第三十五章『三者三様の19さじめ』(1)
「アニメ……? アニメってテレビでやってる、あのアニメのことですか?」
『そう。あのアニメ。厳密に言うと深夜アニメ』
どこか適当に座れそうな場所を探し回るも、辺りはただの歩道しかない。仕方無く一番近いベンチがある大学の喫煙所へと向かって悟司は車道を渡った。
「どういうことですか? 主題歌って言っても、別に俺はプロじゃないし……」
『コンピ出したじゃん? オレが前に言ってたヤツでさ』
そういえば、と悟司は思い出す。シュガーの名義で作った『Umbilical Cord Community』が今年、鵜飼の所属するレーベルの子会社が出しているコンピレーションアルバムの一曲に選ばれたのだった。ジャケットイラストは月子が描いたもので、それなりに枚数も悪くない数字だったと聞いてはいたが。
『ウチのレーベルが、そのアニメの製作委員会に加わってんだよね。それで一度はオレの方に話がやって来たわけだけれども、まぁ単純に作る作品の雰囲気と合ってないんだわな。もちろん他に色々候補はあったらしいんだけども、製作的には若手――ようするに新鋭の人を採用しようって』
「……それで、俺なんですか?」
『まぁオレからの推薦ってヤツだよ。実質プロデビュー的なものになる――とは言っても表記されるアーティスト名ってのは声優の人たちで、悟司くんはあくまでも曲提供って形でクレジットされる感じ』
喫煙所には人がいなかった。みんな講義に行っているのだろうか。
悟司はゆっくりベンチに腰を落ち着けて考える。
『どう? やってみる気はない?』
「それは――」
『ん?』
「それは、俺だけですよね? 千佐都や月子ちゃんはもちろん――」
『まぁね。月子ちゃんはイラスト担当だからこの件には当然参加出来ないし、千佐都ちゃんは作詞担当だけど……正直、手腕を買われてるのは悟司くんの曲の方だからね』
鵜飼の月子に対する口調から察するに、彼はまだシュガーが活動停止をしたことを知らないようだった。昨日の今日のことだから、知らないのも無理はない。
『ややキツい言い方になるけど、シュガーの魅力には千佐都ちゃんの作詞も十分に関係してると思う。でも、それはあくまでシュガーがボーカロイド作品という枠組みの中で活動しているからに過ぎないとオレは思っている』
「……どういうことですか」
『簡単なことさ。普遍性に欠ける』
沈黙が出来た。それまで電話の音の方に集中していた悟司の耳が急に外の世界の方へと切り替わり、にわかに辺りの環境音がうるさく感じ始める。
悟司が気分を害したように感じたのか鵜飼は、
『だから作詞は、そのアニメの世界観にあった詞を書ける人に任せてしまうのがベストだとオレは思う。千佐都ちゃんの作詞のベストはここじゃなく、ボーカロイドの方だ』
とそんな風にフォローを入れた。
だが実際のところ、悟司はそこまで気分を悪くはしていなかった。千佐都の歌詞は自分と比べてもずっと分かり易く、伝えるメッセージの入れ方がうまいので参考にもなる。しかしそれはあくまでもこちらが自由にテーマを決められるからこそ、あそこまで伸び伸び書けているようにも思えるのだ。
アニメの主題歌ともなれば、作品のイメージを壊さないためにある程度の言葉の制約がかかってくるだろう。そういうのが、千佐都には合わないかもしれない。そう思うのだ。
鵜飼の言っていることは正しかった。
『まぁ部外者のオレが言うのもなんだけどさ――』
そしてどこまでも正しく、また、あまりにも正しすぎた。
『悟司くんはシュガーという枠にこだわり過ぎて、伸びしろを自ら放棄しているとオレは思っている』
「…………」
何も反応を返さない悟司に一拍置いて、さらに鵜飼は続ける。
『それがどういう経緯で繋がった四人なのか、少し耳に挟んだくらいの知識だけでオレは正直あまりよくは知らないよ。個々に様々な葛藤やらあったのかもしれないし、感動するような出会いがあったのかもしれない。春日くんが卒業するときもオレにとっちゃ些末なことだったけど、君らにはまるで世界の終わりかってほど大事件だったじゃないか』
「…………」
『おそらく、今回の月子ちゃんの件でもそうだね?』
「…………そうです」
溜息の漏れる音が聞こえた。
『何も繋がりがなくなるわけじゃあない。みんな一緒にお手々繋いでアーティストっていうのも、まさか思っちゃいないんだろ? 悟司くんはあまりそこのところの欲がないから、むしろ今のような感じのまま永劫回帰し続ければいいというスタンスだし。そうだろ?』
「……そうです」
『はぁ~……なら、この際はっきり言ってやんよ』
鵜飼はそこで言葉を句切って、
『そんなものを現実の中でポジティブに考えようとするな、悟司くん。君らは人間なんだよ。フィクションじゃあない。ドラえもんやちびまる子ちゃんのように、毎話リセットしていく姿は何も正しくないんだ。年も取るし、考え方も変わるし、生き方も変わっていく』
「……当たり前、じゃないですか。そんなの」
『ホントにそう思ってる? ホントに?』
いつだったか、自分は千佐都に向かって変わっていくことは必然だと、そう偉そうに宣ったことがあった。現に今も、状況は刻一刻と変化し続けていっている。春日がいなくなり、次は月子までもがシュガーという関係から切り離されようとしているのだ。こうして近しい場所からどんどんと関係性が変わっていくことは予想通りだったんだなと、そう今でははっきりと頷ける。
千佐都はなんだかんだといって春日との一件以降、ずいぶんとさっぱりした顔つきになったと思う。もしかしたら彼女はこうして変化していく日々に戸惑いを見せながらも、しっかりと受け入れたのかもしれない。それはわからない。
でも、これだけは間違いなく言えることがあった。
自分はきっと他の誰よりも――気付けば千佐都よりもその変化に遅れてしまっている。
もう既に状況は変わった後なのだ。そのうえ現在進行系で自分を差し置き、どんどんとさらなる別なものへとうねりを見せ始めている。それでも自分の中では、シュガーというユニットがまだ永遠に続くものだと、心のどこかで思い込んでいるのだ。
枠にこだわりすぎている。確かにそうかもしれない。こだわってすがって……いつかはバラバラになってしまうその日が来る時まで、自分はすがり続けるのだろうか?
