第三十四章『こぼれた糖をかき集めようとする18さじめ』(1)
少しだけ話は前後して、月子が島崎と共に喫茶店にいた頃にまで遡る――
「――なるほど。小さな頒布会でイラストを描いていたことはあるんだね」
島崎の言葉に頷く月子。突然眼鏡を外すと、島崎はそれをおしぼりで拭きながら、
「まぁ、簡単な経歴はわかった。それじゃそろそろ本題に入るんだけど……これからひとつ、鷲里さんにお願いしたいことがある」
「お願い、ですか?」
「そうお願い」
再び眼鏡をかけ直すと、島崎はまるであらかじめ用意していたような台詞で喋り始めた。
「君を奨励賞にした理由が二つある。一つは他の編集部にキミの実力を見せないため。そしてもう一つは読者にキミの実力を見せないためだ。どうしてかっていうと、先ほども言ったように鷲里さんの漫画は編集部でも軽い騒ぎとなった。ストーリーはさておき、特筆すべきはその画力の方でね。シロウトでここまで描けるっていうのはそうそういないっていう証明にもなるかな。そのくらい上手かったんだよ。そしてウチの望むべき方向性とも合致するタイプの絵だ」
月子は返す言葉が見つからなかった。謙遜するのも何かが頭の中を邪魔してうまく言語化出来ない。そんな月子の返事を待つまでもなく島崎は続ける。
「そこで、ボクはこう判断したわけさ。それならいっそのこと『プロデビューは確約も同然としてしばらく彼女を温めておかないか』とね。今回送ってきた読み切りとは全く別の、新しい漫画をボクと鷲里さんで一緒に練り込んで生み出していく。そうして満を持してブレイブソウルの気鋭の新人作家として華々しいデビューを踏み込ませよう――とね」
「そ、それはつまり?」
ようやく出てきた言葉がそんなつまらないものだとわかっていても、月子はそう言わざるを得なかった。島崎はにこりと笑うと、
「プロデビュー出来るんだよ。ただし、今すぐじゃないってこと。さっきボクが言っていた話の意味がわかったかな? でもデビューする前にやっておかなければならないことがある」
そう言いながら、島崎は今月号のブレイブソウルを取り出して巻末目次の連載ラインナップを開いた。島崎はその中の一作品を指さして、
「伊達卯月。この人の作品は読んだことある?」
「は、はい……。確か妖怪を題材にしたサスペンス作品の方、ですよね」
「彼女は今も北海道在住で、ボクが担当している作家さんだ。女性だよ」
「え。そうなんですか?」
あらためて月子は伊達卯月の作品「妖潜街」の巻末目次に載っているイラストを眺めた。単行本は持っていないけれども、現在三巻まで出ているブレイブソウルの中でも比較的新しい連載漫画であることは知っていた。
「仕事がら、東京に来てくれた方がこちらとしても助かるんだけどね。結構な郷土愛を持ってる人みたいで、何があってもそこだけは譲れないとばかりに主張するもんだからさ」
「あの。伊達さんって、以前は違う出版社で漫画描いてましたよね?」
「あ、うん。そうそう。あっちは確か能力バトル物だったかな? あんまり人気が芳しくないってんですぐ終わっちゃったけどボクは結構好きだったから。まぁ引き抜きってわけじゃないけど、ダメ元で声をかけてみたら何か全く別のテイストの作品が描きたいっていう流れからね」
「それで……この人が?」
月子は島崎からブレイブソウルを受け取ると、目次から連載ページを見つけてざっと流し読みしてみる。連載を追っかけていたわけじゃないから話の流れはほとんど掴めなかったけれども、それでも絵のタッチは女性作家というだけあってかなり繊細だった。
「うん。この人のアシスタントをお願いしたくてね。今募集してるんだ」
「はぁ、アシスタント……って、ええ!?」
「いいリアクションだねぇ」
島崎は嬉しそうにコーヒーをすする。
「実はね。鷲里さんの住んでる町の隣に住んでるんだよ彼女は。北海道の田舎って、もうそれだけでアシスタント探すのも大変でしょ? 前は札幌に住んでてそれでまだどうにかなってたんだけど、今年の春から完全に地元に引っ越しちゃってさ。一人を除いて皆辞めちゃったわけ。その一人ってのも、まぁ彼女の旦那さんなんだけども」
「旦那さんって……それは」
「市役所職員だったけな? まぁそんな感じでさ。彼女からまずはプロとしての心構えとかそういうのをしばらく学んじゃってもらって、それでボクと一緒に新連載の立ち上げを考えていこうかってこと」
