第十二章『静かに揺れる11さじ目』(1)
(3/19~3/21更新分)
「東京だって?」
小倉庄一が片手で玄関の扉を開けながら、少しだけ声をうわずらせてそう言った。
いつもより少しだけまぶたを大きく開けていることからも、相当びっくりしていることがうかがえる。
そんな彼の微細な感情の変化に気付く人間は、果たしてこの自分以外に、一体どれだけいるのやら。
そう思いながらドアの前に立つ黒髪の幼なじみ、鷲里月子が、くすくす笑って小倉に頷いた。
「うん。今から皆で行ってくるよ。庄ちゃんにもお土産買ってくるね」
現在、ニングルハイツの前には、春日の車がアイドリング状態で待機している。
月子の方は、先に春日が迎えに来てくれたこともあって既に準備済みである。千佐都も月子と同様で、残る悟司は今、春日と千佐都が迎えに行っている最中だ。
その間に月子は小倉にも一言挨拶しておこうと思い、今こうして彼の家の玄関前までやってきているわけである。
「なにか、希望のものとかある?」
「ないよ。というか、別に何も買ってこなくて構わない」
珍しくぶっきらぼうな調子でそんなことを言う。
月子はそんな小倉を少しだけ意外に思って首を傾げた。
「どうしたの? なんか不機嫌」
「いや、そういうわけじゃない」
小倉が顔の前に右手をかざす。
「別に不機嫌なわけじゃないさ。ただ、なんというか。初めてだろ? 内地へ行くのは」
「初めてじゃないよ。修学旅行を含めて、今回で三度目かな」
中学校の時は東京観光、高校の時は京都。つまり今回東京に行くのは二度目ということになるわけだが、既にどんな街だったのか月子の記憶の中でおぼろげになっている。
「そういやそうだったね。忘れてた」
頭を掻く小倉を見て、月子は何気なく聞いてみる。
「もしかして、心配してくれてる?」
小倉はそれには答えずに、ゆっくりと扉を閉める。まだ寝間着のところを見ると、身体が冷えてきたのだろうか。それとも――
「着いたら電話するから、だいじょうぶだよ」
閉まり際に月子がそう言うと、
「ん」
と、短い声だけを残して扉が閉まった。
「つっきー。行くよー」
ちょうど階段のところに千佐都の姿が見えて、月子は振りかえる。
「あ、はーい」
去り際にもう一度小倉の部屋の扉を見て月子は、
「心配性なんだから……もう」
ぽつりとそう言い残すと、そのまま千佐都の後を追うように階段を下りていった。
「あ、月子ちゃん」
階段を下りたところで、月子はばったり悟司と出くわした。
「悟司くん。準備おっけーですか?」
「ああ、うん。ほら」
そう言って悟司が手に持っていたカバンを持ち上げる。さすが男の子だけあって、荷物が断然月子よりも少ない。春日の荷物は見ていないが、きっと同じくらいであろう。
「ほらほら、もう行くよ」
千佐都が二人を見ながら車へ乗り込むと、春日が悟司の荷物を預かってトランクの方へと回り込みながら言った。
「鵜飼さんとは千歳空港で待ち合わせだ。だからそのまま直で僕らも向かう」
「車は空港に置きっぱなしにするんですか? 駐車代バカにならないと思いますけど」
悟司が尋ねると、
「いや。そういや説明してなかったな」
と、春日がトランクを開けながら顔を上げた。
「千歳にある郡司さんの実家に置かせてもらうことになった。既に電話ではそう伝えてあって、そこから空港まではタクシーですぐらしいぞ」
「「「郡司さんって誰?」」」
春日以外の三人(千佐都は助手席から顔を出して)が、同時に声を上げる。
悟司の荷物を放りこむと、春日は呆れたように三人を見回した。
「冗談もいい加減にしろ。郡司さんだよ、軽音部の」
「軽音部のって言われても、ギターの方かドラムの方かどっちさ?」