「やります……」
ほとんどそれは絞り上げるような声だった。
「やってみます……。俺に出来ることかどうかはわからないけど、やりきってみせます」
『……そう。やってくれるのね?』
「はい」
一度出た言葉に続く肯定の返事には、多少の力強さが出た。
どこまで出来るのかもわからない。でも千佐都は千佐都で、そして月子も月子で自身のことを考えながら少しずつ成長をし続けているのだ。
自分も、いつまでもその枠に囚われていてはいけない。
「やらせて――いただきますっ」
『……オッケー』
声を聞いて大丈夫だと判断したのか、鵜飼は一転明るい調子で悟司に告げる。
『んじゃ、さっそく来週から東京来て』
「……え? いやちょっとそれは急すぎ――」
『当たり前でしょう? 製作の方からの発注書とか読むでしょ? 曲も作るでしょ? まさかそっちでDTM使ってぽちぽちやるつもりだったんじゃないでしょうね?』
完全にそのつもりだった悟司は、二の句も告げられずに固まる。
『あ。あと、一応原作も読んどいてよ。多分そっちだとそこそこデカい本屋にいけばあると思う。個人でやってるような場所はちょっとなさそうだなぁ~』
そこで、悟司ははっと思い出したように大事なことを鵜飼に聞くことにした。
「あ、あのっ! そういえば……どういう作品なんですかそれ? 鵜飼さんの作る曲には合わない感じって聞いて、ちょっと自分もイメージがわかないんですけど……」
『ん? ああ。そいや、言ってなかったな』
鵜飼はのんびりとした口調で、
『四コマ漫画。女の子だけが出てくる可愛いヤツ。日常系っていうの? ちょっと百合っぽいのも入ってる気がしたな』
予想外すぎて電話を向けている方の首がぴきっと吊ってしまうほどに驚いた悟司は、電話を切った後もしばらく放心状態でベンチに座り込んでいた。
***
「――四コマ漫画の『らららん♪』ですか? はい、確かに全巻持ってますけど……」
「おー。やっぱりっ! 前につっきーの家にあったの見た気がしたんだよねぇ」
「月子ちゃん。悪いんだけど、それしばらく貸してもらってもいいかな?」
大学構内の廊下のど真ん中で、悟司は月子に向かってぱちんと両手を合わせる。
隣からそれを眺めていた千佐都は、そんな悟司のお願いを補足する形で親指を傾けると、
「なんかね。つっきーと入れ替わりで、今度はこれが東京行くらしーよ」
「え、東京ですか? それはまた……なぜ?」
「鵜飼からの話で、なんでもその『らららん♪』っていうマンガがアニメ化するらしいのね。んでそのアニメのオープンニング曲を――」
「…………えぇっ!?」
月子が一拍置いて声を張り上げる。普段の小さな声とはほど遠いほど大きなボリュームで、本気で驚いているのが千佐都にもはっきりとわかった。
月子は呆然としながら、
「す、すごいじゃないですか……ていうかあのマンガ、アニメ化するんですね。そのことにウチは驚きなのですが……」
「あれ? もしかしてこれってみだりに言っちゃいけない話だったりした?」
千佐都が悟司の方に振り返ると、悟司はわざとらしく大きな溜息をしてみせる。
「……当たり前だろ。一応、正式な告知は来月予定の連載誌からなんだから」
「んじゃ、なんであたしには話したのさ?」
「千佐都が聞いてきまくるからだろ? コンビニにジュース買いに行っただけだって行ってるのに、やたらと戻ってくるのが遅いとかなんとかブーブー言い出して――」
「ちょっ! 別にあたしはブーブー言ったり――」
「あ、あのっ! 大丈夫ですよっ。ウチ、言いふらしたりしませんからっ」
そんな月子のフォローが入って千佐都も文句をこらえた。だって、実際に戻ってくるのが遅かったのだから仕方無いじゃないか。
鴨志田の家で寝たはずのヤツが起きてみたらどこにもいなくなってて、メール送ってもスルーされたらなんとなく心配するだろう――と、まぁ実のところ、そんなのはあくまでただの建前であって、別に悟司がフラフラするのは今に始まったことじゃないし、正直な意味では心配など全くしていなかった。
昨日酒の勢いであんなことを言ったせいか、なんとなく春日と卒業式の日に話したことを思いだして後ろめたくなったのだ。だから、ちょっとだけ悟司に言い訳がしたくなった。それだけだ。
――あたしはね、三月にそう誓ったのさ。もう恋なんてしないって。
つまり本音は……悟司と二人きりで話したかった。なんでそう思ったのかはわからないけれどなんとなく聞いて欲しい、そんな胸の内にもやもやしたものを、ただありのままに悟司に向かって打ち明けてみたかったのだ。
それがどういう理由なのかはわからなかったし、口にしてみないとどういう言葉が出てくるのかも自分ではわからなかった。でも、そうやって適当に言葉を繋ぎ合わせていくことで、自分では思いもよらなかった自分の内面が分かってくる気がしたから。
悟司なら、そういう言葉も素直に飲み込んでくれる気がしたから。
……でも結局それは叶わず、そのうえのこのこ戻ってきたら「アニメの主題歌と作ることになった」とか言い出す始末。わけわからん。ホンマにわけがわかりまへんわ、この優男は。ホンマに。
そんなことを千佐都が心の中で思っていると、月子はこほんと咳払いをして二人に言った。
「えと。とにかく事情はわかりました。どうしましょう? 今から家に行って取りに行きましょうか?」
「え。ちょっと待った。つっきー、これから講義は?」
昨年度の月子の時間割ならある程度把握していたが、今年度の方はさっぱりわからない。原因は単に自分がろくすっぽ大学に出て来なかったためなのだが。
月子はちょっとだけ後ろめたさそうな顔をすると、露骨に周囲を確認するようにきょろきょろと見回し始めた。
その様子に「なんだ?」と思ったのは、どうやら自分だけではなく悟司もだったらしい。互いに顔を見合わせてから、同時にくるりと向きを変えて挙動不審な月子の様子に目を見張っていると、やがて月子は左手で口元を覆いながら小声でひそひそと話し始めた。
「……今日はこの後、サボりなんです」
溜めに溜めた前フリの結果がそれだと思うとたまらずズッ転びそうになる。
「実は、今日からなんです。アシスタント」
「え。早くない? もう少し間が空いてると思ってた」
千佐都の言葉に、月子は眉間に皺を寄せて頷く。その表情が今言った内容よりもずっと深刻そうに映って、なんといえばいいのか、月子という女の子を端的に表しているなぁと千佐都は思う。
この子は本当に悪さとか出来ないタイプだ。わかってたけど。
「本当ならもう少し間があったんです。昨日の夜、編集の島崎さんから電話がありまして、どうやら先生の締め切りがヤバイと」
「おお、なんだかすごくプロっぽい発言!!」
「プロっぽいんじゃなくてプロでしょう……。つまり、緊急ヘルプで行けってこと?」
悟司の言葉に月子は深刻な表情のまま再度ゆっくりと頷いてみせると、V字型になっていた眉をだらんと八の字に下げていつもの気弱そうな表情が戻ってくる。
「マンガ家の人の締め切りって、なんだかす、すごく大変なイメージじゃないですか……。徹夜とか全然ありえますよね……? ウチにそれが出来るのかどうか……」
千佐都は悟司を見ると、そのまま月子に向かって顎をしゃくってみせる。その仕草でぽかんとしていた悟司ははっとしたように月子に振りかえると、
「だ、大丈夫だよ! 月子ちゃん。お、俺も今日は遅くまで起きてるつもりだし、なんかあったらいつでもメールしてくれて構わないからっ!」
「だってさ。つっきー」
……全く。
千佐都は悟司と月子を交互に眺めながら心の中で嘆息する。
人のことは言えないけれど、とてもじれったい二人だと思う。どちらも両想いなのだし、あとは「付き合おう」の言葉一つでなんとでもなりそうなものなのだが。
でも……やはりそうはいかないのだろうな。
思うに、告白なんてものは全てタイミングから成るものだと千佐都は思う。
もし、あの時あの瞬間でなければ、自分も春日と共に歩んでいけたのではないだろうか。そう考えることは所詮後の祭りなのだけれど、でもそう思わずにはいられなかった。
――たとえば、あの告白が二年前の一年生の時だったらどうだっただろう?
