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ある少女にまつわる悪意の告白

作者: 吉柳葵緒

推理というか、悪意の話です。タイトルは某作品のオマージュで。

突発的に親友が死んでしまったので、友人代表としてあいさつをしなければならなくなった。


 通夜は今夜。

 出番の葬儀自体は明後日の昼。

 時間があるといえばある気もするし、ないと言いたければ言えないこともない。

 何があろうが学校や塾から生真面目に量産されてくる課題、返却期限が明日なのに袋から出してもいないDVD、返信を放置しているメール、冷蔵庫の中のシュークリームも心配だし、優先事項候補は他にもたくさんある。それらとなんとか折り合いをつけて、最悪でも明日の午前中には別れのあいさつを書き上げなければならない。


星が流れるスクリーンセーバーを、爪の先で触れたキーがさっきまで見ていたサイトへと切り替える。『弔辞の書き方』とシンプルなフォントで表示された画面をスクロールしていくと、親族用、三親等用、同僚用、そして友人用、とあらゆる場合別の文例が載っている。一番下にはご丁寧に『このまま印刷しても使えます』とまで書いてある。でもさすがに死因別にはなっていない。そこらへんには言及しなくていいってことだろうか。弔辞なんて書いたことないから本当にどうしたらいいかわからない。


めんどくさがり精神が発明の母なのは原始時代から常識だけど、現代人のそれはいつか行き着いちゃいけないところまで行き着いてしまうんじゃないか、なんてD級映画でも使い古された危惧を抱きながら画面をながめる。縮小で同時展開したワードは、一文字も汚されないまま真っ白で、かれこれ一時間半以上も不安定な「文書一」状態だ。


轢死だと、聞いた。

電車に轢かれて、文字通り無残な死にざまだと。

でもそれ以外は知らない。


死体が見つかった、と母から聞かされたのが一昨日の夜。噂好きな友達から電話が来たのがその三十分後。クラスのメーリスで正式に連絡が回って来たのがその二時間後。ニュースも新聞も、テンプレ通りに『何らかの事件に巻き込まれた可能性があると見て警察は捜査を………』としか言わない。おばさんとおじさんも取り乱して話にならない様子だというし、いつ死んだのかをはじめとしてわからないことだけはたくさん並んでいた。

そんな疑問だらけの葬式で、あたしに弔辞の役目が回って来たのは、あの子にとって友達と呼べるのがあたしだけだったからだ。今までも、そしてたぶんこれからも。


あの子には友達がいなかった。


それはもう見事なくらいに一人も。

登校中に昨夜見たドラマの話をする相手も、移動教室の時にくだらない噂を交換する相手も、体育で適当に組む相手だって。ほんの一人だっていなかった。同じクラスにも、同じ委員会にも、同じ学校にも、この世の中にも。

あたしはあの子のたったひとりの友達で、親友で、クラスメイトで。結局のところなんだったんだろう。別に誰より近くにいたとか、誰よりもわかりあっていたとかそんなことはない。あの子はどう思っていたか知らないけれど。

だからあたしは真っ白な画面に何も打ちこめないまま、悲しみも驚きもせず、呆けたようにこうして机の前に座っている。

現実逃避、とか、心が麻痺している、とか、考えたくない、とか、これはきっとそんな素敵な感情のたまものではない。親友が死んでしまった、という話は、あたしにとってはそれだけの価値しかなかったということだ。少なくともシュークリーム以下の価値しか。


眠い。


重心を背中に移して、回転椅子の背もたれでえびぞりに伸びをする。あくびをすると、応えるように胃が鳴いた。起こされてから三時間は経っている。朝も昼もなく寝ていたのだから消化するものももうないだろう。

さかさまに見上げる壁の時計は太陽が夜に飲みこまれる時間を示していて、そろそろ夕飯だと体の芯をやわやわ握り潰されるような痛みで気づく。気づくと同時に、約二時間前にあわただしくドアも閉めず出て行った母の最後の一言を思い出す。

『帰るの遅くなるから、なんか適当に夕飯食べといてよ』と。

きっと今ごろは、涙にくれるあの子のお母さんの代わりに、あの家で忙しく働いているだろう。同情屋な母の性格上、ずるずると居座ってなかなか帰ってこないに違いない。父は仕事で明日の昼まで帰らないことがわかっているし、今夜この家にはあたしひとりということだ。