「ギターの方だ。お前ら一体どういう覚え方してるんだよ。郡司さんがギター、斉藤さんがドラムだ。これから卒業式が控えてるから、二人はまだこの町にいるけどな」
春日が強めにトランクを閉めながらそう言うと、千佐都が窓に顔を乗せながら興味なさそうにため息をついた。
「ほー。ところであの人達って、就職決まってんの?」
「斉藤さんは内地のフードメーカー勤務、郡司さんは実家の飲食店を継ぐそうだ。樫枝と鷲里も用意が出来たのなら早く乗ってくれ。もう出るぞ」
「お、俺の携帯の電話帳、ずっと『ギター先輩』って登録したままだった……。登録しなおしておきます」
そんなことを言いながら、悟司が携帯を取り出して後部座席へと乗り込む。その後へ続くように月子も同じドアから車に乗ると、程なくして春日が運転席へ乗り込んだ。
「長丁場だな。途中でコンビニ寄って、昼はファミレスで構わんだろ?」
誰も異論がないのを確認すると、春日はサイドブレーキを外して発車させた。
※ ※ ※
それから昼ご飯休憩も含めて、およそ四時間ほどの行程を春日の車は走りぬいた。車を降りてから気付いたことなのだが、誰一人として車酔いをしなかったのもすごい。
もともと乗り物酔いをしない自分はもとより、悟司あたりはそうなってもおかしくないんじゃないかなと、月子は内心はらはらしながら見守っていた。
だが、意外にも悟司はけろっとした様子で車を降りると、
「ずっと座っていると、さすがにお尻が痛くなりますね」
と、春日に向かって笑いかけていた。
そういえば、と月子はそこで先日の悟司の話を思い出す。
結局、月子は悟司の話を最後まで聞かずに眠りこけてしまっていた。美早紀のライブを観に行ったという辺りまでは鮮明に記憶に残っているのだが、その後のくだりはあいにく熟睡状態に入ってしまったため、聞けずじまいだった。
千佐都に尋ねてみても、「ただのノロケ話よ」の一点張り。
むしろそのノロケ話が聞きたいというのに、と月子は思うのだが、そこまで直接的な突っ込みを入れることは自身の性格上、どだい無理な話であった。
しかしなぜ、自分はあそこまで執拗に聞きだそうとしたのだろう。
悟司もびっくりしたような表情をしていたが、確かにあの時の自分は傍目から見ても異常であった。
まさか自分が、あそこまで悟司の過去を知りたがっているとは思わなかった。そして、その割にはなぜか呆気なく眠気にやられてしまっている。
一体どっちなのだ。
知りたいのか知りたくないのか。
しかも、そんなもやもやした思いは、なにも先日に限った話ではない。
悟司に関するそのもやもやは、このところずっと月子の心をかき乱していた。
学祭以降なのである。
あの学祭の後から、このもやもやしたどっちつかずの自分がいることに、月子は気付いてしまった。悟司のことが気になる一方で、そうでもないようなこのもどかしい感じ。
――自分で自分の心が、うまいこと制御出来ないでいる。
そんな気分は悟司だけではなく、他のことでもそうだ。およそ悩みとは言えないようなくだらない些事が、このところ頭の中をずっといっぱいにさせている。
その中でもとりわけ最新のものが悟司に関することだったので、余計気になる。
自分は一体、どう思っているのだろう。悟司のことが気になるのか、ならないのか。
「つっきー?」
「は、はいっ!」
突然、千佐都から声をかけられて月子はびくんと背筋を正した。
「どしたの?」
首を傾ける千佐都にほっと胸をなで下ろす。
「な、なんでもないです。ぼーっとしてました」
「そかそか。これからあの二人がタクシーをゲッチュするらしいから、あたしらも一緒に行きましょっ」
千佐都の視線の先には悟司と春日がいた。二人は車道を睨むように眺めている。どうやら、空車の表示が出ているタクシーがくるのをじっと待っているようだ。