何やらすごい話になってきた。そう思っていると、
「ふーこれで一通りの話は済んだかな。鷲里さんは我が編集部の秘蔵っ子として、出来ることなら誰にも絵のタッチとか知られることなく良い作品を描いてもらいたいから、こちらとしても結構色々してあげなきゃって思ってるところなんだ。あ。もちろん伊達さんの方にはこのことを伝えてある。鷲里さんがOKってことならすぐにでも返事して――」
「あ。あの! その話なんですけど」
月子は、先ほどうまく伝えきれずにいたシュガーの活動のことを島崎に話した。既に何作品も手がけてイラストを描いていること。そして出来れば今後もその活動は続けていきたいということを。
島崎はしばらく考えた後、
「――ごめんね。さすがにちょっとそれは遠慮したいかもしれない」
「え……」
同人活動の一環として受け入れられるとばかり思っていた月子に、そんな島崎の一言は想像だにしていなかった。島崎は持っていたコーヒーカップを音もなく置くと、
「強制、っていうのはもちろん出来ない。同人活動の意味を問えばね。でも、ボクもそして編集長も出来れば最高の形でキミのデビューを飾っていきたいと思っているんだよ」
「それは……わかります……けど、」
「それに、鷲里さんが目指している方向は一体どちらなのかと言う話にもなる」
島崎は真剣な顔つきのまま、両腕をテーブルの上に乗せて顔の前で手を重ねた。
「プロになりたい――キミはそう願って応募をしてきたと、少なくともボクはそう考えている。となると、自然どちらかに舵を切って活動をしていかなければ、いずれスケジュールに圧迫されて潰れてしまいかねない。無論プロでも同人活動をする者はかなりいるけれども、今はそれとこれとは話が別だ。キミが彼らと同じことが出来ないとは言わない。でも、今最も優先すべきははたしてその同人活動だろうか? もっと別のタイミングでそれをすることだって出来るんじゃないだろうか? ボクは今そう考えている」
「…………」
「……今回の賞の応募作品の数は約三百作だった。この下にもいる潜在的なプロ漫画家志望は山のようにいる。一度よく考えてみた方が良い。その一緒に活動している人達と、一度ゆっくり話し合ってね」
島崎の言葉に、月子はゆっくりと頷く。
「誰にでも、出来る事じゃない」
島崎が最後に言ったその言葉は、奇しくも鵜飼と全く同じニュアンスで言われたものであった――。
***
悟司が町に戻ったのは夜の十一時近くだった。高速バスと電車だとどちらが早いのかわからなかったが、とにかく特急電車に飛び乗った悟司は急いでタクシーを探してニングルハイツへと向かう。
ライブは特に何事もなく無事に終わった。帰りに薬袋の姿は見えなかったが、それよりも千佐都から来たメールの方にすっかり気を取られて、打ち上げに行く阿古屋と成司に別れを告げるとそのまま一人だけ札幌駅まで走っていったのだった。
タクシーから降りて、悟司は一○一号室のあるアパートの通路を曲がる。と、そこには部屋の前で立ち尽くしている千佐都の姿があった。
「――よっ」
千佐都は悟司に気付くなり、ぎこちなく片手を挙げてそう挨拶する。会うのは実際のところ一ヶ月半くらいになるだろうか。それだけじゃ髪型も変わるわけ無いかと思いながら、悟司は久しぶりに見る千佐都のばっさりと切った髪を眺めながら、
「月子ちゃんはまだ?」
「うん。一度家に帰ってから来るって言ってたから」
「シュガーを、」
悟司は一度言葉を切る。それはあえてそうしたわけじゃなく、自然とそうなってしまったと言った方が正しい。
「やめるって……」
「うん」
千佐都は軽く頷き、それからちょっとだけ俯いて、
「二人だけに、なるとか……それってもうシュガーじゃないじゃんね……」
と、誰に言うわけでもない調子でそう言った。
「かすががいて、つっきーがいて……そしてアンタとあたしで、シュガーっていう。そういうはずだったんよね……」
それには何も言わずに悟司は玄関の鍵を開けると、
「とりあえず入りなよ。外冷えるし」
そう言って千佐都を中へと引き入れた。
「なんも変わってないのね。アンタの部屋」
千佐都は入るなり、そんな風に漏らしてどっかりと床に腰を下ろす。それは汚さを指しているのか、ただの率直な意見なのか。
そんなことを考えて悟司がギターを下ろしゴミ袋を手に取りながら適当に物を放り込んでいると、千佐都は聞いてもいないのに勝手にどんどんと喋り出し始めた。
