ティー・ブレイクXI『春の日、大嫌いだった千の幸せを願うということ』
――なんだ?
見つめられている。そう春日は思った。
喫煙所のベンチの奥から、なんだか気の弱そうな男と気の強そうなチビ女が、同時にこちらを見ている。見ながらひそひそと話しをしている。一体なんなのだ? 一年か?
「…………なに?」
タバコを口から離して二人に声をかけると、またしてもひそひそ話をする。面倒くさそうだ。さっさとこの場から離れた方がいい。そう思った瞬間、
「ねぇねぇ! もしかしてきみって軽音部?」
気の強そうなチビ女がぐぐいっと顔を近づけて尋ねてくる。
「これってギターでしょ? お、でもちょっと悟司のより大きいなー。大人サイズ?」
大人サイズなどあるものか。バカにしてるのかこの女。
「お、おいちょっとお前」
「ねぇねぇ悟司、この人に案内してもらおうよ。ギター持ってるってことはこの人これから軽音部に行くんだろうし」
「ギターじゃない、ベースだベース」
春日は自らのギグバッグをチビ女から遠ざけると、訝しむような目つきをしながら尋ねた。
「なんなんだ、君たちは。……新入生?」
「あ、はい。あたし樫枝千佐都って言います。んでこいつが悟司」
「っふぁ!? ……お。おし、おし。押忍!」
男の方は意味不明な言葉を吐きながら、春日に向かってものすごい勢いでお辞儀をした。
変な奴らだと思った。関わり合いになりたくないと思っていた。
特にチビ女だ。こいつが無理矢理気の弱い男を連れ回して、強引に彼を軽音部に入れようとしているのだろう。強引でがさつでうるさい。最も自分の嫌いとするタイプである。
大っ嫌いだ。こんな女。
そこで、では自分の理想とする女性とはどんなだろうと思うと、お上品で清楚で可憐で、口数が少ないけれども一つ一つの仕草が自分のことを大切に想ってくれる――少なくともこんな変な女でないことだけは確かだった。
好きになどなるわけもない。近寄りたくもない。
もう一度、言おう。
大っ嫌いだ! こんな女!
***
時は移り変わり、春日は桜の咲かない三月の未開大の喫煙所に立っていた。片手には卒業証書を持ち、スーツ姿でタバコに火をつけると、まだ雪の残ったベンチを見つめてゆっくりと煙を吐く。
そうだ。大嫌いだったんだよな。最初は。
「かすが」
タバコをくわえたまま振りかえると、千佐都はあの時とは違ってばっさりと切った髪の毛のまま、当時二人で初めて出会った位置に立っていた。
「聞いてはいたが……」
春日はタバコを持つ手で頭を掻く。
「お前はもっと長い方が良いぞ。髪の毛」
「……やっぱり変かな?」
千佐都は恥ずかしそうに毛先をいじってそう言うと、あらためて春日に向き直って、
「卒業おめでとう」
と小さく微笑んだ。
「ああ」
春日はそんな千佐都の笑みがまぶしくて、つい目線を逸らしてしまう。
「ありがとうな」
冷たい風が吹いた。春を告げる強風だが、北海道が暖かくなるのはもっともっと先のことだ。きっと、その頃には自分はこの町を離れ実家の牧場の仕事に従事していることだろう。
「あたしね、」
突然そう口を開く千佐都に、春日はゆっくりと視線を向ける。
「あたし、ずっと思ってたの。『もうこんなに辛いなら、人を好きにならない方が良い』って。本気で、もうこういう思いはしたくないって」
断っておきながら今更だね、と千佐都は付け足すように笑ってみせる。
「そういうのって、きっとすごく自分勝手なんだろうなーって。でもそう思っちゃう。ダメだってわかってるけど、そう思っちゃうの」
春日は少し考えてから、
「少なくとも僕は、お前が幸せになってくれる生き方を望むな。綺麗事のように聞こえるかもしれんが、かといって『僕と付き合えなかったことを一生後悔しろ!』という考えに至ったりはせん」
「もしアンタがそんな奴だったら、さすがに引いちゃうけどね」
そう言って千佐都はまた笑う。
その笑顔がぐっと心を締め付けるけれども、春日は千佐都に向かってはっきりと思っていたことを告げた。
「僕はな、千佐都。お前にフラれてからはもう深く考えずに新しい恋に走ろうと思っているんだぞ?」
「……ん?」
「お前のことなど、所詮過去の女だ。遺物だ。僕の中でのお前の立ち位置は蝉の抜け殻のようなものだ」
「……む」
千佐都が膨れる。
「お前よりもっといい女がいるかもしれん。口うるさく、がさつで、強引な千佐都など――うむ? よく考えれば世の女は皆お前よりもマシな奴ばかりではないか?」
「あ、あんたねぇ……」
「思えば、どうして僕はお前に告白などしたのだろう? 端から見ればどこも良いところがないはずのお前にどうして僕が――」
「あんたねぇ! 言って良いことと悪いことが、」
「――僕だけにしかわからないところだったな。そういえば」
そう言って、春日は千佐都の握った拳を受け止めながら笑ってみせた。
「……僕なんかよりもずっと良い恋をしろよ、千佐都。キミならそうする事が出来ると思ってる」
「う……うるさいっての。そんな人間、ころころ切り替えなんて出来ないんだし……ましてやアンタは……」
顔を赤らめながら振り上げた拳をゆっくりと下ろすところまでを自身の腕で支えたところで、与那城の車が喫煙所の近くまでやってきた。
「主役の春日さーん。そろそろ飲み会行きますよー。千佐都先輩も早くっ」
「行こうか、千佐都」
春日が先導するように歩き出すと、
「かすが」
千佐都の言葉が背後から飛んできて、ぴたりと歩みを止める。
そうして振り返った瞬間、またしても大きな突風が二人の間を鋭く駆け抜けていった。
「――っ!!」
風によって聞き取れないその言葉は、おそらく聞こえなくて良かったものなのだろう。未練がましく、いつまでも二の足を踏みそうになる自分には、その言葉はきっと届かなくて良い。
幸せになって欲しい。
それは何の混じり気のない本心からの思いである。
自分には出来なかった彼女の幸せを誰かがしっかりと支えてくれることを祈って――
「行こう、千佐都」
もうこの手を彼女に差し伸べることは叶わない。
きっとその役割はもう自分じゃなく、別の誰かのものなのだろう。
千佐都と共にいた大学生活は、今日を以て終了したのである。
そう、春日は思った。
春はもう、すぐそこまで来ている。