そう考えると一気に食事をする気が失せた。空腹ではある。でも食欲がない。

食事なんてしょせん、明日の自分が飢死しないための作業なんだと、こういうとき確認させられる。今日一日何も食べなくても、明日のあたしはまだ生きているだろう。それほど燃費の悪い体はしていないはずだ。聞いた話だけど、人間は水だけで一か月生きられるっていうし問題ない。

生理的な胃の痛みも、間抜けな空気の振動音も、ぜんぶぜんぶ他人事のように無視をして、ゆらりと上半身を起こし立ち上がる。画面上で再びはじまった流星雨もそのままに、机の真横にあるベットに横倒しに落ちる。頭が痛くなるほど甘い髪の匂いと、あたたかくさえ感じられるほこりの匂いと、ほんの少しだけ水の匂いがする。一日中カーテンを閉め切っていたので気づかなかったけれど、どうやら外は雨のようだ。


足の先でカーテンをめくると、さあさあと優しい音がした。一気にまぶたが重くなる。

雨は好きだ。春の霧雨も、夏の豪雨も、冬の氷雨も。でもいちばん好きなのは、今日のような晩秋の時雨。神経に直接触られているような肌寒さも心地いい。理由はない。ただ、雨が降ると心地よすぎて眠くなる。どうせ起きていたって何も進まないだろうし、あたしは今度こそ生理的欲求に素直になることにした。

毛布にくるまって、意識が完全にシャットダウンされるまでの時間を退屈しながら、一昨日別れたあの子の顔を思い出そうとする。いつ死んだのかは知らないけれど、生きているあの子を最後に見たのはあたしだから。それに、雨と言えばあたしの中のイメージはいつもあの子だったから。そういえばはじめて話した日もこんな雨だった。

でもいくら考えてもイメージはのっぺらぼうのままで、あたしは何も思いだせない。声も、目つきも、最後に何を話したかさえ脳の中で迷子になってしまって見つからない。


 指定ファイルは発見されませんでした。

 再検索しますか?


 はい。

 今度は隠しファイルも含める。


 どこかにあるはずのファイルが見つからない。修正液で塗り固めたように、あたしの記憶はどんどん真っ白になってしまう。


 思い出が死ぬ、ってこういうことなのかな。


 あたし何考えてんだろう。意味分からない。でもきっとそうなんだと思う。


 眠い、眠い、眠い、眠い、眠い、眠い、眠い、眠い、眠い、眠い、眠い、眠い。


そこまで考えてあたしは、死ぬように本日四度目の眠りに落ちた。





◆◆◆


雨が降っていた。

ふわふわと、あるのかないのかよくわからない細い雨が、際限なく顔や髪を撫でては濡らしていく。何気なく足元を見下ろすと、小学一年生のころ履いていたお気に入りの赤い長靴が、大きすぎて膝下まである赤いレインコートの下から伸びている。右手からこぼれそうになるのをぎゅっとにぎりしめているのはやっぱり大きめな赤い傘で、ほとんど背中をおおいかくしているのは赤いランドセルだろう。

くすんだ色のみずたまりを鏡代わりにのぞきこむ必要なんてなかった。いつもよりずっと低い目線、小さな手、目の前には今はコンビニが立っているはずの広い泥田んぼ。そしてなにより、そこに泥まみれでへたり込んでいる後ろ姿。


夢だな、と真っ先に気づく。だって何も感じない。雨の匂いも、空気の冷たさも、傘をにぎっているはずの感触だって。

ひとつの体の中に人格をふたつ押し込んだように、あたしは小学一年生のあたしの中で、脳の奥に保管されていたあの日の記憶を無理矢理観照させられていた。


勝手に動いた右足がパシャリと泥を蹴りあげる。後ろ姿が大きく肩を揺らして、おそるおそる振り返る。もつれたうっとおしいくらい量の多い髪。いかにもどんくさくて垢抜けない色黒の丸顔。見ているだけで苛々する、殴られた犬みたいに卑屈な目。