「なんでだろう。アンタといると、どうしても嫌な自分が出てきちゃう。今日は弘緒ちゃん達とそれなりにワーキャーしながらいたんだけどさ。そういう時には全然出てこないの。元が根暗だし、それが本心なのかって気付いてはいるんだけど」
「俺も根暗だからね。波長が合うんじゃないのきっと」
「うん知ってる。今わかってて言ってたから」
ムカつく。
久しぶりの上にあれだけの気まずさがあったにも関わらず、話せばこうしていつもの調子で喋れる自分を不思議に思いながらも、悟司はゴミ掃除を終えて千佐都の対面に位置する場所で座り込む。
「で、どうするの?」
千佐都が尋ねる。
「リーダーが下っ端に意見求めるなよ」
悟司が口を尖らせながらそう言うと、千佐都は意外とばかりに、
「重要な案件は大体アンタが決めてたじゃないのさ? それとも何か。あたしが勝手に判断下してもいいってわけ?」
「いいよ。だって、俺にはどうすべきかわからないし」
「わかるでしょーよ。簡単なことだわい」
千佐都はくるくると人差し指を顔の前で回すと、ぴたっとそれを止めて、
「つっきーは誰にも渡さない。以上!」
「つまり月子ちゃんを引き留めるってこと?」
「そういうことになるかな。あんたにはメールだったてのもあってちゃんとは言わなかったけど、編集の人も別に強制してるわけじゃないのさ。だったら――」
そこで急にインターホンが鳴り、悟司と千佐都が思わず動きを止めて顔を見合わせた。悟司は腰を持ち上げて玄関へ向かうと、鍵はかかっていなかったので月子が扉から顔を出してそこに立っているのが見えた。
「どうぞ。入って」
「ちさ姉も、来てますか?」
「うん。いつも通りの感じでいるよ」
悟司はそう言い残してキッチンにあった急須を取り出した。湯飲み三人分を用意しながらティーバッグを落としてお湯を注ぐ。
「つっきー久しぶりっ」
「ちさ姉。最近どうしてたんですか? 全然学校来てなくて……」
そんな二人の声を聞きながら、悟司はお盆にお茶の一式を持って部屋に戻る。それぞれにお茶を注いでゆっくりそれを飲みながら数分。
やがて、月子が静かに二人に向かって口を開いた。話の内容は島崎という月子を担当する編集者の発言。そっくりそのままというわけではないと思うが、大体のニュアンスは概ね月子が聞いたものと判断して、悟司は尋ねる。
「それで、月子ちゃんはどう思ってるの?」
「どう……って?」
島崎と会話してからおそらくかなり時間が経っているにも関わらず、月子はぽーっとした様子で悟司にそう聞き返した。その表情に決意が固まっていないのは明確で、悟司は頭を掻きながら二の句が告げずに湯飲みに口をつけた。
次第に悟司の言っていることの意味が飲み込めてきたのか月子は、
「……わかりません。どうしたいのかが、ウチにはよくわからないんです」
「千佐都ちゃんが思うには、だけど」
千佐都はそう言いながら湯飲みを置いてぐだっと足を伸ばす。もうお前の家じゃないと言うのに、すっかりいつもの調子でくつろぎ出す千佐都を見ながら茶をすすっていると、
「そもそもつっきーはあまり欲がない感じの人間だと思うのね。どう見たってガツガツしてないし、そんな人にいきなりプロという言葉がずどんと降りてきたところでね、そりゃ実感なんて沸かないわけさ」
「それで?」
悟司が促すと、千佐都はこほんともったいぶった咳をしてから真面目な顔つきで月子に言った。
「それを踏まえた上であえて言わせてもらえば、あたしはシュガーを辞めて、プロになる道に専念した方が良いと思ってる」
お前それさっき言ってたのと全然違うじゃねぇかよ、と突っ込みを入れたくなったが、そんな雰囲気ではないので黙っていると、
「それが、ちさ姉の意見です?」
とそれまで俯き加減であった月子の瞳がちらりと千佐都の方へ向いた。
「うん。だって、こんなチャンスって人間そんなにないと思う。それに、」
「それに?」
「あたしにはそういうのが何もないから。つまり皆がなりたくてもなれない道につっきーは立っているってこと。他人に評価されるものが一つでもあたしにあれば、もう少しうまい意見も出来るかもだけど、あたしはそう思う。だから挑戦すべき」
そう。思ってた以上に千佐都の意見ははっきりとしていた。だからこそ悟司も無言で考えてしまう。確かにそうなのだ。おそらく誰もが思う普遍的な結論。当たり前の帰結を千佐都はただ月子に説いてみせただけ。
