第一章『1さじ目は悟司から』
プロフィールNo.1
名前:樫枝悟司
年齢(誕生日):18歳(12/27)
身長(体重):170.2cm(58kg)
血液型:A(RH-)
好きな飲み物:紅茶(特に無糖)
苦手な物:パチンコ屋(耳が痛くなるから)
(2012年 7/2~7/26連載分)
春から、悟司はこの町にある大学に通うことになっていた。
その名も、北海道未来開拓大学。
ネットの某大型掲示板でも、滅多にお目にかかることのない超絶Fランク大学である。
通称、「未開大」
悟司はこのふざけた略称が大嫌いだった。
初めて耳にした時から、いくらなんでもあんまりなネーミングだと思っていた。
しかし結果的に、この大学へ進学する羽目になってしまったのは皮肉な話である。一番避けたかった未開大だけ合格し、他に受験した東京の大学は全て惨敗。
最後の不合格通知が届いた時の絶望感は、筆舌に尽くしがたいものがあった。
仮に同じ超絶Fラン大学でも、都会と田舎とじゃきっとキャンパスライフにも歴然とした格差があるはずであって。少なくとも、こんなへんぴな場所に追いやられるよりかずっとマシに違いない――
そう今でも思いこんでいる悟司が、一体なぜこの未開大を受験してしまったのか。
それにはちょっとした理由があった。
悟司はそもそも大学への進学を、地元ではない、どこか親元から遠く離れた場所を希望していた。一人暮らしの気楽さを謳歌したかったし、一旦そういう場所に放り出されてしまえば、自身のコミュ障スキルもどうにかなるのではないかと思ったりしていたのだ。
そんな悟司の提案を聞いて、父親は応援する立場で悟司に接してくれた。しかしその一方で、母親の方は悟司の一人暮らしそのものに強い難色を示したのである。
悟司は一人っ子であった。そんな一人っ子の悟司を母親はとにかく溺愛していた。いつでもすぐにべたべたするし、どこへ出かけるにしてもいちいち答えなければすぐ不機嫌になる。そんな面倒くさい母親だった。
そんな母親を唯一納得させられる大学が、この未開大だったのである。
その原因は母親の妹にあたる叔母さんが、未開大の隣町に住んでいたからだ。
近くに叔母さんがいるこの大学ならば、一人暮らしでも安心だろうということで、悟司は母親の意向に沿うような形で嫌々ながらも受験することになったのだ。
そうしていざ結果が出ると、悟司はこの母親の提案に乗っかってしまったことを激しく後悔した。すぐさま浪人したいと心願したが、浪人生になることだけは父親も母と一緒になって反対しはじめた。
この時点で味方はゼロになり、ゲームオーバー。いまだ歯噛みする念を抱きつつも、悟司は泣く泣くこの町へとやってきたのであった。
そもそも頭も良くない上に、まともに受験勉強すらしてなかったのだから当然といえば当然の結果なのだが。
とにかくそんなわけで、悟司はこの田舎町のアパート「ニングル・ハイツ」の一○一号室に住むことになったわけなのだが――
「あ、あ………あの……」
口をパクパクさせながら、なんとか下着姿の彼女をなだめようと、必死で考えを巡らせる。
名案など――出るわけがない!
「ど、どどどどど。どこからやってきたっ!? この変態! 変っ、態っっ!」
彼女は顔を真っ赤にさせながら、大声で悟司を罵倒した。
どこからって玄関以外にないだろと思ったが、わざわざ火に油を注ぐわけにもいかない。
「お、おおおおおおお落ち着いて」
「お、おち、おち、落ち着けるわけが、ががっ。ないでしょうが! この状況でっ」
そう言いながら彼女は、自身の裸体に布団を巻き付けて悟司を睨んだ。
「変態! 変態!」
彼女が枕元にあった携帯電話に手を伸ばした。
まずい。この展開はかなり、まずい。
警察――そうだ、警察を呼ばれる!
悟司は慌てて、顔の前で手を振った。
「ま、待って! 待ってください! ここは俺の……。俺の“ヘタ”のはずなんです」
「ヘタってなに!?」
慌てすぎて「部屋」を「ヘタ」と言ってしまったことに気付き、悟司はさらなるパニック状態に陥りながらしどろもどろな説明をし始めた。
「い、いいいや、へへへ部屋ってえて、言おうととして。べべ別に深いいいい意味は」
「ヘタって言ったよね! せっかく寝込みを襲おうとしたのにあたしに見つかってヘタこいたって事!?」
「ちちちちがっっ」
「もーいい。もー電話する!」
「ああああああ!」
急いで駆け寄ろうとすると、ばしんっと顔面に枕がクリーンヒットした。
「近寄んなっっ! ケダモノ!」
鼻にツーンとした痛みが走り、体をのけぞらせる。
悟司は顔に当たった枕を手で受け止めた。
ダメだ。これじゃ何を言ってもこのままじゃ話を聞いてくれない。
そう感じた悟司は観念して、部屋から出ると廊下を走って玄関の扉を開けた。
かかとを履きつぶして靴を履くと、転がるようにして外へと飛び出す。
扉を背中で押さえるように閉めて、急いでこのふざけた状況を打破する策を考える。
警察に連絡されるのは非常にマズい。やましいことをした覚えは一切ないが、相手の方はかなり頭に血がのぼっているみたいであった。
非常にめんどくさい事態になってしまった。
扉にもたれかかった身体がずるりと滑りそうになる。
万が一を考え、悟司はそのまま表札をチェックしてみた。
……やはり間違いない。この部屋は一○一号室であった。
「ちくしょう……なんでこんなことに……」
涙目になりながら、悟司がなんとか思い立った結論は一つ。
大家さんに連絡するしかない。
それくらいしか頼るものが、この町にはなかった。
彼女のあのうろたえぶりから察するに、きっと彼女もこのアパートの住民なのだろう。解けきってない荷物を見る限り、おそらく彼女もここ最近越してきたばかりだ。
察するに入居の際になんらかのトラブルがあって、本来別々になるはずの二人の部屋がドッキングしてしまう羽目になった。こう考えた方が自然だろう。
ならば、やはり大家さんに電話して直接確認するしかない。
そう思って悟司は携帯電話を取りだした。
だが、そこでさらなる不運に気付いてしまった。
大家さんの電話番号やらが記載されている書類は、全てギターケースの中にしまったままなのだ。ギターケースは現在、一○一号室の部屋の中。彼女のいる場所に置きっぱなしだ。
「ああああああ! 最悪すぎる!」
頭を抱えて悟司はドアの前でうずくまったその時、耳元でガチャリという金属音がした。
「…………あれ?」
今の音は間違いない。
鍵をかけられてしまった。一○一号室に。
締め出しである。どうやらこのままだと本気で警察を呼ばれそうだ。
そこで、悟司はふと思う。よく考えてみれば、ポケットにはこの部屋の鍵が入ったままだ。これを使って鍵を開けることが出来れば、彼女の誤解が解けるかもしれない。
鍵にはこのアパートのネームと部屋番号が入ったタグもついている。
きっと、こちらから冷静に話を切り出せばわかってくれるはずだ。そう思って悟司はポケットをまさぐってみた。
しかし、どれだけポケットをまさぐってみても鍵は見つからない。
「あ、あれ……?」
ジャケットのポケットにしまったはずの部屋の鍵がどこにもなかった。
まさか、落してきた?
