第十九章『カウンター・リセット2』(1)
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「樫枝悟司……?」
以前に、成司にくっついていた小柄な女の子が、ぽかんとしながら悟司を見る。
確か彼女はドラムが出来るという「阿古屋」って子だったかなと悟司はぼんやり思った。
「いや、違うっスよ。その人は不潔さんのことで、この人は図書館の受付の人っス」
「不潔さんって誰だよ」
そのあんまりなネーミングに、春日が吹き出しながら阿古屋へ尋ねる。
「いやだって、前に与那城くんがそうやって――」
参ったな。
今そんな説明をしている場合ではない。なんといっても春日のサークルが崩壊するかも知れない一大事なのだ。
「……あのー、とりあえず今は、一旦その話を置いておきませんか?」
悟司がそういうと、千佐都も大きく頷いて、
「まーそうね。色々説明してもらいたいところだけど、今はそれよりも虹山ロックの今後の話をしなきゃ」
「同意だね」
そんな小倉の言葉にも頷くと、千佐都は成司へ向かってびしりと指を突きつけた。
「てことであんたクビ。はい、さいなら」
「軽いなっ!?」
声を荒げる成司をよそに、悟司は学生事務員の方へと振りかえる。
「そんな感じじゃ、ダメ……ですかね?」
事務員の人はいまいち話についていけないような顔をする。
悟司はなおも言った。
「一応俺らとしても『先輩としての監督不行があったのでは』って、そうはっきり自覚しているんです。その責任として、サークル全員で掃除でもなんでもしますんで」
事務員の人はじっと押し黙っている。
そうしてしばらくの後、全員を眺め回しながら事務員の人は静かに切り出した。
「……あなた達、学祭に向けてライブをやるらしいですね。今年のスケジュールにもきちんとその枠が押さえられていることは私も存じあげております」
「え、そうなんですか」
何も聞かされていない春日に、悟司が答える。
「一日目の夜に、食堂内でのライブパフォーマンスの時間があるんです」
「ちょっと待て。なんで樫枝はその事を知ってるんだ?」
「いや……だって俺、学祭実行委員ですし」
「「「「――――はぁ?」」」」
千佐都、成司、阿古屋、春日が同時に素っ頓狂な声を出す。
「言ってませんでしたっけ?」
「いやいや初耳なんですけど!」
千佐都がびっくりしながら机を叩いて立ち上がると、小倉はそんな千佐都に向かってのんびりと口を開いた。
「ボクと一緒の班なんだ。一日目の夜の食堂のスケジュールを決める係で、他にもそこにいる堀内さんと、広井優里さんが一緒だよ」
広井優里とは、大学直近のコンビニでアルバイトをしている福祉課二年生である。まんまるとした赤ら顔で青森出身という、正に名実共々「リンゴちゃん」というニックネームがふさわしい女の子だ。
「はぁぁー。道理でアンタ、ずっと忙しいとか言ってたわけだ。図書館の仕事に講義に、その上学祭実行委員までやってたらそりゃ忙しいわいな」
「なんで語尾が石川弁なんだよ。まぁでも、とにかくそういうこと」
小倉に学祭実行委員をやってみないかと言われたのは、ちょうど実家からこちらに戻ってきてすぐのことだった。作曲が出来なくなった悟司に、気分転換のつもりでと話を振られたのだ。小倉は前々からこっち方面の活動に興味があったらしい。
学祭に直接関われる人間になれば、軽音関係のスケジュールもきっと押さえやすいだろうというのが小倉の意図するところでもあったのだが、実際に入ってみるとこれが気分転換どころの話ではない。毎日講義が終わり次第、すぐに学祭実行委員の会議へと呼ばれ、大学を出るのが二十時を越えることもざらであった。
さらに加えて、図書館の仕事である。悟司が担当する時間は午前中の場合がほとんどで、講義のない、空いている時間に容赦なく食い込んでくる。
そのぶん早々に実習の単位取得が確定するのよ、と水谷は言っていた。現に五月の後半にさしかかろうとする今、悟司が図書館に通う日は残り一回を残すのみである。
「もしここで、私があなた達を解散させてしまったら、食堂のライブパフォーマンスの時間が全くの無意味な時間になってしまいますね。そのことに関しましては、私としましてもちょっと思うところがあるのです」
そこで、事務員の人がじろりと悟司を見た。
「樫枝くん。あなたは確か、去年のライブに出ていたと同じ事務の方から聞きましたが」
「え。あ、はい。そうです」
