってこないように、言い捨てた言葉も訂正しようはなく、
「もういいでしょ。話すことなんてありません。失礼します」
とだけ言い、逃げるようにその場を立ち去る。職員室の奥から名前を呼ばれたが振り向きもせずに職員室を後にした。
怒りや戸惑い、苛立ち。そういった負の感情が歩く速度を加速させる。競歩大会にでも出たらいい線行くのではないかというほどに。足早に教室に戻ると、教室にはいつもの三人のほかには誰もいない。テストも終わって、さっさと帰宅したのだろう。三人の笑い声が耳障りで仕方なかった。
「なんだったんだ?」
教室に入るなり声をかけてきたのは優一。説明するわけにもいかず、みんなに嫌な思いをさせたくもなく、無理に平静を装い、
「たいしたことじゃねぇよ」
それだけ言うと鞄を持ち、
「行こうぜ、みんな待ってるだろ」
そう言い教室を出る。一秒だって学校にいたくない。家庭、学校。二つの居場所を失った。そう、感じた。
校門には既に神埼たちが待っている。正直、カラオケなんて気分じゃない。それでもオレ一人が行きたくないなどと言えば皆に悪いと思い、渋々ついて行くしかなかった。
「待った?幸成が悪さしたから先生に呼ばれてさぁ。遅くなりましたぁ」
陽気な茂久。普段ならその陽気さに助けられているくせに、今は邪魔くさくて仕方が無い。
「なにしたの?速水くん」
長谷川が不思議そうに問いかける。
「別に悪さなんかしてねぇよ。大したことじゃねぇよ」
言える訳ない。言うわけない。
「その割には結構話長かったじゃん」
「なんでもねぇって言ってんだろ」
最低だ。他人に当たる。しかも友人に。その行為がより一層自分の首を締め付ける。
「なんだよ、なんか機嫌悪いぞ幸成。なんかあったのか?」
優一の一言。そして、ほんの少しの沈黙の後、
「別に何でもないよ。悪かったな、大声出して」
冷静になれ。オレらしくも無い。本当に、みんな、ごめん。
優一が気を利かせてくれて、その場はなんとかごまかし、マクドナルドへと向かう。その途中もあまり喋ることはしなかった。
「そういえばさぁ」
茂久はコーラを飲みながら周囲を見渡している。
「前にやったやつ、面白かったよなぁ」
「なに?前にやったやつって」
前にやったやつ。マクドナルド。この二つから連想されるものは一つしかない。
「もう絶対やらねぇぞ。ハンバーガー大嫌いになれるからな」
冷めたポテトを食べながら呟く。
「なにしたの?」
「ハンバーガー百個食べようって遊び。めちゃくちゃ楽しかったよな」
「何が楽しいんだよ。あれからしばらくハンバーガー食べられなかったんだぜオレ。ハンバーガー見ただけで胸焼けしたっての」
舌を少し出しながら波多野が眉間に皺を寄せて言った。
「ハンバーガー百個食べようって言い出したのお前だろうが」
お前が言い出したんだろうが。スーパーサイズミーという映画に感化された波多野は突拍子も無い遊びを思いついたのだ。思い出すだけで胸焼けがする。
「ハンバーガー百個下さいって言ったら、店長出てきてさ、ハンバーガーは衛生の問題上五十個までしか出せませんって言われたのよ。そしたら幸成が、衛生上問題ないハンバーガー五十個を二つ下さいって言ってさ、んで結局ハンバーガーは百個出てきたんだけど、最初のうちは楽しく食べてたんだ。ハンバーグ二つ重ねてダブルバーガーとかってやったりしてさ。でも残り四十個くらいからは地獄だったよな。吐きそうになりながら皆で食ったっけ。昼にマック行ったのに、食べ終わったのは夕方でさ、帰るとき皆で、百個も食えるかボケ、とか愚痴垂れながら帰ったんだよなぁ。マジ楽しかった。またやろうぜ。次は、チーズバーガー百個な」
周囲は大笑い。五十個出せるなら百個も出せるだろう。店長のニタニタしながらの断りに少し腹が立ったのを今でも覚えている。
「絶対やらねぇ。金かかるわ吐きそうになるわハンバーガー嫌いになるわ、良いことなんて何一つなかったじゃねぇか」
優一は笑っている。思い出して少しだけ笑みがこぼれる。こいつらがいてくれて本当によかったと思う。今のオレに居場所は、ここしかない。情けない。
暫く話をした後、
「そろそろ行こっか」
そう言うと店を後にするために席を立った。
すぐ近くの駅前のカラオケ。受付は優一がしてくれている。学生証を提出すると、カラオケルームに入る前にフリードリンクコーナーへ。温かいコーヒーをカップに注ぎながら、立ち上る湯気を見つめる。宙に消えていく湯気はまるでオレ自信だ。
トップバッターは大抵が茂久。今日も茂久が真っ先にマイクを握った。
耳に入る音楽と目の前の光景が、まるで別の世界の出来事のようで、眩しくて、汚れたオレには目を開けていられないほどだった。世界はこんなにも綺麗で、美しくて、楽しいものなのに、オレだけがちっぽけで下らない存在のように感じる。
みんなは呼び名を決めているようだ。神崎の後に続いて、
「幸成って皆呼ぶし、幸成で」
どうでもよかった。呼び名なんてどうでもいい。というよりは全てがどうでもいい。苛立ちが全てを憎ませる。
数回曲が変わるも、そのどれもが耳を抜けていくだけでしっかりとは聞けていない。コーヒーばかりが進んでいく。
女子メンバーが歌っているとき、優一が耳打ちをしてきた。
「この間は悪かったな。突然皆でお前んちに押しかけて。迷惑じゃなかった?」
「そう思うなら連絡くらいちゃんとしろよな」