『な、なに?』

しゃくりあげながら言った声は、今よりほんの少しだけ高くて、それでもやっぱり人を苛々させる響きをしていた。小学一年生のあたしは、その質問には答えずにしゃがみこんで目線を合わせる。たしかずっと立っていたから疲れていたんだ、と今のあたしは記憶のモザイクをひとつ取り除く。


あの日、あたしはずっとここにいた。あの子がクラスの子たちに囲まれて、髪を引っ張られて、ランドセルを放り投げられて、泥田に突き飛ばされるのを、何かの見世物のようにぼんやりと見ていた。


あんた、きらわれてんだね。


思いだせない自分の声は再生されず、代わりにそのとき言った言葉が字幕のように視界の端に現れる。

「あたし」の中には、傷つけてやろうという悪意も、助けてやろうという善意もなく、ただただ通学路に落ちていた虫の死骸を観察するように、「あたし」はそう言った。偶然帰り道に見かけた、可哀想な一人のクラスメイト(その日は九月だったけれど、あたしはまだあの子の名前を覚えていなかった)に向かって。

 そして言ったんだ。


 あたしがともだちになってあげるよ。



集団に属しはじめた時から、あの子は常にいじめられっ子だった。いじめに理由はない。でもいじめられる子にはいつだって理由がある。最悪のタイミングに最低の選択肢を選んでしまったとか、なにか気に障るようなことをしたとか。反応が面白いから、っていう時もあるし、単純に気に食わなくて追い詰めたいからっていうのだってある。

あの子は、一番最後の理由で嫌われていた。

何が悪かったわけでもなかった。だからあの子にできることなんてなかった。死んでしまう以外には。

あの子の言葉が、行動が、声が、表情が、存在が、すべてが周りを苛々させた。嫌われるために生まれて来たとしか思えなかった。みんながあの子を嫌ってた。みんながあの子に死んでほしいと願ってたし、みんながあの子をきっかけさえあれば殺してやりたいと思ってた。だから、あの子が死んだとしても驚きはしなかった。


その日から、あたしはあの子の唯一無二の友達になった。

あの子が学校に来る理由になった。

あの子の逃げ場所になった。

あの子を助けるたった一人になった。


それは、たぶん優しさとか善意からではない、もっとよどんだ、小動物を虐めて虐めて殺そうとするときのような、そういう気持ちからだったのだけれど。


あたしは、あの子を痛めつけるために親友になった。


◆◆◆


まばたきをする。場面が切り替わる。

今度は、どんよりとした、息が詰まるような曇りだ。見たわけではない。でもわかった。季節は春。


両目が映している人物が誰だったか考えて、あたしはここが小学三年生の教室だと気づく。教室の一番前、特権席のような教壇に立っているのは担任だった村井先生だ。黒板には分数の計算式が書かれている。今は算数の時間だ。

ぴりぴりと緊張した空気を肌で感じながら、左斜め前で俯き加減に立っているあの子の横顔へと視線を移す。色黒の顔に塩辛そうな涙を伝わせて、あの子はぼたぼたと泣いていた。顔の形が変わるまで殴り飛ばしてやりたくなるような表情だ。


私、かわいそうでしょう?

こんなに酷い目にあってる。

みんなひどいの。

心の声に字幕がつけられたならきっとそう言っているのだろう。


『顔を上げなさい』

村井先生が苛立った声で言う。あの子は顔をゆがめて、鼻をずるずるいわせながら、手の甲を覆う伸びきったお下がりのおダサいトレーナーで涙をぬぐって猫背で顔を上げる。静かな教室にあの子のしゃくりあげる声だけが響く。

『本当に、わからないの?』

手元に広げたノートを見て、あたしはこれは宿題の答え合わせをしているのだと思いだした。一人一問ずつ指名された問題を起立して答えていく先生のその方式だと、たしか正解できるまで着席できなかったはずだ。