悟司が返事をすると、事務員はそのまま春日の方へ目をスライドさせた。
「あなたもですね。春日くん」
春日が無言で頷く。
「他に楽器の出来る方は?」
その問いに、阿古屋と成司が手を挙げる。所在なさげに堀内は身を縮こませ、小倉と千佐都は共に肩をすくめた。
「……完全なただの遊びサークルってわけではないようですね。我々大学側は、今回の件に関して最もその可能性を指摘していましたのでちょっと意外でした」
「あの――なにを?」
悟司が尋ねると、事務員はゆっくりと全員を見回して、
「部員整理をしましょう」
と、いきなりそんなことを言い出し始めた。
「部員整理ですか?」
「そうです」
いまいち飲み込めないでいる春日に向かって、事務員はきっぱりと頷いてみせた。
「私たち――というより正確には、私個人のことですね。この件に関しては、顧問もいないサークルということなので、暫定的に私自身が顧問のような役割を担っています。学祭でのライブはあなたたちに必ず参加してもらうとして、この際楽器の出来ない、これからやる予定もないという部員につきましては、今ここで正直に申告をしてもらいます」
「なるほど」
小倉は事務員の意図するところが読めたらしい。
「つまり、当初から数合わせ目的で入っていたメンバーは辞めろ、ということですね」
「よりキツく申し上げれば、まさにその通りです」
千佐都がうっと声を漏らす。
「ならボクはもうお呼びでないかもね」
小倉は素直に両手を挙げて降参した。
それを見て、事務員は無言のまま名簿欄にチェックを入れる。
「あと月子もそうだね。ここにはまだ来てないけど」
「鷲里月子さんですね」
そうして、あっという間に二人が除外される。なかなかに仕事の早い人だと悟司が思う。
「他にはいますか?」
「あ、アタシもですぅ……」
堀内が手を挙げる。これで彼女も除外だ。
「千佐都」
悟司が声をかける。
「ここで変に誤魔化しても、きっとすぐにバレるぞ」
「わ、わかってる……けど」
千佐都が両手を太ももの前で強く握りしめた。
「一体、何をそんな意固地になってるんだよ」
「だって……」
少しだけ言いにくそうにしてから、千佐都は重々しく口を開いた。
「だって……あんたらだけじゃ不安だし」
「不安?」
「だってあたし、一応あんたらのリーダーだし」
悟司は呆れるように言った。
「それはシュガーのことだろ。この件には全く関係ないじゃないか」
「そうだけど……」
二人がそんな話をしている横で、小倉が事務員の方へ問いかける。
「もしここで、五人未満になってしまってもサークルは存続可能なんですか?」
小倉の問いに対し、事務員は少し考えてから言った。
「学祭までに五人になれば、特別例外処置として今は認めても良いかと」
「ま、マネージャーとか、そんなんじゃダメですか?」
唐突に、千佐都が事務員へそう切り出す。
「あたしは、確かに楽器は出来ませんけど……でも、このサークルのことはそれなりにちゃんと考えているつもりなんです……」
「千佐都」
春日が驚いたようにそう呟く。
「しかしマネージャーなんて役割は、軽音には必要ないでしょう」
「そうですけど! でも――」
でも、ともう一度だけ言って千佐都は成司の方を見た。
「今回の件、よく考えたらあたしのせいでもあるのかなって思うんです……。あたしが与那城くんを追い詰めたから――だから彼はヤケになって」
事実、千佐都は成司のことを“追い詰めた”わけだが、そのことを違う意味で受け取った事務員は、
「――わかりました。では樫枝千佐都さんのみ、特別例外に部員として残ることにしましょう。正直、ここまで厳しくルールを設けているサークルも他にないですし、妥当なところかもしれませんね」
一人納得するようにそう言ってそのまま立ち上がると、そのまま扉の方へと歩き出し、そして最後に全員の方へと振り返った。
「申し遅れましたね。これから暫定的ではありますが、私があなた達の顧問になります。何かあればいつでも相談に乗りますよ」
そうして、ようやく事務員の人が表情を崩して笑った。
「あの、名前を教えて頂けませんか」
「あ、そうですね。忘れていました」
春日の言葉に軽く咳き込んでから、事務員は丁寧に頭を下げる。
「私、普段は学生センターの方で事務をしている平野香苗と言います。未開大に来たのは今年からなのでまだまだ生徒さんの顔があまりよくわかっておりませんが、生活相談などのサポートに関しましてはいつでも相談を受け付けております。気軽に足を運んでくださいね。それでは」