昨年度のあの日あの時点で春日と付き合おうとするには、春日自身の将来と自らの将来を、きっちりと同じ方向で合わせていく必要があった。将来的に、牧場を継いでいく春日の家に嫁いで行くということは、必然的にそういうことになるだろう。牧場の仕事も手伝わなくちゃならないだろうし、恒久的に人手不足な酪農仕事のことを考えるとやはりそうすることが当然だと思った。
なのに、背骨が悪くて春日の牧場を手伝うことが出来ない自分がいた。はたしてそんな自分が、のこのことあの家族の中に入っていっていいのだろうかと思った。一度そう思ってしまうと、あとは漠然とした不安だけがまとわりつくだけでどれだけ忘れようとしても引きはがせなくなってしまった。
そんなことまで考えなくても、という人もいるだろう。刹那的な提案ではあるけども、遠距離になりながら徐々に互いを理解し合って、いずれ決断の選択に差し迫った時が来るまでそれら全ての事の一切を保留にしておけば――そう考える人だっているだろう。
付き合ってみてから、合うか合わないかを考えようよという人だって。そもそもそういう状況になる前に別れるようなことがあるかもしれないって。
だが、それでも自分にはそうすることが出来なかった。
なぜならきっと、今以上の関係になった時点から別れを選択した方が、後々今以上に辛い思いをしていただろうから。
それに、合うか合わないかを見極めていけるほどあの瞬間の自分の心と体はドライではなかった。相手に合わせて、嫌なところも良いところも、全部いっぱいひっくるめて春日という存在を受け入れたいと、そう思い込んでいた自分が居た。
文字通りのホの字だ。腹を括っていたのだ。だからその意気込みの中でそんな、合うか合わないかなどと考えてはいられない。合う合わないではなく、合わせるか合わせないかという思考にしか行き当たらなかったと思う。
逆に、最初からそんなにドライな感情で付き合うことが出来る人はすごいと思う。少なくとも自分にはそういう風な割り切り方が出来ない。出来るはずもない。嫌味じゃなく純粋にそう思う。自分にはとてもそういうクレバーなスイッチの切り替えは出来ないから。
だからきっと後に保留してから切り出す別れは、今断るよりもずっとダメージがデカい。
そう思った結果があの結論なのだ。
先のことを考えすぎてたかもしれない。だけどだからと言って、刹那的に今だけを見てその先を考えないというわけにもいかないし、そういったバカになりきれなかったという意味では、自分もある意味で非常にドライだったのかもしれない。
そしてもちろん別れじゃなく、結ばれるかもという結末だってなかったわけじゃない。もっと今みたいな理屈じゃなく感情的に事の全てを委ねて動いていたら、もしかしたらそういう結末もあったのかもしれない。「仕事の人手にはならないけれど二人がそう思うなら――」と、そんな風に春日の家族の人達が言ってくれて、自分はその好意に甘んじながら温かく迎え入れられる未来。そんなことだってあったのかもしれない。
それは、わからない。
ただ、どちらにせよあの時に春日から告白を受けた自分、そして今に至るまでの自分の考えはいまだ変わっていない。
それは、向こうの家族の人達によるそのような好意――同情と言い換えても良い――に自身の将来を委ねたくはない、ということだ。
ただ……、もしあの告白が一年生の時だったら、そういう考え方も出来たのかもしれないなと千佐都は思う。可能性としては低いけれども、十分にあり得る範疇ではある。
だってすぐに遠距離にならないまま、少なくとも一年間は共に大学内で一緒にいられたのだから。その魅力が自身の決意よりもずっと甘美であることは疑いようもない。自分はそこまで強固で強い意思を持った人間ではないのだから、ふらふらーっと流されてもちっともおかしくはなかった。
――まぁ、でもやっぱりあの時の自分は別にかすがが好きじゃなかったし、言われても断ってただろうけどね。
あれこれ悩んだ挙げ句にそんないい加減な結論をつけて、千佐都は再び二人を眺める。
つまりが何事もタイミングなのだ。魚だって引くタイミングを逃しちゃあ、釣れるものも釣れないだろう。
千佐都は確信する。
おそらく二人は今が絶好のタイミングだ。これ以上にないってくらい二人の仲は熟成しきっている。第三者だからこそそう見えるのかもしれないけれど、逆を言えば当事者にはわからない二人の距離感というものがある。
自分の恋はもうどうだっていい。このままババアになって死んでやるから。
とにかく今は悟司だ。そして月子だ。
どうせなら二人は自分の倍以上に幸せになってほしい。才能のあるヤツら同士で結ばれるだなんて、そんな羨ましい展開、まるでドラマか何かのようではないか。
おまけに二人とも最近は軽減されつつあるが、コミュ障属性なわけだし。そのようなお似合いすぎる二人がこのチャンスを逃したら、次の恋はいつやってくるというのだ。
「ちさ姉?」
月子の怪訝な顔を見て、千佐都は我に返る。しまった。気付けばずーっと自分の世界に入っていた。
「と、とにかく。つっきーが今から帰るなら、あたしらも一緒に行きますか。ね? 悟司」
「はぁ? 俺はともかく千佐都は講義が――ぐえっ!」
「はいはーい。あたしは所詮しがない留年生~。怖いものなしですからー」
「ま、また留年するぞっお前!」
襟首をつかんだ千佐都に引きずられるようにして悟司が喚く。そしてそんな二人を不安げに見守りながら月子がトコトコと後に続く。
「せっかくだし、あたしも読んでみようかな。その『らららん♪』とかいうの」
正直、全く興味がないわけではない。
日常系漫画はあまり詳しくはないが、昔女子高生が四人でバンドを組んで部室でなんだかんだとする四コマ漫画は結構ハマった覚えがあった。あんな感じの作品であれば大歓迎だ。
「んじゃ、さっそくつっきーの家へGO!」
樫枝千佐都(二十一)は、二人の恋を最前列で見守りながら生暖かく応援しております。
***
「――なぁ千佐都」
襟首を掴まれたまま大学を出た辺りで、悟司はそのように――あくまでいつも通りの何事もないか様に、千佐都へと振りかえる。
……いや。ちょっと待てよと。おいおい。
逆にそんなに普通の顔をされると、かえってこちらが困ってしまうのですけれども。だって今こちらはあなたの襟首をつかんでいて、思っきし体重丸ごと引っ張ってるのですけれども。
つか、このような仕打ちにすっかり慣れっこなあなたが何より一番困るんですけれども。
そんな風にあれこれ思っている矢先に、
「ありがと。さっきの、ナイスフォローだった」
と、さらなるおまけのような感謝までされてしまって、これにはさすがの千佐都も思わずオーバーリアクション気味に狼狽えてしまった。
「は……はぁっ!? ちょっと! アンタがそんな気を回すのって、なんだか変な感じなんですけどっ!」
「……そうかな?」
「そうでございますですわいな!」
あくまで後ろを歩く月子には聞こえない程度のボリュームで、千佐都がそう告げるとなぜか悟司は本気で意外そうな顔をして、そのままかくりと首を横に傾げてしまった。
「……そう、なのかな」
挙げ句はそんな風に呟いて俯いてしまう。
なんなのだこの反応? 自分は何か悪いことを言ってしまっただろうか?
千佐都はこほんと咳をしてから悟司に告げる。
「……アンタね。ちょっと見ない間に、アンタの中でどんな心境の変化があったのかしらんけれども、少なくともそんな受け答えの仕方は二年前と比べてみて雲泥の差だわよ? 間違っても二年前はそんなことを絶対に口にはしたりしなかったぜい?」
「でも自分じゃあ、あまりよくわかんないな」
……本気で言っているのだろうか?
「あたしからすれば、アンタは随分と変わったもんよ」
「え?」
「まぁあたしにしてみれば、ってことだけどね。昔のアンタはもっと内に引きこもって、そこから連れ出してやるのに、あたしもなんだか躍起になってたとこがあったから」
「……なるほど。“千佐都”はそういう風に思ってるんだ」
「なにそれ。どういう意味?」
その無駄に余計な含みを持たせた言い方が、なんだかとても気にくわなかった。
千佐都がじろりと睨みつけると、悟司は襟首を掴まれながらも器用に首をすぼめて、
「なんつーか……自分ではあんまり変わってない、って思うから――さ?」
そんな風に言って自嘲気味に笑ってみせる。
その最後の「さ」って言う語感が特に気に入らなかった。なんだそのちょっと溜めて見せたところ。
なんだかやたらとクールぶってて、無性に気に入らない!!