念のため、他のポケットも探ってみる。しかし、他のポケットにも鍵は見当たらなかった。
裏返しにしたまま突き出たポケットを全て戻して、悟司はため息をつく。枕を投げつけられた時か部屋を飛び出した時かはわからないが、どうやら気付かぬ間に落っことしてしまったらしい。
悟司は郵便受けをそっと開いて中を覗き込んでみた。
玄関の近く、さきほど彼女が寝ていた十畳のワンルームへと向かう狭い廊下の隅に鍵らしきものが落ちているのが目に入った。
……間違いない、あれは自分の鍵だ。
完全に詰んだと悟司は思った。
「す、すみません! ちょっとだけでも話を聞いて。話を聞いてくれませんかぁー」
郵便受けから弱々しく声をあげるも、ワンルームの部屋へとつながる廊下の先にはガラス戸がある。悟司が部屋を飛び出した時と違い、ガラス戸は完全に閉め切られていた。あれではこちらの声が届いているのかどうか。
「あ、ああ、あの! 俺! きょ、今日からここに住む予定の!」
悟司は声を張った。聞こえなければ意味がない。
「かか、樫枝悟司っていうんです! 今年からそこの大学に通う予定の!」
相手からの返事はない。しかし、だからこそコミュニケーション能力の乏しい悟司は少しずつ気持ちが落ち着いてきた。扉の前で悟司はさらに声を大きく張り上げる。
「な、なんていうか……その……。きっと! 大家さんの手違いだと思うんです! だからけ、警察に電話しないで。俺は逃げない。逃げないです。ここにいるんで! だから、だか――」
「うっさあい!」
ばぁんとガラス戸が大きく開いて悟司はびくっと肩を震わせた。廊下の奥のガラス戸には、部屋の方から漏れる後光に照らされた彼女が立っていた。
既にしっかりと暖かそうな服を身につけており、その姿を見てようやく悟司はほっとする。
「あんた、馬鹿じゃないの!? ここはアパート、集合住宅。わかる? そんなデカい声出さなくてもちゃんと聞こえてるっての!」
そこまで言うと、彼女はふんっと鼻を鳴らして台所のシンクにもたれかかった。
廊下には電気が点いていなかった。彼女の姿は影絵のようなシルエット状態に見えて、表情がよくわからなかった。
だが、声の感じからしてきっと機嫌はよくない。
「け、警察に…………電話したんです、か?」
悟司がおそるおそる尋ねると、彼女はため息をついた。
「かける寸前でやめた。なんかさ、おかしいと思って」
その返答に悟司が首をかしげていると、彼女はさらに続けた。
「普通、変態なら外に出たらそのままその場を離れるでしょ? さっきはまだ扉のすぐ外にいる! っと思って慌てて鍵をかけたけど、あんた全然そこを離れないし」
「あ。そそそういえば鍵が」
「なに? 言っとくけどまだ信用なんてしてないから鍵はかけたまま――」
「そ、そうじゃなくて。そこに俺の鍵が。ネ、ネームタグのついたのが、その廊下に――」
「廊下?」
彼女をしばらくうつむくと、やがて何かを拾い上げる仕草をとった。チャリっという小さな金属音が聞こえると、彼女は少し驚いた様子で言った。
「あ、これ。ここの鍵じゃん」
「それ。お、俺の鍵。です……」
「うっそ。あたしのじゃないの?」
「きっと、さ、さっき急いで外に出たときに落としたんです。だ、だから俺のでま、間違いないです」
こうやって話している間にも、冷たい風はびゅうびゅうと悟司の身体を襲っていた。いったい今の気温は何度なのだ。携帯電話の時計はすでに十六時半を回っている。そのうち夕日も沈んで、彼女のシルエットすら見えなくなるだろう。
「あ。あの、お願いです。せ、せめて廊下でもいい……ので、部屋の中へ居れてくれません、か?」
……自分の部屋のはずなのに。
悟司は心の中でそう思った。
※ ※ ※
それから十分ほどして、悟司はようやく部屋の中へと入ることを許可された。
まだ大家さんの方には確認が取れていないはずなのに、あまりにも弱々しい悟司の声を聞いた彼女は「急いで片付ける」といってワンルームに戻っていった。
気を張っているのがバカらしくなったのだろうか。そんなことを考えながら悟司は、郵便受けを離れるとがちがちと歯を鳴らしながら両手を組んで鍵が開くのを待った。
やがてがちゃりと鍵が外れる音と、金属がこすれる音がした。どうやら、ご丁寧にチェーンまでかけていたようである。
「……寒かったでしょ。とりあえず中へ入って良し」
そっぽ向いたまま扉を開けて、彼女はそう言った。
悟司は震える身体で部屋の中に入ると、段ボールは変わらず未開封のものばかりだったが、ちゃんと全て部屋の隅へと追いやられており、さっきまで床に敷きっぱなしだった布団も一応きちんと畳まれていた。
「そういや、あんたの名字」
「え?」
さきほど派手に落としてしまったギターケースの中身を確認しようと手を伸ばしたところで、彼女は突然そう切り出した。
「名字だって名字。『樫枝』っていうんだ?」
「え、ええ。そ、そうです……」
「実はあたしも『樫枝』さ」
「へ?」
悟司は、何を言ってるのかよく理解ができずに固まる。
「だからっ――あたしも樫枝なの。樫枝千佐都。さっき大声で名前言ってたでしょ? 思わず耳を疑ったわさ」
彼女――樫枝千佐都はこちらの顔を見ることなく、ぶっきらぼうにそう言い放って、畳んだ布団の上にどっかりと腰を下ろした。
なぜだろう、と悟司は思った。
彼女はかなり背丈が小さいはずなのに、そのふてぶてしい仕草や態度が、背丈の差を軽々と埋めてしまっている気がした。
かといって不快さを感じるほど、図々しいわけでも偉そうな感じでもない。一瞬「姉御肌」といったもののようにも感じたが、それもまたちょっと違う気がする。
なんと形容すればいいのやら。
布団の上にどっしりとあぐらをかいて不機嫌そうに頬杖をつく彼女の姿は、下着姿だった時よりもずっと勇ましい印象を与えていた。
彼女をまじまじと見つめながら、悟司はそんなことを思っていた。
すると、突然千佐都の方からぎろりと睨み返されてしまった。
反射的にアンドロイドのごとく水平に首ごと目を逸らす。
「で?」
「……は?」
千佐都は、疑問語を疑問語で返す悟司を睨んだまま、前髪を掻き上げて言った。
「は? じゃなくて。下の名前の方よ。なんだっけ?」
「あ。ああ! え、えっと……悟司です」
なぜか敬語が出てしまう。
なぜだ。ちっこいのに。
悟司は唇を噛みながら、悔しそうにうつむく。
「そう。それで悟司くんはこう主張するわけね? 『ここは俺の部屋だ。だから千佐都さんはおとなしくここを出てけ』と?」
「いや、俺は『とりあえず大家さんに確認を取りませんかー』と言いたかったのですけども……」
「嘘つけ!!」
「嘘じゃないっすよっ!!」
まるで漫才のようなレスポンスの早さで悟司は身を乗り出しながらそう言うと、千佐都は間髪入れずに尋ねた。
「……あんた、歳は?」
思わず身を乗り出してしまった体勢を、再び床に下ろして悟司は答える。
「十八ですけど」
「あたしは十九」
「嘘つけ!!」
「嘘じゃないしっ!!」
今度は千佐都の方が腰を浮かせた。
「だからっ! 一応あたしはあんたよりお姉さんなわけ。お姉さん。わかる?」
そう言って、千佐都は生意気そうに自分の胸に手を置いてみせる。
どう見ても小学校高学年の女子ほどの背丈でしかないのに、態度だけはまさしく年相応だった。
「……さいですか」
不満タラタラの顔で悟司は渋々頷く。
「そんなわけで今からあたしが大家さんに確認取ります。オーケー?」
「……オーケー」
「で、もしも二人のうち、どちらかしか住めないという話になったらあたしがここに住む。オーケー?」
「それはノーです」
「なぜだ」
「だ、だって……ここ。お、俺の部屋だし」
「それはあたしだって、同じだっての!」
「でででも…………俺の部屋かもしれない、し……」
「あんた、おどおどしてる割にはなかなかに頑固ね……」
左の口角をぴくぴく引き攣らせながら、千佐都は目を逸らしっぱなしの悟司の顔をじっと見つめる。
「そ、それとですね……」
視線を逸らしたまま、悟司は彼女の背にある木製の扉を見やった。
「さ、さっきからずっと気になってたんです、けど。そ、その“扉”はなんなんですか?」
悟司はずっとこの部屋を、十畳のワンルームだと思っていた。
あらかじめ渡されていた部屋の見取り図にも、玄関から「台所」「浴室」「トイレ」を通る一本の廊下があって、奥のガラス戸を開けたらそこには現在二人がいるワンルームの一室しか存在しない図になっていたのだ。
ところが実際には、ワンルームであるはずのこの部屋の奥に、不思議な木製扉があるのだ。さきほどは、千佐都がここで寝ていたことですっかり気を取られていたので全く気がつかなかった。
一体、あの扉はなんなのだ?