そうして、平野はそのまま教室を出て行った。
「――とんだくせ者だったな」
平野が出て行ってからしばらくして、春日が口を開く。
「なんというか、まるで隙がない。小倉の女バージョンみたいなヤツだ」
「ボクはあそこまで固い人間じゃないけどね」
言ってる側から小倉はゲーム機を取り出す。
「でも、彼女は確かにくせ者かもね。こうなるなんて予想外だったよ。本来なら与那城くん一人を切って事を収めるつもりだったのに、結果ボク自身も全く予想してなかった感じに話が落ち着いてしまった」
「小倉君でも無理とか」
千佐都が引きつり笑いでそう漏らす。
「だって当初のボクらの打ち合わせは、『与那城くん一人に一旦責任を被ってもらって、その後でライブの参加だけは許可してもらう算段』だったろ? それがなぜかボクや月子や堀内さんが辞める羽目になった。これはもう、大失敗だよ」
「そ、そんなつもりだったんスか……」
脱力してその場にへたり込む阿古屋に向かって、小倉は静かに言った。
「ごめんね鈴ちゃん。ボクらも『やばいことになりそうだ』ってことまではわかっていたんだけど、まさかサークルを解散しろとまで言われるなんて思わなくてさ」
「どうしてそんなことが、呼び出される前にわかったんスか?」
「情報通の樹里のおかげよ」
小倉の代わりに千佐都が答える。
「彼女が誰よりも先に、与那城が煙草を吸ってた話を聞いたのよ。それであたしとかすがと悟司と小倉くんは、呼び出される前に先にこちらから打って出ようって考えたわけ」
「なのに、物の見事にこちらの方が言いくるめられてしまったって流れさ」
春日が首をすくめながら阿古屋の方を向いてそう言った。
「もしかしたら、廃部なんて言うのも一種の落としどころだったかもしれないね。先に反発されそうなことを提示しておいて、その後で第二、第三の本命案を提案していく――やっぱり平野って人は頭が良いのかも」
「あの……」
小倉が感心した風に喋っている横で、成司が真っ青な顔で頭を下げた。
「本当に……ごめんなさい」
全員が顔を見合わせる。
しばらくした後、千佐都が快活に笑って悟司を指さした。
「そういうお礼の方は、悟司へどーぞ」
「先輩、ですか?」
そうして、成司はゆっくりと悟司の方へ振りかえる。
悟司はずれ落ちる眼鏡を指で押さえながら、曖昧な表情をして成司へ言った。
「えっと……とりあえず、どこから喋ろうか?」
「あのつまり……結局、先輩が『樫枝悟司』ってことで……間違いないんですよね?」
成司が確認するように尋ねてきたので、悟司はそのままに頷いた。
「うん。多分他にこの大学でそういう名前の人物はいないと思う」
「その辺は僕や、去年から知り合っている千佐都たちも証人だ。間違いなくこいつが正真正銘の樫枝悟司だよ。こんな情けないツラをしてる人物は他にない」
春日の相変わらずなそのコメントに、悟司はたちまち苦笑いする。
「でもなんなのさ、その今更すぎる確認の取り合いは? あんたらって、同じニングルハイツの人間なんじゃないの?」
「残念ながらそれは違うんだ千佐都くん。少なくともボクは、彼の姿なんか見たことも無い」
不思議そうな表情をする千佐都に、小倉がゲーム機から顔もあげずにそう答えた。
「あれ。んじゃ、与那城は一体どこに住んでんのさ?」
「えっと、確か名前は『第一ハイツ長下』ってとこです」
「どこそれ」
「どこって言われても……」
成司が言葉に詰まっているので、悟司が千佐都に説明することにした。
「場所のこともひとまず良いとして、それより皆が不思議なのは『どうして与那城くんが、別の人物のことを樫枝悟司だと勘違いしたのか』ってことじゃないかな?」
「へ? アンタ勘違いしてたの? なんで?」
千佐都も、言葉には出さないが春日の方も、そのことには大変驚いているようだった。
「よりにもよって、俺の名を騙っているんだよ。その別人物は」
「はぁ? なんでそんなことしてるのさ」
そこで小倉が無言で顔をあげる。
さすがの小倉でも、この話には興味を惹いたらしい。
「うーん……。正直なところを言うと、俺もそこんとこはよくわかってないんだ。ただ、水谷さんから聞いた話では、その人は俺のことについて、とにかく気味が悪いほどよく調べ尽くしてる」
「それって、たとえばシュガーのこととかってこと? でもさ、シュガーのことなんて、スキー部の連中もつっきーがいる漫研の連中なんかも、みんなが知ってることでしょ。その中の誰かが、どうして勝手にあんたの名前を騙るわけ?」