千佐都は襟首を掴んでいた手を離してから、
「あ……あのねっ! そやってなんでもどや顔をしながら、他人にわかりづらくさせて喋る感じのナルシスト発言って、あたしは大嫌いなんですがっ!?」
と、びっしり指を突きつけてみせてから、すぐにそんな思ってもみない言葉がぽんと飛び出してしまったことで思わずはっとなる。
黙っていれば良かったのにと思う手前、どうしてこんなに素直で率直な言葉が出てきてしまうのか不思議でならなかった。
対する悟司も悟司で変に痛いところを突かれたのか、
「な、ナルシスト発言なんかじゃない! 本当にそのままを思っただけだっ! 大体それって、そんなに意味もわからなくなかっただろっ!? 普通だったじゃないか!」
「い、いーや。全っ然普通じゃあないわ! なんかね、最近のアンタ見てるとすごく腹が立つ言い回しをするっていうか、前より他人のために気を回しすぎておかしくなってるっていうか――ああああもうっっ! 一体何を言ってるんだあたしはぁぁぁあああっ!」
「――あ、あの~……」
そこで、月子が苦笑しながら割って入ってきた。
しまった。度が過ぎてすっかり大ボリュームで喋くり倒してしまったではないか。
千佐都は頭を抱えると二人に対し、くるりと背を向けて黙考する。
いやいや、ちょっと待て。そもそもなぜこうなった? 当初の予定では悟司と月子の仲をもっと深めるべく、色々とパスを出していく算段だったはずなのに。それが気付けば自分の悟司に対する不満を、まるごと直送で口に『モロ出し』してしまっているではないか。
モロ出ししていいのは、コンビニコーナーの一角だけだ。落ち着けあたし。そんなオヤジっぽいことを言ってる場合じゃ無いぞ。
いつだって千佐都ちゃんは自己学習機能を完全搭載しているのだから、こんな窮地はとっくのとうに計算済みなのだ。
「ふ、ふふ……」
そう思って気付けば、千佐都はそんな笑い声を漏れ出してしまっていた。当然のように、そんな千佐都を見た悟司と月子が、おもくそどん引いてしまったのは言うまでもない。
そんな様子を見て取ったかの如く、千佐都は顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
「つ、つっきーっ!!」
「あ! は、はいっ!」
びくんと肩を震わす月子にすかさず振りかえると、千佐都は冷静に深呼吸をする。一度、二度、三度と。ついでに四度と、多めに深呼吸をした後に、
「も……もう大丈夫なのですよん♪ うふんっ」
そうやって可愛い娘ぶって見たけれども、あまりに中途半端過ぎて逆効果だったのは言うまでもない。
月子は既に青筋を垂らして、ビビりまくっている。
……あーくそ。悟司といると、いつもいつもどうしてこういう風になるのだろうか。
千佐都は自分の頭をこつこつと叩いて、本当に、マジで一度、気持ちをゆっくりと落ち着かせる。
もっと大人になれ千佐都――自分は年長者だぞ一応。
そう思いながら、そこでちらりと悟司の様子を伺ってみると、
「…………へ?」
そんな風に何もわからないと言った様子で首を傾げる悟司を見て、一度は収まったはずの腹の虫がまたしても煮えくりかえりそうになってしまった。
……あかんわこれ。これあかん。
この子を見てると、どうしても無条件反射で手が出てしまいそうになる。人によっては可愛げがあるように捉えられる草食系ボーイなのかもしれんが、自分にゃ無理ですわ。これ。
ホント、どれだけコイツはぼーっとしていれば気が済むのだ。
自分が思う悟司の性格を、いっぺんきちんとぶちまける必要があるのではないだろうか。いくらなんでもぼーっとしすぎだぞと。その年にして既に仙人めいているぞ、と。
そんな感じで千佐都は重々しく溜息をつくと、交差点のど真ん中で二人を先導するように右手を煽ってみせた。
「……もういいわい。ほら、こっちついてきて」
すると月子は、
「あの……そっちじゃない、です」
気付けば自分の家の方向に手を振っていた。
最後の最後で、これまでにない赤っ恥をかいたのは言うまでも無い。
でも、それでも年長者なのだ。ぐすん。
***
「これです。全巻きちんと入ってると思うんですけど」
そう言って月子が差し出した漫画が綺麗に紙の手提げ袋の収められていた。ちらと中身を伺ってみると、なんだか可愛いのか可愛くないのかよくわからないキャラが三人揃って並んで、よくわからぬポーズを決めている。
「うん、ありがと」
悟司がそう言うと、てっきりそのまま漫画の職場に行く用意をするかと思っていた月子が一緒になって外へと出てきた。
「あれ、つっきーそのまま行くの?」
「ああ。えっと……出来れば急ぎでっていうものでして……」
「やっぱ漫画を仕上げるのって大変なんだね」
悟司が抑揚もなくそう告げると、
「あんまりウチはそのへんよくわかってないですけどね」
と月子がふふっと笑ってみせた。
そのような一連の流れを見て、千佐都はすすーっと後ろへ下がってみせると、
「徹夜だったりするのかな?」
「うーん……実のところ、何も聞いてないんですよね。アシスタントと言っても、何をやればいいのかとか、どういうものを持ってくると良いだとか。そういうことは全く」
「うーん……?」
妙な沈黙が出来たなと思いながらも、千佐都がさらに数歩ほど下がってみせる。すると悟司が急に月子の部屋のドアを掴んで、思い切ったように口を開いた。
「お、俺も今日は起きてるからさ! 結構長いこと起きてるつもり。ほら、本も借りちゃったし、曲作りとかもあるしっ! よふ、夜更かししそう!」
「…………あっ。あ、そ、そしたらメールとかしてもいいですか?」
「う、うんうん! もち、もちろん良いよ! いつでも待ってるからね!」
うっわー……。
千佐都は二人から五メートルほど離れると、たまらず口に手を当てて忍び笑いを漏らしてしまう。
いやはやなんとウブな会話なのだろう。いや実際の話、春日と自分もそれなりにウブなつもりではあったが、この二人はなんというかまさしく少女漫画チックにも程があった。
一体、どこまで純になれば気が済むのだ?
もしかして、初キッスはレモンの味とか言い出すクチか? そうなんか?
またしてもオヤジ臭い考えをしながら、さらに千佐都は二人の様子を半笑いで見守る。あくまで最前線。あくまで悲参加型のポジションで、今宵のハイライトを決して逃さぬように。
「その……悟司くん、東京行くってさっき言ってたよね?」
「あ。うん。いきなりだよね。どうすればいいのか、ちょっとまだよくわかってなくてさ」
「曲を、作るんですよね」
「え? ……うん。そうだね。何か、考えないと」
すると、月子の顔が少しだけ上向いて、
「も、もしかしたら今日のウチと悟司くんって、お、おんなじ時間の間に、一緒の夢のための時間を過ごすかもしれないんですよね?」
「あ、あー……うん」
ちょっと!
千佐都は握り拳を固めながら、悟司を睨みつけて思う。
そこはいっそのこと、『そうだね……二人の目的に向かって走る時間だね。ふっ』って感じに、くっせぇキメ文句を垂れ流すところでしょうが。
なんで普通に『あー……うん』とか言っちゃってるのだ。いや思いっきりそういうところが悟司っぽくはあるけれども、でもそこは殻を破って! 破り捨てなさいよ! 剥きなさいよ! こら!
「あの……」
もしここにハンカチがあれば、口に入れてきーっと噛みしめたかった千佐都をよそに、月子がそんな風に呟く。なんだ? なにを言うつもりだ?