悟司は千佐都に向かって扉を指した。
「あれ。あんなの契約書にあった見取り図にはなかったんだけど……」
「ああ、あれ」
千佐都は木製扉に近づくと、そのノブをつかんでゆっくりと回した。
きぃーっと音が鳴って開いた扉の先は、木の板が打ち付けてあるだけだった。
「あたしも、この扉のことなんて聞いてなかったもんでさ。なんなんだろうと思ってこの部屋にやってきた時に開けてみたんだけど、ご覧の通り。中は木の板が塞いでて通れないのよ」
さらに千佐都はノブをつかんだまま、反対側のノブを悟司に見せる。
「しかも、鍵はなぜか反対側からかけられる仕様。なんでこっち側からじゃないんだっていう」
そんなことを話していると、突然どこからか音楽が流れ出した。
正座をしたままびくりと悟司が肩を震わせた瞬間、
「あ、電話だ」
そう言って千佐都が、畳んだ布団の上に置きっぱなしだった携帯電話を手に取った。
「もしもし――あ、大家さん」
その言葉に悟司も耳を傾ける。
「今ね、部屋に同じ名字の変な男がいるんですけど。――そう。そう。悟司ってヤツです。裸を見られました。変態です」
……こいつ。
ぎりぎりと歯を食いしばらせながら、千佐都を睨みつけていると、
「え? なに? 手違い? え? えー」
千佐都の顔がだんだん不快な表情へとゆがんでいく。
一体、どんな話をしているのだ。
悟司が黙って千佐都の電話が終わるのを待っていると、
「……はい。わかりました。じゃあ勢いよくやっちゃっていいんですね? どかーんと」
いきなり飛び出たその発言に、悟司は目を丸くさせた。
ちょっと待て。どかーんとって何をだ。
なんでそんな穏やかじゃない擬音語が飛び出てくる?
どきどきしながらそんなことを考えていると、千佐都はぱたんと携帯を閉じてこちらを振り返った。
「さて、と――」
悟司は嫌な予感がした。
一体、なにをするつもりだ。
そんなことを思っている間にすでに千佐都は両足の屈伸運動を始めている。
まさか……俺を蹴るつもりなのか?
大家さんの了承も得て?
なんで? なぜ?
「よーし、大家さんの了承も得たし、いっちょやってみますかなー」
なぜかうれしそうな顔をしながら、千佐都がすぅっと深呼吸を始める。
なにこれ? こわい。
「おりゃあああああああああ!」
千佐都が急に声を大きく張り上げたので、悟司は慌てふためきながら腕で顔を覆った。
「うわああああああ! 暴力反対! 暴力――」
ばきぃっ!! っという鈍い音。
身体に痛みは、ない。
「何してんの? あんた」
千佐都の声で悟司はおそるおそる顔をあげた。すると、さきほどまで扉の開いたすぐ先を埋め尽くしていた木の板――
それが、千佐都の蹴りで見事にぶっ壊れていた。
「数十分したら、大家さん来るって。それよりも、ちょっとこっち来てみて」
千佐都に言われて悟司も扉の前まで近づくと、そのまま壊れた木の板で覆われていた奥の景色をのぞき込んでみる。
「ねぇ、悟司……これってさ」
千佐都は眉間をしかめながら呟いた。
間違いなく嫌な予感がする、といった表情である。
それは当然の反応といえるかもしれない。実際、悟司も同じような顔をしていた。
扉の向こうは部屋になっていた。
それも今二人がいる部屋と、間取りのすべてが対になっていること以外、全く同じ。唯一の違いと言えば、廊下に通じるガラス戸の代わりに、玄関と作りが全く同じ扉が一つあるだけである。
「冗談よね……これ?」
「お、俺もそう願いたい、です……」
これから大家さんが来るまでの間、二人は嫌な予感がどうしても拭い去れなかった。
※ ※ ※
それから三十分ほどして一○一号室のチャイムが鳴り、悟司と千佐都の二人は玄関の前まで行って扉を開けた。
来訪者は『ニングルハイツ』の大家さんである猪俣宗一郎さん。それと、その息子である隆史さんだった。
「ごめんな。なんかとんでもない話になっちゃっているようで」
最初にそう切り出したのは、隆史さんだった。
「とりあえず立ち話もなんだから二人とも僕の車に乗ってくれ。近くにファミレスがあるんだ。夕飯の意味合いも兼ねて僕が出すから一緒に来てくれないか」
隆史さんの提案に二人は頷くと、そのまま車に乗せられて近くのファミレスまで行くことになった。
特にお腹が空いているわけでもなかったので、悟司はドリンクバーとサンドイッチを頼む。千佐都もさきほどまで、ぐっすり眠っていたせいかあまり食欲がわかなかったようで、ドリンクバーのみ。
「えーっと、どこから話せばいいのかな」
二人がドリンクバーから戻ってくると、隆史さんは顔の前で手を組んで難しそうな顔をし
ていた。悟司はちらりと千佐都の方をみたが、千佐都はコーラをすすって黙ったままだ。
「一言で言うと、僕らのミスだ。本当に申し訳ない」
そう言って隆史さんは二人に頭を下げた。
「あ、あの。一体何が何だがわかんないんです……けど」
悟司がそう言うと、千佐都が隆史さんの代わりに答えた。
「二人とも、ちゃんとあの部屋を契約してるのよ」
「え。えっと、それはつまり?」
「つまり、あの部屋の契約書は二枚用意されてて、互いに別々で契約してるわけ」
「だ。だから、それはどうして」
一向に分からない様子の悟司に向かって、千佐都は目の前の席の人物に向かって顎をしゃくった。千佐都の目の前には、先ほどからずっと最初に渡されたおしぼりで何度も顔を拭いている大家さん――つまり宗一郎さんがいた。
一体、大家さんがどうしたというのだろうかと思っていると、
「めでたいのう」
と、宗一郎さんが突然おしぼりから顔を離して、意味不明なことを言い出した。
「……は?」
「新婚さんじゃ、新婚さんはめでたいのう」
そう言うなり宗一郎さんは、なにを考えてるのか突然おしぼりを四つ折りにたたむと、それを銭湯で使うタオルよろしく頭の上に載せだして、鼻歌を口ずさみ始めた。
「えっと……これはどういう……?」
目を白黒させながら、再度千佐都の方へ振り返ると、
「あたしたちを夫婦か何かだと勘違いしてんのよ」
「な、なななんでそんなこと?」
「ボケているんだ」
悟司の問いに答えたのは隆史さんだった。
「ボケてるんだよ、父さんは」
「ええええ」
隆史さんは頭を抱えながら、しかめ面で話し始めた。
「二人の親御さんからアパート契約の電話があったとき、ちょうど僕は別の部屋の契約者さんと会っていてね。電話を取ったのが父さんなんだよ。一応あのアパートの名義は父さんのままになっているが、実際の実務は七年以上前から僕がやっている」
水を少し飲んでから隆史さんは続ける。
「さらに言えば、君たちが住む予定の一○一号室は元々僕の両親、つまりこの父さんと母さんが大家が住んでいた部屋だ。だから上の階の部屋よりも間取りが広い。部屋の奥の扉に木の板が打ち付けられていただろう?」
悟司と千佐都は頷く。
「既に確認したと思うが、あの板を取り外せばもう一個同じ間取りで作られた部屋がある。同じ間取りといってもちょっと違うところもあるんだが、まぁそれはこの際どうでもいい。問題は、君たち二人があの部屋にブッキングしてしまったということだ」
隆史さんは、大学生協で紹介されているアパート物件の紙を出した。
「とりあえず片っ端から電話をかけてみた。うちのアパートとなるべく似たような条件でアパートがあるかどうか。一応この辺の大家は、ほとんどが学生をメインに据えたアパートを経営してるのがほとんどだ。だからそれとは別に知り合いの方にも当たってみた」
「ど、どうだったんですか?」
「……全滅だ。ちょうどその時に耳にしたんけど、どうやら未開大の入学式は明後日らしいね」
そうなのである。悟司はぎりぎりまで地元を離れなかったのだ。
そもそも東京に行く気満々だった人間が北海道の片田舎の大学に行くことになったわけで、そんな心境の中ノリ気で荷物の支度なんてできるわけがない。
結果ずるずると荷物の整理を長引かせてしまい着いたのが今日、つまり入学式の二日前ということになったのだった。
「あたしも昨日の夜に着いたばかりだしね」
「そ、そうなんですか?」
「言ってなかったっけ? で、荷物の整理とかしてたら徹夜になっちゃって」
その割にはあまり片付いていなかったような気がしないでもない。光の速さのごとく反射的にそう思ったが、きっとよけいな口は挟まない方がよい。
悟司は黙してドリンクバーで入れてきたカルピスを、むっつりしながらすする。
「そんなわけで発覚したのが遅すぎた。さっきも言ったが、もともとはあの部屋は僕の両親である大家夫婦が昔住んでいた部屋だ。あの部屋は緊急で人がやってきた時に貸す以外は人を入れる予定なんてなくて、そのせいで僕も今の今まで気がつかなかったんだ。全く、とんでもないことしてくれたよ、ウチのじいさんは!」
そう言いながら、隆史さんは隣に座っている大家さん――宗一郎さんをじろりと睨んだ。当の宗一郎さんは、素知らぬ顔でグラスの水をおいしそうにごくごく飲んでいた。そのまま最後の一滴まで飲み干そうと頭を傾けると、頭部にセットインされていたおしぼりが後ろの席の方へずるりと落ちる。幸い、後ろのファミリー席には誰もいなかった。
黙ってそれを拾いあげる隆史さんを見て、悟司は思わずいたたまれない気持ちになる。
「本当に申し訳ない話だが、一応大学から少し距離は離れるけれど、安い物件を見つけた。そこに案内することもできるが、どうだろう?」
未開大の学生は地方からやってきた人間、それにもともと道内に住んでいる人間でもそのほとんどがこの大学近くのアパートで一人暮らしをしている。それもこれも、田舎なだけあって交通の便があまり良くないのだ。
駅から大学までの距離も歩いて一時間はかかるところで、一応大学の送迎バスも出るには出ているのだが、わざわざ電車で別の町からやってくる生徒など極端に少ないため、その数も午前と午後のわずか二便しかでていない。
ましてや大学生ともなると、車を持っている生徒もこのような田舎町では少なくない。なので近隣の市や町に住んでいる人間ならば、わざわざ電車でやって来るよりも車通学の人間の方がずっと都合も良いのだろう。
そんな立地条件の大学へ向かうことになる悟司に向かって隆史さんが紹介したのは、よりにもよって大学がある場所から駅をはさんで反対側にある物件であった。免許も車も持っていない悟司は、地図を眺めながら唖然として口を開いた。
「これ、一体大学から徒歩で何分かかるんですか……?」
「二時間だな。自転車ならもっと早い」
二時間?
