第二十章『悟司が入れ直す1、2、3さじ目』(1)
『ポッケと、』
『ぴおなの、』
『『未開大れぃでぃおーーーーっ!』』
『さてさて、ようやく始まりました。本日第一回目の未開大レディオ。番組の進行を努めさせて頂くのはこのボク、未開大経済学部一年生の坂上歩気と――』
『同じくワタクシ、文学部一年生の浜口秘愛無がお送りしマース』
『ところでぴおなちゃん、さっそくなんだけど』
『はいはい』
『まずは、ボクとぴおなちゃんの簡単な自己紹介から始めたいと思うわけです。それからこの番組の趣旨や、どんなことをリスナーの皆さんにお届けしていかなければならないのかも順々に説明をね』
『あーなるほど。ちょっと恥ずかしいですね』
『まず皆が絶対に気になることって言うのは』
『はいな』
『まず何よりも僕たちの名前だと思うんですね』
『あー、まぁそりゃそうですよねー』
『先に説明ちゃうと、これ実は僕たちの本名なんです』
『DJ名とかじゃないんですよねー』
『俗にいうキラキラネームってやつで、』
『高校の時、ポッケなんか相当バカにされてたもんねー』
『……おいおい、今の会話でボクたちが高校の同級生だってことバレちゃってますけど』
『隠すことでもないでしょー。あの、ついでに、なんですが――実はワタシたち昔から放送部の方で、お昼の校内放送なんかをやってたりしてました。そんな話を未開大の学生会でお話したら、ぜひパーソナリティをやってもらいたいって』
『お声がかかっちゃったんですよね』
『そうなんですよねー』
『まぁでも、こうしてマイクに喋り続けることはずいぶん慣れてるよね。ボクたち』
『うんうん』
『ただやっぱ機材が高校の頃とは段違いです!』
『当たり前でしょ! 一応、本当の放送局の電波なんだからねっ』
『そんな感じのゆるーいトークでこの番組、しばらくやっていきたいと思ってますので』
『ですねー』
『『よろしくお願いしマース』』
※ ※ ※
――そこで成司はラジオの電源を消した。
以前、春日が町のラジオ局で未開大の生徒たちがラジオを始めるという話をしていたが、それはつまりこのことであろう。
今日はその記念すべき第一回目ということで、興味本位でこうしてラジオをつけてみた。おそらく聴取率のほとんどは、未開大の人間で埋まっているに違いない。
「それにしてもポッケとぴおなって……」
既に六月であるにも関わらず、同学年でそのような名前は初めて聞いた。とはいっても大学なので、同じ講義を取っていなければどの相手がどのような名前なのかなんて、そもそも知る由もないわけだが――
しかし、ここまですごいキラキラネームを聞いたのは初めてだ。
「すごい名前だねぇ」
横にいた堀内がのんびりした口調で口を開いた。
「アタシぃ、学生会にそんな人がいるなんて全然知らなかったぁ」
学生会というのは文字通り、未開大の学生に関する全般の雑用系集団である。一応学祭執行部は学生会の一部組織にあたるのだが、当然学生会は学祭執行部のように学祭のためだけに存在している場所ではない。
サークルごとの部費を決定したり、夏期と冬期に行なわれる特別セミナーなどの準備、入学式と卒業式の雑用、入学試験の試験監督を統括したりと、実にやることが幅広い。
そういう意味でいえば学祭執行部は、学祭のみをやる集団なので学生会の下部組織と考えることも出来る。厳密にいえばそういうわけではないのだが、もはやそのことは学生同士の間でも既成事実となっており、現場の指揮権限のほとんどは学生会が執り行っているのであった。
「俺もしらなかったよ。てか、学生会って一年生でも入れたんだね」
「入れることは入れるけどぉ、なんか学祭執行部と違って地味なイメージだからぁ」
なるほど確かに、と思う。
学祭執行部とはいわば開催スタッフも同様の扱いで、イベント進行そのものに深く関わりたいならば、割り振られた班同士で好き勝手決められる執行部の方が良い。