「もし、東京から帰ってきたらなんですけど」
「うん」
「その……。一度、一緒に旭川に行きませんか?」
「え――」
その瞬間千佐都が、月子のそんなあまりにも強いイケイケな攻勢っぷりにびっくりして、思わずアパートの階段をがたりと踏み外してしまった。
その音に、それまで完全に二人の空気でいた二人が、我に返ったように千佐都を見つめる。
……ぎゃー……。
決してわざとではないにせよ、ムードをぶち壊してしまったのは大問題だ。迂闊とはいえ、非常にマズいことをしたなと心から反省してしまう。
そんな風に千佐都が思ったのもつかの間、
「そ、そんなわけで下に降りましょうか?」
と月子がそそくさと部屋を出て、自室の鍵をがちゃりと閉めてしまった。悟司も悟司で、そんな月子に合わせるようにして鼻を掻くと、千佐都の顔を見て、
「千佐都はいつも騒がしいなぁ」
と言って笑ってみせた。
表情がいつもそのままの心の状況を示している悟司の、そんな顔を見て千佐都も一緒に笑ってみせると、
「……ごめんっ!」
そんな軽い感じの謝罪の言葉を告げて、とんとんと階段を下りてみせる。
「んじゃ、つっきー見送ってあたしらも帰りましょ♪」
千佐都は二人を先導しつつも、
――しかしいつも二人は、このような少女漫画チックな会話ばかりしているのだろうか?
とついついそんなことを思ってしまった。
それは嫌味でもなんでもなく、ひどく純粋で単純な疑問からくるものだった。悪いことだなんて一つも思わない。憧れの恋というものは、誰にだって持っているものだし、まして二人はどちらも創作をする人間ならではの、自分の世界に篭もりがちな人間だから、そこをとやかく言うつもりも千佐都にはない。
大体、千佐都も人知れずひそかに思う理想の恋はある。
ここだけの話だが、もし白馬の王子様が現実にいるならば、ぜひともこの不憫な自分を選んで、どこへでも好きなようにパカリパカリと蹄鉄を鳴らして運んでいって欲しいとさえ思ったりもする。
そう思う一方で、現実的な馬の平均速度は六十キロ程度と言われているから、ここから走り出すとするならば、隣町の赤平市辺りで降りるのが妥当だとも思う。多分その辺りで飽きるだろうから。帰りはタクシーを使って帰る予定だ。腰が痛くなる。
……大きく話が逸れた。
とにかく、そんな冗談を軽々しく言ってしまえるほどには、千佐都は自分自身のことをそれなりに現実的な物事の見方をしている人間だと自負していた。
――だけど、この二人はあまりにも理想の恋を現実のものとして受け止め過ぎているような。
そのような考えは杞憂かもしれないけれども、でも千佐都は二人の様子を見てそんな危惧を抱いてしまう。
特に、悟司を見ていてそう思う。
月子は同じ女性として、いくらか同じ目線での物の見方を考えられるような素養が備わっている気がしないでもない。でも悟司の方は、そうじゃないのではないだろうかと漠然とそんな予感がしてしまうのである。
春日もそうだったが、二人とも悪い意味でとてもロマンチストな面があった。
時にそれは良い方に向くこともあって、春日はどちらかというとそういうタイプの方だと思う。現実と理想の境目で迷いつつも、なんだかんだ現実的で、バカをしつつもきっちり現実のレールに引き戻っていった。
でも、悟司は違う。
だって悟司は、以前にもそれと似た失敗をしてきたではないか。
――岩倉美早紀という女性と。
「千佐都?」
悟司の声で、千佐都ははっとなる。
気付けば、もう月子のアパートを離れて二人でがたがたのアスファルトの道を歩いていた。月子にちゃんと別れを言っただろうか、と思う千佐都に、
「あのさ、ちょっと家に来ない?」
そんな風に悟司が手持ちの紙袋を持ち上げて尋ねる。
全くこのバカは――
千佐都は先ほどの考えを一度全部頭から振り払うように首を振った。
「あのね。人によってはその台詞、勘違いされるからね?」
千佐都が言うと、悟司はけらけら笑って指をさし、
「ははは。千佐都はそういう女じゃないだろ――って、痛って!」
そのふざけた台詞を聞いて蹴りをかましてやった。
これでもレディだぞ、なめんなバカ悟司。
そんな風に思いながらも、千佐都はつんと顔を背けて悟司に言った。
「あーそうですよ、あたしはアンタにとってはどうでも良い存在ですものね。でも、行く。行ってそのマンガを全巻読破してやる。それでいい?」
「なにを怒ってんだ……? なんだか全然わけがわからないけど――」
悟司は蹴られたお尻の部分をさすりながら、
「まぁ、お茶くらいなら気の済むまで淹れてあげるよ」
と少しも笑わず、かといって不機嫌でもない表情でそう言う。
全く人の気も知らないでと思いながらも千佐都は、
「ぜひともよろしく♪」
そう答えてにっこりと笑ってみせた。
いやホントですって。
***
「ちょっと汚いけど適当にくつろいで」
「ちょっと……?」
これのどこがちょっとなのだろうか。飲み残しのスープが入ったカップ麺がテーブルにどんと構えており、それの下には着替えた後の服が散乱している。他にもあげればキリがないレベルで、悟司の部屋は見るも無惨に汚れ果てていた。
「あたし一昨日ここに来たよね? つっきーと合わせてシュガーの活動休止の話をしたよね、ここで」
「あー……したね。そういえば」
「んで昨日は二人とも鴨志田の家に泊まったわけだ。つまりアンタは、昨日丸一日この状態のまま自分の家を放置していたってわけ。そうよね?」
「うん。でも北海道ってゴキブリ出ないらしいし、良いんじゃないの? 一日くらい」
「良いわけあるかいっ!」
千佐都ははぁーっと重苦しく溜息を漏らしてから、キッチンと部屋を結ぶドアのノブに引っかけてあるゴミ袋を手に取って片付けを始めた。なぜドアノブにゴミ袋が引っかけてるのかはわからないが。
「もう……なんで来た早々あたしがこんなことを」
そうぶつくさ言いながら、カップ麺の汁を一度流しに捨ててから水洗いして放り込む。着替えの服はまとめて洗濯機の中へぶち込む。他にもそこらに転がっているコンビニのビニール袋をまとめたり、胡椒や塩といった出しっ放しの調味料を元の位置に戻して、ようやく千佐都が部屋へと戻ってくると、悟司は呑気にマンガを開いて黙読していた。
「人が掃除してやってんのに、フッツーにくつろいでんじゃないっつーのっ!」
どんっと足を踏みならして千佐都が吠えると、
「あっ。そうか。そうだったね」
と言いながら辺りを見回して、それから驚いたような顔でこちらを見つめた。
「あれ? いつの間にか片付いてる……」
「あたしがやったんだっつの! さっきからテキパキ動いてたでしょう。ったくもう……」
今更呆れることもない。一緒に暮らしていた時から既に、コイツはそういう奴だった。
時々悟司はこのように、周りの情報を完全に遮断してしまう事があった。最初は冗談と思っていたのだが、どうやら悟司は時々本当に、五感の全てがどこか別の世界へと飛んで行ってしまっているらしい。
ある種のトランス状態と言っても良いだろう。そして、悟司がそういうトランス状態に陥る時のおよそ七割が、ギターを弾いている時だ。
――今日はいつもとは違う、残りの三割の方だったわけね。
またしても無駄な一面を見つけてしまったなと、千佐都はマンガを読んでいる悟司の対面に座してその横顔を見つめる。そうして頬杖をつきながらぼんやりと悟司の顔を眺め続けていると、やがて千佐都の頭の中に、とある過去の記憶がフラッシュバックされた。
――そういえば、あれはまだ出会って本当に間もない頃だったなぁ……。
確か入学式よりも前の、オリエンテーションの日だった。すごい勢いで帰ってきたかと思うと、突然悟司はギターを担いでそのまま一心不乱に弦をかき鳴らし始めたのだった。自分が悟司のギターを初めて聴いたのもあの時だった。