千佐都が差し出した手に掴まると、月子は一緒になって車道の方まで歩き始めた。
千佐都は本当にいつも悩みがなさそうで、月子はそれが本当に羨ましかった。
きっと彼女は、自分ほど細かいことを気にしないタイプなのだろう。
くだらない些事はガン無視で、重要なトピックだけを最優先でとりかかるタイプ。
心の整理整頓がうまいのかなとも思うが、そこでふと夏の時のことが月子の頭をよぎった。
あれはまだ今のメンバーが「シュガー・シュガー・シュガー(!)」と名乗る前の頃だ。千佐都は一度、春日の家から逃げだして行方不明になったことがある。
あの時の千佐都の様子は、いつもの調子とは随分違っていた。悟司がどうにか話をつけて事なきを得たと言うが、一体あの時二人はどんな会話を――
……いけない。また知りたがってる。
月子は千佐都の手を掴む方と逆の手で、こめかみをぐにぐに揉みながら反省した。
あれ以来ずっと一緒に行動をしつつも、その話題がちっとも上ってこないということは、あまり触れてはいけない話題なのだろう。
きっと……そういうことなのだ。
「来たぞ」
春日がこちらを振りかえる。
そこで、月子は一旦それまで考えていたことを全部、頭の中でリセットしようと思った。
今はとにかく東京に向かうこと。
そして、弘緒ちゃんに会うことだ。
ひとたびそう気持ちを切り替えると、今度はわくわくが止まらなってきた。早く会いたくて、一目この目で見てみたくて、そのことで胸がいっぱいになっていく。
ホント単純なのだな、と思いながら月子は千佐都と一緒になってタクシーへ乗り込んだ。
※ ※ ※
「おーっ! 久しぶりだなぁ、みんなぁーっ!」
千歳空港の土産物売り場の前で、一際バカでかい声を上げながら鵜飼がこちらへ近付いてくる。その姿を見て、千佐都は頭を抱えながらつぶやいた。
「そういやすっかり忘れてたわ……コイツ、公共の場でもこういうヤツだったわね……」
「がっはっはっはっ! ……って、おっ? 千佐都ちゃん、ちょっと背ぇ伸びた?」
鵜飼はニコニコしながら、懐からチケットを四枚分取り出すと、
「言われた通りに、券は先にもらっておいたぜ。なんか、こうして別の場所で会うと、またなんか印象違って見えるなー。がっはっは」
なぜかやたらハイテンションな鵜飼がくるりと向きを変えて、月子の胸元を覗き込む。
「月子ちゃんも、相変わらずお胸の大きいことで」
「セクハラ禁止っ!」
月子が両手で胸元を隠すのと、ぼかんっと鵜飼の頭に鈍い音がしたのは同時だった。
「……ホンット油断も隙もないわね。言っとくけど、あたしらと行動を共にするなら、この先セクハラ発言一切禁止だかんねっ。あまりにもヒドいようなら警察に叩きだしてやるんだから」
鵜飼の後頭部からずるりと千佐都の荷物が床に落ちる。
そうしてしばらく投げつけられた部分をさすった後、鵜飼は再び快活に笑い始めた。
ホントに、ちゃんと話を聞いているのかいないのか。
月子は鵜飼が苦手である。いまだに面と向かって直接会話したことは数回ほどしかない。悪い人でないことだけははっきりとわかるのだが、いつもその勢いに押し負かされて、まともに言葉を発することが出来ないのだ。
現に今もずっと言葉を出せないで、あわあわしている自分が情けなかった。そんな月子の思いをくみ取ったのか、それまで高らかに笑っていた鵜飼は、
「あ、あれ? いや。あの……なんていうかごめんね?」
と急に不安そうな顔をして月子の顔をのぞき見てきた。
「い、いえ……あの。平気ですから……」
努めて明るく笑ってみせると、鵜飼はほっと胸をなで下ろすように手を当てて四人を見回した。
「いやさ、でもホントありがとな。イベントは明後日だから、とりあえず今日はのんびり我が家で過ごしてくれたまえ。弘緒も楽しみに待ってるってよ」
弘緒ちゃん!