学生会も一応そういう立場ではあるのだが、実際の進行は人員の多い執行部が執り行っているため、やることと言えばそんな彼らの好き勝手な提案に認可を下ろせるかどうか直接学校側に問うくらいのものなのである。地味といえば確かに地味、尻ぬぐい的な立場だ。
「でも、ラジオまで学生会がやっているなんてのは知らなかったな」
確かフリーペーパーの月報も発行するという話だった。
春日の話によればこれらはどれも、去年にはなかったものらしいから、仕事が増えて大変だろうな、と成司は他人事のようにそう思った。
「ところでよなっち、そんなもの持ってたんだぁ」
堀内が成司の手に持っている防災非常用ラジオを指さした。
「ああこれ? 昼休みにラジオ放送するって聞いたから持ってきたんだ」
現在喫煙所には成司と堀内の二人しかいない。いつもならば春日や阿古屋が顔を出しているはずなのに、今日はなぜかこのツーショットであった。
「せっかくだから皆で聞こうと思って持ってきたんだけど、みんなどこにいるのかな」
そんなことを言っている間に、遠くの方から阿古屋の姿が目に入った。
「あ、あこやんだー」
堀内が両手をぱたぱたさせて阿古屋の方へ駆け寄っていく。
それを黙って見送りながら、成司は喫煙所のベンチに腰をかけて煙草に火を点けた。
一方的に喋る堀内に簡単な相づちを打ちながら阿古屋が成司の側までやってくる。
「お、おはようッス」
「ああ、おはよう」
あの部室での煙草の一件以来、阿古屋との距離がどことなく遠くなっていることに成司はずいぶん前から気付いていた。
気付いていながらも、どうすることも出来やしない。
無条件で懐かれていた頃はなんとも思わなかったのに、突然こんな事態になってから成司は寂しい思いに駆られ始めてしまった。
最近では、やたらと阿古屋のことが気にかかる。
何か、声を掛けた方がいいだろうか。
そう成司が思っていると、
「ギター」
「えっ?」
顔をあげると、阿古屋は無表情で成司を見つめていた。
「ギター、練習してるんスか?」
「ああ、えっと……」
しどろもどろで、頬をかきながら成司は苦しそうに言葉を吐いた。
「あんまり……」
正確には、全くしていない。
「……そうっスか」
さして失望した風でもなく、阿古屋はそのまま堀内に挨拶をして部室の方へと向かって行った。後を追うにもまだ煙草を全く吸いきっていない成司は、結局ベンチから腰をあげることなく、呆然とその後ろ姿を目で追うのみに終始してしまった。
「あこやん、最近よなっちにつめたいよねぇ」
堀内の何気ない言葉がずきりと胸を痛める。
「なんかあったのぉ?」
「いや、なにも――」
堀内に説明したってどうしようもない。
勝手に期待されていたのだから、と開き直ってしまうことだって出来たが、成司はそんな期待に応えることが出来なかった自らの不甲斐なさの方を悔いた。
そして、悔いたところでどうなるわけでもない。
口だけ人間と思われていることだろう。さんざあれこれ言っていたにも関わらず、自分は結局何も踏み出すことなんて出来ないのだ。
――自分で道を切り開いて、現状に向き合う人。
そんなはずない。悟司にそう言われてから、自分でも意識してそうなってみようと思った。だが、依然としてこんな調子である。ろくにギターに触れていない。
七月に学祭があり、暦では既に六月に入ってしまったというのに、今だメンバー同士で集まったためしがない。
そんな状況の中、Fコードが押さえられるようになっただけの成司のスキルでは、もはやライブそのものが絶望的にすら思えた。
そして今日も、そんな感じで一日が過ぎていきそうな気がした。
何もせずに、こうして過ぎていく一日。諸行無常なひととき。
そんな時、
「あ、」
堀内が急にそんな声をあげる。成司は彼女の視線の先を追うと、いつだったか図書館で春日と喋っていた人物がこちらに向かってやってくるのがわかる。
確か名前は――水谷だったか?