「いや、違うんだ千佐都。正確にいうと、シュガーのことを知っているのは今千佐都が挙げたサークルの人達だけじゃない」
「へ? でも、他にあんたがシュガーをやってることなんて誰も知らないでしょ」
「――他に、といえば郡司先輩と斉藤先輩が知っているな。去年の軽音サークルの」
春日がそんな風に間に入って口を開くと、
「ああ。そういやいたねー。……でもこれで全部でしょ? 他にいたっけ?」
と、千佐都はさらに難しそうな顔をしながら首を捻り始めてしまった。
「――ああ、そうか。わかったぞ」
そんな小倉のつぶやきに、全員の顔が一斉に小倉の方へと向く。
「今悟司くんが言った『水谷すすき』が含まれていない。考えてみれば、彼女も一応シュガーのことについて知っている」
「さすが小倉君」
思わず拍手をあげたくなった。どうやら小倉は、その時点で誰よりも先に真相に気付いてしまったようだった。
そして、そのまま納得したようにゲーム機へと顔を戻す。
興味を失うのもまた早すぎだった。
「えー。でもあの人って女でしょ。いくら与那城がバカでも男と女を間違えるわけないじゃないのさ」
「水谷さんじゃないよ。多分千佐都は名前を聞いても分からないんじゃないかな。会ったことは一度もないはずだから」
「えーなにそれぇ」
「――そうかわかったぞ、樫枝」
それまでじっと腕を組んで考え込んでいた春日が、ぱっと顔をあげた。
「お前の名前を騙っている人物っていうのは――『安藤』のことか」
「大正解です、先輩」
そうなのである。
カルト団体「いちじく会」の水谷と、一時期行動を共にしていた人物、安藤。
水谷の話によると、彼は去年の九月頃に大学を辞め、その後はずっと芦別で健康食品販売をしていたはずなのだ。それがなぜか――
「なぜだか戻ってきてるんですよ、あの人」
悟司はうんざりした口調で春日に説明する。
「水谷さんからその話を聞いた時、俺も最初はなんとも思いませんでしたよ。いちじく会の方も脱会したらしいですし。戻ってきたところで大学も辞めているのだからもう関係ないやって思ってて……。でも、違ったんですよね。厳密には安藤さんって大学を辞めたわけじゃなくて、休学していただけらしいんですよ」
「……なんだって?」
「しかも、なぜか俺の名を至るところで騙りまくってます。水谷さんの言う話だと、どうやら彼は、俺のことを“理想の自分と同化させている”みたいなんです」
「は……はぁ? なんなんだそれは。全く意味がわからんぞ!?」
「俺だって理解したくありませんよそんなの。でも実際に安藤さんは“樫枝悟司を自分自身のことだと思い込んでいる”んです。水谷さんの話によれば彼は元々、躁鬱がすごく激しい不安定な人だったらしいです。今はそれがさらに加速しているみたいですね」
全員が沈黙してしまった。
与那城も阿古屋も堀内も、まるで別世界の人間の話を聞いているみたいに放心していた。
「あ、あのさ。つーことはなに? その人ってもしや相当アブない感じの人ってこと?」
千佐都がおずおずと悟司へ問いかける。
「どうだろう? でもかなり錯乱してる感じはするから、なるべくなら近付きたくないってのが俺の本心。今までたしなめに行かなかったのもそれが理由だよ」
「そ、そうね……。そんな人、わざわざ自分から足を向ける必要なんてどこにもないよね。あは、あはは」
なぜだか笑いが漏れ出てしまう千佐都。
「それと話のついでに春日先輩が、一体どういう経緯で安藤さんと知り合いなのかも水谷さんから詳しく聞きましたよ」
「ああ、それはボクも興味あるな」
小倉がゲームをしながらそう漏らす。
悟司は少しだけ間を置いてから、静かに言った。
「安藤さんって……実は元々軽音サークルだったんだよね」
「「「えぇっっ!?」」」
千佐都と、与那城&阿古屋が一斉に声を荒げた。
そんな馬鹿デカいボリューム三人分に顔をしかめながら、春日が悟司の後を引き継ぐように喋り始める。
「一年の時まではそうだったんだよ。僕が一年の頃は、あんなサークルでもかなり入部希望者が多かったんだ。それであいつは……そのなんていうか、ちょっとおかしくなってしまってな」
「「「おかしく?」」」
またしても三人で同時に声があがる。
多少うっとうしそうに彼らを一瞥しながら春日は続ける。