そうだそうだった。早く会いたいなっ。
そんな風に月子の心の中に、再びむくむくと楽しみが沸き戻ってくると、
「月子ちゃんもホントありがとな」
と、突然まじめくさったように声を上げて、鵜飼が鼻筋を掻きながら言った。
「弘緒さ、前にも増してすっげー明るいんだ。きっと、月子ちゃんのおかげだと思う」
「そ、そんな。ウチは何も……」
「あはは、謙遜すんなって! そんな胸して今さらだぜ?」
「ひうっ!」
「言ったそばから、セクハラすなっ!」
自らの荷物を拾い上げると、千佐都が再び鵜飼に向かってそれを投げつけた。
……やっぱり苦手です、この人は。
「月子ちゃん?」
そう言う悟司の背中へ隠れるように、こそこそと身を寄せると、月子はこの旅行中なるべく鵜飼から距離を取ることを、深く、深く決意したのだった。
※ ※ ※
東京には飛行機に乗って、おそよ一時間半ほどで到着した。
「俺んち、二十三区外なんだよね」
そう話す鵜飼に言われるまま、五人はバスに乗って川崎駅へ。そこからさらに南部線という電車に乗って、大体五十分ほど。
「到着だ」
そうして目の前に広がった世界は、やはり北海道のものとは全然違い、月子は感嘆の息を漏らしながらホームに立ち尽くしてしまった。
まるで鉄と錆とコンクリートで組み立てられた要塞のようだ。
そう思いながら月子は、複雑に入り組んだ駅構内をきょろきょろ眺めていると、突然鼻がむずがゆくなり、やがて小さなくしゃみを一つ漏らしてしまった。
「あら可愛らしいくしゃみ。さすが月子ちゃん」
そんなことを言う鵜飼から距離を取って悟司の陰へと隠れると、二度、三度と連発でくしゃみが出てしまった。
「もしかして、月子ちゃん花粉症じゃないの?」
「ふぇ……」
悟司の言葉に顔をあげると、とろんと鼻水が出そうになり、慌てて月子は悟司の前でしゃがみ込んだ。
「あ、そうだ。これ使って良いよ」
鼻を押さえてうずくまっている月子の目の前に、ポケットティッシュと、それを持つ悟司の手が現われる。
月子は顔を赤らめながらポケットティッシュを受け取った。
「ご、ごめんね。悟司くん」
「いや、実は俺もちょっとだけ花粉症なんだ。だから念のため持ってきたんだけど」
「今年の花粉ってすごいらしいよねー」
まるで他人事の様に鵜飼が述べる。
「千佐都ちゃんは花粉症じゃないの?」
「あたしがそんなヤワに見えまして?」
ふっと鼻で笑う千佐都。
「しかし、やっぱこっちは暖かいわねー。このコートじゃ暑いわ」
「鵜飼さんの家はこの駅からすぐなんですか?」
「うーん。まぁ歩いて二十分はかかるけど」
春日の質問に答えてから、鵜飼が階段を上がる。
それに合わせて月子も、他の皆も一緒に階段を上がっていった。
改札が見えたところで、
「あ、弘緒だ」
鵜飼のその言葉に、ティッシュで鼻を押さえたまま月子が顔を上げる。
しかし、人の流れが多すぎて、どこにいるのかさっぱりわからない。
そうしているうちに、鵜飼が先に改札を飛び出して、一人の小さなショートカットの女の子へと近付いていった。
……気付かなかったのも無理はない。
弘緒は顔の大きさに合わないほどのデカいマスクをしていた。さらに下はジーンズ、上はスポーツブランドのジャージという、どう見ても男にしか見えないいでたち。
「……花粉症なんです」
弘緒は不機嫌そうに全員を睨んでそう言った。
「てことで弘緒だ。ほら弘緒、こいつらがシュガーの連中だぞ」