「ビバヤハウェ。お邪魔かしら?」
水谷がベンチに座ったままの成司を見下ろして、不敵な笑みをみせる。
図書館で見た時の彼女と、今日では全く服装が違う。今日の水谷はシスターが着ているるような修道服っぽいワンピース姿で、胸には十字架の首飾りをつけていた。
なんというか、今日の水谷は俄然カルトっぽさがむんむんしていた。後から成司も知ったことなのだが、実は水谷はこちらの方がデフォルトの服装であるらしい。
「いえ……特には」
「そう、良かった。あなたでしょ? 安藤クンのアパートと一緒の後輩って」
悟司あたりから聞いたのだろうか?
ゆっくり頷いてみせると、水谷はいきなり成司の腕を掴みそのまま引っ張っていこうとする。
「ちょっ、ちょっとアナタ――」
振りほどこうとしても全く振りほどけない上に、成司はそのままずるずると彼女の腕に為す術もなく引っ張りあげられてしまう。一体どこから出ているのかわからない、とんでもない馬鹿力であった。
「あ、待ってぇ。よなっちー」
無意識なブリッ子は平常運転のまま、堀内がその後ろを嬉しそうにちょこちょこついてくる。何がそんなに楽しいのか、つか観てないで助けろと。
「な、なんなんですかホントに!?」
「まだお昼休みが始まったばかりよね。午後の講義の予定は?」
「普通にありますよ! スポーツ演習がっ」
まだ一年生の成司には、教養科目としてスポーツ演習が必須科目であった。要するに高校の時で言う体育のような時間で、男子はマラソン、女子はバドミントンである。
「たいした科目ではないわね。サボりましょう」
「勝手に俺の予定を削らないでくださいよっ。一体何なんですかこれ!?」
「今から安藤クンの家に行くわよ」
そこでぴたりと声を張り上げるのをやめる。
「な、なんで」
「様子を伺いに行くのよ。悟司くんの名前を騙っている理由も聞きたいし。部屋の場所も知らないからあなたを連れて行くの」
「い、いやだ。なんで俺があんな危険人物と――」
「危険人物ね。まぁ一理あるけど、」
水谷はくすりと笑ってみせながらそのまま続ける。
「でも大丈夫よ。私にはこれがあるから」
そう言いながら水谷はふところに忍ばせていた小さな小瓶を成司に見せつける。
何の役にも立たなそうにしか見えないそれを、水谷は「聖水よ」と自慢げに説明し、そのまま成司を引っ張ってずんずんと大学の構内を飛び出していった。
※ ※ ※
成司の住んでいる第一ハイツ長下は場所こそ真逆の方に位置するが、悟司の住むニングルハイツと比較してもかなり大学寄りにある。実際に大学から一番近いアパートに住んでいるのは春日なのだが、一応成司の家も歩いて五分とかからない距離にある。
「あ、リンゴちゃんの家みーっけ」
呑気に堀内がアパートの一つを指さして言った。ちょうど大学最寄りのコンビニの側にあるこのアパートが、堀内と一緒の学祭執行委員である広井優里の家らしい。
「堀内ちゃん、一応先輩なんだろ? そのリンゴちゃんって人は」
成司がそんな風に言うと、意外にもそれに答えたのは水谷だった。
「リンゴちゃんでいいのよ。彼女は。大学の皆からそう呼ばれてるわ。事務の人からも」
「あの、もう腕を離してもいいっすよ。俺、ちゃんと歩くんで」
いまだに腕を掴まれっぱなしの成司が水谷に言うと、ようやく水谷はそこで腕を離した。
……見ると、ほんのり掴まれていた箇所に赤みがさしている。今までスゴい力で握られていたことをあらためて成司は悟った。
水谷は鼻を鳴らしながら、誇らしげに微笑んで言った。
「神の名の下に、ようやく私に観念したのね」
「あ、別にそういうのじゃないんで」
顔の前で手を振ってみせる成司に、水谷は再び背を向けて歩き出す。
「安藤クンのこと、どれだけ知ってる?」
こちらを振りかえることなく、そのまま水谷が話し続ける。