「彼女が出来たんだ。その相手は軽音といちじく会をかけもちしていて……なんていうか、まぁ水谷以上に言葉の通じないヤツでな。あれでいて、水谷はまだマシな方なんだ。まともに会話も通じるし、信仰にも一定以上の距離を置いているふしがある。でもその人ははっきりいって僕たちの言葉なんかに一切耳を貸さないんだ。一体なにしにこのサークルに入ってきたのか全くわからないヤツだってのが、当時の僕の彼女に対する印象さ」
「それでネト――安藤さんって人は、その人と付き合っておかしくなったんスか?」
阿古屋が問いかけると、春日は仰々しく頷いてみせた。
「付き合っていた、というとやや語弊がある。元々、その人は安藤のことなんか見ていやしなかったからな。でも、安藤はそのまま彼女を追いかけるようにしてサークルを辞めた」
「あちゃー」
全く心のこもってない様子で千佐都がそんな風に相づちを打つ。
「だが、しばらくしてその安藤のお相手は大学自体をすっぱり辞めてしまったのさ」
「大学を?」
「ああ。その後のことは僕もよく知らん。とにかくそれ以降、安藤はずっとあんな調子で、いちじく会に入ったままだ。僕も、郡司先輩も斉藤先輩も、正直アイツのことなんてこれっぽっちも興味なかったんで、特にその後どうこうしたりもしなかったしな。ただ、それでも一応知り合いではあるから声だけはかけていたよ」
「……じゃあ、それ以上のことは、あの人の口から直接聞き出さなきゃいけないってことですか……」
成司が重々しく言葉を吐く。
「……なんだか、聞きに行けないっすね。話を聞いてしまった今となっては」
「そ、そッスね。自分もこれ以上関わり合いになるのはちょっと」
後輩二人が、互いに納得したように頷きあった。
まぁ確かにそこまで聞いてしまえば、安藤と関わるのを避けたくなってもしょうがない。
だが当の迷惑をこうむってしまっている悟司はそうも言ってられない。
「あのね……。皆はそれでもいいかもしれないけど、俺はこの頃ずっとどうするか正直めちゃくちゃ悩んでたんだけど」
「放置で良いんじゃないか?」
にべもなく春日がそう答える。
「これ以上エスカレートするようなら考え物だが……現状、アイツはネットゲームに没頭しているわけだろ? こちらから出向いてまで無理して話し合う必要もない」
「それは……そうですけど」
しかし悟司にはどうにも解せない思いがあった。
やはり近いうちにどこかで話す機会だけは見つけておいた方が良い。
……変に煽って、逆上しなきゃいいけど。
そんな時だった。
「――遅れてすみませんっ! って、あれ……?」
突然教室の扉が開いたと思うと、そこには月子が肩で息をしながらこちらを呆然と眺めていた。
「もう終わったよ月子。僕も君もクビだ」
「クビってなに!?」
「うっわー久しぶりのシュガー全員集合ね。しっかもよりにもよって、呼び出しくらったせいで集まるなんて!! どうなのさ、これ!」
そう言いながら、こころなしか物凄く嬉しそうな顔をする千佐都。
確かに、こうやって四人で集まるのはどれくらいぶりだろうと悟司は思った。
「これで、全員ですか」
ぽつりと成司が悟司に呟いてみせる。
「なんか……、全然想像していたのと違うな。みんなもっと、バラバラな人達だとばかり思ってました」
「まぁ、でも実際結構バラバラだけどね」
「そんなことないです。ちゃんとまとまっているように見えますよ。そんなすぐに、スッとそう思えちゃうのも、きっと樫枝さんのことを勘違いしてたからなのかも」
「……俺のことは悟司でいいよ。樫枝だと二人いるし、間違えやすいから」
「あっ。はい、わかりました――悟司さん」
成司は力強く答えた。
「そういえば、まだ聞いてないことがあるんですけど」
「うん?」
「さっき俺が謝ったとき、千佐都先輩が『お礼は悟司に言え』って、あれどういう意味なんですか?」
「ああ、そのことね」
自分で言うのは、なんだか言いにくい。恥ずかしい。
「実は松前さんから君の話を聞いた時、俺が一番最初に言ったんだよ、『与那城くんは絶対に見捨てないで欲しい』って」
「……どうして」
「うーん。どうしてだろう?」
少し考えながら、悟司は言った。
「多分――誤解受けてばかりだけど、すごくいい人だなって。そう思ったんだ」
とある日の、成司の言葉を思い出す。
――精一杯もがいていれば、取り返しのつかないことなんてそうそう起きたりはしないはずです。
すごく良い言葉だと思う。
自分は既に、美早紀とのあの一件を、取り返しのつかないことだと決めつけていた。
でもそうじゃないのだな、と思わせてくれた。
成司の言葉が、自分にそう思わせてくれたのだ。
それは本当に、何気ない言葉だけれど、悟司の胸に直接響く何かがそこにはあった。
