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シュガー・シュガー・シュガー(!)  作者: 助供珠樹
大学二年:4~7月まで(エピソード4)
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第二十一章『続く、春日の4、5、6さじ目』(2)

 昨日二人で掃除した成果もあって、悟司の部屋はずいぶんとこざっぱりしていた。


「お茶、淹れますね」


 そう言って、ぱたぱたとキッチンへ向かう月子。


 ――ああ……なんかいいなこういうの。


 悟司は、まるで新婚生活のようなこの空気にうっとりと天井を見上げながらそんなことを思う。すぐにでも作曲を始めなければならない状況だということも、完全に忘却してしまっていた。


「ちさ姉と春日さんはなんて言っていたんですか?」


 キッチンからそんな月子の声が飛んできた。


「ああ。やってみてもいいって」

「与那城君も?」

「うん」

「じゃあ、後は鈴ちゃんだけなんですね」

「そうなんだけど……俺あまりあの子と話した事ないんだよね」


 話す機会がこれまでほとんどなかったせいで、彼女のことは知らず知らずのうちに苦手意識が芽生え始めてしまっていることに、悟司自身とっくに認識していた。


「ねぇ月子ちゃん、阿古屋って子はどんな人なのかな?」


 悟司は何気なしに月子に向かってそう尋ねてみると、


「んー。とても良い子ですよ。元気もよくて、明るくて……ただ――」

「ただ?」

「ただ鈴ちゃんは、いろんな人と付き合うのがあんまりうまくない気がします」

「いろんな人?」


 キッチンにいるせいで、月子の表情がよくわからなかったが、言葉のニュアンス的に俯いて話していることだけは伝わる。


「ものすごく人見知りなんです。ああ見えても」

「え」


 図書館で何度か成司と共にいたときは全然そんな風に思えなかった。

 だが、確かに悟司とはほとんど会話をした記憶がない。二人でやってきた時も、成司と悟司だけがいつも喋っていたような気がする。


「ウチや庄ちゃんと接するときも、なるべくテンションをあげるだけあげて会話してるんですよね。話しててわかるんです。無理してるなぁって。ウチも、あんまり人と話すのは得意じゃないから」


 月子はそこまでいうと、二つのマグカップに紅茶を淹れてこちらへやってきた。月子のマグカップは元々シュガ部屋の方に置いていたものなのだが、昨日ご飯を一緒に食べる約束をした際にこちら側へと運んできたのだった。


「そういう意味で、鈴ちゃんは毎日とてもエネルギー使って生活してるんじゃないかなぁって。そんな風に時々心配になっちゃうんです」

「そうなんだ……」

「鈴ちゃんのこと、軽音でもよろしくお願いしますね」


 紅茶を一口飲んでから、月子はにこりと悟司に微笑む。


「ウチや庄ちゃんはもう部員じゃないから、鈴ちゃんのことを見れなくて」


 そんな月子の言葉に、悟司はふっとあることを思い出しかけたが、それがなんだったのかどうしても思い出せなかった。


 なんだったか、すごく重要な事だった気がするのだが――


「それで、さ、悟司くんっ!」


 どうにか思い出そうとしてる悟司を遮って、月子が急に大きな声をあげる。

 びくんっと肩を揺らせて、悟司はなくなく考えるのをやめて月子に向き直った。


「は、はい! なんですか?」

「さ、悟司くんは、カレーとハンバーグ、ど、どっちが好きですか?」


 正直、どっちも大好きである。

 おそらく月子は今日の献立について言っているのだろうが、これほど答えにくい選択肢もない。ついでに言えば、悟司はカレーもハンバーグも自炊で作れるのでどちらの方がめんどくさくないかも当然理解出来ている。