ところが、
「でも――それは……本当に価値があるものなんでしょうか?」
月子はそう静かに口を開く。
「ちさ姉の言うこと、すごくよくわかるんです……。ウチも、今日東京へ行くときはそう思ってました。それが、ウチの目指しているところなんだって。でも……実際にそういう立場になると思うんです……。それは、本当に自分にとって目指していた場所なのだろうかって。漫画は大好きです。他人の上手い絵を見ると、すごく感動しちゃいます。でも、それは本当に作り手としての好きなのでしょうか……? それがウチにはわからなくなってるんです……」
悟司も千佐都も、そんな月子の言葉にうまく返すべき言葉が見つけ出せなくなる。
「ウチの立たされている二つの選択肢は、はたしてどちらの方が価値があるんでしょうか。当たり前の意見なら、おそらくプロになるべき方だと言います。でも、ウチの中ではそんな当たり前の判断が出来ないでいます……わからないんです。本気で……」
「悟司」
そこで急に千佐都が自分の名前を呼んだのでびっくりして背筋がぴんと張ってしまった。一体なんだと思っていると、
「ここでリーダーとしてのあたしの判断言っても良いかな? 本当はこんな時って悟司が決めた方がいいのかもだけど、多分悟司もつっきーの言ってることに結論下せないでいるんじゃないかなって。そうでしょ?」
すっかり見透かされているが、それは千佐都も同じだろうにと思っていると、千佐都はすぅっと大きく息を吸い込んでから二人に向かって力強くこう言った。
「シュガーの活動を、一時的に休止しましょう」
それなりにタメを作ったにも関わらず、悟司はそんな千佐都の言葉の真意がわからずにぽかんとしてしまう。まさかとは思うけれども。
「あの、それってつまり……?」
「つまりもなにもないでしょうが。要は保留ってことよ、保・留・っ!」
ああやっぱり。
がくりと首をもたげる悟司をよそに、千佐都は月子の方を向く。
「そんなわけで、一度つっきーはその伊達さんって人のところに行って、普通にアシスタントすれば良いと思うよ。そういうことを続けてたら、いずれ島崎さんって人と新しいネタの漫画の話になってくと思うけど、結論ってそれからでも遅くないじゃない?」
「あ。あの……でもそれだと島崎さんになんて言えば?」
おろおろする月子。まぁそれも当然だろう。要するにせっかく悩みを打ち明けた月子に向かって「答えなんて出ねーよ、後回しだ!」って言ってるんだから。
「直接言ってみればいんじゃね? 結論出ませんでしたのでしばらく考えますって」
一方でそんな月子とは裏腹になんとも能天気なことを言い出す千佐都。仮にも相手は社会人だというのに、そんな決断の遅いことをぶちかましたら愛想尽かされてもおかしくないだろうに。
――と、思っていたのだが。
「……し、七月までに決めてくれればいいそうです。その代わりアシスタントの方は必ず行って欲しいって……」
月子も両手でスマホを持ちながら、唖然とばかりに口を開けてこちらに振りかえる。当然自分も、まさかこんな無茶が通るなどとは思っても見なかったので、同じく口をあんぐり開けっ放し。
「なんだ。意外と話がわかるやつね、その島崎って人。案外あたしと気が合っちゃったりするのかもねん♪」
当の千佐都はそんなマヌケなことを言いながらご機嫌に笑う。
「はー。あたしもいっそ漫画描いて同じとこ応募しちゃおうかなー」
「無理に決まってるだろ。一度見たことあるけど千佐都の絵はマジで小学生レベ――ぐごごごご……」
最後まで言い切ることなしに、首を絞められる始末。もうどうしてこうなるのか。
「ちさ姉。ありがとう」
月子はスマホをバッグの中にしまうと、ようやくいつもの調子の笑みを見せてそう言った。千佐都は悟司の首を乱暴に離して、
「まぁでも、ゆっくりと考えるといいかも。あたし達、まだ学生なんだしさ」
「はいっ」
薄れかけの意識の中で悟司はそんな二人の会話を聞きながら、ただひたすら酸素の確保に勤しんでいた。
***
「――ねぇ悟司」
「ん?」
二人の帰り道を送っていき、月子と別れたところで千佐都が突然そんな風に呼びかけた。
「悟司もつっきーみたいに思ってたりするの?」
「月子ちゃんみたいにって、ああいう仕事が価値があるのかどうかってこと?」
「うん」
千佐都はまるで小さな子供のように素直に頷き、