「ありがとう……ございます」
成司の瞳が、潤んでいるのがわかる。
「俺……絶対にもうダメだと思いました……。誰からもそっぽ向かれてしまうって……なのに……なのに……」
「取り返しのつかないことなんて、そうそう起きたりはしないんじゃなかったっけ」
「……でも……もう、さすがにあの瞬間は、もういっぱいいっぱいで……」
確かに悟司が来た直前の頃は、本当に青ざめた顔をしていた。
彼を自分のような目には、遭わせたくなかった。
その、彼のポジティブシンキングさ、社交性の高さが、悟司には何よりも自分に欠けているものだと思っていたから――
だからこそ、こんなつまらないことで失わせたくない。
「まぁ、とりあえずは結果オーライだよ」
「はい……ありがとうございます」
放っておくと泣き出してしまいそうだし、そもそもここまで感謝されるほどのことは何もしていないはずだと思った悟司は、早々に成司との話を切り上げて、そのまま鼻をかきながらシュガー三人の方へと向かって行った。
悟司はこれまでずっと忙しくて会えないでいた千佐都たちに、ずっと切り出したかったことをようやくここで口にした。
「そいや俺、図書館の仕事のせいか初対面の人でも、あまりどもらなくなったんだよね」
三人が目を剥きながらこちらを凝視する様が、なんだか見ていてとても可笑しかった。
※ ※ ※
結局、シュガーの四人が集まったのはその日のうちだけで、翌日からは再びばらばらの生活が続いた。
しかし、これまでほとんど近況の知れなかった悟司のことがわかっただけでも、三人はほっとしたようで、
「これからは、もう少しこっちの方にも顔を出します。学祭に向けて楽曲の方の練習もしなくちゃいけないし」
そんな悟司の言葉に、千佐都だけじゃなく春日や月子までも安堵しているようにうかがえたのは、おそらく気のせいなどではない。
そんな風にしてやってきた六月。
ようやく悟司は図書館での実習から解放され、学祭実行委員の活動だけに絞られることになった。
悟司たちが担当する一日目の夜間スケジュール班は、大学校舎の二階、普段は経済学部の講義で使用している教室で集まることになっている。講義が終わってさっそくそちらへ顔を出すと、既にそこには小倉の姿があった。まだ集合時間の三十分前だというのに。
「他のみんなはまだ?」
扉を閉めながら悟司が尋ねると、小倉はそのまま静かに首を振った。
……なんとなく、小倉はいつもより様子が変なように悟司には思えた。
カバンを適当な場所へ置いて、そのまま悟司は小倉の向かいの席へ腰をかける。
「図書館の仕事はもう終わったのかい?」
こちらが何か切り出そうとする前に、突然小倉がそんなことを言い出した。
「あ、うん。だから、これからはこっちがメインになるのかな」
「虹山ロックの方も」
「それももちろんだけど……でもどんな曲をまだ何も決まってないんだよね。それを決めるにはまず先に夜間スケジュールでライブの時間をどれだけ割けるかを、今日明日のうちにこの班で決めないとさ」
そこまで悟司が話すと、突然小倉がぱたんとゲーム機を閉じた。
「……少し与那城くん関連の話をしてもいいかい? 堀内さんの話にも関係するけど」
急にあらたまったようにそんな事を言い出す小倉に、多少面食らいながらも悟司は軽く頷いた。
「まず最初に一つね。――実はこの前の一件で、与那城くんと鈴ちゃんの関係が以前よりもギクシャクしてる」
「……え?」
頬杖をついていた悟司が顔をあげる。
「悟司くんは口が固いよね?」
「え、ま。まぁ……喋るなと言われれば」
「実は鈴ちゃんって、与那城くんに好意を持ってるんだよね」
それはなんとも衝撃的な告白――というわけではなく、実は悟司も少しだけ二人の雰囲気を見てそんな風に感じとっていた。成司の方はとりとめて阿古屋に気があるようには思えなかったが、阿古屋に関しては第三者が見ればあまりにもあからさまなのだ。
「でも、この前の一件があったろ? あの煙草事件がきっかけで、鈴ちゃんは与那城くんに軽く幻滅し始めている」
「え、そうなの」
「まぁボクの勘なんだけどね」
だが、小倉の勘は良く当たる。彼はそのまま少しだけ眼鏡を押し上げると、
「言ってしまえばこんなことは二人の問題であって、ボクたちが出張ることなんて何もないんだ。与那城くんがしゃきっとすれば何も問題のない話だしね。でも、どうやらそういうわけにもいかないようでさ」
と、どこか言いにくそうな顔をしてみせた。小倉のこんな顔は大変珍しい。
