十一
「…はっ」
凜はゆっくりと体を起こす。着ている着物は埃にまみれ、ところどころ破れていた。
地面に伏しているのは東の呪術師と宮の呪術師だ。辛うじて二人を戦闘不能に陥らせた。氷の呪術師は顔にかかる前髪を振り払い、空を見上げる。夜空の色が変わり始めていた。夜が明けようしているのがわかった。
体が疲れ切っていたが、このまま休むわけにはいかなかった。嫌な予感をおぼえていた。
『さようなら』という空の声が脳裏に何度も蘇る。
凜は刀を腰の鞘にしまうと目を閉じる。そして気を高めると飛び上がった。
「藍殿…」
強はベッドの上の藍を見つめる。医所は治療を終え、部屋を後にしていた。後は本人の体力次第といわれた。小柄な呪術師はいつもであれば元気いっぱいの笑顔を強に見せるはずなのだが、目を閉じ、静かに眠りについていた。
ずっと否定していた。
警備隊長である自分が恋などするなんて。
しかし、死に瀕する藍を見て、失いたくないと思った。
すっと側にいて笑っていて欲しいと願った。
「藍殿、頼む。目を覚ましてくれ」
強はその小さな手を握りしめ、自分の額に当てる。
夜が明けようとしているのがわかっていた。
親友の危機が迫っていた。
しかし、強は愛しい人の側にいることを選んだ。
「海様」
「すまない。起こしてしまったか」
海――帝は布団から体を起こして正妻を見つめる。
内所が他界してから、不安な正妻を安心させるため海は寝所を共にしていた。
「大丈夫ですか?」
叔父の処罰が下される今日の帝の心情を思い図り、正妻がその黒い瞳を向ける。
自分と同じ、空と同じ黒族の瞳。
そのつぶらな瞳に帝は空がまだ自分を兄のように慕っていたころを思い出す。
最後の彼のあの瞳を見たのはいつだったか。
海はそれが15年前、麗が投身自殺を図り、自分自身がおかしくなっていた時期だと気がつく。
そうか、そうなのか。
あのころ、海は自分のことしか見えてなかった。
麗を失った。麗を死に追いやった自分が許せなかった。当時はまだ呪術司ではなかった典をなじったこともあった。
立ち直るのに数年かかった。
そして気がつくと彼の瞳が変わっていた。
「帝様?」
ふいに顔色を変え、目を閉じた海に正妻が声をかける。
わしは自ら空の手を離してしまったのか。
彼はわしを失い、母を失った。
その心は如何なるものか。
殺してはならない。
『帝、空様のために罪は科せられるべきです。さもなければ空様は一生宮に後を追われます』
呪術司の言葉が蘇り、将軍を呼び出そうとした手を止める。
『ご心配なさらずに。私が必ず助け出します。15年前の過ちは二度とおこさせません』
呪術司は麗と同じ瞳を煌かせて帝にそう誓った。
信じるしかない。
帝は顔を上げ、力を込めた拳をゆっくりと開いた。強く握り締めていたせいか、爪により皮膚が裂け、ほんのりと手の平が血に染まっていた。
「帝!」
それを見て正妻が大げさな声を上げる。
そして手当てをするため、下女を呼んだ。
寝殿の早い朝はこうして始まり、宮全体を目覚めさせようとしていた。
「草?」
色が変わり始めた空を飛んでいると眼下に少年と男が乗っている馬を見た。男は頭巾をかぶりそれが誰かはわからなかった。しかも気を失っているようで、少年に寄りかかっていた。
まさか?
騒ぎ経つ胸を押さえ、凜は草の前に舞い降りた。
「!?」
草は目の前に人の影を見て、慌てて馬の足を止める。そしてその影が師匠だとわかり、喜びと共に安堵する。
「凛様!」
しかし、笑顔の弟子を飛び越え、南の呪術師の視線はその背後に注がれていた。
草は師匠の気持ちに嫉妬に似た感情を持ったが、腰紐を解きその頭巾を取った。
「空!」
凛の表情を見て、少年はなんとも表現のできない思いを抱える。しかし師匠の喜びは草にとっても喜びだった。
「宮から逃げてきました。でも、大丈夫。追っ手はもう来ません」
空を馬から下ろし、その体を抱きかかえる呪術師に草はそう説明する。
「どういう意味だ?だいたい、なぜ空は眠っているんだ?」
「紺がしばらく眠りに付くように呪いをかけました。あと一刻は目を覚ましません。典さん、呪術司が空様の姿に変わり、宮にいます。刑が執行されれば、もう空様を追うものはいません」
「刑?執行?」
「空様は本日斬首刑を科せられる予定です」
「斬首刑?それじゃあ、呪術司は?紺もか?」
「そうです。でも大丈夫です。二人は術を使い逃げ出す予定です。でも刑は執行されたと皆にわからせてからだといってましたが……」
草は凛にそう説明しながら、ふいに不安になり始めた。そもそもそんなことが可能なのかと疑問を持つ。
典は自信たっぷりに『絶対に成功するから、私のことは気にせず空を凛のもとに届けてくれるね?』と草に話した。
典と紺の力は絶大だった。しかし、人間ごときにそんなことができるのかと疑問も生まれ始めていた。
顔色を変えた弟子の様子は気になったが、呪術師は腕の中の愛しい存在に目を向ける。男は静かな寝息を聞かせていた。
そんな三人の頭上で夜空は朝を迎えるため、黒から藍色に色を変えていた。そして東の空に太陽が現れ始め、真っ赤に染めていた。
「おかしいな。嫌な色。血の色みたいだ」
草は眉をひそめ、思わずそうつぶやく。
藍は弟子の言葉を聞き、東の方角に目を向ける。確かに空がまるで血の色のようだった。




