プロローグ『ノンシュガー』
――女が寝ている。
悟司はその場に凍り付いたまま、これは幻覚なのではないかと目を疑った。
ありえない。
だって“女が寝ている”のだ。
もちろん単に「女が寝る」、それ自体に関しては特別珍しいことでもなんでもない。事実、実家の母親は日がな、リビングのソファーに身体を預けながら、つけっぱなしテレビの前でぐうすか眠っている。
男女の問題などではない。人は寝る。
そんなの幼稚園児にもわかる当たり前のことだ。
では一体、その何が“ありえない”というのか。
それは女が眠っている場所が「今日から自分が住むはずの部屋」だということだ。見るからに温かそうな布団の中にくるまって、その女はすやすやと可愛らしい寝息を立てているのである。
なぜ? どうして?
悟司の頭がぐるぐると混乱し始める。一体ここで何が起きているのだろうか。
しかも、だ。
今日から住む予定であるはずのこの部屋には、見たこともない荷物が散乱している――といっても数は少なく、どうやら家電製品もろくに揃っていない。そこらに転がっている段ボールの多くは、まだ封の切られていない状態のままであった。
まるで、この女もつい最近この部屋へと越してきたばかりの様なのだ。
これはもしかして――部屋を間違えたとか?
慌てて悟司は、自分の部屋の鍵をポケットから取り出した。
部屋に入る前に、部屋番号の方ははっきりと確認して鍵を開けたはずなのだが。一応。
『一○一号室』
鍵にはそう書かれたネームタグがしっかりとついていた。
やはり間違いない。ここは今日から自分が住む予定の部屋なのだ。
悟司はそっと鍵をポケットの中へと戻すと、再び目の前の彼女を見た。
そこでまた最初の疑問へと戻る。
では、どうして自分の部屋に見知らぬ女が寝ているのだろうか?
布団まであるぞ。
「んん……」
突如、静寂していた室内にそんな声が漏れる。
悟司はびくっと肩を震わせて思った。まずい。この状況はなにかまずい気がする。
だが、一体何がまずいというのだ? ここは今日から自分が住む部屋のはずだ。勝手に不法侵入しているのは彼女の方じゃないか。
さっさと彼女を叩き起して、すぐにでも安穏とした空間を取り戻すべきではないのか。
どうした! ほら! いけ!
そう気持ちを奮い立たせてはみるが、出来るわけがない。なぜなら相手は女性だ。悟司は小中高、ろくに女性と喋った経験がなかった。
――そういえばたった一人だけ、高校の頃にギターを教えてもらった女子の先輩がいた。
いるにはいたのだが、それはとある一つのささいなきっかけから、偶然にも話す機会が生まれてしまっただけのことであって。
かように見ず知らずの、無防備に寝っ転がっている女性の肩を揺すって、「出て行け!」と言えるようなコミュニケーション能力(そう呼んで良いべきものかどうかわからないが)など、悟司には全くと言って良いほど持ち合わせていなかった。
……そもそも男同士ですらうまくコミュニケーションが取れやしないのに。
極度の人見知りと根っからのあがり症を併せ持った、まさに逸材ともいうべきコミュ障の中のコミュ障。悟司は慣れない相手だと、誰であろうが必ず言葉がどもってしまうのだ。
そんなわけで、ただひたすら硬直し続けるしかなかった。
他人とろくにコミュニケーションがとれないくせに、「それでもここは自分の部屋なのだから、こちらが出て行くなんておかしい」といった、これまた妙に頑固な性格が完全に足を止めてしまっていた。
大体、外は信じられないほど寒いのだ。
暦で言えば現在は三月の末。
だが場所は北海道にある小さな田舎町。
いまだ雪もしんしんと降りしきるこの町の外へ出て、いつ起きるかわからない女性のために外で待機など馬鹿げている。
「んん……。ふぁ……んー」
再びそう声が聞こえたかと思うと、布団がもそっと大きく膨れあがった。
目が覚めたのか?
悟司はようやく言葉をかけることが出来ると思って、どきどきしながら彼女の方を見た。
「す、すみませ――」
寝ぼけ眼の彼女が、悟司の方を振りかえる。
その瞬間、布団がばさりとはだけて彼女の上半身が露わになった。
「「…………え?」」
二人全く同じタイミングで、そんな台詞がまろび出る。
布団の中から現われた女性の姿は下着姿であった。
それも悟司より一回り、いや二回りほど小さな体格の女性。
「「……………っっ!?」」
ごん、と床にギターのハードケースが落ちる鈍い音がした。
続く、彼女の絶叫。
朱に染められていく彼女の表情を、悟司は呆然と見届けることしか出来なかった。
樫枝悟司、十八歳。
樫枝千佐都、十九歳。
この二人の出会いはかように珍妙で、およそドラマチックとは言いがたいものであった。