「なんていうか……鈴ちゃんが元気ない顔してると、月子も元気ない顔をするんだよ」
「月子ちゃんが?」
「そう」
なるほど。小倉はあまり感情を表に出すタイプではないが、月子のことになると少しだけ違った感じに映る。いつもとさほど変わらないようではあるのだが、一年も付き合っているとなんとなく察することが出来た。先ほど変に思えたのはこういうことだったのだ。
「それにもう一つ」
小倉が人差し指を立てる。
「現在、虹山ロックに在籍してる悟司くん、春日先輩、千佐都くん、与那城くん、鈴ちゃんの五人がある集団からものすごく嫌われてる」
「ああ――スキー部とテニス部ってこと?」
悟司がそう言うと、小倉はまたしても無言で頷いた。
「ボクがあの日勝手に、事務の平野さんに月子のことを除外した理由もこれでわかるよね? 要するに全部、月子に火の粉がふりかからないようにと思ってやったことなんだ――悟司くん達には悪いと思ってるけど」
「いいよ。ちっとも気にしてない」
それは本心だった。
それに言ってみれば、悟司と成司以外の三人だってほとんど悟司一人の責任で一緒に嫌われているようなものなのだ。成司のことを庇いたいがために、悟司は半ば無理矢理にでも自身の主張を押し通そうとした。
その結果が、今の状況なのだ。
松前にも「やめた方がいいよ」とあらかじめ忠告を受けていたにも関わらず、悟司は成司のことを絶対に見捨てないつもりだった。
「逆に俺もさ、小倉くんと月子ちゃんが巻き込まれなくて良かったって思ってるから」
悟司がそう言うと、小倉は少しだけ安心したようだった。
「それに春日先輩も、相変わらず堀内ちゃんのこと気に掛けてるみたいだし。千佐都も千佐都で前よりかは彼女のこと嫌には思ってないみたいだよ」
前に春日と会った際に聞いた話だと、いまだ抵抗感は完全に拭えないようだが、それでも千佐都は堀内と会話を二、三交わす程度にはうまくやっているようである。
小倉は少しだけ考え込んで、それからゆっくりと悟司に言った。
「一応さ、ボクなりに今の状況を分析してみたんだ」
「? どういうこと?」
悟司が尋ねると、小倉はカバンの中から一枚のルーズリーフの紙を取り出した。
そこにシャーペンでぐるっと大きな円を描いてみせる。
「この円が、未開大の全人口だと思ってね」
続いて円の中に、さらに二つの円を描く。
一方は一円玉くらいの大きさで、もう一方は五百円大の大きさだ。
「小さい方が君たちのコミュティ、つまり虹山ロックの皆のことね。記入したいことがたくさんあるから一円玉くらいにしたけど、本当は未開大全ての人口と比較したらこんなに大きくはない。数あるコミュニティの中でも、君たちのは物凄く小さい円なんだ」
そしてそこには、と小倉は言いながら円の周囲にたくさんの米粒を描く。
「表立ってはいないけど、漫研のみんなや、月子やボク、松前さんに、水谷すすきの所属する『いちじく会』なんかもちょっぴり加わっていたりする。本当なら、これらがくっついて、」
米粒と一円玉を取り囲むように小倉が円を描いた。
「これで一つのコミュニティ、ってのが正しい見方なんだ。ここまではわかるよね?」
「うん。なんとなく」
「一方で、スキー部とテニス部は本来分離しているはずの集団だ」
小倉は五百円大の円のど真ん中を割るように線を引く。
「でも、そんな分離していたはずの連中が、こともあろうに今は一致団結しちゃってる。なぜだかはわかるよね?」
「堀内ちゃんと、与那城くんのことだね」
「そう。普段は完全に分離しているんだけども、こと堀内ちゃんと与那城くんに関する話題で、彼らの思いは一致している。米田香奈子の根も歯もない噂が飛び火して、今は君たち虹山ロックの全員が、あらぬ疑いをかけられまくってる」
「え、そうなの?」
初耳な情報に悟司が声を上げると、
「……ひどいもんさ。元々いた千佐都くんまで罵る始末だよ。全く手に負えないね」
そう言って小倉は眉間を少しだけ歪めてみせた。
つくづく自分は世間から浮き世立ってしまっていると思う。悟司は普段大学校舎を歩いているにも関わらず、そんな雰囲気など一切感じ取れなかった。
小倉が半分に線を引いた円の中心に米粒の丸を描く。それをとんとんシャーペンでつつきながら、
「どちらにも口利きしてるのがこれ――つまり米田香奈子だ。この五百円大ほどの円の内訳は大体こんなところかな。さて、この円は早い話この、」
五百円大の円――スキー部&テニス部の円から、一円玉の円――虹山ロックに向けて一本の矢印線が引かれる。