『さ、三分の二…』

濁った鼻声が、殴られないために媚を売る犬のようで、「あたし」が一気に不快になったのがわかった。


不正解だ。

昨日いっしょに宿題やったのに。なんで間違ってるんだよ。あれだけ教えてやったのに。そもそもなんでこんな問題わかんないんだよ。


三年生のあたしはとても怒っていた。

それはあの子に対してであり、この教室内を支配する悪意と酸素だけでできたような空気の悪さに対してだった。


けれどそれと同時に、「あたし」はあの子が馬鹿にされるのを楽しんでいた。あの子の心がぼろぼろになっていくのを、傷つけられて泣くのを見るのは、胸がすっとした。


かわいそう。

ざまぁ。


相反する感情を抱えて、あたしは自分でもよくわからないけれど怒っていた。


くるりと首が動き、「あたし」は隣の席の男子と目を合わせる。これは、今でも同じ高校に通っている高屋くんだ。まだ髪もセットしていない、着崩した制服でなくキャラクターのTシャツを着た、あたしと身長も変わらない彼が不快そうに顔をしかめている。昔流行っていたキャラクターの鉛筆が動き、それだけは今とあんまり変わらない乱雑な字がノートのすみにじぐざぐ書きだされる。


なんであんなやつ相手するんだよ?


このころには、あの子はクラス全員から無視されるのが普通になっていた。いじめが暴力ではなく、精神攻撃になったころだ。


鉛筆がまた動いて、新しい文章を書きつける。


あんなやつ、死ねばいいのに。


「あたし」はそれをじっと見て、返事を書きこむために鉛筆を持ち上げた。


なんて書いたのかは、覚えてない。




あたしがあの子の側で学んだこと、その一。

頭が悪いということは罪悪だ。


◆◆◆


閑話休題。


ある昼休み、図書室の片隅。

とろとろと短い絵本を読んでいたあの子が顔を上げる。「あたし」はその真正面に座って、ぼんやり射し込む日に光る机を見ている。

あたしはあの子は本を読むのも遅かった、と記憶を掘り返す。

『あのね』

あの子があたしの腕に触れて呼びかける。その言い方がまた頭が悪そうで、でも「あたし」は苛立ちを吐き出さないまま、無表情で視線を合わせる。

『神さまって、いると思う?』

あの子が胸の前に抱えているのは、とても単純な宗教の絵本で、チープなイラストの“神”とやらが描かれている。

ねえ、私、こんなに純粋な子でしょう?いい子でしょう?

愚鈍な顔が、そんなことを謳ってる。

自分には褒められる権利しかないのだと勘違いしてるように、あの子はうっとりとしてみせる。


「あたし」の中がまた少し、波立って悪意が浮かび上がる。

「あたし」はあの子の目を正面から深くのぞきこむ。そのまま脳まで視線で刺し貫いて殺すほどに力をこめて。


いるんじゃない。


『ほんとに?やっぱり、』

少し嬉しそうに笑った彼女の笑顔を視線で制して、「あたし」は嘲るように言い放つ。


助けてなんてくれないと思うけどね。


◆◆◆


そしてまた記憶が入れ替わる。

今度のあたしは小学六年生だった。

冬の渡り廊下。天気は大雨。


隣を歩いているのは、小学校卒業と同時に引っ越した彩花ちゃんだ。あの子は、数メートル後ろをふらふらと背後霊のようについて来る。最初はあたしとあの子が話しながら歩いていた。そこに彩花ちゃんが割り込んできたんだ。彩花ちゃんは、あの子には比較的優しかったけれど、それが大嘘だったとわかったのがその日だった。

『ねえ、あの子さあ、気持ち悪くない?つきまとわれて可哀想だね』

彩花ちゃんはあの子が聞き耳を立てているのを計算したうえで、「あたし」の耳元に顔を寄せて雨音にも負けない声で言う。その言い方が本当に同情している風に響いて、「あたし」は頬をゆがめて困ったように笑う。それを同意と判断して、彩花ちゃんはますます続ける。