さらりとそう言い切った隆史さんの言葉に悟司は驚きを隠せなかった。
二時間なんて冗談じゃない。朝一発目の講義に向かうためには一体何時に起きればいいのだ? 仮に九時から始まるとして、せめてその十五分前には大学に到着したいから六時四十五分には家を出なければいけない計算になる。
てことは起きるのは――六時?
悟司は考えることをやめ、全てを丸投げするつもりで千佐都へ笑顔を向けた。
「いい運動になりますよ」
「ふざけないで」
その眼力に思わず背筋が凍る。
「第一、あたしの荷物はもう届いちゃってるの。あんたの方はまだ届いてないんだから明らかにそっちの方がフットワークが軽いはずでしょ」
「うっ」
痛いところを突かれてしまった。
事実、悟司の荷物は明日以降に順次届けられることになっていた。今からでも引っ越し業者の人に電話して送り先の住所の変更を願い出れば、まぁ無理なこともない。
しかし悟司が仮にこの大学の反対側のアパートに移動するとなると、事実上別の懸念材料が生まれるきっかけとなる可能性があるのだ。
それは前述した母方の妹の存在にある。
この叔母さんの家は隣町にあるのだが、大学が実際に位置する場所はこの隣町のやや境目に位置する。
つまり、隆史さんが言う駅を挟んだ反対のアパートから通うよりもこの叔母さんの家から大学に通う方がともすれば近いのではないだろうか、といったことである。
もしそういうことになれば、悟司の両親は当然家賃のかからない叔母さんの家を勧めることになる。この話は既にアパート契約の際に何度も言われてきたことだ。一人暮らしをしたかった悟司はどうにかしてこの話を納めてきたというのに、このような事態を聞きつければ再度叔母さんの家に同居する話が浮上するのは必至である。
それだけはどうにかして避けたい。
「お、俺は離れない……っ」
悟司はうめき声を漏らす様に主張した。
「あんたねぇ……」
「離れないっ」
千佐都は呆れて再びコーラをすすりはじめた。まさに言葉も出ないといった様子で。
「そうなると、もうあとは申し訳ないことに別の近くのアパートが空かない限りはしばらく二人同居ということになってしまうわけだが――」
「嫌ですっ! どうしてこの男とあたしが一緒に住まなきゃいけないんですかっ!」
隆史さんの言葉に、当然のごとく千佐都は反発する。
「そうは言われても……」
隆史さんはただひたすら頭を下げるばかりだ。一方の千佐都と悟司は、互いの主張を一行に譲る気配がない。
話し合いはもはや、完全に平行線上にあった。
「最悪、一○一号室には手前と奥の二部屋あるんだ。木の板を外して奥の部屋の作りは見たんだろ?」
隆史さんは苦し紛れに、二つの部屋の見取り図を取り出した。
「あの奥の部屋は玄関側の部屋、君たちがさっきまでいた手前の部屋に向かって鍵がかけられる仕組みになっている。それに手前の部屋にあった廊下に続くためのガラス戸。あれが奥の部屋の場合は、そのまま外に繋がる非常口になっているんだ。だから奥の部屋に住む人間はわざわざ手前の部屋を経由しなくても外に出ることができる。造り自体は決して二人で住めないこともないんだが――」
「台所とお風呂とトイレは共同じゃないですかっ」
「そこなんだよ……問題は」
隆史さんが言葉に詰まる。
そんな隆史さんを見ながら、千佐都は悟司に向かって人差し指を突きつけながら立ち上がった。
「つまり、一緒に住むとなったらこの人と! 悟司と一緒の風呂に入って、トイレを使わなきゃいけないんですよね? そんなの……」
「お……俺は別にかまわないです」
「そりゃあんたは構わないでしょーよ! あたしはレディでございますわよっ!?」
千佐都はテーブルに突っ伏して喚いた。
「ああ、もうなんでこんなことになったの!? あたし何か悪いことした? せっかく華の大学生になったのにど初っぱなからこんな災厄が訪れるなんて!」
「と、とりあえず落ち着こうか千佐都ちゃん」
隆史さんがなだめるも、千佐都はただただ嘆くばかりだった。
「しかもさ、もうちょっとしっかりした男なら、まだ検討のしがいもあるけど、なんかすっごく変なヤツだし! やたら頑固だしっ!」
「へ、変なヤツで……悪かったです、ね……」
悟司はカルピスから口を離してむすっと顔をしかめた。
「お、俺だってホントはい、嫌なんです。なんだってこんな……こんなうるさい人と」
「うるさい人ぉ? ちょっとあんたねぇ!」
「お、落ち着いて二人とも」
「隆史さんは黙っててください!」
千佐都はコーラを握りしめながら、憎らしげに悟司を見た。
「そもそもあたしが寝てるってのにじっと身を潜めて声すらかけないなんてどうかしてるっての。しかも今みたいにずっとおどおどして挙動不審、そんなのどう見たって変態だって思われても仕方ないでしょうが!」
「そ、それはだって……ど、どうせ起こしても、きっと今みたいにバカっぽく怒鳴っただろうし……」
「なんですとぉ!?」
千佐都が悟司の首を絞める。
「さっきから聞いてりゃ、あんたはいちいち一言多いのよ!」
「ぐ、ぐえぇ……」
「ち、千佐都ちゃん。ストップストップ!」
隆史さんが仲裁に入る中、水を飲み干した大家の宗一郎さんは朗らかな視線を二人に向けていた。
「ええのう。若い夫婦は。ええのう」
※ ※ ※
結局、別のアパートが空くまで二人は擬似的な同居といった形で落ち着くことになった。
どこかが空き次第、すぐに二人には連絡をすると隆史さんは約束してくれた。それに、どちらかが引っ越しをする際はその業者の代金も隆史さんが全額請け負ってくれるとのこと。
とりあえずはしばらく二人とも我慢するという形で話は落ち着き、悟司と千佐都は再びニングルハイツへと戻ってきた。
どちらがどちらの部屋に住むか、という話は特に話し合いをするまでもなく自動的に決定した。玄関から入って手前の部屋が悟司、奥が千佐都である。
奥の部屋は手前の部屋に向かってロックがかけられることが決定打となった。風呂とトイレを使用する際は、千佐都は一度悟司の部屋を経由するか、非常口側から外へと出て玄関から入っていく方法のどちらかになる。
プライベートという点でいうと、悟司の方は全くといってないに等しい状態だが、悟司も「叔母さんの家に行くよりはまし」という考えで部屋の割り振りについて、この時点では特に文句も言わなかった。
「非常口の方の鍵はこっちね。つい先日、非常口の方は物置にする予定で交換したばかりだったんだけど」
そういって隆史さんは鍵を千佐都に手渡すと、車に乗り込んだ。
「家賃も上の階の部屋より割安にしよう。二人で割れば相当安いと思う。光熱費はどうにもならないが、そこはどうにか二人で話し合ってくれ。なにかあったらすぐに飛んで来る。悪いがしばらくは二人で仲良く頼むよ」
小粒の雪が舞う中、隆史さんと大家さんを乗せた車はゆっくりとアパートを離れていった。それを見送ってから、二人一緒に一○一号室の中へと入る。
「さて、あたしはとりあえず荷物をあっちの部屋に入れるわ」
「が……がんばってください」
「……手伝ってくれないのね」
千佐都は引きつった笑いで悟司を見てから、無言で部屋の中の荷物をまとめ始めた。
「ったく、なんでこんなやつと……」
ぶつぶつ言いながら千佐都は畳んだ布団をもちあげると、ちょうど足下にあった悟司のギターケースに目が止まった。
「あ。そ、それは――」
悟司が口を挟む前に千佐都がまじまじとギターケースを眺めた。
「へー。悟司ってギター弾けるんだ?」
その口ぶりは興味津々と言った様子だ。
「へー。ねぇもしかしてあんたってバンドマン?」
ドキッとして悟司は肩を一瞬だけ震わせたが、無言でこくりと頷くと、