その時にギターケースからちらっとはみ出ている作詞ノートを発見して、それを自分がこっそり読んでも悟司はギターを弾き終えるまで全くこちらに気付かなかったんだ。
ああ。なんだか懐かしいな。
思えば、あれからもう二年も経ったのか――
悟司は『らららん♪』の一巻を読み終えると、無言のままそのままそれを床の上に置いて二巻に手をつけ始める。千佐都はそんな悟司が読み終えたばかりの一巻を拾い上げると、適当にページをめくって、目次欄を眺める。
なんだか、特に会話もなくこんな風にまったりと二人で時間を潰すのはすごく久しぶりの様な気がした。シュガーが結成してからの毎日は、二人ではなくずっと四人だったから。
「――千佐都」
そんな風に思っていると、突然悟司が千佐都の名を呼んだのでびっくりして顔をあげてしまった。あれ。てっきりずっと自分の世界に入っているとばかり思っていたのに。
そんな千佐都の読みは半分ほど当たっていたらしく、悟司はマンガからすっと目を離して一度天井を見上げると、
「なんか久しぶりだよね。こういうの」
と、そう言ってからぱらりとページをめくり、再び視線をマンガへと落として口を真一文字に結んでしまった。
どうやら本当に一瞬だけ、自分の世界のスイッチを切り替えただけのようだった。
「……そうだね。まったりしてる」
もう聞こえてはいないのだろうけど一応そう言って口元だけ笑みを浮かべると、千佐都も悟司の後を追う形でマンガの世界に没入していった。
***
「……ふぅ」
読んでいた巻を閉じると、悟司はそのまま次の巻を手に取ろうとした。
すると、その手がするりと空を掴む。
「あれ?」
おかしいなと思って振りかえると、そこに積み上げていたはずのマンガが空っぽになってしまっていた。どうやら今読んでいた巻が現状の最新刊ということらしい。
なんだかすっかり没入していたようだと思いながら部屋の窓を見やると、外はすっかりオレンジ色に染まっている。悟司は背伸びをしながら立ち上がって、
「あれ?」
そこで、ようやく机の下で眠りこけている千佐都の存在に気付く。
千佐都は二巻の途中辺りで寝入ってしまったらしく、ページの途中に親指を軽く挟み込んですやすやと寝息を立てていた。せっかくだし起こさないでやるかと思っていると、
「……んが?」
そんな間抜けな声とともに寝惚け眼で目を開けると、千佐都は突然がばりと身体を起こして悟司に振り返った。
「……ね、寝てないかんね?」
「よだれがついてる」
悟司が自らの口元を指して場所を教えて上げると、千佐都は袖で自分の口をごしごし拭き取りながら「らららん♪」の二巻を静かに机の上に置いた。
そうしてそのまますっと顔を背けると、
「な、なかなか良いお話だよねっ!」
と、明らかに無理しているであろう感想を早口で述べる。
「まさか、千佐都的には寝ちゃうほど退屈だったのか?」
「ね、寝てないって言ってるでしょうがっ!」
顔を赤らめてそう言うも、ばっちり寝顔を見ていた悟司にはその言い訳は通じない。
「まぁ確かに女子四人でずっとくっちゃべってるだけのマンガだけど、だからって眠くなるほどつまらなくは……」
「寝てないのっ! 寝てないってば!」
「あーはいはい。わかりましたよ」
悟司は一巻の表紙を手にとると、あらためて元の位置に座り直してそれを眺めてみた。
表紙についている帯には「女子高生のゆるやかライフ!」と書かれており、確かに読んでみるとおそろしいほどにゆるやかな日常風景が描かれている――と、言うより本当にただ机に座って喋っているだけだった。
既刊しているのはまだ五巻目までだったが、その五巻のうちおよそ九割がそんな内容である。
面白いかと言われると正直、
「キャラが可愛かったよね」
という言葉しか出てこない。そんな風に悟司がそっくりそのままを口にして千佐都に告げると、なぜか千佐都は大仰に頷きながら言った。
「うむ。実はそれ、あたしも常々そう思ってたぞよ」
「ぞよ?」
またわけのわからん語尾が出てきたなと思っていると、千佐都も自らが読みかけていた二巻の表紙を手に取って指をさす。
「絵はすごく可愛い。ボカロ曲の動画にあるイラストみたい。萌え~って感じで」
「でもつまんなかったと?」
「つまんないとは言ってないでしょ!」
寝るほどってことはよっぽどだと思うのだが。
「でも、あえてマンガにすることもないような……とは思う。なんていうか、普通」
千佐都の言葉は核心を突いているような気がした。悟司もそう思う。
なんというか普通なのである。それ以上でも以下でもない、四コマだから当然のように起承転結の四コマでお話が繋がっており、最後にはしっかりとオチもあるのだけれど、はたして笑える内容だったかと言われると、そこには大きく首を傾げざるを得ない部分があった。
それに、と悟司はぱらぱらページをめくりながら千佐都に尋ねる。
「女子高生って、いつもこんな話してるの? たとえばこの話だけど、突然主人公の友達が深海生物をググってみたんだけどっていう、あまりにもいきなり過ぎる会話から始まるんだけど」
悟司が指をさして千佐都にそれを見せる。ざっと説明すると、こんな内容だ。
・起
友人A「ねぇ。そういえばわたしね、昨日深海生物をググってみたんだけど」
主人公「なんでそんなものを調べてるんだ?」
・承
友人A「深海の生物ってなんでこんなにグロいんだよーってなってさ。光も届かないところでずっとウヨウヨしながら生きるのって、なんだかすっごく寂しくない!? 中には目が退化しててほとんど見えないのもいるらしーしさっっ!」
主人公「もはやどうして目という機能をその生物につけたのかっていう疑問もあるな……」
友人B「近くにいても、友達のことがわからないとかあるのかなー?」
・転
友人B「でも、わたしたちは目がついている!」
(そこで、突然主人公にAとBが互いに視線を向け合う)
・結
友人A&B「「光がある!」」
(それからAとBが主人公に顔を近づけて、ガン見する)
主人公「よせよ……。なんかすごく嫌だ……」
「――この会話のオチはどこ!?」
千佐都が驚愕の表情のまま、一連の内容を見て顔を上げる。
「……さぁ?」
そんなの自分にだってわかるはずがない。でも、この「らららん♪」というマンガの一部だけを抜き出すと、どうしてもこんな感じになってしまう。あるのかもしれないオチで片付く会話ばかりが、四コマという枠単位で覆い尽くされていき、一応のまとめのような話が最後にあって、次の話へと進んでいく。
正直この「らららん♪」という作品は、このような会話劇ばかりが終始マンガの中を独占しており、あくまでギャグとして面白いかと言われるとかなりヒドい部類、どころかぶっちゃけ苦痛ですらある内容と言わざるを得ないものばかりだ。
ただこの友人AとB、それに今の話には登場しなかったCという女の子の三人が、主人公のことをとにかく大好きだということだけは、連続している四コマの中でびしばしと伝わってくるのである。そこに、先ほどのような面白くないギャグも組合わさることで、全体的に程よい緩さが際立ってくる。何とも言えぬ不思議な空間がそこに出来上がってしまうのであった。
そこに、妙な心地よさを覚えるのはなぜだろう。
「当然だけど、あたしはこんな話を高校の時にした覚えはないっ! 女子高出身だけど、こういう雰囲気とは全く別でしたねっ! そもそも縁がないっ! 非リア充だからっ!」
まぁわかりきっていたことだけれども、千佐都はそんな風にきっぱりと断言した。さりげなく、非リアというのも盛大にカミングアウトしている。
