第十章 神埼美紀 その3
十二月十六日。月曜日。時刻、十一時三十分。
天気、快晴。
耳を劈くチャイムが長かったテストの終わりを告げる。
出来は上々。
掃除の後にホームルームがあり、学校は終了。いよいよ待ちに待ったカラオケ。この日をどれだけ待ちわびただろう。そのおかげで苦痛でしかないテストを乗り越えられたのは言うまでも無い。
「美紀」
恵美だ。掃除の間、テストの出来が悪かったことで相当愚痴をこぼしていたくせに、今は白い歯を覗かせ、機嫌のよさが窺える。
「さぁさぁ、これからお楽しみの時間ですよ。レッツ、カラオケターイム」
「先にご飯食べに行こう。私お腹空いちゃった」
「美紀は花より団子ですか」
団子より花。ご飯より彼。何より、彼。
集合場所は正門。私たちは早めに着いたようで、まだ男子メンバーは来ていない。
「どこご飯食べに行く?」
「マックでよくない?」
女は時に、花より団子になる。普段は花にばかり憧れている振りをしているが、実際一番は団子で、その様はリアリストという言葉がよく似合う。女性はリアリスト。男性はロマンチスト。男性が女性より子どもだというのはこれが大きな要因ではないだろうか。かくいう私もリアリストなのだろう。彼のこと以外は。
「待った?幸成が悪さしたから先生に呼ばれてさぁ。遅くなりましたぁ」
いつも元気な藤原くん。そしてその愉快な仲間たち。
「なにしたの?速水くん」
愛の質問は最もで、優等生の彼が先生に呼ばれるのは不思議だった。
「別に悪さなんかしてねぇよ。大したことじゃねぇよ」
「その割には結構話長かったじゃん」
「なんでもねぇって言ってんだろ」
突然の彼の怒号に辺りが凍りつく。こんな彼を見たことはなかった。彼に対して今朝からなんとなく違和感を感じていたのだが、何かあったのだろうか。
「なんだよ、なんか機嫌悪いぞ幸成。なんかあったのか?」
優一の一言。そして、ほんの少しの沈黙の後、
「別に何でもないよ。悪かったな、大声出して」
普段とは何処か違う、何処がと聞かれても答えられないのだが、違和感のある笑顔で彼は、そう呟いた。
それからの彼は普段と変わらない。それでいて、どこからか漂う違和感が私の心を包む。マクドナルドでもその違和感は続いていた。
「そういえばさぁ」
藤原くんが目を輝かせている。
「前にやったやつ、面白かったよなぁ」
「なに?前にやったやつって」
藤原くんと同じように目を輝かせているのは加奈。好きだからこその瞳の輝きだろう。
「もう絶対やらねぇぞ。ハンバーガー大嫌いになれるからな」
冷めたポテトを食べながら苦笑いの彼。
「なにしたの?」
「ハンバーガー百個食べようって遊び。めちゃくちゃ楽しかったよな」
「何が楽しいんだよ。あれからしばらくハンバーガー食べられなかったんだぜオレ。ハンバーガー見ただけで胸焼けしたっての」
舌を少し出しながら波多野くんが眉間に皺を寄せて言った。
「ハンバーガー百個食べようって言い出したのお前だろうが」
彼は髪をかき上げながら言った。その仕草に少し胸が高鳴る。
「ハンバーガー百個下さいって言ったら、店長出てきてさ、ハンバーガーは衛生の問題上五十個までしか出せませんって言われたのよ。そしたら幸成が、衛生上問題ないハンバーガー五十個を二つ下さいって言ってさ、んで結局ハンバーガーは百個出てきたんだけど、最初のうちは楽しく食べてたんだ。ハンバーグ二つ重ねてダブルバーガーとかってやったりしてさ。でも残り四十個くらいからは地獄だったよな。吐きそうになりながら皆で食ったっけ。昼にマック行ったのに、食べ終わったのは夕方でさ、帰るとき皆で、百個も食えるかボケ、とか愚痴垂れながら帰ったんだよなぁ。マジ楽しかった。またやろうぜ。次は、チーズバーガー百個な」
皆は大笑い。衛生上問題の無いハンバーガー五十個を二つ。そういうことを言う彼がなんだか想像できなくて私は思わず吹き出してしまった。
「絶対やらねぇ。金かかるわ吐きそうになるわハンバーガー嫌いになるわ、良いことなんて何一つなかったじゃねぇか」
優一は笑っている。彼も、少しだけ笑っていた。
暫く話をした後、
「そろそろ行こっか」
彼が席を立ちながら言った。これからカラオケ。楽しみにしていた。かつてこんなにも待ちわびたカラオケがあっただろうか。たかがカラオケ、されどカラオケ。
駅前のカラオケは立地条件も手伝っていつも人で賑わっている。うちの高校の生徒もよく利用していて、行くと必ずと言っていいほど見知った顔に出会う。
学生証を提出すると学生割引料金で利用できる。当然フリータイム。予定では今から夜八時まで歌いまくる。時刻は十二時四十一分。七時間以上の長丁場。