「か、カレーで」


 ハンバーグはこねまわす手間を考えて除外した。その点、カレーは野菜を切って肉と一緒に鍋へぶち込むだけでOK。後は市販のルーを使ってひたすら煮込むだけ。簡単だ。


 そんな風に悟司が思っていると、


「カレーですね! 任せてください」


 と、月子はいきなりその場を立ち上がってキッチンに向かって行った。どうしたのだろうと思っていると、スーパーの袋を持ってきて戻ってくる。


「スパイス、いっぱい買ったんですよ!」


 そこに広げられるは、ターメリック、クミン、コリアンダー、ジンジャー、カルダモンなどなど。どんどんと出てくるスパイスの量に悟司が圧倒されていると、


「ハンバーグ用にナツメグも買ってきたんですけど、今日は必要ないですね」


 月子がとん、とナツメグをテーブルの上に置いて笑った。


「一応、自宅で作るナンのレシピも頭の中に覚えてきたんで大丈夫です! 挽肉から美味しいキーマカレーをごちそうしますねっ」

「ほ、本格的過ぎない?」


 あまりにも本格的過ぎて苦笑いが出た。


 一応悟司も麻婆豆腐を、市販の簡単なものではなく一から作る手順を知っているし、作ったことはあるが、月子はそれ以上にたくさんの料理を一から作れるようであった。


「暇な日は、時々色んな料理番組を見てるんです。録画もして何度も見てると、自分でもやってみたくなって、知らず知らずのうちに覚えてしまったんですよね」


 どちらにせよ、今日は手間暇をかける料理を作るつもりだったというわけだ。


 悟司は頬をかきながら月子を見ていると、途端恥ずかしそうに月子が俯く。

 どうしたのだろうと思っていると、


「あ、あのっ。……もしよければなんですけど……お手伝いとか頼んじゃダメですか?」


 この時点で、悟司は作曲のことを完全に記憶の片隅へと遠投した。

 それはもうオリンピックの砲丸投げ選手よろしく。



 数十分が経過して、二人はキーマカレーの支度へと取りかかることにした。大まかな流れはほとんど月子に任せることにして、悟司はしょうがとにんにくをすり下ろしたり、ナンのための生地をこねくりまわしたりといった、とにかくめんどくさい作業だけを出来るだけ進んで行なうことにした。