「めちゃくちゃ意外。舞台の上なんかに立ったら逃げ出しそうな感じなのに」
と、思いの外ひどいコメントをいただいた。悟司はショックながらもそのままギターケースを自分の方へと引っ張る。
「よ、余計なお世話です! いいから、は、早く移動してください」
「あーはいはい、わかりましたよ。でも、あとでシャワー使わせてもらうかんねっ」
千佐都はムッとしながら、奥の部屋へ向かうドアに自らの布団をぎゅうぎゅうと押し込んだ。
「ばーか!」
捨て台詞を残して、千佐都はドアを勢いよく閉めた。
ようやく落ち着いた空間が確保されたと悟司はほっとしながら床の上に転がった。
かなり問題はあるが、とにもかくにもここが自分の城だ。今日からここでの生活が始まる。悟司はごろごろと床を転がって、ガスヒーターの前まで行くとむくりと起き上がってボタンを押した。
青白い炎がボッと点いて暖かい風が少しずつ流れてくる。
大学にはそれほど愉快な思いを馳せてはいないが、一人という自由な環境にはわくわくが止まらない。
かといって、別にこれといったことをするわけではない。好きな時間に起きて好きな時間に好きなだけテレビを見て、ネットをして、ご飯を食べて、寝るのだ。
ああ、なんと素晴らしき一人暮らし。過保護な母親もここにはいない。もしかしたらたまに叔母さんがやってくるかもしれないが、そこはご愛敬。スマイルと適度な相づちで乗り越えていけば夢のようなごろ寝生活が待っているのだ。
「――と、その前に」
悟司は夢想にふけるのをやめ、ギターケースから入学案内のパンフレットを取り出した。
入学式は明後日だが、その前にオリエンテーションがある。
つまり明日。時間は朝の九時から。
昼前には終わるそうだが、今日着いたばかりの悟司は学校への行き方を地図上でしか見ていないので、正しく行けるかどうかが少々不安でもあった。
もちろん試験の時に行ったことはあるのだが、あれは叔母さんの家から直接車で送ってもらったのでわかるわけがない。
千佐都に聞いてみようか?
悟司の脳裏に一瞬そんな言葉が駆け巡った。が、すぐにその言葉は霧散される。
なんであんなうるさい暴力バカ女の助けを借りなきゃならないのだ。そもそもあいつだって昨日の夜にやってきたばかりで、ろくに外を回ってもいないだろう。
うるさい女は嫌いだ。悟司は既に第一印象で千佐都に最低評価を下していた。
すると、突然ノックの音。
「入っていーい? さっそくシャワー浴びたいんだけどー」
人を容姿とその場の状況だけで変態呼ばわりするやつのくせに、一応の常識はあるみたいだな。
悟司は心の中でそう思った。けど、言葉には出さない。できない。
なぜなら先ほどの首締めが恐ろしかったから。ちっこいくせにやたらと凶暴で気性が荒い、それがこの女。奇しくも同じ名字、樫枝千佐都。
「きこえてんのー?」
ノックの音が強くなった。ほら、もう恐ろしい。ホラー映画みたいだ。
このまま黙ってたらそのうち木の板で出来た壁を蹴飛ばした時のようにドアを蹴り壊すんじゃないか。そう感じた悟司は慌ててドアを開けた。
「おっそい」
既に不満顔の千佐都の腕には、バス用品一式が抱えられていた。
「まったく、不便ったらないわ。あ、ボディタオルは当然別だかんね。わかってると思うけど」
遠慮なしにずかずかと悟司の部屋を横断して、千佐都は廊下へと続くガラス戸のノブを引いた。
……やっぱり、こんな状況じゃ夢のごろ寝生活とはほど遠い。もしかしてまだこっちに到着してから一人の時間ってほとんど取っていないんじゃないだろうか?
そんなことを思っていると、
「そういや明日のオリエンテーションだけど、学校まで一緒に来てね」
「へ?」
思わず顔をあげて千佐都の顔を見つめる。
「『へ?』じゃなくて。あたし、試験の時に一回行ったきりでこのアパートからの行き方をあんまり理解してないからさ」
あまりにも先ほど自分が考えていた予想通りで苦笑が出てしまう。
「べ、別にいいですけど。でも、お、俺も地図でしか見てないから自信ない、ですよ?」
「自信なくてもいいの。仮に二人で迷って遅刻しても、一人で遅刻するより二人で遅刻した方が怒られる力が分散されるでしょ?」
なんて思考回路だ。開いた口が塞がらないとはまさにこの事。
「そんなわけだからよろしく。あ、風呂覗いたら殺すからね」
「あ、あのね……」
「冗談。でも許さないから」
その冗談とも取れない片手をわきわきさせてから、千佐都はガラス戸を閉めて浴室へと向かっていった。
悟司は旅の疲れもあってそのまま床の上でごろんと横になると、気付いた時には既に眠りの中へと落ちてしまっていた。
翌朝。
「――おーい、悟司」
「ふあ?」
羽織っていたジャケットを取り上げられて、縮こまらせていた身体をさらに縮ませる。
「……さ、寒っっ」
ガスヒーターはつけっぱなしだったはずなのに、いつの間にか止まっていた。
「起きろー。もう、八時半なのにいつまで寝てんの。もしかして昨夜あたしがお風呂から出たときからそのまま?」
千佐都は悟司のジャケットを手に握りながら、仁王立ちで見下ろしていた。
「布団がないなら、素直に言ってくれれば毛布の一枚くらい貸したのに。昨日、ガスヒーターつけっぱなしだったから消しといて正解だったわ」
「ううん……」
寝ぼけた目をこすりながら、悟司はジャケットを受け取った。学校まではそんなに遠くなかったと思うが、急いで出ないと間に合わないのも確かだ。
「ほら、行くよ。支度なんてしてられないんじゃない? そのまま行くの?」
悟司は一度だけ首をかくんと下げて返事をした。
そのまま千佐都に急かされるようにアパートの外へと出た。ネームタグの入った鍵を使ってしっかりと玄関をロックすると、「まだ雪が残ってるよー」という千佐都の声につられるように足を動かした。
「ねぇ、昨日隆史さんに見せてもらった契約書で知ったけど、あんたの地元って名古屋なんだってね」
「え? あ、う、うん」
だだっぴろいアスファルトの一本道の端には、見たこともない量の雪の山がそびえ立ち、いまだ冬の気配を漂わせる朝の光の中をうつむき加減で歩く。そんな男の数歩前を行く、白いファーのコートに身を包んだチビッコ女が振り返りながらそう言った。
「実はさ、あたしも名古屋なんだよね」
「……は?」
一発で目が覚めるほどの衝撃な新事実。
「しかも、あんたが中村区出身であたしは中川区。なにこの偶然。名字も一緒、地元も一緒。学校も一緒とか。あたし、今まで知り合いで同じ名字の人間なんか会ったことないんだけど」
それは悟司も同意だ。悟司も今まで樫枝、という名字の人間に小中高と出会ったことなんてなかった。
一体なんの因果なのか。運命的な何かを信じる方ではないけれど、なんらかの力が及んでいるような気もしないでもない。それも、ろくでもない方の。
「まるで性格は正反対だけどね」
それも同意。そうやって悟司が何度も頷いて話を聞いてることを確認したのか、千佐都は再び前を見た。
「あー、ちらほらいるわ。ほら見て」
だだっ広い道から右に折れるとさらにだだっ広い道が悟司の目の前に現れた。現れたというよりも、道なりの建物は少しも密集していないので、曲がる前から既に曲がる道は見えていたわけだが。
確かにその道にはそれなりの数の若人がわらわらと歩いていた。
「た、確か、地図によるとここから、ず、ずっとまっすぐ歩いて丁字路に当たれば、あ、あとはすぐ目の前は大学、だって」
「てか見えてるわね。既に」
そもそも高い建物が周りに何もないこの田舎町で、道の奥にどんと建っている建物があれば、いくら方向音痴でもわかるというもの。