「知ってるって言っても――正直俺は、ネトゲやってるってことくらいしか」
「悟司くんから聞いたんじゃなくて?」
「いや聞きましたけど……でも、悟司さんだって知ってることほとんどなかったですよ。春日先輩だって」
「春日からも……。それじゃあなたは、安藤くんが昔軽音サークルに入っていたことも知ってるわけね」
「はぁ、一応は」
気のない返事で成司が応答しているうちに、第一ハイツ長下が見えてきた。
「ここがよなっちのアパートぉ?」
堀内はまるでピクニックでも付き合っているかのように、うきうきしながらステップを刻んでいた。
「つか、堀内ちゃんはいいの? 午後の講義」
「アタシは何もなかったからぁ」
「で? どこが安藤クンの部屋?」
二人が話している間を割って、水谷がずんずんと郵便ボックスに近付いていく。当然の如く郵便受けに安藤の名前は記載されていない。もし記載されていたら成司だって、とっくに悟司と別人であることに気付いていたからだ。
「一○一号室ですよ」
片っ端から郵便受けを開ける水谷に、成司はそう言った。自分の郵便受けを開けられそうになったからなのだが、よくよく考えると別に見られても構わないようなどうでもいいものしか毎日届いていない。
成司の言葉を聞いて、水谷が郵便ボックスを離れて一○一号室へと向かう。成司と堀内もそのまま彼女の後に続いた。
「本当にここなの?」
ドアの前に立った水谷が確認するように成司へと振りかえる。間違いなく、ここが安藤の部屋である。
「静かすぎるわね」
「死んでなきゃいいですけどね、はは」
ジョークのつもりで成司が笑いながらそう言ってみせるが、水谷は眉一つ動かさない。
……やめてほしいんですけど、そのリアクション。
「インターホン押してみたらいいんじゃないんですかぁ?」
堀内に言われるがまま、水谷がインターホンを鳴らしてみる。
だが、物音が動いた気配すらもない。ためしに水谷がドアノブを回してみるも、ドアはしっかりと内側から鍵がかけられているようだった。
「窓から侵入しましょ」
ぎょっとするような提案を、まるで当然の所作のように水谷が言いのける。
「窓にも鍵がかかってるんじゃないですか?」
「ガラスはドアほど分厚くないでしょ」
うわ、不法侵入の常習犯だコイツ。
そうして三人が裏に回ろうとしたところで、
「あっ――」
ちょうど郵便受けがある辺りに折れ曲がった瞬間、安藤がそこに立っていた。手にはビニール袋を提げており、ちょうどどこかで買い物をしてきた帰りのようであった。
「安藤クン」
成司の後ろから顔を覗かせた水谷に気付くと、その瞬間安藤はビニール袋をその場に落としてそのまま回れ右で逃げ始めた。
「え?」
「追いかけて! 逃げられるわっ!」
呆然とする成司の背をどんっと突きとばす水谷。
わけもわからず成司は足を動かして安藤を追いかけようとした。
「ま、待ってください、かしえ――安藤さんっ!」
安藤の背中に声をかけながら、成司はそのまま加速を始める。
普段から特別運動をしているわけではないが、持久力には自信がある。どうして逃げ出したのか気になるが(おそらく以前同じカルト活動をしていた水谷のせいに違いないのだが)そのことについては深く考えることなく、成司は水谷に言われるがまま安藤を捕獲せんと徐々に走るペースを速めていった。
案の定、安藤は日頃ネトゲをしているせいか、大して距離もないところでバテ始めてしまった。隣に並んで追いついた成司は特に息切れもなく問いかける。
「どうして逃げるんですか、安藤さん」
「ど、どうして……君が、その……名前を」
「悟司さんから直接聞きましたよ、なんで名前を勝手に騙ってるんですか。説明してくださいよ」
話に聞いていた以上に、安藤は頭がしっかりしているように思えた。もっと倒錯して「俺は悟司なんだ!」とヒステリー起こすかと思っていたのだが、存外そういった展開には見ている限り起こりそうにない。