「悟司もさ、他の人にはないものを持ってるじゃん。作曲っていう」
「俺はどうだろうな。鵜飼さんと比べたら全然だと思うし」
「ううん。そんなことないよ。アンタはすごい」
千佐都は首を左右に振ってみせる。以前は少しだけ揺れた髪も、今はばっさりと切り落とされているせいで、見ても動きが少なくなって少しだけもの悲しく思う。
「何よりもすごいなと思うのが、つっきーよりも能動的に音楽活動に励んでいるところ。昔のアンタからじゃまるで考えられないよ」
「能動的、ねぇ」
そんな風に思ったことはなかったが、傍目から見ればそうなのかもしれない。春日から託された思いと、残されたメンバーのことを考えれば途中で投げ出しちゃいけないというちょっとした責任感もついてまわっているからなのだろうが。
「で? どうだったのさ。今日のライブ」
「え。ああ」
そういえばそうだった。
「なんてことはないよ。お客さんも身内ばかりのライブだったし、盛り上がりも普通だった。これといって言うべきところはないかな」
「ん? 身内?」
「大学生同士の対バンライブだから、お客さんも出演しているとこの大学生ばっかりだったってこと」
「なるほど。んでもウチらの大学からは誰も来てなかったんでしょ? 虹山ロックの方はどうだったのさ。盛り上がったわけ?」
「んー。いや」
悟司の言葉にがくりと頭を垂らす千佐都。
「というのも、知らないオリジナル曲ばかりだったから」
「へ? 自分のボカロ曲やったんじゃないの?」
「じゃなくて、まぁ……近々出そうと思ってた新作――みたいな?」
そこまで言ったところで、千佐都がぴたりと立ち止まる。一体どうしたのだろうと思って振りかえると、
「アンタ。それ一体、何曲書いたの?」
「え。まぁ……持ち時間が一バンドで三十分だから、まぁ五曲くらいかな」
「いつの間に」
「春の間にだけど……って、なんだよ千佐都。変な顔して」
悟司が千佐都の足を急かすようにそう言うと、千佐都ははっとしたような表情になって早足でこちらに駆け寄ってくる。
「悟司。アンタさ、もしかしてあたしが活動休止って言ったこと――」
「何にも思ってないよ別に」
もしかしたらそんなことを心配していたのだろうか。別に曲を披露する場なんて、どこであったって構わないというのに。もちろん好きか嫌いかで言えば、あまり自分のことを知らない不特定多数の人に最初に聴かせるよりか、千佐都とかに聴いてもらった反応の方が嬉しいけれども。
待てよ。もしかしてそのことで不機嫌になったとかか?
まさかとは思いながらも、性格的に決して有り得ないことではないと思った悟司は即座に千佐都へ振りかえった。
と同時に、千佐都もまた悟司の方へと振り返って、
「「あのさ、」」
そうやって重なり合った声が、夜の外灯に照らされた小道の上で虚しくも静かに響いた。
「ど、どうぞ……?」
悟司が手を差し出すと、千佐都も同じようにして手を差し出す。
「いえいえそちらこそ」
「いや千佐都からでいいよ、たいしたことじゃないし」
「そ、そう……? それじゃ」
千佐都は何やら恥ずかしそうに、もじもじとしながら何度かこちらをチラ見した後、
「あ、のね! その……」
なんだなんだこの空気。
まるでこれから告白されそうなくらいの勢いではないか。まずありえないけれども。
そう思っていると、
「ごめんっ!」
と、千佐都は物凄い振りかぶって頭を下げた。
「……………………は?」
何がごめんなのだ。さっき首を絞めたことか? しかしあんなものいつもやってることだろうに。
「かすがとの時、さ。あたし……アンタにひどいこと言った!」
そこまで言われてようやく千佐都が言わんとしていたことを理解する。
「ぴりぴりしてたのも事実だし、別にそのことを許してくれとは言わんさっ! でもね、なんていうかその……とにかくゴメンっ!」
「……いいよ。別にそのことは」
今朝も思っていたことだが、千佐都のあの指摘は正しかったと自分でも思っているのだ。かといって直せるかと言われても、既に二十歳となってしまった今ではおそらく不可能なほどに染みついてしまっているものだとも思う。
「俺も……無神経だったんだよ、きっと」
そう自身で結論づける。自分は間違いなく感情が顔にモロに出てしまうタイプだし、事実同情や憐れみの念を無意識の中で抱いていたとも思う。互いに互いを傷つけ合って、そうしてこれからもきっと。