「ホントのこと言ったらOKしてくれないだろ。お前真面目っ子だしさ」
気を紛らわせてくれるならなんでもいい。今だって、最初は乗り気じゃなかったけれど、どれだけこの状況に助けられているか。一つ一つの事物に苛立ちを覚えるが、一人で家で呆けるよりは何倍もマシだ。
すでにカップにはコーヒーは入っていない。ほんの少しだけ残ったコーヒーがカップの中で円を描いている。女子メンバーの歌が終わると、コーヒーを入れにいくため、
「コーヒー入れてくるわ」
と宣言し立ち上がる。呆けた頭にカフェインが浸透すると気分がよかった。今日はコーヒーがやたら進む。
「私も行く」
神崎が追って立ち上がる。カラオケルームを出てドリンクコーナーへ。黙ったままコーヒーを入れる。砂糖もミルクも入れない。甘ったるいコーヒーは好きじゃない。舌がしびれるくらいの苦さを持つぐらいのコーヒーが丁度いい。
神崎が烏龍茶を入れている。どうせ飲むならジュースなどの単価の高いものにすればいいのに、などと考えていると、
「砂糖も何にも入れなくて苦くない?」
コーヒーは甘いのは好きじゃない。
「甘いの苦手なんだよね」
自分の態度に戸惑う。自分の態度は他人に嫌悪感を与えてしまうのではないか。そう考えながらも、それ以外の態度をすることが出来ない自分に苛立つ。
「なにかあった?」
眉間に皺をよせた神崎は、覗き込むようにこちらを見ている。
「なにが?」
心当たりがありすぎてどれがどれやら。
「なんか、いつもと違うから、速水くん」
「別に何にもないよ。心配かけるようなことはなんにもない。それより、くんづけ止めるんじゃなかったっけ?」
普段と違う。誰だってそう思うよな。入れたばかりのコーヒーは絶えず湯気を発し続けている。一口すする。想像以上に熱い。
「じゃあ、今日から幸成って呼ぶね」
照れくさい。何処と無く嬉しい。二つの感情が交差していて、それを上手く表現できない。
「神崎」
何故かは分からなかった。ただ、今の気持ちを知って欲しかった。辛さや悲しみを誰かに共有して欲しかった。それでも、誰でもいいのではないのか、という疑問が浮上すると、それ以上言ってはいけない気がして、
「いや、なんでもない。そろそろ戻るか」
そう呟いた。
「幸成」
こちらをじっと見据えている。その瞳はまっすぐで、澄んでいて、オレとは違う。あぁ、どうしてこんなにも他人を羨ましく思うのかがやっと分かった。オレは光に群がる虫だ。どれだけ恋焦がれても近づけばその身は焼かれる。自分は光にはなれない。分かっていながらも、求めているのだ。自分も光になりたいと。光のそばにいたいと。水面に映った月に手を伸ばしてみても、触れられるのは水面だけで、月には手は届かない。分かっていながらも何度も何度も手を伸ばす。愚かな獣。
「神崎じゃなくて美紀でしょ」
照れくさくて、頭の隅にありながらも言えなかった。心の中で数回練習する。そして、
「わかったよ、美紀」
そう言いながら、笑顔の自分がそこにはいた。
カラオケルームに戻ると、みんなは歌も歌わずに雑談に花を咲かせている。内容はあってないようなもので、下らない事このうえない。それでいい。雑談はそれがいい。
丁度、波多野が彼女とののろけ話をしているとき、優一がトイレに誘ってきた。トイレに行くだけなら一人でいくだろう。何らかの話でもあるに違いない。オレは優一について行くことにした。
トイレの前まで来ると、優一は、
「なにがあった?」
こちらを見据えながら言った。
「別に何もないよ」
「何も無いわけないだろ。誰が見たっておかしいよ、今日の幸成。友達だよな、オレら。だったら言えよ。悩みがあるなら相談しろよ。それが友達ってやつじゃないのかよ」
何も言えなかった。優一の言葉は当然で、逆の立場でも同じことを言っただろう。それでも、言えない。言ったところで何にもならないし、それを優一に担がせるのも間違っているように思えて、言葉が詰まる。
「ごめん。理由は言えないけど、正直、オレ、悩んでたんだ。最近いろいろあって。でも大丈夫だから。わるいな、心配かけて」
「あぁ、分かった。あんま心配させんなよ。オレだけなら別にいいんだけどよ」
ありがとう。心からそう思う。こんなにもオレは誰かに支えられている。見えない手が、今にも倒れてしまいそうなオレの背中を支え続けてくれる。それがなにより嬉しかった。一人なんかじゃないんだ、オレは。
「ありがとな、優一」
オレがそう言うと、優一は肩を叩きながら笑った。
お節介野郎。そう思いながらもそのお節介でどれだけ助けられているか。思ってもらえている。それだけで力をもらえている。
それからトイレに行き、連れションというやつをし、次どちらが歌うかで盛り上がった。ジャンケンで負けてしまったオレが次は歌うことになった。その後、オレたちはカラオケルームに足を戻った。
「たっだいまぁ」
優一が大きな声を出しながら部屋に足を踏み入れる。
「なにしてたんだよ、男二人で」
茂久がコーラを飲みながら言った。
「トイレに付き合ってもらってたんだ幸成に。一人じゃ寂しいだろ?」
「長かったし、大のほうだな」
「正解」
今が永遠に続いて、この世に悲しみなんてなければいいのに。そんな幼稚な妄想に頭が溶けていく。
外の景色は見えない。きっと、少しは太陽が顔を覗かせているのではないだろうか。
晴れていれば、いい。