八人にしては少し広いくらいの部屋。カラオケという文化は非常に珍しいらしい。他の国ではあまり見られない文化のようだ。私たちにしてみればあって当然の文化で、高校生にはなくてはならない必須の文化だ。
フリードリンクなので皆がそれぞれ飲みたい飲み物をコップにつぐ。私は烏龍茶。彼は、コーヒー。砂糖もミルクも入れていない。ブラックなんて飲めるんだ。
最初は誰もが牽制しあう。誰が一番最初に歌うか。これは肝心で、大抵盛り上げ役の人がトップバッターに選ばれる。まずはテンポのいい曲だろう。場を盛り上げる。出来そうで中々出来ない役目で、こんなときに力を発揮するのは藤原くんだ。
「んじゃ、オレいきまーす。ゆずで、夏色」
聞きなれたメロディーが流れる。テレビでは男女が微妙な恋愛ドラマを繰り広げている。いつも思うのだが、この滑稽ともいえるドラマは必要なのだろうか。一昔前の服装で一昔前のドラマのような滑稽さ。これがいつも不思議だった。何故カラオケってこんなの流すんだろう。
以外にも藤原くんは上手で、プロ顔負けで、場を盛り上げるには十分すぎるほどだった。加奈がうっとりしているのは言うまでも無い。
「上手だね藤原くん」
笑顔の加奈。
「おう、ありがとさん。ってかさ、なんか、くんづけとか止めない?この間の幸成んちでもそうだったんだけどさ、なんか折角仲良くなったんだから、呼び捨てとか、あだ名で呼ぼうよ」
そう言って、藤原くんは手をあげた。
「オレ、茂久って呼んで」
「じゃあ、私は加奈って呼んで」
「恵美で」
「愛でいいかな」
「優一か、ユウかな」
「美紀って呼んで」
「幸成って皆呼ぶし、幸成で」
「んじゃオレは・・・」
みんながそれぞれに言葉を発した後、波多野くんが一言言おうとしたのだが、それを遮るように藤原くんが、
「お前はデブゴンな」
「まじやめて」
場はデブゴンコール。波多野くんは全員に悪態をついている。何気なく彼に目をやると、少しだけ笑っていた。その笑顔がどこか寂しげで、私も少しだけ寂しくなった。
次に歌うのはデブゴ・・・じゃない、波多野くんだ。ラップがメインの曲で、わざと声を枯らせて歌っている。曲の合間合間に藤原くんと優一のデブゴンコールが入って、波多野くんは歌いにくそうだ。
それから私たち女子メンバー四人で、昔流行った歌を歌った。彼の行動が気になって、ちらちら見てしまう。優一と何かを喋っている。内容が気になって、歌詞を間違ってしまった。
「コーヒー入れてくるわ」
彼が立ち上がる。好機とばかりに私も立ち上がって、
「私も行く」
カラオケルームを出る彼についてドリンクコーナーへ。彼は黙ったままコーヒーを入れている。やはりブラック。
私は彼に、烏龍茶を入れながら、
「砂糖も何にも入れなくて苦くない?」
と聞いた。すると彼は、
「甘いの苦手なんだよね」
と一言。このどこかそっけない、人を寄せ付けようとしない雰囲気。神秘的で異端で、確固たる個を示しているように感じる。それにどうしようもないほどの好意を抱く私。
「なにかあった?」
彼の今日の違和感が気になっていた。孤高の雰囲気はいつものことなのだが、孤独を漂わせながらも何処か温かみのある彼の雰囲気は、今日は何故か冬の寒空のような、痛いほどの冷たさを感じさせる。それが、気になっていた。
「なにが?」
綺麗な顔を少し歪ませて、苦い顔をして彼は言った。
「なんか、いつもと違うから、速水くん」
「別に何にもないよ。心配かけるようなことはなんにもない。それより、くんづけ止めるんじゃなかったっけ?」
口元にほんの少し笑みを浮かべて言ったのち、湯気が立ち上る熱そうなコーヒーを一口すすった。
私は照れながら、
「じゃあ、今日から幸成って呼ぶね」
相変わらず口元にほんの少しだけ笑みを浮かべながら彼は黙って頷いた。
「神崎」
私の名前を呼んだ彼は何かを言おうとして、
「いや、なんでもない。そろそろ戻るか」
そう呟いた。
「幸成」
彼が何を言おうとしたのか聞きたくて彼の名前を呟く。なにか言いかけたことあるなら言って。そう言おうとしたが、何故か聞いてはいけないと感じ、その言葉を心に閉まう。その言葉の代わりに、
「神崎じゃなくて美紀でしょ」
彼はその日初めて、寂しさの感じさせない笑顔で、
「わかったよ、美紀」
そう言った。
カラオケルームに戻ると、みんな歌も歌わずに話し込んでいた。私たちもその輪に入って下世話な話題に身を委ねる。雑談は下世話で下らなければ下らないほど良い。話題が話題を呼んでどんどん変わり、結局最初は何の話をしていたのか分からなくなる。それぐらいが雑談にはちょうどいい。
しばらくすると優一と彼が二人で席を立った。なにかあったのだろうかと、気になったのだが、ついていくわけにも行かず、その場で雑談を続けるしかなかった。