すぐに成司の下に水谷が追いつき、その遙か後方では先ほどの脳天気さとは真逆に必死な形相でぜぇぜぇ息を切らしながらやってくる堀内の姿が目に入った。
「安藤クン、どうしていちじく会をやめたの?」
「……」
「どうして悟司くんの名前を騙ってるのかしら?」
安藤は無言を貫いたまま、肩で息を切らしてそのまま水谷のことを睨みつけた。
「どうして、またこの町にやってきたのよ」
水谷は責めるような口調で、矢継ぎ早に安藤へ質問を浴びせ続ける。
「大学は……休学中だ……」
「辞めたって言ってたじゃないの」
「それは……お前や春日がいなくなるのを見計らって復校しようと思ってたから――」
ようやく堀内が三人の下へ追いついた。
「はぁ……はぁ……。みなさん早いですよぅ……」
「あの……とりあえず、一度アパートに戻りませんか? 立ち話もなんですし」
「えぇっ!? やっと追いついたのにぃ……」
そんな堀内の悲痛な訴えに同情せざるを得ないが、とりあえず成司はそんな風にして水谷と安藤をなだめる。
家にはまだちんすこうの残りがある。全て消化してもらうにはうってつけの機会であった。
※ ※ ※
ちょうど成司と堀内がそのような珍事に巻き込まれているころ、
「悟司くん」
食堂へ向かおうとしていた悟司は、突然背後から呼びかけられたその声の主が月子であることをすぐに悟った。
「あ、おはよ。月子ちゃん」
振り返って悟司が慌てながら挨拶をする。昨晩、二人で蕎麦屋に行って以来の再会であった。近頃シュガーの面々と出会う機会が減っていたので、このような突然の不意打ちは、心の準備もままならずびっくりしてしまう。
「ふふっ」
そんな悟司の反応を見て、くすくすと可笑しそうに笑う月子。
「え、と。どうしたの?」
「え? ううん。なんかやっぱり悟司くんは悟司くんだなぁって」
それはどういう意味だろう。
首を傾げて考えていると、
「今、ちょっとだけ驚いてた」
「え? そ、そりゃまぁ……いきなりだったし」
「その時の反応が、少し前の悟司くんにそっくりだって」
そこまで言って、月子は安堵の息をつきながらもなお口元に笑みを浮かべ続ける。
「みんなね、びっくりしてたでしょ? 悟司くんがどもるの治ったって聞いて」
「まぁ……そうだね。俺自身もびっくりしてるくらいだし」
悟司は声をかけられてからも、まだドキドキし続けていた。
「みんな悟司くんが変わったって思ってるの。でも、ウチはそんな風に思ってないよ。悟司くんは全然変わってない」
「う、うん。でも春日先輩が言うみたいに、ちょっとは変わった方がいいと自分でも思ってるんだけどね」
――緊張している。
悟司は直感で思った。声をかけられたからじゃない。
なぜか、自分は月子と会ってからずっと緊張し続けている。
これは、昨日二人で蕎麦屋に行ったときにも感じていたことだ。おそらく二人でご飯を食べに行くということ自体これまでにない機会であったから、緊張の原因はそれだろうと深くは考えずにそう思っていた。
でも、どうやらそうじゃないらしい。
不思議だった。
なぜか昨日と今日とで、月子が“可愛く”見える。
いや、もちろんいつもそう思っていないわけではない。月子は非常に自分好みの、とても柔和な表情をみせる女の子だ。おっとりとして、少しだけ天然っぽいところもある。そんな彼女をずっと好きであったのは今も以前も変わらない。
ただ――昨日からそんな月子が“これまで以上に一層可愛く”映って見えるのだ。
だからきっと、自分はこんなにも緊張しているのだ。どうしてかはわからない。でも、昨日から月子はこれまで以上に魅力的だ。それは間違いのないことであった。
なぜだか、悟司は急に自身の手のやり場に困ってしまった。いつも月子と話していたとき、自分は両手を身体のどこに置いていたっけ?