鵜飼が、弘緒の肩に手を置いてからから笑う。
「……んなの、言われなくてもわかるって」
弘緒はその手をうっとうしそうに振りほどくと、ぺこりと四人に向かって頭を下げる。
「この度はバカな兄のためにご足労いただき、申し訳ない気持ちでいっぱいです。あまりたいしたおもてなしも出来ませんが、どうぞゆっくりしていってください」
「かったいなーお前……」
横から鵜飼がじとりと弘緒を見やると、
「ま、そんなわけでさ。こんな感じに無愛想な妹だけど気にせんでくれ。がっはっは」
そんな二人のやりとりを見て、こう思ったのはおそらく月子だけじゃないだろう。
本当にこの二人は、兄妹なのだろうか――と。
「ところで久しぶりに会ったってのに、ちっとも色気ねーなお前」
鵜飼が弘緒の格好を見て首をひねる。
「せっかくやってきたお客さんの前で、その格好もどうかと思うぞ」
「ほ、ほっといてよ」
マスクをしていても顔の赤みが見て取れる。弘緒はぱしんと兄の背中を叩きながら、
「洗濯物がたまってたから、全部洗ってろくなのがなかったの。そ、そもそもいきなり来るっていうから、こっちだって全然準備なんかしてなくて――」
「いきなり?」
千佐都が聞き返す。
「おいこら、これどういうことよ。事前に話してたんじゃないの?」
「あ、あはは。実は来るって話したのって昨日なんだわ」
「「「「ええっ!?」」」」
さすがに呆れて、それ以上の言葉が出なかった。
「イベントがあるのは知ってましたけど……まさか皆さんが来るなんて聞いてなくて」
補足するようにそう付け足しながら、弘緒が息をつく。
「じゃ、じゃあ最悪な場合、僕たちはホテルを借りることになっていたかもしれないってことか……」
愕然としながら春日が呟くと、鵜飼がいやいやと手を振りながら言った。
「大丈夫だって! そんな風にするつもりはなかった。マジで。マジだ」
「何言ってんの。お母さんもおじいちゃんもおばあちゃんも、皆仰天してたんだから。口を揃えて言ってたよ。『相変わらず元就のやつは、何もかもが無計画だ』って」
「な、なははは……と、とにかく結果オーライだし、もういいだろ。ささ、ゴーマイホーム! なっ? なっ?」
……先が思いやられる旅になりそうだ。
いつもぽかんとしている月子ですら、本気でそう思ってしまった。
※ ※ ※
弘緒の家は、外観からしてなかなかに立派な作りであった。
「お、お金持ちなんですねー……」
ついそんな言葉が、ぽろりと口をついて出てしまう。
「ただいま」
弘緒が玄関の戸を開けるなり、五人に振り返った。
「――と、言っても今は誰もいませんけどね」
「どこ行ってるんだ?」
鵜飼が尋ねると、弘緒はそのまま靴を脱いでとことこと廊下を歩いて行った。
「お母さんはデート。おじいちゃんは仕事。おばあちゃんは友達の家で夜まで帰ってこない。私は今から皆さんにお茶をいれるから、お兄ちゃんは皆のお相手して――」
「お兄ちゃん?」
「――はっ!!」
背中を向けたままの弘緒に、耳ざとくその言葉を聞いていた千佐都が吹き出す。
「今あんた、お兄ちゃんって言ったよね? バカ兄貴、でもバカ兄でもなくはっきりと、お兄ちゃんって」
「い、言ってません……」
「いーや! 間違いなく言ったねっ。……なーんだ。皆の前ではつんけんしてるフリして、根は普通に兄を慕っている良い妹ってことか」
「言ってないもん!」
「……お兄ちゃんって呼ぶと、なんかまずいのか?」
鵜飼が弘緒にそう声をかける。