『デブだし、ブサイクだし、頭悪いしさあ。服もだっさいよねー?あれ、おさがりなんだっけ。冬なのに半ズボンとかはいちゃってさ。汗っかきでほんとキモイ』

ずばずばずばと、言葉が凶器になって人を殺せると信じているみたいに、彩花ちゃんは悪意百パーセントの苛立ちをぶちまける。

『ほんと、ぶっ殺したいくらい、嫌い。ねえ、なんであんなのに優しくするわけ?友達なら他にもいっぱいいるじゃん。みんな言ってるよ?優しすぎて損してるって』


別に損なんかしてないよ。

「あたし」は笑って答える。


『嘘だあ。じゅーぶん優しいよ。そうやって構ってあげるから調子に乗るんだよ』


そんなことないよ。

「あたし」は首を振って。


て。


なんてささやいたのだろう。


聞こえない。見えない。思いだせない。


彩花ちゃんが驚いたように目を見開いて、にやりと意地悪そうに笑う。

そして記憶は終わる。




あたしがあの子の側で学んだこと、その二。

人前で本心は口にしてはいけない。

あと、人の悪口を言っている人間の顔はすごく醜い。


◆◆◆


次は中学二年。夏。スコールのような激しい雨が降り注ぐ、蒸し暑い放課後だった。


あたしは廊下の死角に立って教室の中を見ている。

教室ではあの子がたまたま機嫌の悪かったクラスの女子に罵られていた。

あの子の両手に赤い傷が付き始めたのはこのころだったか。同情を一グラムでも売ってほしくてあの子が傷を見せびらかすたび、あたしは塩を塗り込んでやろうかと心の中でつぶやいた。

いつものように理不尽な苛立ちがぶつけられ、存在しているというだけで嫌われるあの子は卑屈な目で嵐が過ぎ去るのを待っている。まるで自分が悲劇のヒロインかなにかのような顔で。

あたしには気づいていない。

『ねえ、あんたいつ死ぬの?はやく死んでよ』

甲高い、一歩間違えれば気が狂っているようにも聞こえる声で笑いながら、クラスメイトの一人があの子を突き飛ばす。「あたし」は教室に忘れた荷物を取りたいのに取れなくて、あと一分経ってもこの騒ぎが終わらなかったら割って入ろうかな、といらついている。

一人がなにげなく廊下を振り返る。「あたし」と視線が合う。怪訝そうな顔。「あたし」は場違いに微笑み、鼓動で時間をカウントしながら動かない。

相変わらず野暮ったいあの子は犬の目で、『なんで』と弱弱しくつぶやく。

『なんで?そんなの理由なんてないよ。あんた、生きてるだけでムカつくんだよ。苛々する』

『そうだよ』

『死ねばいいのに』

『ほんとムカつく』

『自分だけが辛いんです、可哀想なんです、って?甘えんなよ』


一分経った。

おなか減ったなあ。


憎悪の響きの中、その場の登場人物で「あたし」だけがやる気なさそうに心の中でつぶやく。そして、自分の方に視線を集めるべくドアでも蹴り飛ばしてみようかと、夏用の白い靴下をはいた足を前に伸ばした。




あたしがあの子の側で学んだこと、その三。

人より上に立つにはときに脅しも必要だ。

許される人間は何をしようが許されるし、許されない人間は何をしても許されない。


◆◆◆

幕間。


ずりずりずりと、だるそうにあたしが歩く。その後ろをあの子がおどおどとついてくる。

いつもそうだった。あの子はいつだってあたしの後ろに隠れてて、それが余計にクラスメイトの心を逆なですることさえ理解できずに、あたしにすがりつくんだ。

『ま、待って』

卑屈な、でも、どこか甘えた声。

当然に守ってもらえると思ってる、気持ち悪い声。

あたしは振り返らない。


気まぐれで差し伸べただけの手にからみついて、あたしの背中にのしかかって、自分と同じところに落ちてきてほしいとあの犬の目が言う。

図々しい。

 弱いくせに。


たぶんこの苛立ちの正体が見えてしまったから、あたしは何も話さない。


◆◆◆


そして、高校二年。初秋。雨上がり、日が暮れたばかりの線路。

ほんの一昨日の夢を、あたしは見ていた。


あたしはもう分離しておらず、今のあたしのままで、三十分に一本の電車しか通らないすすきに隠れた線路をぼんやりながめている。斜め前にはうつむいてるあの子の背中。あたりには夜が両袖を広げ始めて、衣替え前の夏服の白が薄ぼんやりと浮いて見える。


年季の入ったあの子の手首の傷たちは、近頃また少しだけ数が増えていた。死にはしない、引っ掻くだけの浅い傷たち。自分が壊れていると誰かに見せて、砂糖でできたような甘くて何の役にも立たない同情の言葉をもらうための傷たち。長袖で隠すこともなく、カウンセラーとか保健室の先生とか、やさしいおとなに受け入れてもらうための儀式。

固まった黒い血が、傷口で引きつれている。


こっちに背を向けたまま、あの子がなにか言っている。それは音とは認識できても、あたしの脳には言葉として変換されない。


振り返る。

視線が合う。

あたしは小さく口を開いて。

……………………………………………………………………………?