千佐都と、本質的にわかり合えるという日は、もしかしたら未来永劫ないのかもしれない。それでも今までずっとやってきてはいたが、必ずいつかどこかでぷつりと切れてしまいそうだ。そんな危うい関係なのかもしれない。
おそらく、それはきっとどちらかが相手のことを諦めた時から――
「ぶぇっくしょいっ!」
そうやって感傷的に思っている悟司の横で、千佐都が下品なまでにドデカいくしゃみを放った。いい加減にしろこの女。いつも勝手にシリアスモードに入るくせに人がシリアスモードに入るとブレイカーになりやがって。
「うう。勢い良すぎて鼻水出てきたよ……」
「はい」
ライブハウスにあったポケットティッシュがポケットに入っていたのを思い出し、悟司はそれを投げるように千佐都へ寄こした。
「言っとくけどね、こういうあたしも嫌いな自分なんだかんねっ! こういうのってあんた以外には絶対見せたりしてないんだかんねっ! 言っとくけど!」
「はいはい……」
呆れたように返事をして悟司は先導するように歩く。
それって結局、こっちにとっては何のイメージアップにすらならんぞと思いながら。
***
『――なんだったんだ。夕方の電話は?』
「ようやく繋がりましたね。春日さん」
弘緒はパソコンの前に映る春日に向かってそう告げる。隣には井上も覗き込んでいた。ちなみにこちら側のカメラはオンにはせず、音声のみである。
「何が『ようやく繋がりましたね』だ。お前がさんざ連コールしまくったから、仕方なくこちらからかけてやってるんだよ」
「お仕事順調ですか? 牛さん可愛いでしょう」
『可愛いけど所詮家畜だからな。シビアに眺めてるよいつも』
牧場農家の現実をジョーク一つなく、成り立ての女子大生へ告げるところがいかにもらしいといえばらしい。
『そんなことより何だって言うんだ。未開大生になったんだろ? 樫枝とかも元気なのか?』
「ええ。井上っていう子とのシェアルームで寮からかけてます。皆さん元気ですよ。それよりも――」
弘緒は声のトーンを落として、さっそく本題へと移る。
「――鴨志田梅謹、という男をご存じですか?」
『……梅謹? ああ。当たり前だろ。僕の幼なじみだ』
春日の答えは拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。何か裏でもあるのかなと思ったが、予想外にシンプルで一瞬弘緒は戸惑いを見せながらも、
「一体何者なんですかあの男は。どうして千佐都さんのことをあれほどまでに気にかけているんです?」
『千佐都?』
「そうですよ。あなたの大好きなマイハニー千佐都さんです」
ぶほっという音が聞こえ、すぐに遅れてビデオの方で春日が口から空気を吹き出したマヌケ面が見えた。
『そ、そんなのは知らん! 知らんぞ僕は何も!』
「とぼけないで」
明らかに何か隠していると察した弘緒が、すかさずマイクを握りこむ。
『言っとくけどな。別に僕は何も言ってないぞ! もしそんなに執拗にしているというならば、それは僕じゃなくあいつが勝手にやっていることだからな!』
「一体彼に何を言ったんです?」
『たいしたことじゃあないっ。ただ僕はこうして卒業したから、あいつに僕の知り合いのことを教えて、よろしくしてやってほしいと言っただけだ! それ以上は何も言ってない』
「名前は?」
『は?』
「その名前ですよ。そのよろしくやってほしいと言った人達のお名前」
『樫枝と千佐都と月子と小倉だろ。あとはお前と与那城と阿古屋と松前だ』
「ふむ」
そこで電話を強制的に打ち切って、弘緒は椅子をぐるりと回転させた。これ以上のことはどうせ春日に聞いたところで大した収穫は得られないだろう。そう思った。
「弘緒ちゃん、そろそろ寝ようよ。もう眠いよう」
井上が瞼をこすりながら二段ベッドの下の段へのそのそ潜り込む。
「井上は先に寝てていいよ。私はまだやることがあるから」
「えぇー……」
不満の声も漏らすも、井上は一度寝たら多少のことでは起きないことを弘緒はよく知っていた。やがて井上の可愛らしい寝息が聞こえてくると、弘緒は再びパソコンの真正面に位置するように椅子を半回転させた。
「一体、何考えてるんだろ……あの男」
爪を噛みながら、弘緒はますます鴨志田という男のことが頭から離れなくなっていた。
***
そうして時が過ぎる翌日のお昼過ぎのこと。
「はぁい、たっくん。あーん♪」
「あーん。……むぐむぐ。はぁ……みーちゃんのお弁当はいつも美味しいよぉ♪」