どうやら二人で向かわなくてもすぐにたどり着けたようであった。
「こ、こんなにわかりやすいとは」
「わざわざ悟司と一緒に来ることもなかったなぁ」
千佐都は再度くるりと悟司に向き直った。
「どうする? このまま一緒に中に入ったら妙な誤解されそうだけど」
少しも嬉しくなさそうに、千佐都は抑揚なく悟司へ尋ねた。
それは昨夜、悟司も思っていたことだ。
しかし今の考え方は昨日とは少し違う。
「で、でもよく考えたら、高校が一緒だった人同士だと思われなくもないか、も」
悟司の言葉に、「言われてみれば確かに」と千佐都は頷いてみせる。
悟司はこう考えていた。
そもそも一緒に暮らしているという意識が、外でやたら距離を置きたがる行動を生んでいる気がするんじゃないか、と。それは今、自分の目の前を歩く千佐都にもいえる。千佐都は今、悟司から少しでも距離を離れて歩くために数歩先を歩いていた。
一見それは他人同士の体をなしているように見えるかもしれないが、端から見れば完全にドラクエでいうパーティ状態のそれである。一歩間違えれば、二人は一緒に学校行く待ち合わせをしたカップル。今の状態は待ち合わせに遅刻した彼氏に、お灸を据える感じで拗ねる彼女、とその後ろを申し訳なく歩く彼氏、という構図に見えなくもない。
……まぁ、これはさすがに考えすぎか。
しかし少なくとも現状のままで「僕たちは他人です」などと言い切るのは不可能だろうと悟司は判断した。
ならばどうするのか。
作戦その一。
いっそそのまま共に横並びに歩き、フレンドリーさをアピール。まるで大学以前からの旧知の仲のように周りに思わせる。
だが、悟司はそもそも千佐都とフレンドリーに接する気なんかない。それになにより悟司自身は極度の対人コミュ二ケーション下手、いわゆるコミュ障ってやつである。既に何度も会話を交わしているはずの千佐都ですら、いまだ言葉がつっかえつっかえでしか出てこない。これじゃやろうとしてもうまくいく気が全くしない。全てぎこちないやり取りで終了してしまいそうだ。
作戦その二。
いっそこのまま完全に距離を置いて、スルースキルをアピール。まるで見たことも聞いたこともない存在だと周りに思わせる。
だがこの作戦は部屋の内と外とで態度を明確に使い分ける必要があり、かつ大学内だけでなくそこらで買い物一つするだけでも一緒にいるところを見られるわけにはいかないという無理ゲーっぷり。いつまで一緒に住むのかわからない現状、家では会話してるくせに外では全く見たこともない存在として扱うとなると、しばらくの間はちょっとした演技力も必要になってきそうだ。
この点は性格からして悟司よりもむしろ千佐都の方が大変そうである。
これらのことを悟司は千佐都に相談すると、
「二は嫌」
言うと思った。あまりにも予想通りな返答。
「あたし、そんな器用じゃないもん。言いたいことずばずば言う方だし」
「……見りゃわ、わかるよ」
「なんか言った?」
「いえ別に」
「とにかくあたしは嫌。学校では悟司を無視するなんて出来ないし、したくもない」
「……そ、それはべ、別に好意的な意味で言ってるわけじゃない、よね?」
「好意的ってどういうこと? たとえば朝、トイレの紙がなくなって悟司の方が先に大学終わったりしたときは『帰りにトイレットペーパーよろしく!』とか言いたいわけ」
それはただのパシリじゃねぇかと内心毒づく。
文字通りに少しも好意的な意味ではなかった。別に好意的に接されたいわけでもなかったが、少しだけしゅんとして悟司は言った。
「じゃ、じゃあ作戦一でいいよ。ただ、さ。俺あんまりフレンドリーに出来ないよ?」
「なんでだ」
「ふ、フレンドリーに思ってないから。ま、全く」
思いっきり首を絞められた。
「そんなのあたしだって、あたしだって同じだけど……なんかあんたにそうあらためて口に出されると、ムカつくー!」
「り、理不尽な――ぐえ」
そんな二人のやり取りはばっちり道行く若人たちの注目の的になっていた。
※ ※ ※
オリエンテーションは滞りなく終了し、悟司は校舎から出るとそのまま外のベンチに腰を下ろした。
地方Fラン大の僻地でもあるこの未開大でも、それなりに生徒数はあった。それでもおそらく札幌あたりの大きな街の大学なんかとは比較にならないレベルなのだが。
驚いたのは千佐都は名字、出身、アパートが同じだけでなく学部まで同じだったことだ。
オリエンテーションの際の席は自由だったので、悟司は自然と男連中が固まっている方に、千佐都は女の子連中が固まってる方に移動して席に着いた。考えてみれば作戦一とか二とか考えるまでもなく、普通にしていれば周りの人間はそれほど他人のことを意識しない。早々にその結論に達していれば、あんな往来で注目を浴びることもなかったのに。
千佐都の方ももう大学の外に出ているはずだが姿が見えなかった。まぁ帰りはさすがに一人で帰れるだろう。
今の悟司はとにかく一人になりたかった。昨日も思ったことだが、この町にきてからまだ一度も一人の時間を持っていない気がする。
のんびりしたいのんびりしたい人目も気にせずだらだらと出来る場所が欲しい欲しい欲しいほしいほしいほしいほしほしほし…………。
しばらくこうしてベンチに座っていればそのうち新入生たちもいなくなって――
「すみません、新入生の方ですか?」
その声にぎょっとして顔をあげると、色鮮やかなビラが眼前に広げられていた。
「サークルとか、決まってません?」
見ると、ビラには女の子らしい丸っこい字で『ソフトテニス部』と書いてあった。ビラから目を離すと、そこにはテニスウェアの女の子がひとり、ふたり、さんに……。
どれも皆、非常に肉感的なわがままボディで思わず「お前ホントにテニスしてんのか」と言いたくなってしまう。
明らかにサークル内で選抜された部隊であることに間違いない。そう思ってる間にも、悟司は短いスカートからすらりと伸びたその白く柔らかそうな太ももに釘付けになっていた。
「どうですか? 初心者でも大歓迎なんですどー」
甘ったるい声。嗚呼、なんて魔性の響きだろう。
「し、ししし失礼します!」
簡単な入学式のスケジュール表などの配布物が入った大学お手製のビニールバッグをひっつかんでそそくさとその場を後にする。心臓がばくばくと激しく鼓動していた。
どこぞのチビ女と違って、彼女らはあまりにも刺激が強い。
「くそう。どうして一人になれないんだ。一人になりたいのに!」
一人の時間が大好きな悟司にはもう限界だった。
学校の外へ飛び出すと、そのままニングルハイツへ向かう丁字路を無視して突き進んでいく。大学の隣はすぐ小学校があり、そこを通り過ぎるとなだらかな坂道になっていた。
「北海道だろ? 田舎町なんだろ? 人も少ないはずなのにどうしてこんなに他人と接触する機会が多いんだよ……っ!」
ぶつぶつと独り言を言いながら坂を下って、信号のある交差点に立つ。信号は赤なので、立ち止まることなくそのまま左へ。
左に曲がるとさらに下る陸橋になっており、その裾から公園へと下る入り口を発見した。公園なら少なくとも、大学や家に帰るより人に接触する機会も減るはずだ。悟司は公園の入り口に入り、そのまま斜面を下ろうとすると、
「ぐぅ……っ」
雪である。公園にはまだ溶けきってない雪が多く残っており、まるで壁のように悟司の前に立ちはだかっていた。
「俺を一人にさせてくれよ……」
がしがしと雪を蹴って、とうとうその場に崩れ落ちる。少しでいいのだ。いくらなんでもプライベートスペースなさすぎだろ。
強い風が悟司の身体に吹きつけた。寒い。もう四月になるというのにこの寒さはなんなんだろう。まるで今の自分の気持ちとシンクロするような冷えを、悟司はその身に感じた。