「そうですよ、別に恥ずかしいことじゃありませんよ。ウチも普通にお兄ちゃんって言いますし」
月子も乗っかってそう口を挟むと、
「うう……う……。ううぅーーーーっっ! ばかーーーーーーっっ!」
両手で顔を隠すようにして、弘緒はばたばたとキッチンの方へ駆け込んでいった。
「……で、なんかまずいのか?」
弘緒から答えが返ってこなかったかわりに、鵜飼は千佐都の方を向いて尋ねる。
「まずかないけど、あの子、結構あたし達にキャラ作ってるとこあるから」
「え、そうなの? どんな風に」
「背伸びしてるというか、なんというか……ね。あ、そんなわけでおじゃましまーす」
千佐都が靴を脱いで廊下に上がるのを見て、月子もそれに倣う。続いて悟司と春日が靴を脱ぎ、その一歩後で鵜飼が玄関の戸を閉めて廊下へと上がった。
「とりあえずリビング行くか」
そう案内されて向かったリビングで、五人は荷物を置く。
それから食事を取るためのダイニングテーブルへと四人を促すと、鵜飼は背もたれに身体を投げ出すようにして天井を見上げた。
「長旅だったなー。もう夕方か」
時計を見ると、既に十七時。
「朝から移動して、もうくたくただ……」
春日はテーブルに両肘を置くと、組んだ両手を額につけた。
「かすがはホントお疲れ様だよね。大移動だったもん」
「全くだ。今日はこのままゆっくりしたいね」
千佐都の言葉にも、春日は素直に頷く。本当に疲れているのだろう。
「春日さん、ありがとうございます」
月子も深々と頭をさげると、そこで弘緒がお盆にお茶を載せてやってきた。全員に一人ずつ配り終えてから、弘緒はすっと月子の隣に腰をかける。
まだ少し動揺を隠せない弘緒は、顔を赤らめたままわざとらしく咳払いをして鵜飼の方に顔を向ける。
「……それで? バカ兄貴の具体的なプランはどうなってるんですか」
「もちろん、ノープランだ」
「はぁ? ちょっと待ってよ。今日はこのまま家にいるとして、明日は一日フリーなんでしょうが。明後日は朝早くから準備するとして――って、なんで私が考えてんのっ!?」
がたんと腰を浮かしながら、弘緒が鵜飼を睨みつける。
「忙しいコねー……」
千佐都がぽつりとそんな感想を漏らす。
「一応な、事前申請でプレス業者には搬入を頼んである。明日、別の売り子の人達と顔合わせして細かい打ち合わせをするくらいで、後はまぁフリーかな」
そこで、鵜飼がちらりと悟司、春日の方へ向く。
「そこら辺の打ち合わせはまぁ、この三人だけでいいだろ。お前も来るなら、全然来てもいいんだぜ? どうせ高校の方も春休み中だろ」
そう弘緒の方へ尋ねると、弘緒はつんと顔を背けた。
「ご冗談っ。私は行かないよ、そんなところ」
「navelの正体が知りたい人間も、売り子の中にはいるんだけどなー」
「もうその名前は使ってないから。引退よ引退」
ぴしゃりとはねのけるようにそう言うと、悟司がぽけーっとしたまま口を開いた。
「い、今はわ、和三盆ちゃんだもん、ね」
「わさっ――」
再び、弘緒の顔がかあっと赤らむ。
「あ、あれ……なんかおかしいこと言いましたっけ……俺?」
弘緒の様子に気付いて、途端慌て始める悟司。
それを見ながら千佐都は、月子の横でくくっと笑いを押し殺していた。
「そういやそうだったな。んじゃまぁ、しょーがねーか。オレらだけで」
「他の売り子の人達は、どれくらい来るんですか?」
月子が素朴な疑問を鵜飼にぶつける。