 悟司はよくこういった作業の間に空想に耽ることが多かった。メロディを考えたり、世界観を想像したり、イメージを練るにはうってつけの時間であった。


 立場は違えど、同じように創作をする月子もまた悟司と同じようにぼーっと何か考えごとをするのが大好きであった。


 そうして二人でしばし無言の状態が続くという、一種異様な光景がそこに広がっていた。


「――あ、そうだ」


 しばらくして悟司は思い出したようにそう口にすると、月子もようやく空想の世界から帰ってきて悟司の方を振り返った。



「そういえばね、先輩と千佐都のヤツ、今日ラジオ局に行ったらしいよ」

「ラジオ局ですか?」


 悟司は月子にラジオのジングル制作のことについて話し始めた。春日がそのジングル曲を作ることも説明したところで、


「わぁ、春日さんが作曲するなんてちゃかぽこ久しぶりですねっ」


 と、月子は半ば嬉しそうに声を弾ませる。


「てことは、悟司くんと春日さんは同時に作曲をするってことになるんですか?」

「そう、なるのかな? 一応」


 言われて初めて悟司もそのことに思い当たった。春日は悟司に対してそれほど対抗意識を持つようなニュアンスで話していたわけではない。

 しかし、周りからみればある意味で比較対象としての二人になってしまう。


「ぷ、プレッシャー感じてきた……」


 自分を追い込むために三日という機会を設けてはみたが、ここでさらに予期せぬプレッシャーに見舞われるとは。そんな悟司に、月子は優しく笑いかけながら鍋をかきまわした。


「大丈夫ですよ、悟司くんは」


 ニコニコしながら、月子は悟司がすり下ろしたしょうがとにんにくの中に、みじんぎりしたタマネギを投入した。


「で、でも考えてみれば曲の構想とか全くゼロだ……」


 いつもならば、メロディが浮かんだ後すぐにどんな内容のアレンジを加えていくかや、完成時の雰囲気をある程度イメージしながら制作していくのだが、今回ばかりは何もない。


「何もないんですか? 本当に何も?」

「い、一応ね。与那城君には五つのコードしか使わないで作るとは言ったんだけど……」


 タマネギが飴色になってきたところで、月子はトマト缶をペーストしたものを鍋へ入れた。既に美味しそうな匂いがふわんとキッチンに漂い始めている。


「ウチには作曲ってよくわかりませんが……悟司くんが今一番表現したいことって、少なくとも何か一つくらいはあるんじゃないですか? それをそのまま音にするんです」

「表現したいこと……」

「もっと言えば――これはウチがよく行き当たることなんですけど、言葉に出来ないくらいの表現なら、いっそ感情そのものにまかせちゃえばいいんです。喜怒哀楽ですね」


「喜怒哀楽?」

「はい。ウチは……そうだなぁ。例えばなのですけど、ウチはよく、描くキャラクターの表情に自分の顔がそのままなってる時があります」

「それはつまり――笑ってる顔のキャラの絵を描くときは月子ちゃん自身も笑って描いているってこと?」

「そうです。怒ってるキャラの時はむすっとして……泣いてるキャラの時は眉尻が下がったり。ただ人間の表情って複雑で、喜怒哀楽の四つだけしかないわけじゃないんですよ。時には喜びながら哀しんでたり、怒りながら笑ったりしてるんです」


「なるほど……」


 月子が言うと、俄然説得力が増して聞こえてくる。確かに人の表情というのはつかみ所のない場合が多い。おそらく人間の感情というものは、必ずしも喜怒哀楽といった極端な場合だけでなく、もっと複合的にこの四つが混ざり合っているのだ。


 色と同じようなものだ。赤青緑黄、と簡単に言ってもその四つの色にも細かい違いがあって、深赤と薄赤は同じ緑でも全く性質が違うし、黄と緑を混ぜた黄緑だって、四つのうちのどちらとも分類出来ない別の色となる。


「悟司くんの喜怒哀楽は、今どんな風なのか……今じゃなくてもいいんです。ここ最近で思った感情、それをそのまま曲にすることが出来れば、きっと皆の胸にも届く良い歌が出来るはずです」


 やがて月子は鍋にヨーグルトとスパイスを入れ、挽肉を炒めた後で水とスープを投入したところで、


「あとはしばらく煮込むだけです」


 そう言いながらキッチンタイマーをセットした。ちょうど悟司の方も、オーブンに入れたナンを取り出したところだった。本来ならば、カレーと同時に温かい状態のナンが出来上がるはずだったのだが、悟司が時間の方を早く見積もり過ぎていたため、予想以上に早くナンの方が出来上がってしまった。


「冷めても美味しいですよ」


 しょぼくれる悟司に向かって月子が優しく声をかけた。

 そうして、二人でリビングの方へと引き返す。すっかり冷めてしまった紅茶を飲みながら、悟司は先ほど言った月子の言葉を反芻しながら顔をあげた。


「共感、してもらえるかどうかはわからないけど……表現したくてたまらない感情は今、確実に俺の心の中にある」


 月子は何も言わずにマグカップをテーブルに置いた。


「でも、俺はそれを公表すべきじゃないと思ってる」

「どうして?」


 努めて優しい月子の声に、悟司は彼女が普通に気付いているものとして口を開いた。


「もう……終わったことだから、かな」


 美早紀のことだった。いくらなんでも、あれだけ想い続けていた女性のことを三ヶ月もしないうちに忘れることなんて不可能だった。


 他人にどう思われようが、自分と美早紀との時間をそんな簡単に忘れてしまうことなんて出来なかった。吹っ切れてるつもりでも、心のどこかで今なお澱み続けている自身の思いに整理なんてつくはずがない。