「というより、女同士でこんなにイチャつくことがなかったなぁ。中にはやたらとスキンシップ取ってるのもいたけど……あたしってそういうキャラじゃにゃーいしぃ」
「じゃあ参考までにどんな話ならしたことあるんだ?」
悟司が尋ねると、千佐都はうーんと目線を泳がせてから言った。
「昨日見たテレビの話、とか? あたしがなんにも面白くないと思ってる芸人でも、他の子は嬉々として喋ったりするかんね」
「あ。テレビの話なら、『らららん♪』でもしてるよ? 読み上げようか?」
「そっちにはオチがあるわけ?」
「いや、オチはさっきのと似たようなもんだけどさ」
「そういうのはオチって言わない!」
確かに。
「あとはなんだろーなぁ。あたしはちょっと街中から離れた寮に住んでて、そこから学校行ってたから、美容院の良いところとか知らなかったし、そういう街の話題とかしてたかも」
「住んでる街の話題なら、『らららん♪』でもしてるよ」
「それもどうせオチがないんでしょ? あとイチャついてる?」
「うん」
悟司の言葉に千佐都はがっくり首を落として呟く。
「なんでそういう会話ネタは網羅してるのにオチがないんですか、このマンガは……?」
「でもさ、」
「あん?」
悟司はぱらぱらとマンガを再読して千佐都に告げる。
「現実の会話ってこんなものなんじゃないかな?」
「いや、そりゃあ現実の会話なんて、確かにオチが存在しないこともあったりするけど、でもそこはマンガなんだから――」
「いやだから俺が思うに、このマンガで見せたいと思ってる部分はそこじゃないんだよ」
「どういう意味さ?」
悟司はマンガを閉じると、頭を掻きながら考える。
「うーん……なんて言えば良いのかな。要するに女子高生が会話しそうなネタを題材にして、この作品はそれをそのままそっくりトレースしてるんだよ。オチないまま会話が終了してしまうのも含めてさ。でも、ここにいるキャラ達はそんな意味のない会話でもそれなりに面白がってるわけで――そうでしょ?」
「……うむん?」
「要は読者が置き去りにされてるっつーか……。ぶっちゃけ読者が笑ってくれなくたっていいってくらい、このマンガの登場人物は自分たちだけでただずっと面白がってるわけ。別に面白くない内容でも。その姿は一見すると、読者を面白がらせるような普遍性が欠けまくっているように見える。わかる?」
「なんとなく、だけど」
「でも、そこにこそむしろ普遍性が出まくってるんだよ。きっと」
「……は? なにそれあたしにナゾナゾでも出題してる?」
千佐都が呆れたように悟司を見つめる。
「だから……たとえば俺たちだってそうでしょ? もし俺たちという登場人物に読者なんてものがいたとしても、俺たちはその読者を笑わせようと思って喋ったりしてないでしょ? あくまでそこにいる誰か――つまり千佐都や月子ちゃんや、そういう人達に向かって喋っているわけ。リアルだから。現実だからだよ」
悟司はようやく考えがまとまって、マンガを机の上に置き千佐都に告げる。
「読者の目線を気にしてないんだよこのマンガは。だから妙にリアルだし、話している内容も俺たちには全く面白くない。でもそういう突き放し方が、逆にこの四人のキャラの絆を強めて描写されてるんだと思う。そして、そんな風に仲良しでいる四人は見てて可愛い」
「はぁ……」
そうしてせっかく解説したにも関わらず、千佐都は何を言っているのやらという顔でこちらを見つめるばかりであった。そんな反応をされると、せっかく『らららん♪』のストーリー構成を理解して感動してしまった自分がバカみたいに思えてくる。
千佐都は腕を組んで、むーっと唇を突き出す。
「つまりそこが良いってこと? あたしにはよくわからんわい。普通に普通の日常のことを描いて、それの何が面白いのっていうさ。あたし的にはもっと少年漫画みたいに『どっかーん!』とか『ぼっかーんっ!』とか殴り合ったり、爆発してみたり、そうして熱い友情と努力で勝利するっていうのとかの方が、ダイナミックで良いと思うけどなー」
もしくは、と千佐都は勢いを取り戻したように唇を舐めながら続ける。
「死ぬほど笑えるギャグとかも良い。もうなんていうか、キャラの思考が異次元な感じのヤツとかさ。『なにこいつ!?』みたいなのが笑える。あとはベタな少女漫画みたいに、格好いいイケメンで御曹司みたいな男と普通なあたしが、最初は嫌い合ってるんだけど、徐々に惹かれ合って最後に――みたいなのとかさ!」
「まぁ、言いたいことはわかるよ。はっきりいってこういう『らららん♪』みたいな作品って、趣味嗜好が別れそうだもん」
悟司は苦笑いして答えると、
「でも、なんか俺はこういうのもすごく良いと思うんだ」
そう言って、立ち上がるとお茶を入れにキッチンへと向かう。
「えー。でもこんなお話じゃ普通過ぎるし平坦過ぎるよ。それともただ女の子が可愛く描けてるから、それでアンタはいいわけ?」
千佐都はごろごろと床に転がりながら、ぶーぶーと文句を垂れる。
「いや、まぁ確かに可愛い絵だけどさ」
「あーやっぱアンタ、萌えオタなんだ! 可愛けりゃなんでも正義なんだ! ひーっ」
「最後まで聞けったら」
悟司は二つのお茶を持って戻ってくると、その一つを千佐都の前に静かに置いて、
「普通の日常っていいじゃない」
と笑った。
「俺はギターを弾きながら、曲を作ってそれのアレンジとかをするのも大好きだけど……でも実のところ今日みたいにこうしてのんびりとしながら、こうして千佐都や他の皆とお茶をゆっくり飲む日も大好きなんだ」
「ふーん」
千佐都がずずっと音を立ててお茶を飲む。
「まぁなんかその答えも、すごくアンタらしいけどね」
「あれ?」
てっきり「えーっ」とか言い出すと思っていた悟司には、そんな千佐都の反応が意外に思えた。そんな悟司の反応に、千佐都はお茶から口を離してこちらに向く。
「なにさ? その意外そうな反応。悟司はなんとなくそんな雰囲気出てるよ。このマンガのアニメ主題歌作るって話も、なんだか喜んでいるような感じに見えなかったしさ」
「い、いや……それは割と素直に嬉しいと思ってるんだけど」
「ホントにぃ~? そんな感じには見えなかったけど?」
ジト目で千佐都が顔を見つめてくる。
「ほ、ホントだよ。そんな話が来るってことは、俺の曲が誰かに評価されたってことだし」
「まぁ偉い人に評価されたんだろうね」
「そ、そう。だからそれは素直に嬉しいと思ってるよ」
「ふーん」
大して興味もなさそうに再びお茶を口にする千佐都。
「んで? なにか思いついた?」
「なにかってなんのこと」
「いやいや。アンタ、そのマンガの主題歌作るんでしょうが。マンガの感想なんかをあたしに説明より、やることがあるでしょーよ」
「あ。ああ、そうだね」
千佐都に指摘されとりあえずギターを持ってみるも、何もメロディなど思いつくはずも無かった。そうして悟司がギターを持ったままぽかんと口を開けていると、千佐都は見かねたようにお茶を一気飲みして、少しだけ乱暴に机の上に置いた。
「あのね悟司。本当に大丈夫なの? もしかして勢いだけで安請け合いしたとか、そんなこと思ったりしてないよね?」
「そ、そんなことはないっ! ないんだけど……」
「けど、なに?」
千佐都が作詞してくれたらなぁ、という言葉を悟司はぐっと飲み込む。メロディはそれとなく時間を使っていけば出来そうな気がするのだけれども、作詞のイメージを完全に掴みそこねていた。
このマンガが、本当の意味での女子高生の日常を切り取ろうとしたのはすごくよくわかる。わかりすぎて困るくらいだ。だけど、ではその日常を切り取る歌詞とはどんなのだ?
自分が思う日常って、一体どんなのだ?