「帰ろう……」
背に腹変えられぬ心持ちで同居をOKし、自分が手前の部屋に住むことで折り合いをつけたはずなのに、たった一晩で既に悟司は限界だった。
そのままとぼとぼと来た道を引き返し、ニングルハイツへと戻った。一○一号室の鍵を開けて中に入ると、部屋の中は家を出たままの状態で悟司を待っていた。
「おかえり、さっきあんたの荷物きてたから置いといたけど」
部屋の床に座り込んだと同時に千佐都がドアから出てきた。部屋を見回すと、確かに自分の荷物らしき段ボールが無造作に置かれていた。
むっとしながら悟司は千佐都の方を見ずにギターケースを開ける。
「ちょっと聞いてんの? せっかく人がわざわざ――」
一人になりたい。一人に――
それはほぼ、無意識と言っても良い。悟司はケースから赤いギターを取り出すと、そのまま中に一緒に入れていたアンプラグを差し込んでヘッドフォンをかけた。
最初からこうしてれば良かった。
そう思いながら思いっきりギターをかき鳴らした。
「うわ。な、何?」
千佐都がびっくりして声をあげるも、悟司の耳にはギターの音しか届かない。次々にコードを変えながら悟司は一心不乱にギターを弾きまくった。
――何時間くらい没頭していたかわからない。
悟司は満足してようやくヘッドフォンを外すと、ふぅと息を吐いてギターをケースに戻そうとした。
「――終わり?」
その声に驚いて振り返る。
千佐都は悟司に背を向けたまま、何かを読んでいた。
「バンドマンってすっごいねー。あたしはろくに楽器も弾けないからちょっとびっくり。悟司ってこう、ずっとむっつりしてて変なヤツだけど意外な才能あるんだねぇ」
「お、大きなお世話だ……」
それって褒めてるのか? いちいちひっかかる物言いだったが、悟司は不思議と悪い気がしなかった。
「でもさ――」
千佐都はくるっと悟司の方に向き直ると手に持っていたものを突きつけて遠慮がちに言った。
「この詞はないと思うよ……正直」
千佐都が持っていたのは、くたびれた一冊のノート。
「ああああああああああ!」
悟司は慌てて千佐都の持っていたノートをひったくると、涙目になりながら千佐都に詰め寄る。
「み、見たの……?」
「あ、あはは。えーっと。見ちゃった……」
悟司はがっくりとその場に四つん這いの格好で膝をついた。
千佐都が読んでいたこのノートはギターケースの中に入っていた物だった。
悟司がギターを無心で弾いている頃、千佐都は開きっぱなしのケースの中に入っていたこのノートを発見した。そしてそのまま何の気なしにぱらぱらとめくり、現在に至る。
「か、勝手にみたのは謝るよ。でもさ、あんたも昨日あたしの下着姿みたわけだし」
「そ、それとこれとは……話が別だ」
「な、なにおう。あんたのノートもそりゃ恥ずかしいかもしれないけど――」
「い、言ってはいけないこと言った! 今言っちゃいけない言葉吐いた! 恥ずかしいって! これは恥ずかしいノートなんだって言った!」
悟司が我も忘れて、千佐都に食ってかかった。
「ああそれは、ごめん。でもさぁ……」
千佐都はごくりとつばを飲み込むと静かに言った。
「あんた……作詞センス、ゼロだね」
その言葉に悟司は体中に電撃を食らったようなショックを受けた。そのまま千佐都の声が何度も脳内で再生されながらとうとう四つん這いの体勢すらとれなくなって頭から床に激突。ごつんっと鈍い音が頭に響いた。
「だ、大丈夫?」
千佐都はびっくりして悟司の肩を揺する。しかし、悟司は反応しない。
「ちょっと、ホントに大丈夫? ねぇ、ね――」
やがてしくしくと泣く悟司の声が部屋中に響き渡る。
「ああ、えーっと……」
「うう……ぐすっ。……うう」
そんな悟司の呻きを見ながら千佐都は頭を抱えたまま黙っていたが、やがて目の前でぱんと手を合わせると、
「ご、ごめんね。ホントに。でもさ、『ういろう』なんてタイトルのは斬新だと思うよ? 他にも『手羽先』とか、『コーチンロック』とか、なかなか出てこないって」
全くフォローになっていない言葉をぽろぽろとこぼす千佐都に、とうとう悟司はわんわん泣きだした。ちょうど頭から激突した部分がどんどん涙で浸っていく。
千佐都はこれ以上何も言わずにぽんぽんと悟司の肩をたたいて隣にうずくまった。
「ホントに、ごめん」
ため息をついて千佐都は悟司が落ち着くのをじっと待った。
外は既に夕闇が押し寄せ始めていた。
※ ※ ※
「――つまり、これは悟司が高校の頃に書きためた自作曲ノートなわけだ」
千佐都の言葉に悟司はぶすっとしたまま頷く。日が完全に暮れた頃にようやく悟司は落ち着いた。しかし相変わらず気分は良くない。歯に衣着せない千佐都もさすがにここまで落ち込まれると優しく接するしかないと判断したのか。申し訳程度の愛想笑いを浮かべながら悟司からノートのことについて少しずつ聞き出し始めていた。
「ついでにいうと、じ、実は俺は――バンドマンなんかじゃない」
その発言に千佐都は少し驚いた顔をしたが特になにも言わなかった。悟司は絞り出すような声で少しずつノートのことを話し始めた。
「ぎ、ギターは高校の頃、たまたま知り合った先輩から教えてもらった。その人はが、学外でガールズバンドをやってて、ライブハウスなんかにもじょ、常連だった。の、ノートはその人の影響なん、だ。彼女もノートに自作曲の詞をコード付きで書いてた。あ、憧れだったんだ。先輩は俺にとって」
「なるほど」
「ち、千佐都みたいにうるさくなかった」
その言葉にかちんときた様に千佐都が睨んできた。悟司はびくっとしながら身体を少し引いたが、千佐都はそれ以上何もしてこなかった。
やはり多少遠慮しているのだろう。悟司はそのまま話を続けた。
「で、でも。俺は先輩のようになれなかった。軽音部なんてウチの高校には存在しなかったし。自分の力で部を設立することも出来たけど、お、俺、そんな積極的なタイプじゃないし」
「あぁ……」
それ、すっごくわかると千佐都は小声で呟いた。ばっちり聞こえているのだが。
「そ、それに先輩もそれが理由で学外でバンド組んでたみたいだし……。だ、だから『どうせやるなら俺も先輩みたいに学外で!』って。そう思ってなんとか勇気ふりしぼって楽器屋のメンバー募集をか、かけてみたんだ」
「すごいじゃん」
おそらくこの千佐都の言葉は本心なのだろう。実際、自分でもしっかり自覚してしまうほど消極的な性格なのだ。それなのにあのときはよくそんな大胆な行動に出れたものだと悟司は自身に感心してしまう。
「で、でも集まったのはボーカル希望のヤツと、ギターだけだった。ギターなんて、俺よりも全然弾けなくて、さ。だ、だめだめなんだ。ホントなんだ」
「なんかわかる気がする」
「え」
「いや、単純にそういう人間って男女問わずいるだろうなって話。バンドとかやったことないけど、わざわざバンドがやりたいって思って募集に応募してきたくせにね……。さっきの悟司って見た感じ適当に弾いていたみたいだけど、ギターに対する姿勢だけは本気なんだなって、なんか思った」
「そ、そう」
そんなに率直に褒められるとは思わなかった。悟司は少し戸惑う。
「と、とにかく。ボーカルの方もひどかったんだ。全然練習なんかこなくて。そ、それである日、俺は『なんで練習こないの?』って聞いたんだ。そしたら『俺はぶっつけ本番で輝けるから』だって。ふ、ふざけんなって感じだよね。そ、それで、俺はバンドをあきらめた」
「それで、その後は一人でこのノートに自作曲を書きためてた、と」
千佐都の言葉に悟司はキツツキのようにこくこくと頷いた。
「なるほどねぇ~。でも、あたしの感想はさっき言ったとおり」