 時間が経ってしまったから、その痛みが和らいでいるだけだ。


 時間が経ってしまったから、その思いが薄らぼやけて感じているだけだ。


 失恋はそんな簡単に解決できる問題ではないことを、あの日悟司は初めて思い知らされたのだった。


「みみっちいよな、俺って……」

「そんなこと……ないですよ」


 かぼそい月子の声を聞いても、悟司はそう思えなかった。


「男って、ひきずる生き物なんだって聞いたことがある。本当にそうなのかもしれないなって最近はよく思うんだ」

「……」


 無言のままでも、月子の辛そうな顔が見て取れた。

 こんなこと、目の前の彼女に話すべきことではないのかもしれない。もう止めて明るい話題に切り替えようかと思ったところで、


「過去をひきずるのは――よくないことかもしれません……」


 むしろ月子の方が、ぶり返すように話を続けようとした。

 悟司は思い直して、再び月子の言葉に黙って耳を向ける。


「でも……悟司くんが、そのことを内にため込んだままでいるのはもっと良くないことなのかも……って、そんな風に思うウチって変ですかね?」


 悟司が静かに首を振った。


「それならいっそのこと、この際全て吐き出してしまった方がいいのかもって、そう思うんです。だから、ウチはそんな悟司くんの思いを受け止める――受け止めたいのです」

「月子ちゃん……」

「だから……もう一人で色々と無理をしないでください。悟司くんは、もっとシュガーの皆に――ウチに頼ってくれてもいいんです」


 月子は悟司に向かって破顔した。


「ウチも、悟司くんのために無理をすることだって出来るんですからっ」


 まさしくその笑顔がそうだと言わんばかりに、月子は悟司に向かって優しすぎる笑みを向け続けていた。その健気な思いに、悟司は思わず涙ぐんでしまいそうになる。


「あり、がとうね……月子ちゃん」

「……作曲、頑張ってください。思わずウチが嫉妬しちゃうくらいのものを、作っちゃってくださいねっ!」


 悟司は何度も頷くながら月子の言葉を心に留めることにした。

 もうプレッシャーなんてものは悟司の頭から消し飛んでしまっていた。


 月子が、それを打ち壊してくれたのだ。


 その時、キッチンタイマーの音が聞こえて月子が慌てるように立ち上がった。二人分の皿にカレーを乗せて戻ってくる月子に、


「ごめんね、やっぱりナンもう冷めちゃってるでしょ?」


 と声をかけると、月子はテーブルに二人のカレーを並べながら優しい声で、


「冷めても、まだまだ美味しいですから」



 そんな風に、悟司のことを慰めてくれたのだった――



 ※ ※ ※



「――ここでいいよ」


 千佐都にそう言われるまま車を止めると、春日は思い詰めた顔でぽつりと呟いた。


「そういえば樫枝のヤツも作曲を始めるそうだ」

「え?」


 千佐都は助手席のドアを開けながら春日の方を振り向く。


「もしかしてさっきの電話ってそれ? でもなんでまた……」


 春日は深々と頷いてみせてから、


「今日から三日で、完成させるつもりらしい。僕たちのライブの使用曲を作るんだと」

「三日って……アイツ、作曲なんて――」


「だから僕も、三日でジングルを完成させようと、ふと思った」

「ちょっ……」


 絶句する千佐都に、春日は真剣な瞳で見つめた。


「これはマジなのだ。あいつが三日で作るなら、僕もそうする。さっきからずっと考えてたんだ。だから止めないでくれ千佐都よ」

「いや、別に止めるつもりはないんだけどさー……」


 やや暑苦しい様子の春日に、千佐都が若干たじろぎながらもドアを閉め直した。


「わざわざ対抗しなくたっていいでしょーよ。少なくともラジオの件は明確な期限を設定されたわけじゃないし、ゆっくり作って少しずつクオリティを上げていった方が、あたしは良いと思うんだけど――悟司はあんたに対抗意識持つようなこと言ってたの?」