あたしがあの子の側で学んだこと、その四。

人間って簡単に死なせちゃえる。


◆◆◆


機械仕掛けのようにぱちりと目が開いた。

ずいぶん寝ていた気がする。

軽く顔の筋肉を動かすと、数秒遅れて、頭に響く電子音で携帯があたしの代わりにあくびをした。

この着信音は「学校の友達」だ。枕元を手さぐりで探し当てて、やっと指先にひっかかった携帯の通話ボタンを叩いて回線をつなぐ。

「うぁい」

あくびまじりにのどから出た声は明らかに寝起きでかすれていた。けれど通話相手は気にした様子もなく早口にまくしたててくる。

『あ、やっと出た。あんたメールの返信遅いよ!ちまちま待ってんのめんどくさいから、もう電話で話すよ!』

「めぇるぅ?」

『今夜のお通夜、何時にどこ集合するかだよ!塾なくなったから駅に六時半で大丈夫、って送ったじゃん!』

「………ん、ああ」

頭の中は相変わらず混線している。そもそも今自分が誰と話しているのかさえわかっていない。メールと言われたって、同じような内容を何人もと同時にやりとりしているのだから心当たりは思いつかないほどある。あたしは一人、あなたはたくさん。


生返事をして通話画面の表示を確認する。バカっぽい表情のプリクラ画像と一緒に冷たくもあたたかくもなさそうな明朝体で表示されていたのは、同じクラスの委員長の名前だった。唐突に、昨夜寝落ちする直前までそのことをメールで話し合っていた記憶が蘇った。

『弔辞とクラス代表挨拶の打ち合わせもしなきゃなんないし、寝ぼけてないで頭回せよ。ったく、ただでさえいそがしいのに、なんであいつのために葬式出て挨拶までしなきゃなんないわけ?葬式とか自由参加でいいじゃん』


あの子の話題の時にだけ出る独特の苛々した声の調子は、ずいぶん久しぶりに聞くもので、あたしはさっき見た夢の内容も思いだして懐かしい気分になった。

記憶の中ではあの子を馬鹿にしては笑っていた彼女も、今ではもういじめ遊びには飽きていた。いじめが終わる本当の理由は、公開したからとか改心したからではなくそのターゲットに飽きてしまったからということが多い。内申書を棒に振ってまでいじめる価値すらあの子にはなかったということだ。

クラスのため、などではなく、少しでも楽に大学に進学できる足がかりにと委員長を買って出た彼女は、文化祭前のいそがしい時期に仕事を増やしたあの子に悪感情しか抱いていないようだった。


『ってかさー、なんであいつ死んだの?事故?自殺?それとも…………殺人、とか?』

最後の単語はこわごわと、口にするだけで恐ろしいことが起こると信じているような口調で吐き出されて、あたしはそれまでとのギャップに笑い声を立てそうになった。

「知らない。でも殺人って何よ。誰があの子を殺したがるの」

『みんなだよ』

「みんなって、あたしもあんたも?」

『そーだよ。みんなあいつのこと、殺したいくらい嫌いだった。あいつは悪くないんだよ。でもさー、なんていうの?ふと、誰かを殴りたいとか、目の前で話してる相手を今ここで刺してやったらどんな顔するだろうとか、そういうこと思う瞬間って、あるじゃん?』

なんかわかる気がするなー、と思いつつも返事はしない。どんな小さな一言だって、言質をとられれば後で面倒なことになる。だからあたしは無口になった。

『で、あいつって存在してるだけで人をそういう気分にさせるんだよ。外見とか声とかそういうのはぜんぶ後付けでさ、結局のところあいつは生きてるだけでぼこぼこにしてやりたくなる。希望とかぜんぶ奪って、苦しめて苦しめて絶望させてやりたくなる。そういうやつだったよ』