「ねぇ美紀、さっき何話してたの?」
「なにが?」
「速水くん、じゃなかった、幸成と何話してたの?」
愛は興味心をその目に宿している。それに連なるように私の言葉をその場の全員が待っているようだ。
「別に、普通の話だよ。コーヒーブラックで平気なの?とか」
「つまんないの」
愛が舌を鳴らした。
「かんざ・・・美紀って幸成のこと好きなの?」
ド直球。藤原くんの質問はあまりにもストレートすぎて思わず、
「うん、好き」
と答える。
「そうなんだ。あいつカッコイイもんなぁ。女なら大抵惚れるよな。オレだって幸成にはホの字だもん。顔いい上に頭もいい、運動も出来る、おまけに性格もイイなんて何であいつに勝てるんだって話だよ」
「性格いいの?幸成って」
加奈は藤原くんと少しでも多く話をしようと必死だ。それに割って入るように波多野くんが、藤原くんに、
「いいよなぁ?」
と笑顔で同意を求めた。
「あぁ。あいつは性格いいよ、腹立つぐらい。随分前だけどさ、まだオレらが幸成と仲良くなかったころ、公園であいつ一人で何かしてたんだ。近づいてみると、一生懸命土を掘ってたんだ。同じクラスだったけど喋ったことなくて、でも何してるのか気になってさ、聞いたんだ。そしたら、猫の墓作ってるって。道端で轢かれた猫の墓作ってたんだぜあいつ。馬鹿じゃねぇのって言ったら、体が勝手に動くんだ、って。最初のころ、なんとなくすかしてるって感じがして嫌いだったんだけど、それからだな、アイツと仲良くなったの。それまで、大っ嫌いだったけどな」
「あったな、そんなこと。確かに最初のころ茂久は幸成のこと嫌ってたな」
「昔の話だよ。あいつさ、ああ見えてお節介なんだよ。他人に興味ないようで一番周り見てるのあいつだもんな。優一は、誰かが元気ないときとか、どうしたんだ?って親身になるタイプだけど、幸成はそんなとき黙ってそばにいてくれるんだよな。二人ともめちゃめちゃイイ奴だよ。自慢の友達だ」
「オレは?」
「お前は、悪友だ。そしてデブゴンだ」
彼の意外な一面に三人は驚いているようだ。道端で轢かれた猫に対して可哀想と感じる人間は少なくはないだろう。それでも行動に移る人間がどれだけいるのだろう。大抵の人間はその場で感情は生まれても行動には移さない。彼はきっと、全てに手を差し伸べようとするのだろう。それが他人から愚かだと蔑まされても。彼はきっと、全てを慈しもうとするのだろう。それが自分を傷つけても。
巡る思いはやがて一所に集まり、形を成す。それは誰かを思う気持ちがなせる業で、煙草の煙のようにやがては霧散していく。それでも纏わり付いたその感情は消えようとはしない。いつまでもいつまでも。それが恋だと知りながらも、あと一歩が踏み出せない。踏み出す勇気がなくて。自分を傷つける覚悟がなくて。
「幸成って好きな人とかいるの?彼女はいないみたいだけど」
恵美は私の気持ちを代弁したつもりなのだろう、私に笑顔を見せながら波多野くんに聞いた。加奈に遠慮をしているのだろう、あえて波多野くんに聞いたようだ。
「あいつさぁ、そういうのは全く分かんないんだよなぁ。女に興味なんかないって感じじゃん?恋愛話とかも全くしないし、俺らもわかんねぇや。なぁ?」
「えっ、でも・・・」
藤原くんは何かを言おうとしたが、
「いや、やっぱいいや」
それだけ言うと黙った。間違いなく彼のことだし聞きたかったのだが、怖くて聞けなかった。自分にとってマイナスなことばかりがイメージされる。それが聞きたいと望む心を押さえつける。聞けない。なんだか怖くて。
「たっだいまぁ」
そのとき、優一が大声で部屋に入ってきた。彼も一緒だ。
「なにしてたんだよ、男二人で」
「トイレに付き合ってもらってたんだ幸成に。一人じゃ寂しいだろ?」
「長かったし、大のほうだな」
「正解」
たくさん聞きたいことがある。たくさん知りたいことがある。あなたを知りたい。辛いことも苦しいことも楽しいことも嬉しいことも。全てを知りたい。たくさんの疑問と蟠りがあるけれど、あなたと時間と空間を共有できたことはとても幸せで、それで満足してしまいそうな自分がもどかしい。それだけで満足していては駄目なはずなのに。心が揺らぐ。このまま、今の関係を壊したくない。でも、壊したい。揺らぐ心は風で浮遊する紙飛行機のように行方を捉えきれず、私自信ですら着陸地点を定められない。
彼の歌を聴きながら、一つ一つのフレーズを心でなぞる。紙飛行機がが少しずつ軌道修正されていくのを感じる。カラオケルームには窓なんてなく、外の景色は窺えない。それでも、確信に似た自信がある。
空はきっと、雲ひとつ、ない。