 千佐都の言葉に、春日は素直に首を横に振った。


「なら、別に――」

「だが無意識にでも、お前や鷲里は僕ら二人の曲を比較対象として捉えるだろ?」

「そりゃ……でも仕方ないじゃないのさ。同じメンバー同士なんだし」

「だからこそだよ」


 春日はシートに持たれかかりながら、煙草をくわえる。


「僕はあいつに負けたくない」

「まぁ気持ちはわかるけど」


 俯く千佐都を横目に、春日は煙草に火をつけながら、


「……千佐都は僕が悟司に負けると思っているのか?」

「そんなっ!」

「いい。……そんなことはどうでも良いんだ。そもそも音楽ってものに優劣など存在はしない。勝ち負けなんてあるはずがないんだから」


「……なんかそれって、さっきと言ってることが矛盾してると思うんだけど」

「ふっふ……。まぁごまかしだな、今の発言は」


 煙を吐き出し、そのまま開きっぱなしの運転席の窓に両腕を乗せる。


「だが、やはり音楽に勝ち負けなんてないと僕は思う。それを判断するほどの材料も、リスナーには存在しない。でも、少なくとも作った本人同士にはそれがわかる」

「? どういう意味さね」

「僕自身が負けを認めたら、その時点で勝敗は決したも同然ってことさ」


 ちんぷんかんぷんと言った顔で、千佐都は首を傾げた。


「樫枝はおそらく、僕に対して対抗意識など持ってはいない。これはあくまで、僕の意地で始めるいくさなんだよ。わかるか? 千佐都よ」

「……よくわからないけど、とりあえずかすがは馬鹿ってことでいい?」

「構わないさ」


 くっくと喉を鳴らして笑う春日に呆れるように、千佐都は今度こそドアを開けて外へと飛び出した。


「あんたら見てると、男ってホントバカだなって思う。なにが戦よなにが意地よ。そんなくだらない理由でいつもみたいなくだらない喧嘩なんて、絶対しないでよねっ」

「しないしない。もうそういうのは卒業した」

「ばぁぁぁぁーーーーっっかっっ!! ふんだっ」


 春日はそうして肩をいからせながらのっしのっし歩いて行く千佐都の背中に声をかける。


「明日、暇だったら様子を見に来てくれよ」

「行く気だったけど、今は気が向いたらに変更しとく!」


 この返事なら明日は必ず来てくれるだろう。春日は、千佐都が自身のアパートに入っていくのを確認してからゆっくりと車を発進させた。


「あっ」


 そこでようやく春日は、自分の作曲環境のほとんどを悟司の家の隣――シュガ部屋に起きっぱなしであることに気付いた。


 持ち帰るにしても機材の量はかなりの数に上り、ましてや今更デスクトップパソコンといった重いモノを運ぶわけにもいかない。


「ある程度、持っていくものを樫枝にも相談するか……」


 春日は車をUターンさせると、そのままニングルハイツの方へと向かった。



 ※ ※ ※



「――あ、春日さん」


 悟司の部屋から出てきた人物を見るなり、春日は思わずその場に硬直してしまった。


 なんだ? なぜ鷲里がここにいる?


「あの、悟司くんは今……」


 戸惑う春日をよそに月子はそのまま部屋の中を一瞥する。


「あ、いや。いいんだ。ちょっと楽器とか機材を少しばかり返してもらいたくてな」

「楽器?」

「樫枝から僕の話は聞いてないのか?」


 そう尋ねると、月子はあっと小さく声をあげてそのままドアを大きく開けて春日を中へ通した。話の方はきちんと伝わっているらしいと思い、春日はそのままキッチンを抜けてリビングに繋がるガラス戸を開いた。


 悟司はリビング中央の床にギターを抱えたままで座り込んでいた。両耳にはヘッドホンをつけて、春日の存在など全くといっていいほど気付いていないようだった。


 この集中力――とてもじゃないが迂闊に声をかけられるような雰囲気ではない。


「さっき、急に思い立ったように、いきなりギターを持ち始めたんです」


 春日の後から月子がやってきてそう告げる。


「悟司くんが作曲をするところ、ウチは初めて見ました……春日さんは?」


 春日も静かに首を振った。そういえば悟司がこういう風に現在進行系で作曲の作業に入っているところを見るのは初めてだった。いつもは細かいアレンジの修正やメロディ部分の微調整などを行なうのみで、このように全くゼロの状態からのスタートに立ち会ったことは一度としてない。


「じゃあ……ちさ姉なら知ってるんですかね。悟司くんがこういう風になるのを」

「おそらく、な」


 千佐都は以前シュガ部屋の方に住んでいたということらしいから、悟司がこうして作曲を始めた時の姿を見ていてもなんら不思議じゃない。


 千佐都はこの悟司の異常さを見て、一体どう思ったのだろう。


 ――悟司って、天才よね?


 車の中で、千佐都が言っていた言葉を思い出して春日はぐっと唾を飲み込んだ。


 もしかしたら本当にそうなのかもしれないと春日は思った。社会生活を送る上で、悟司にはいくらか足りていない部分が多い。その大部分はコミュニケーション能力という言葉に集約されるが、そういった部分を差し引いても、今春日の目の前で一心不乱に物思いに耽る悟司の姿は、常人には理解出来ないレベルの集中力を発揮していた。


 あれだけいつも、ぼーっとしている人間だからこそのギャップなのである。音楽が好きだからとか、もはやそういった次元を彼はとうに飛び越してしまっている。そういえば、悟司は音楽が好きだなどとはっきり口にしたことは一度もないことを春日は思い出した。


悟司はおそらく、そこまで音楽が好きなわけではない。

 少なくとも自分より傾倒しきっているわけではないと、春日はその時初めて実感した。


 ただ、悟司はそれだけしか表現方法がなく、それをすることでしかうまく他者とコミュニケーションを図れない存在なのだ。「やらなくちゃ」だとか、「やるしかない」などといった自分を奮い立たせる言葉など何も意味も必要もない、気付いたら勝手に手が伸びて事を始めている、そういうヤツなのだ。