「虹山ロックを敵視している。人口比率を見れば、こちらの不利は圧倒的だ」
小倉が、虹山ロックとその周りの米粒たちの円の上に『二十』と数字を振ってみせる。対するスキー部&テニス部には『三百五十』。
実際に数値を出してみると笑い声が出そうなほど、物の見事に数の差で圧倒されているのがわかってしまった。
「これくらい数に差があると、仮にそれが白であっても『黒なんだ』って言い切ってしまえるくらいには大学全体の世論を操作できそうだね」
「世論……」
「ボクの言いたいこと、なんとなく伝わったかな?」
「えー……っと。つまり――俺たちは今『大学全てを敵に回してる』ってこと?」
「そこまではっきりとじゃないけど、これから彼ら達の噂が広がればいくらでもそうなる可能性があるってこと」
悟司はため息が漏れた。
こうして絵にされてみると、実にわかりやすくこちら側の不利が伝わってくる。
「所詮、どこでも多数の声が善だからね。マイノリティがいくら吠えようがマジョリティの一言に人は寝返っていくものさ」
「何も知らない人達は、彼らの発する第一印象の噂だけで悪者扱いされちゃうわけか」
悟司は二つの円の外側を見てそう呟く。
「悟司くん自身は、どう思う?」
「どう思うって?」
そんな突然の小倉の質問に、若干戸惑いつつもそう口を開いた。
「悟司くんは与那城くんが悪いと思う?」
「与那城くんは――」
被害者、だと思う。
堀内の件に関していえば、成司はどちらかというと完全に部外者の立場だ。それなのにちょっとした行動の過ちでこのような悲惨な目にあっている、要するに可哀想な立場だ。
そのような答えを小倉に話すと、
「じゃあ堀内ちゃんのことはどう思う? 悪いと言えるのかな?」
「堀内ちゃんは――悪くないとは言い切れないかな」
いくら知らなかった、教えてくれなかったとはいえ、彼女の元々の奔放な振る舞いが引き金となってしまったのはいうまでもない。米田の彼氏の件に関してだけ言えば、彼氏の方がやや悪いとも言えるが、そもそも堀内はそれだけが嫌われる原因なわけではないのだ。
「じゃあ、そんな二人側の立場にいる悟司くんは、どう解決すべきだと思う?」
小倉の問いに、少しだけ考えてから悟司は言った。
「どうしようも出来ない」
「その通り。もうその段階はもうとっくに過ぎてしまってる」
「……だよね」
そもそもそんな悠長なことが言えるのは米田と喧嘩して反発しあった直後の話だし、それになにより、先ほども思ったように堀内は必ずしもそれだけが嫌われる原因ではない。
サークル内で、多数の女子の思い人たちをさんざ寝とってきたのだ。そのことに関して明確な罪があるわけではないが、嫌われ疎まれる原因には全然なり得る。
今でこそそういった行動を反省して――いるのかどうかはわからないがとにかく――自重しているが、過去にやってきたことをどうにか出来るわけでは決してない。
「となると、もはやこれは一種の冷戦状態だよね。何が何でもこちら側の味方をつけていかないと、後々の大学生活に支障が出てもおかしくない」
「面倒くさいことになってきたなぁ……」
「それを選んだのは、君自身なんだけどね」
どちらがどちらに与するか――そんなしょうもないことでここまでの騒ぎになるのかと思うと、なんだかとてもやりきれなくなる。しかもその理由がドロドロなのが、またなんとも言えない気分にさせる。
「悟司くんは、こういうこと本当に興味なさそうだよね」
「そりゃそうだよ」
またしても妙な問題がやってきてしまったと本気で悟司は思っていた。
「悪者扱いされるのは気分良くないけど、でも正直に言えば自分一人のことならどうだっていい。誰にどう思われようが、俺は俺だし」
「でもそうも言ってられないよね」
小倉がちらと時計を見た。そろそろ二人の女子がやってきそうな時間だった。
「今回の件で特に一番の被害を被りそうなのが千佐都くんだよ。気をつけてね」
気をつけろも何も、具体的にどうすればいいのか悟司にはまるでわからなかった。
まさか大学になってまで露骨ないじめに遭うわけでもあるまい。クラス編成があるわけじゃないし、キャンパスというものは高校以上に広いのだから、会いたくない人物には余裕で会わないことも可能なのだ。
誹謗中傷にも耳を閉ざすことだって出来るはずなのだ。
でも――
「小倉くんの言うことだからね。一応気にはかけてみるよ」
悟司がそう言ったところで、十八時ちょうどの鐘が鳴り響いた。