「三人かな。それも全員男だし。だから、まぁそういう話はオレたちだけでいいよ。月子ちゃん達は一日ゆっくり遊んでおいで。当日の流れはちゃんと後で説明するからさ」
「わーい、東京観光だー」
千佐都がばんざいの格好で両手を広げる。
「弘緒ちゃん、面白そうなとこあったら教えてよ」
いつの間にかぶすくれて顔を伏せてしまった弘緒の肩を、ぽんぽん叩きながら千佐都がそう言うと、
「面白いとこなんて……別にないもん」
と、素っ気ない答えが返ってきた。完全にすねてしまったらしい。
「スカイツリーとか行ってくりゃいいじゃねーか。なんか出来たんだろ? そんなのが」
鵜飼の呼びかけにも無言。
「ひ、弘緒ちゃん?」
月子が笑いかける。
「う。ウチ、浅草行ってみたいです。実は修学旅行の時に、もくもくした煙をかぶれなかったのをすごく後悔してて。せっかくだし今回の旅行で行ってみたいなーって……」
反応なし。
月子がぱちんと顔の前で手を合わせる。
「行きましょ? ね?」
やや間があって、弘緒は顔を伏せたままこくりと頷くと、
「月子さんが――そう、言うなら……」
かすれる声で一言、そう言った。
その反応を見て、月子は安堵のため息を漏らして座り直した。
「んじゃ、明日の予定はこれで決定ってことで。さてと――」
鵜飼は、ぱちんと手を打つとそのまま席を立ってリビングを出て行った。程なくして戻ってくると、両手にはちきれんばかりの缶ビールを抱えてやってきた。
「飲も飲も。ぱーっと祝いましょ」
「び、ビールですか」
悟司が驚く横で、鵜飼はニコニコしながらテーブルの上に缶ビールを並べる。
「お、俺はいいです」
「まぁまぁ遠慮せずに」
言われるままに、悟司の目の前に缶ビールが置かれた。そのまま春日、千佐都と来て、月子にまでビールが置かれてしまった。
「あ、あの。ウチはアルコール全くダメなんです……一家全員、異常にアルコールに弱くて」
「お、そうなのか。こりゃ失敬」
ひょいっと鵜飼が月子の前のビールをさげる。
「結局、悟司は飲めるの? 飲めないの?」
千佐都が悟司の方へ振り向きながらそう言うと、
「飲めないわけではない。ただ……好きじゃないんだ」
悟司は目の前の缶を憎々しく見つめた。
「なして?」
「まずいじゃんか。少なくともビールは苦い」
「むしろその苦いのがいいんだぞ、樫枝」
春日が嬉しそうにプルタブを引いて、缶を持ち上げた。
「ありがとうございます、鵜飼さん。美味しくいただかせてもらいますね」
「おうおう、飲んでくれ飲んでくれ」
「ちょっとちょっと」
そこで、弘緒がようやく伏せきっていた顔をあげて鵜飼を睨んだ。
「勝手に宴会始めないでよ。そもそもそれ、ウチのビールでしょうが」
「えーいいじゃん」
言いながら、鵜飼はそのままプルタブを引いた。ぷしゅっと小気味の良い音がして、プルタブの隙間からホップがあふれ出してくる。
「もー信じらんないっ! あとでお母さんに怒られれば良いよ。バカ兄貴」
がたんと不機嫌に席を立つと、弘緒がぎゅっと月子の手を掴んだ。
「いこ、月子さん。こんなダメな大人達と一緒にいちゃダメです」
「えっ。ええーっ!」
弘緒に引かれて月子も席を立つと、
「あらあら。ホントに仲良しなことで。くふふ。羨ましいわぁ」
と千佐都が缶ビールを持ちながら茶化すように笑う。
「も、もーちさ姉ったらっ!」
恥ずかしそうにそう声をあげると、そのまま鵜飼の大きな乾杯の声が上がり、二人は廊下へと飛び出していった。