 いわゆるあざといまでの演出で魅せる、映画や漫画に出てくるような天才キャラの図そのままのヤツなのだ。テンプレートなヤツのだ。


 笑いが溢れ出して止まらない。一瞬、くくっと噛みしめるような声が漏れ出てしまい、横についていた月子が驚いて身を仰け反らせたが、構うものかと思い直すと春日はそのまま我慢をやめて盛大に声を上げて笑った。


 今までずっと、現状の悟司のことを「スランプ」という言葉で表現していた自分が途端に馬鹿らしく思えてくる。何がスランプだ。こいつはそんなタマじゃない。


 遅かれ早かれ、悟司は誰に言われるまでもなくまたこうやって作曲を始めていたに違いない。心配するだけ損だったのだ。こいつは音楽以外で自分を語る術を持っちゃいない。


 何が美早紀のためだ――結局こいつは全部、自分自身のために作り続けていただけじゃないか。他に理由などあるものか。どう思っていようがそれだけは間違いない。


 不器用すぎるほど不器用で、春日はそんな悟司のことをあらためて羨ましく思った。


「……鷲里。お前、樫枝の作る曲の構成とか知らないだろ?」


 ぽつりと、春日は横の月子に問いかける。


「え? あ、はい。ウチは全く音楽のことはよくわからないので……」

「樫枝の曲ってのはな、どんな曲も大体王道の進行パターンなんだよ」

「王道の……?」

「ああ。無駄に転調を繰り返さないし、決してインパクトのある、奇抜な音階で構成されちゃいない。そもそも音楽ってのはある程度理論に縛られながらも自由にやって良い部分が残されているんだが……樫枝は知ってか知らずか、あまり大きくその辺を逸脱しない」

「は、はぁ……」


 あまりよく理解できていない月子に向かってなおも春日は語る。


「それでもこいつは、とことん面白い曲を生み出せるんだ。才能だよ。認めざるを得ない。樫枝は――千佐都の言うとおりに天才なんだ」


「――ん」


 そこで、ジャカジャカと適当にコードを弾き続けていた悟司がふっと顔をあげた。


「あ、あれ? 先輩、いつの間に来てたんですか?」

「ついさっきだ」


 ヘッドホンを慌てて外す悟司に、春日は笑いながら答えた。


「声をかけられそうになかったんでな」

「い、いや。別にかけてくれても全然良かったんですが……それで、なんの用ですか?」

「実は楽器をいくつか返してもらいに来たんだが……やめにした」

「…………は?」

「僕は今日から三日間、シュガ部屋に泊まることにする」

「は……はぁぁ? な、なな、なんでですか?」


 どうやら興奮すると前みたいにどもりが戻るらしい。


 やはり悟司は、どこまでいっても悟司でしかなかったようだ。その事に若干の安堵を覚えつつ、春日は自らのスマートフォンを取り出しながら言った。


「今の樫枝を見て、より強く誓ったんだ。僕も三日間で曲を作ることにする。その為には盤石な機材環境が必須だろう? 互いに万全の状況の中で、最高傑作を生み出すんだ」


 春日は出来上がったメールを読み直しながらほくそ笑む。



 件名「おい千佐都」


 本文「ニングルハイツに集合せよ。今から『お泊まり会』を始める。鷲里はもういる」




「――ということで、久しぶりに四人で引き籠もるか。鷲里はどうする?」

「え、え?」

「ちなみにこの後千佐都も荷物を持ってここに来るぞ」


 戸惑う月子に向かって春日は嘘の補足を告げると、月子は慌てふためきながら、


「あ、あ。じゃ、じゃあウチも今から一度家に帰って荷物取ってきますっ!」


 と言い残してリビングからまっすぐ玄関へ向かって行った。




 ……しばらくして返ってきた千佐都の返信はこうだった。




 件名「ばかばかばかーっ!!」


 本文「つっきーを人質に取るとか行かないわけにいかないじゃないのさっ! 待ってなさいよっすぐ行くから!」



「……馬鹿はお前だ」


 メールを読みながら、喉を鳴らして何度も愉快そうに笑い続け、そんな春日を不思議そうな目で見続けている悟司の顔もなんだか無性に可笑しかった。

(2013/06/17,20,21更新分)

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