「お、俺の歌詞はそ、そんなにだめ、か?」
すがるような目で悟司は千佐都を見つめる。
「率直な感想、いい?」
悟司はごくりとつばを飲み込んで頷くと、
「終わってるレベル」
ずっこけた。
「はっきりいってどう見てもふざけてるとしか思えない歌詞だもん。たとえばさ、これ見てるとサビらしき部分に『ういろう』ってと何度も復唱してる部分あるじゃん? こんなの真面目な顔して歌えるボーカルいる? 歌詞だけ見たらコミックバンドかと思ったわよ。まぁコミックバンドだっていうなら話も違ってくるけど」
信じられない。こんなにはっきりと人の心を抉るコメントを言ってくる女だとは。
いや、正直さきほどのノートの感想の時点でそんなのは気付いていたけど、それにしてもひどい。もう少しオブラートに包んでくれてもいいのに。
思ったことをすぐ口にするヤツだってのはホントによくわかった。身に染みて理解した。
文字通り満身創痍の様子で、悟司は千佐都に聞いた。
「……て、てことはやっぱり、だ、駄目?」
「聞くけど、これは真面目な歌詞なのね?」
悟司はこくこく頷く。
「なら、駄目すぎにもほどがあるって。たとえばだけど――」
千佐都はノートをぱらぱらめくって、『ういろう』の歌詞を読み始めた。
「そもそも、『ぷるぷるした歯触りが君への想い』ってどういう意味よ?」
「そ、それは……」
「それと、『ういろうのような肌に触れると、君はくすぐったいって笑った』って、一体君って人のどこの部分触ってんの? おっぱい?」
「おっ――」
悟司は真っ赤になって下を向く。そんな悟司を見て、千佐都は重々しく嘆息する。
「ういろうとかきしめんとか、その単語選びのセンスもなかなかにダサいけど、これらの歌詞の最大の問題は読んでもさっぱり意味が伝わらないこと。正直、悟司ってギターはそこそこうまいかもだけど、歌詞を作る能力は皆無だと思う」
「そ、そんな――」
「まぁでも、あたしは詞しか見てないから肝心のメロディの方はわかんないけど……」
千佐都がそう言うと、悟司はいそいそとギターを担ぎ直す。
「じゃ、じゃあメロディを聴いてみて、よ。『ういろう』でいい?」
答えを待つことなく悟司はノートをぱらぱらめくると、『ういろう』の場所でノートを押さえてギターを弾き始めた――
――数分後。
弾き語りを終えた悟司を、千佐都はぽかーんと口を開けて見ていた。
「なんで……なんでこの曲で……」
悟司はギターを置いて、不安げに尋ねる。
「ど、どお?」
「なんで、この歌詞で――」
千佐都は頭を抱えて床の上に転がった。
「なんでこの歌詞でそんな切ない響きのロック調なんだよおおおおおお!」
ごろんごろんもんどりを打ちながら千佐都は全力で叫んでいた。
「で、でさ、どうなの。俺のメロディは?」
悟司が尋ねると、千佐都はその身をがばっと起こして指さした。
「良い! 悔しいけどかなり良いっ! むっちゃあたし好み。でも詞だ! やっぱあんたの曲作りに対する最大の問題はその意味のわからない誰得な詞なのよ! それと、そのおどおどした態度! このままじゃステージに出てもろくに演奏も出来ないんじゃない?」
確かに最初にヘッドフォンをつけて弾いていた時よりも明らかに、悟司のギタープレイはたどたどしくなっていた。誰かに聴かせる、ということを今までしてこなかったことも原因の一つだろうが、やはり一番の問題はその性格。
あまりにもそのおどおどとした性格が、ギタープレイの拙さを助長していたのだった。
「メロディは確かに悪くない。でもその歌詞じゃ誰も歌ってくれない。というか、仮に歌われても聴いてる方は全く共感出来ない! それにその弾き方! さっきはあんなに上手だったのに、なんであたしが聴いてるって思い始めたらそんなにたどたどしいの?」
「し、知らないよ。緊張、するん、だ」
耳を塞ぎながら悟司は心の中で相変わらずうるさいなぁと思いながら千佐都を横目で見ていた。
「わかった。もうわかったわ」
千佐都は身体を起こすと、悟司に向かって人差し指を突きつけた。
「あんた、大学の軽音サークルに入りなさい。あたしも一緒に入ったげるから」
「えっ」
とたん悟司は嫌そうな顔をする。
「で、でも俺はもうバンドをやるつもりは――」
「もったいない!」
「ええー……」
「その曲を誰かに聴かせたいとか思わない? ね。さっき、あたしがメロディを褒めたときどう思った?」
「そりゃ、う、嬉しかったけどさ……」
「でしょ? 嬉しかったでしょ?」
気恥ずかしそうにゆっくり悟司は頷く。
「てことは、きっと悟司は誰かに自分の曲を聴いて欲しいの。自己満足の範疇で終わらせたくないって感じてるんだよ」
「で、でも俺」
「なに?」
「また前みたいなメンバーしか集まらないかもって思うと。もう、あんな思いはしたくないんだ。変に期待して、がっかりして……。もうあんな嫌な気分には、なりたくない」
おどおどしていた態度から一変。はっきりした口調で悟司はそう言った。
その言葉に千佐都は少し考えるように押し黙ると、突然俯いている悟司の顔を自分の方へ引き寄せた。
「な、なに……ち、近」
「大丈夫」
「え?」
「大丈夫! あたしがいる! あんたがおどおどびくびくしてたら、お尻叩いてやるんだから。ねぇ悟司――」
千佐都がじっと悟司の目を見据える。あまりの気恥ずかしさに悟司はその視線と逸らそうとすると、
「そうやってすぐ目線を逸らそうとするな」
千佐都の両手が悟司の顔をがっしり掴んだ。
「い、いたたた」
観念して悟司はちらりと千佐都の目を見つめ返す。その瞬間を千佐都は逃さなかった。
「あたしが、あんたの最初のファンになったげる」
時が――止まった。
確かに一瞬、そのように悟司は感じた。
まるでそれは、魔法にかけられたように。身体の中の生命活動が全て静止してしまったかのように。
その衝撃は、単純な嬉しさからくるものなのだろうか? それとも――
「……でもってあたしが、あんたのその性格をフォローする」
そこで、はっと我に返って悟司は再び慌てふためく。
「で、でででも」
「でもじゃない。あたしは悟司のメロディが好き」
悟司はドキッとする。
なんなんだ、この女。突然自分の部屋で下着姿で眠ってて。変態呼ばわりして。なぜか自分の部屋の横に居座りだして。一緒に学校まで行くことになって。自分のギターの音を聴いていたと思ったら勝手に人のノート盗み見てて。
うるさいのに。ちっこいのに。馬鹿力で、自己主張激しくて、思ったことすぐ口に出すのに、めんどくさくて、うっとうしくて、同じ名字で、同じ地元で、同じ学校だけど、ちっとも性格なんか似てない、正反対の無遠慮野郎で、とてもじゃないけど自分とは全く合いそうもない人間なのに。
それなのに、その一言がこんなに胸を打つのはどうしてだろう。
それはきっと――自分の曲に初めて肯定的な答えを与えてくれたから。
自分の中で生まれた作品への、肯定の言葉だったから。
そこまで考えてからはっとしてまたも千佐都から目を逸らす。
「目を逸らすなっての」
びくっと肩を震わせると、ちらっちらっと千佐都の目を見ながら悟司はぼそりとつぶやいた。
「きょ、恐縮、っす」
「ん」
納得したように千佐都は頷く。
「でもファンはすみません。遠慮します」
次の瞬間、悟司は首を絞められていた。
「おまえなぁ!」
「うごごごご……」
そうやって首を締められながらも悟司は小さな喜びを見いだしていた。
いまだに千佐都のことは慣れない。うまくなじめない。しかしそれでも――
彼女の一言は悟司にとって大きな意味があった。
いや、このとき初めて意味というものを持った。
……そんな、気がした。