「悟司!」
「ひゃいっ!」
またしてもぼーっとしていた悟司に、千佐都が活を入れるように声を上げた。
「あたしにゃ、曲作りの才能とかないけどさ……でもそういうのって、ただぼーっと考えてるだけじゃ出来ないものなんじゃないの? 出来ない時は出来ないっていうかさ。違う?」
「ま。まぁね……そうなんだけど」
それでも今回の話はれっきとした納期がある。具体的にいつかとは聞かされてないが、それでも間違いなくあるだろう。そういえばまだどんな曲のイメージが良いとか、そういう話をまだ相手方から何も聞かされてはいない。いきなり作るぞと息巻いてみたところで、イメージと合ってないと言われちゃおしまいであった。
つまり全然今考えることではないものであった。なんたる気持ちの逸りだろう。そう思っていると、千佐都はやれやれとばかりに首を振ってみせて、
「だったら。もう少しリラックスして考えればいいんでない? つっきーもアンタもちょっと互いに気を張り詰めすぎな気がするよ。千佐都ちゃん的にはね」
「そ、そうかな……」
「そうだよ。絶対にそう!」
そこでけたたましく携帯の着信音が鳴った。千佐都は携帯をポケットから取り出すと、
「はいはい――って、ちょっと。どこでこの番号知ったのさ?」
いきなりそんな風にむっとしてみせる。一体誰からの電話なのだろうか。
「えぇ? なになに、今日もやるわけ? あのね……いや、別に暇だけどさ」
「千佐都、誰から?」
なんとなく気になった悟司がそう尋ねると、千佐都は受話部分を手で覆ってから、憎々しげな表情のまま悟司に言った。
「――鴨志田のヤツよ。ったく誰から聞いたのか、あたしの番号にかけてきやがった」
「なんの用事なの?」
「今日も飲み会やるぞってさ。既にあこやんと与那城と、弘緒ちゃんがいるって」
「……その二人はともかく、弘緒ちゃんって敵視してなかったっけ? 鴨志田さんのこと」
そう悟司が告げると同時に、電話で何か言われたらしい千佐都は、そのまま悟司に向かって自分の携帯を突きつけた。
「ん。あんたにってさ」
「え。俺?」
悟司は驚きつつも千佐都から携帯を受け取る。
「も、もしもし?」
『――お、もしもし。悟司か? 樫枝悟司だろ?』
「あぁ、えと。はい」
電話の鴨志田の声はなかなかにデカかった。少しだけ受話部分を顔から離しながら、悟司がそう返事をすると、
『お前すっごいなぁ!! 聴いたぞ、お前の曲! あれ驚輔と作ったんか? いや、でも驚輔があそこまで出来るなんてありえねーから、多分ほとんどお前だべ?』
さらにボリュームがでかくなった鴨志田の声で耳がキーンとしそうになる。一度大きく顔を離して電話を見つめていると、そこからでも十分鴨志田の声が届く。それほどまでにバカデカい声であった。
『弘緒の映像もすごかったぞ』
そんな風に告げる鴨志田の後ろの方で、弘緒の「私に話を振ってこないでください」というかすかな声が聞き取れる。
『ま。そんなわけでだ。オレなんまら感動したんだわ。いやマジだ。うん』
「は、はぁ……ありがとうございます」
『オレ、悟司のファンになってもいいか?』
「ふはっ――」
終いにはまるでどこぞの誰かさんと似たような台詞を吐く鴨志田に、とうとう悟司は声をあげて笑ってしまった。まぁ千佐都の場合は「なってもいい?」ではなく「なったげる」という拒否権もクソもない言葉であったが。
『おいおいなんで笑った? 駄目なんか?』
「いえ。そんなことないです。すみません」
悟司はまだ漏れそうになる笑い声を押し殺す。
純粋にシンプル過ぎる言葉で褒められるほど嬉しいものもない。気がつけば、そういう風に他人の素直な言葉にも小さく感動する自分がいることにも驚きを隠せなかった。昔はとことん自分のことばかりで、そういった他人の好意にあまり気づけていなかった気がするのだ。そういう意味では、自分がシュガーという仲間たちと出会えたことは大きな成長になったのかもしれない。
変わってないようで、無意識などこかで変わり続けているのかもしれない。
『てことで、今から千佐都もつれて一緒に飲み会に来てほしいんだわ。安藤と堀内にもこれから電話する予定だ。ちなみに今日の話のテーマは、「厨二病だったことがあるかどうか」な。恋の話は昨日やったから、趣向を変えてみたぞ。どうだ?』
どうだと言われましても。
『来れるかー? 出来れば今のうちに酒の数を把握しておきたいんだわなぁ』
「千佐都はどうする?」
「なんであたしに振るのさ?」
千佐都はめんどくさそうに頭をかいてみせる。
「あたしはアンタと違って暇だから、別にどこだって面白そうなとこがあれば、そこに行くっちゅーねん。むしろここはあたしよりもアンタに尋ねてるんじゃないの?」
「そっか――」
悟司はぼんやりと思う。
もしかしたら、これが日常というやつなのだろうか。思えば春日がいたときも、ここまで後輩を巻き込んでの大規模なものではなかったが、四人で集まってはいつも何かを話していた気がする。
「行きます。あの、ただ俺はあんまりお酒飲めないんでほどほどに……」
こういう、なんてことのない日にこそ答えはあるのかもしれない。
出来れば月子がここにいられたらもっと良かったと思いながら電話を切ると、悟司は千佐都と一緒に自室を飛び出していった。
結局その日、月子からの連絡は一度もやってこなかった。
***
そうして東京へ行く日がやってきた。
「――よし」
悟司は適当に荷物をまとめて立ち上がると、しばらく空けることになる部屋にしっかりと鍵をかけてタクシーに乗った。
「すみません。駅までお願いします」
既に録音で使いそうな機材は全部送り届けた。鵜飼の言っていたスタジオの住所に送ってしまったのだが大丈夫だったのだろうかと思いながらも、悟司はぱかりと携帯を開けてメールの受信ボックス画面を見つめる。
数日前に送ったメールは、
『今忙しいのかな? 大丈夫?』
という簡素なものであった。それに対して返ってきた月子の返事は、
『うん……。ごめんね。落ち着いたらちゃんと連絡するね』
これだけ。それも送られてきたそのメールは深夜の遅くのことだった。
昨日の夜に『明日から東京に行ってきます』というメールをしてみたものの、いまだ月子からの返信はない。阿古屋に聞いたところ、ここ最近は何回か家に帰ってくる音はするけれども、どれもひどく遅い深夜のことだったらしい。
特にこの数日は、家にも帰ってきていないとのこと。心配じゃないはずがない。
「――お客さん、ここでいいかい?」
タクシーの運転手の言葉に、はっとして悟司はお金を取り出した。そうしてタクシーが過ぎ去ってから、悟司は荷物を背負って駅の改札へと向かう。
でも、こちらから何を言うわけにもいかなかった。月子は自分の目的のために、夢のために頑張っていると思った。その頑張りをねぎらうことはいくらでも出来るが、それに付随してくるはずの辛さや苦しみを共有出来るわけではない。
それに自分には自分で、今為すべきことがある。
「月子ちゃん……」
ぐっと携帯を握りしめてポケットに押し込むと、悟司は改札を通って歩き出す。
自分もまた余裕のない状況だ。これからどんな風に作品を作っていけばいいのか自信がない。はたして自分などがこの話を引き受けてしまっても良かったのだろうかとさえ思う。
それでも、やるしかないのだ。
東京から帰ってきたときにでも、ゆっくりと話し合おう。
月子の笑顔を思いながら悟司は旭川からやってきた特急電車に飛び乗ると、そこで携帯が静かに震えた。
まさか月子からかと思ったが、違った。
『お土産には東京ばな奈をリクエストします。あとはノリでガンバれっ! 千佐都ちゃんから愛のメッセージ』
「あいつ……っ」
あくまでお土産メインで励ましがおまけのようになっているそのメールに、少しだけ怒りを覚えていると、またしても携帯が震えた。
それは、月子からのメールだった。
『頑張ってくださいね。ウチも頑張ります』
「……うん。頑張る」
デッキで一人、そう呟いてから悟司はドアの向こうに広がる北海道の景色に目をやる。
やるしか、ないのである。
2014/08/24、09/17、10/02~10/06更新分