殺伐とした内容なのに声が晴れ晴れとしているのは、それが彼女の本心だからだろう。言葉を一気に吐き出してしまうと彼女は黙りこくった。このタイミングでなにか言わなければと、経験があたしに命令する。浅すぎず、かといって深くもなりすぎない、いかにもわかったようなことを、できるだけ当たり障りのない言葉で。それでも、このテーマは即答するには難しすぎた。私は真剣に聞いた結果答えにつまっているふりをちょっとだけして、八十点くらいの答えを返した。委員長はそれで満足したようだった。


『ぜんぜん話変わるけど、なんか怪メールきて、マジ病むわ』

急に話題が飛んだので、私は鈍い頭を適応させるために二、三回拳で叩かなければならなかった。

「病む」とは最近流行りの不快感を表す単語で、この委員長に本当に精神を病むほどの繊細さがあるはずもない。

「怪メール?なにそれ。出会い系とかじゃなくて?」

『いや。いちおう携帯のアドレスなんだけどさ、全然知らないやつなの』

「間違いメールじゃねーの。単純に」

声に馬鹿にした調子が出ていたのか、委員長はむきになって反論した。

『人の話は最後まで聞けよ!……なんか、本文が意味不明で気持ち悪いんだよ』

どうせ一昔前に流行ったチェーンメールの焼き直しみたいなもんだろう。そう思いながらも、今後のつつがない学校生活と友情維持のために話くらいは聞いてやることにした。

「どんな本文?」

『えっとね……あ、あった。いくよ?メール、地理、新聞。以上っ』

「はあ?なんじゃそら」

あたしはおもわずベットから軽く首をもたげた。


メール、地理、新聞。

あまりにも脈絡がない。


『句読点なしで単語が連続して並んでるかんじ。無題』

委員長はあたしが興味を示したことが嬉しいのか、弾んだ声で言う。

「メアドは?あんたが知らなくてもあたし知ってるかもしんない」

他人のメアドなんていちいち覚えているわけもない。相手が頻繁にアドレスを変える同級生なら、電話帳の書き換えを忘れていてそのままということもありえる。それにしたってそんな意味のわからないメール、嫌がらせかイタズラにすぎないと思うけれど。

『メモる?』

「ん。待って」

あたしは心地いいベットから起き上がると、それよりはずっと硬い回転椅子に腰を下ろした。休止モードに入っていたパソコンを立ち上げる。再び現れる真っ白なワード画面。文字入力を半角英数に変更。

「おけ。よろしく」

あたしは携帯を片手に空いた方の手でキーボードを弾いていった。


『どう?知ってる?』

「知らない」

嘘をつくときは、正々堂々、いけしゃあしゃあ、本当のことを言っていると思いこみながらつくこと。これもあの子の側で身に付けたことだ。あの子が嫌われれば嫌われるほど、あたしは小狡い処世術を手に入れて来た。知っている、と答えてもよかったが、そんなのなにひとつあたしにいいことがない。ババ抜きで自分がババを引いたことを公言するのは小さい子か馬鹿だけだ。


アドレスと、ついでに、メール、地理、新聞。画面に打ち込んだ単語の連なりを見つめる。委員長は知らないと言っているけれど、このアドレスはあの子のだ。委員長のアドレスは連絡用にクラス全員が知らされていたからあの子が知っていても変じゃない。逆にあの子のアドレスを登録していたのは、クラスであたしだけだったのだけれど。

携帯の受信フォルダを見てみると、三日前に委員長から一斉送信で来月の文化祭についての連絡メールが来ていた。委員長にメールが届いた時間からして、その意味不明なメールはあの子の最後の一通だったのだろう。たぶん受信フォルダの一番上にあったメールに返信したに違いない。これはいわゆるダイイングメッセージというやつなのだろうか。

だったらこの謎の単語たちは暗号ということになる。

弔辞に暗号。今週は人生初の大イベントばかりだ。謎を解き明かしたってなんにもいいことなんかないと思うけど。


『じゃあ、無視しといていいかな?』

「いんじゃない?気になるなら消せば」

眉間にしわをよせて考えながら、あたしは適当な返事をする。ああでもない、こうでもない。頭の中は目の前の謎にほとんどの思考機能を割いている。発想を、縦に、横に、点対象に、それでもダメならくるりと半回転。