「ほんとですかぁ~っ!」
「ホントだよ。ホ・ン・ト♪」
「きゃはあん♪ アタシは今日もですねぇ~、たっくんの大好きなタコさんウインナーをいっぱい作ってきたんですよぉ♪ みてみてくださぁ~い!」
「おおっ! よくみるとカニさんウインナーまで!? こりゃすごい!」
「えへへぇ。もっとほめてください~」
「こいつぅ♪ いつの間にこんなにお料理が上手になったんだぁ?」
「ふふっ。そのコツはですねぇ~、たっくんの事を考えながら、まーいにち作ってると、こぉんなにもじょうずになっちゃうんですぅ~♪」
「おおおおおおおっっっ! みーちゃんっ!(ガバッ」
「きゃはんっ♪ まだお弁当食べ終わってないよぉ~?」
「かまわないさ。みーちゃんの方が美味しそう」
「きゃあーん、たっくんのえっちぃー♪」
……ぶちころがしてやろうかコイツら。
千佐都は安藤と堀内のいちゃつきぶりを眺めながら、にわかに殺気を立たせてそう思う。久々に見に来てみたら、以前よりもバカップル度が三十パーセントほど増量しているではないか。リア充爆発しろだなんて生易しい言葉で許せるわけがない。とてもじゃないが苦しまずに一瞬で爆ぜたくらいじゃこの虫の居所は収まるはずもない。
もっと局所的に「最初は小指の爪辺りから」みたくねちっこく爆ぜていけバカ野郎。リア充ねち爆ぜしろ――
とまぁ、現在こうして二人が盛り合っているこの未開大の体育館入り口は、普段から人通りが皆無の場所であった。
そのような場所だからこそ、安藤は昨年まだ休学中の身でありながらも、しばしばこのように堀内と二人で潜り込んでは、クソ面白くもないイチャつきっぷりを今日に至るまで全力で堪能し続けている。
当然このことが誰にも知られていないと思い込んでいるのは当人達だけで、千佐都が知っている限りでも悟司、春日、月子、与那城、阿古屋、小倉、松前――と、まぁ要するに昨年の未開大メンバー全員がこのことを周知している。そんなだから、もはや隠す気どころか見せつけているとしか思えないのだけれど、互いに極度のアホの子達だからこれまた侮れない。
「やんっ。今アタシのおっぱい触ったぁっ~?」
「えへへぇ。今日も柔らかいねぇ。みーちゃんのおっぱい♪」
そうして「ちゅっ」という湿った音が聞こえたところで、千佐都は二人の元へと飛び出す決心をした。今までどうにもタイミングが掴めなかったせいでここまで放って置いたが、さすがにこれ以上はどえらいことになりそうな気がした。本当に一体、学舎でなんてことしてくれているんだっての。
「その辺りでストップだ。バカップル」
千佐都が二人の前に手をかざして飛び出すと、ちょうど二人の合わさった唇がちゅぽんと音を立てて離れたところであった。
「あー。千佐都さんだあ。こんにちはぁ~」
「『こんにちはぁ~』じゃないっ! つい今し方ぶちゅっとしたばかりのクセに、しれっと何事もなかったように振る舞ってんじゃないっつーのっ!」
相変わらずのへらへら笑いを浮かべる堀内に構うことなく、千佐都はすぐさま安藤へと目をやる。今回は彼への用事以外、他にない。
「休学終了おめでとさん。三年生だってね? 元ネトゲ廃人」
「な、なんの。用事、だよ……」
どうやら安藤の方は多少の羞恥の気持ちはあるらしい。だからといって「バカップルのメンズの方」という地位は決して揺るがないけれども。
「ちょっちアンタに聞きたいことがあってね」
「き、聞きたいこと?」
「厳密にはあたしじゃなくてそこの後輩が、なんだけど――」
そこまで言ったところで、背後から弘緒がぬっと二人の前に姿を現す。
「……本気でなんなのですか、この破廉恥極まりない連中は」
これこそが軽蔑のまなざしのお手本であると言わんばかりの目つきで、弘緒は安藤&堀内を睨みつける。
面倒くさそうに千佐都は二人に向かって手を差し出すと、
「えっと……こちらの男の方が、かすがと同い年の安藤っていう人。隣の女の子は堀内ちゃんっていう、ちょっと頭の足りない子で安藤のカノジョ」
「アタシぃ、別に頭足りなくないですよぉー?」
「なるほどわかりました」
へらへら笑いで否定する堀内を見て、弘緒は即座に納得する。
「おい元ネトゲ廃人。ちなみにこの子は弘緒ちゃんっていって頭はめちゃくちゃ良いんだけど、なぜか未開大にやって来た変な子。仲良くしてあげてね」
「変な子は余計です」