自分はいつもどんな姿勢で、どんな様にして月子と喋っていたっけ?
今更になってそんなことがすごく気になり、そのままうねうねと不思議な踊りを踊ってみせる。
「悟司くん?」
不思議な踊りに不思議な顔を見せる月子。
そりゃ不思議にも思うだろう。自分でも不思議だ、こんな気持ち悪い踊り。
「あ、あのさ、」
悟司が一瞬口を開いて、それからすぐに閉じる。髪切った? とタモリっぽく聞こうとしたのだが、どこをどう見てもいつも通りのくせっ毛な黒髪である。色を明るくしたわけでもない。
ならば化粧を変えたのだろうか、と思ったが、もともと月子は千佐都ほどではないにせよ、化粧っぽい顔をしていない。爪も日頃絵を描き続けているからなのかほとんど手入れもされていないし、服装もいつも通りのシックな色合いだ。
自分でもよくわからない外見に関する質問を女性にするのはNGだ。下手すれば地雷になりかねない。
性格上月子はそんなことで腹を立てたりしないのは承知の上だったが、悟司はとりあえず、外見についての質問をやめることにした。
「月子ちゃん――」
だから別の話に切り替えることにする。
「最近、絵描いてる?」
いきなりのことだったのか、一瞬目を丸くさせてから月子はこくんと頷いた。
「うん。描いてるよ。悟司くんはその……どう?」
「俺は……全然だね」
作曲が出来なくなった、というのは月子も知っているはずだ。相変わらずギターは弾くのだけれども、メロディが全く浮かんでこない。
「でも、そのうち思いつくと思うんだよね」
心中はそんな楽観的な気分では毛頭なかった。
もしかしたらこのままずっと作曲なんて、出来なくなってしまうんじゃないか――
そんな焦りの気持ちが、さらに悟司自身を追い込み続けていた。
でも、悟司はそんな風に沈み込みそうな空気をどうにか明るく振る舞って吹き飛ばそうとする。
あまり月子にそのことに関して気負わせたくもないし、心配もさせたくなかった。
「そのうち、きっとまた前みたいになると思うから。ごめんね、なんか」
へへっと明るく笑って、悟司がそう言った時だった。
そんな悟司の反応を見て、逆に月子は表情を暗くさせながらそっと呟いた。
「ウチには、そんな……無理しなくてもいいよ。悟司くん」
「え――」
ようやく右手のやり場を後頭部に置くことに決めた悟司に向かって、月子は優しい口調でそんなことを言い出す。
「あれから思ったんだ、」
あれから、というのはおそらく東京遠征のことだろう。
「悟司くんが全部背負い込まなくてもいいよって、ウチそう思ったの。シュガーはちゃんと復活する。でも、そのことで焦りとか、今みたいにウチの前ではそんな無理に振る舞わなくてもいいの」
「月子ちゃん……」
「ウチは、何十年でも待ってるから」
少しだけ月子の顔に赤みがさしているのがわかった。
「それを……そんなことを会った時にきちんと言えたらいいなって。昨日は全然ダメだったけど、今日こそはって――だから、ちゃんと伝えられて良かった」
俯き加減に悟司から顔を隠して、月子がほっと胸をなで下ろす。
ありがとう、と口を開こうとしたその時、月子はまだ顔の赤いままぱっと上げて、
「ご、ご飯食べにいきませんかっ!」
と、急に全然違う話題に、無理やり話を逸らしてきた。
「え?」
「食堂、でっ。ウチも、これからご飯を食べよって……」
カバンの中からそっと小さな弁当箱を取り出す月子。
「だ、ダメですか?」
「そ、そんなことっ。ないっ。ないですっ!!」
やっと左手の置き場も思いついた。腰の位置だ。