なにかおもしろいこたえはないかしら。


『そーだね。てかね、あいさつ書こうとして思ったんだけど、あいつ本名なんだっけ?やっぱ一度くらいは故人の名前が文中に出てこないとヤバいよね?』

「へ?名前はね………………………………………………………………………………………………………………あ」

『うぇ?』



あたしは数学の問題の解き方を理解したときのような爽快感に声を挙げた。


ああ、そういうことですか。

そう考えればよかったんですね。


天の啓示でもあったみたいに、結論は突然に出た。気づいてみればこんなに簡単なこともない。


だけど、それだけだった。



『………ねえ?どうしたの、マジで』

三秒くらい沈黙が流れて、黙っていられない委員長がおそるおそる機嫌をうかがうような声を出した。強がってみせてもこういうときすぐ下手に出るあたり、彼女は小市民なのだと思う。

あたしは内心の変化を悟られないように、わざとらしく明るい声を出す。

「いや、だからさあ、よく考えてみるとあたしあの子の名前呼んだことたぶんいっぺんもないんだよねー。今考えてみたんだけど、下の名前思い出せねーの」

『きゃはははっ。あんた、マジでさいてー。それでも親友かよ』

きゃらきゃらと笑う委員長の声は、能天気で何も考えていないように聞こえて少しだけうらやましい。あたしは自分が気づいてしまった事実に笑うどころではない。

「笑ってるけどねえ、あんたさあ、あたしの下の名前知ってる?」

『はあ?知ってんに決まってんじゃん。小学校からの付き合いだよ?友達の本名忘れるって最低最悪じゃね?あたしはどっかの誰かみたいに薄情じゃないもん。友情は重んじる派だからね。しっかし、あんた、さっきから何言ってんの?まだ寝ぼけてんの?』

「んー。あんた、あたしのこと基本名字で呼んでるから、下の名前忘れたんじゃないかなって思っただけ」

『ほんとにそれだけ?あんた実はあたしの名前忘れてるからそんなこと聞くんじゃないの?』

「いやいや。あたし、あんたのこと名前で呼んでんじゃん。あんた、友情がどうとか言っといて即座に友達を疑うってどうよ」

『あー、そーいやそうだね。許せ。友達なら許すのが筋だ』

「はいはい。そうね。友達なら名前呼ぶよね。普通」

『わかればいいんだよ。わかれば。じゃあ、今夜は駅に六時半ね。弔辞はできあがったら一度見せてよ。内容合わせるから』

「んー。またね」

『じゃあ後でね』


通話終了ボタンを押して、肩越しにベットへと携帯を放り投げる。

三単語の下に打ち込んだ答えが、液晶の中で妙に光って見えた。


あたしはこのことを誰にも言わない。委員長はあと二、三人に話して満足できるだけの同情を受けたら、メールが来たことすら忘れるだろう。誰にも省みられることなく、あの子の最後のメールは、主がそうだったように電子世界で埋もれて行く。あの子が死んだこともみんなすぐに忘れてしまうだろう。あの子があたしの親友を名乗っていたことも。


あの子は死んでも誰にも理解されないんだ。

理解なんて、させてやるものか。

最後まで嫌われて嫌われて嫌われて、不幸せに死んでいけばいい。


あたしはあの子の親友だったけれど、たぶん誰よりもあの子のことが嫌いだった。追い詰めて追い詰めて追い詰めてしまうくらいには。だからずっと側にいた。痛めつけて痛めつけて痛めつけて傷めつけて、あの子がボロボロになるのを見ていた。ずっと、そうしてきた。


理由なんてない。あたしはあの子が嫌いだ。

あの犬のような目が、存在のすべてが。


でも、今回はお互い様だよね?


あたしはいるはずもない、幽霊なんてものに左肩越しに聞いてみる。

恨んでいるのなら、あたしの耳元で恨みごとのひとつでも言ってみればいいのに。


あれはダイイングメッセージなんかじゃなかった。あれは、はじめからあたしへの遺書だった。あたしだけに宛てられた、他の誰が見ても理解できない、でも、これだけわかりやすい内容もない、遺書。


残念でした。あたしはあんたのことなんか覚えててあげない。



文書一は変更されています。保存しますか?



右斜め上の×をクリックして出て来たウィンドウにキャンセルを叩く。



新規作成。文書二。



自分に課せられた義務を全うすべく、あたしは馬鹿みたいに心のこもった弔辞を書き始めた。


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