弘緒にじろりと一睨みされて口を押さえる千佐都。そうして互いの自己紹介が終わったところで、早速弘緒は安藤に向かって質問する。
「安藤さん。一年生の時にこの未開大で三年生だった鴨志田梅謹という男を知ってますか?」
千佐都は口を押さえたまま、ここにやって来た経緯をぼうっと振りかえる――
今朝、大学の構内で偶然弘緒と出会った千佐都は、昨晩春日と電話したという弘緒の話を聞いてかなり驚いた。どうやらマジで弘緒はあの男を怪しんでいるらしく、他に春日と同い年の大学生の知り合いはいないだろうかなどと、よりにもよって千佐都に相談してくる言う始末。
そこで千佐都が真っ先にぴんと思い立ったのが安藤の存在であった。昼休みに直接会って聞いてみるかというと、弘緒はノリノリで「では行きましょう」と言い、そんなこんなでここまでやってきたわけなのだが――。
正直、千佐都自身は鴨志田のことを「どーでもいい」と割り切って考えていた。確かに春日から教えてもらった知人の中でもことさら自分に執着しているという話らしいので、それなりに身の安全などは気をつけた方がいいかなくらいは思うけれども、そもそも直接彼に何かされたわけでもなければ、話した感じもそこまで悪い風に思えなかったのだ。
それを弘緒にそのままダイレクトに伝えると、彼女は千佐都に向かって首を振りながらこう言った。
――私には、何か特別な理由があると思うんです。
そりゃ理由は何かしらあるだろうとは自分でも思う。でもそれはそこまで固執するべきことなのだろうか。何か弘緒にしか感じ取れない嗅覚みたいなものがあるとか?
んなバカな。
「――か、か、鴨志田だとっっ!?」
そんな突然の甲高い安藤の声に、千佐都は一瞬で正気に返る。
「な、なんでそ、そんな、アイツのことしし、知ってんだよ!?」
動揺っぷりが半端ない。さすがの堀内も何やらただ事ではないと察したのか、ただでさえ近かった互いの距離をさらに詰めて彼の袖を握る。
「今年から三年生として、戻ってきてるんです。この大学に」
一方で弘緒はひどく冷静に安藤に説明する。
「もももも戻って……きききて、きて、るるだってっ!?」
「ちょっとアンタ。いくらなんでも動揺しすぎでしょ。あたしが話してみた感じだと、アイツかなーり普通なヤツだったよ? 顔は怖いけど」
千佐都が口をそう挟むと、安藤はぶんぶんと首を振ってみせる。
「ばば、ばかなこと言うな。ア、アイツは、普通でも、ななんでもないぞっ!!」
「普通じゃあ……ない?」
「どういうことさ?」
弘緒と千佐都が同時に尋ねると、彼は身体を震わせながら、
「い、一年の時だよ……。い、一度だけか、絡まれたことあってな……。ま、まぁきききっかけはお、俺。俺が悪いんだ、だけどさ。で、ででででも! な、何もあ、あそこまでしなくててもっ!」
後半は言葉にならない声でそう叫ぶと、安藤はそのままひいいっと頭を押さえてうずくまってしまった。
「たっくんたっくん! ……だーいじょうぶ、こわい人はいないですよぉ~?」
「ううう……みーちゃん。もっとよしよしして……」
そんな二人を見て、弘緒と千佐都はごくりと生唾を飲む。どうやら安藤はよほどあの鴨志田と言う男にひどいことをされたらしい。ほとんどまともに解読出来るほどの証言ではなかったが、とりあえずそのことだけはびんびんと伝わってきた。
つい今の今まで普通に思えていた鴨志田のことが、千佐都は少しだけ恐ろしくなる。
「……千佐都さん」
弘緒が何かを確信したような目つきで自分の名前を呼ぶ。
「やっぱり……私の言ってた通りですよ。何かあるんです、あの男は」
「で、でも本当に話した感じでは普通に――」
「ふ、普通じゃないって言ってるだろ! あ、あいつは――」
安藤がぷるぷる小刻みに震えながらこちらに顔を上げる。
「――あいつは……か、鴨志田は……い、一度キレたら、幼なじみの、か、春日ですら止められないんだ……っ。あいつに、には異名があってだ、な。別名……未開大の……」
「未開大の、何?」
口をぱくぱくさせながら喋る安藤を、急かすように千佐都が口を挟む。
「み、未開大最凶の、」
「最凶の、なんですか?」
弘緒もやきもきした表情で安藤を見る。
「バ――バイキンマンって呼ばれてたんだっ!!」
そんな悲痛の伴った安藤の言葉にしばし沈黙した後、弘緒が千佐都に向かってぽつりと呟いた。
「……異名にしては、ちょっぴり頼りなくないですか。それ」
「……ね」
全くもって同意見。