もはやそんな手の置き場すらもどうでも良いこの状況の中、悟司は相変わらず緊張しっぱなしのまま身体をかちかちに強張らせて歩き出した。
「じゃ、じゃあ、い、いこうか」
これ以上、月子の顔は見れない。
しかし、
「は、はいっ!」
普段の彼女からは想像の出来ない元気な声が返ってきたので、悟司はそのままかくかくとロボットのように食堂まで月子を先導していく。
内心では月子の優しい気遣いの言葉がすごく嬉しかった。
※ ※ ※
数十分後、食堂でロースカツ定食を平らげた悟司に向かって、月子がお弁当をしまいながら、思い出した様に口を開いた。
「そういえば、弘緒ちゃんが悟司くんと連絡取りたいって」
「え?」
意外な名前が飛び出してきたな、と悟司は心の中で思う。彼女の兄とは半ば音信不通だというのに。
「悟司くんの今のことも少し話したんだけど、それでも構わないって」
ということは、おそらく作曲関係とは別の用件だろうか。
「今日の講義の後、学祭の集まりって、」
「いや。今日はないよ。というか、今日はもう講義ないんだ」
「え? そうなんですか?」
「うん」
午後の講義が理由も知らされぬまま休講になったので、そのまま食堂で昼食を取ったら帰るつもりであった。そのことを月子に説明すると、
「あ、じゃあウチも行きます」
「え?」
一瞬、月子が何を言ってるのかわからなかった。
「ウチも悟司くんの家に行きます。なんだか久しぶりですね」
「い、いや。久しぶりというか……ね」
現在の悟司の部屋は台風が過ぎ去った後の状態と言っても良い。シュガ部屋ならまだしも、家にあげるわけにはいかない。
「しゅ、シュガ部屋の方で通話しようか?」
「へ?」
「あのぅ。実は、冗談じゃないくらい散らかってるんですよね……」
口ごもらせながらそんなことを言うと、
「そうなんですか……」
と、月子は思いのほか沈んだ表情を見せた。
なにこれ。なんでこんなしょげてるの?
薄々と思ってはいたけど、もしかするともしかするんじゃないかこれ。
さっきから月子の、以前と違う魅力の原因に、悟司はぼんやりと気付き始めていた。
さっきは外見がそうなんだろうなとばかり思っていたのだが。
もしや彼女が魅力的に映った最大の原因っていうのは、外見じゃない?
中身なのか?
ということはこれはつまり――
「じゃあシュガ部屋の方にしましょうか」
ずるり、と椅子からすべり落ちそうになる。
「? どうしかしたんですか?」
「い、いや……はは。なんでもない」
なんだったんだ、さっきの沈んだ表情は。
てっきり、自分の部屋の方に興味があるのだとばかり思っていた悟司は気が抜けたように脱力してしまう。
まさか、と内心何度も思っていたのだが、やはりそんなはずはなかった。
月子が“自分に好意がある”だなんてそんなこと、あるわけがないのだ。
しかし月子がどんな気持ちでいるかにせよ、とにかく彼女が弘緒との通話に付き添ってくれるというのは大変ありがたい。
正直、悟司は弘緒とサシで話すのが怖かった。
一度だけ春の東京遠征の際に話した事はあるが、あの時の印象が悟司には心に焼き付いて仕方がない。
――幻滅した、ってことです。
高校生、にしては迫力が普通ではなかった。まぁでも女子高生というのはこの世の人類の中でも最強の人種とも呼ばれるし、そう考えるとあの迫力も納得の思いではあるのだが。
「それじゃ、行こうか」
悟司がそう言って立ち上がると、月子もやや遅れて立ち上がる。
なんだかこうしてずっと二人でいるとカップルみたいだな。
悟司は無意識のうちに鼻の下が伸びていないかと何度も確認しながら、月子を連れてニングルハイツへと向かった。