第1話 損害ゼロで勝てばよろしいのでしょう?
悪役令嬢でアクションジャンル。
行けるのかなぁ?
とりあえず、やってみます。
始まります。
「勝敗条件を、もう一度確認してもよろしいでしょうか」
王国騎士団の演習場。
まだ朝露の残る草地を前にして、エルダーラ・レグランドは尋ねた。
18歳。
代々、王国騎士団長を輩出してきたレグランド侯爵家の長女であり、王太子ルーヴァン・ルディオクの婚約者でもある。
その問いを受けた審判役の老騎士が、手元の紙へ視線を落とした。
「両軍120名。演習場の範囲は東の林から西の涸れ川まで。北端、南端にそれぞれ本陣旗を置く」
周囲には240名の騎士が整列している。
使用するのは、刃を潰した演習用の剣と槍。刃には白い染料が塗られ、有効部位に明確な痕がつけば戦闘不能判定となる。
頭部、胸部への一撃は即時離脱。腕や脚も、一定以上の痕がつけば使用不能として扱われる。
また、複数方向から武器を突きつけられるなど、実戦であれば明らかに戦闘継続不能と審判が判断した場合も同様だ。
無理な抵抗を防ぐため、審判役の騎士も各所へ配置されていた。
「敵軍の本陣旗を奪取する。敵指揮官を戦闘不能にする。もしくは敵軍の7割以上を戦闘不能または降伏判定に追い込み、そのうえで審判団が戦闘継続不能と判断した時点で勝利」
「はい」
「故意に重大な怪我を負わせる行為は禁止。落馬を狙った攻撃、関節への過度な打撃、演習場外への追い込みも禁止だ」
「承知しております」
エルダーラは頷き、それからもう一つ尋ねた。
「戦闘不能判定を受けない限り、こちらの損害には数えられない、という理解で間違いございませんね?」
老騎士が眉を上げる。
「その通りだ」
「では結構です」
すぐ隣から、低い笑い声がした。
「ずいぶん細かなところを気にするな、エルダーラ」
振り向くと、ルーヴァンがいた。
19歳。エルダーラより頭一つほど高い。
金糸を織り込んだ王太子用の演習外套こそ外しているが、白銀の胸甲と深い青の軍衣だけでも、120名の中で彼が誰なのかは一目で分かる。
剣術、騎乗、体力、統率。
いずれも学院で上位。
次代の王として求められる軍事教育でも、十分な成績を収めてきた。
実際、強い。
エルダーラも、それを疑ったことはなかった。
「細かいでしょうか」
「7割倒せば勝ちだ。こちらもそちらも120名。多少の損害は当然出る」
「模擬戦ですもの」
「だからだ。実戦ではない」
「ええ」
エルダーラは自軍の騎士たちへ視線を向けた。
今日のために集められた240名は、若手から中堅まで入り混じっている。
王国騎士団所属の者。近衛候補。地方騎士団から研修に来ている者。
両軍の戦力差が極端にならないよう、事前に経験年数や剣術成績を基準として振り分けられていた。
だから、人数も能力もほぼ同じ。
違うのは指揮官だけだ。
「模擬戦だからこそ、怪我をする必要はございませんでしょう?」
「それは理想論だ」
「そうでしょうか」
「120対120だぞ。全員が本気でぶつかる。演習用とはいえ剣も槍も使う。擦り傷一つない戦いなどあるものか」
エルダーラは首を傾げた。
「擦り傷は損害に含まれませんでしょう?」
「そういう話をしているのではない」
「では、どういうお話でしょう」
ルーヴァンが一瞬黙った。
老騎士が咳払いをする。
「開始前だ。痴話喧嘩ならあとにしろ」
「痴話喧嘩ではございません」
「私もそのつもりはない」
声が重なり、周囲の騎士がわずかに笑いを噛み殺した。
エルダーラは気にせず、最後に確認する。
「つまり、勝利条件を満たせば方法は問われない。規則違反さえしなければよろしいのですね」
「当然だ。戦場で敵がこちらの望む戦い方をしてくれるわけではない」
エルダーラは微笑んだ。
「まったく、その通りですわね」
なぜか、ルーヴァンの側にいた騎士が一瞬だけ嫌そうな顔をした。
両軍が別れた。
エルダーラは北。
ルーヴァンは南。
開始まで半刻。
自軍の本陣へ着いたエルダーラは、まず120名全員を見た。
正確には、朝から何度も見ている。
誰がどの武器を持つのか。誰と誰が普段から組んでいるのか。どの隊の足が速いのか。長距離を走らせると誰から疲れるのか。
そして今日、歩き方がいつもと違う者はいないか。
一人いた。
右足へ、わずかに体重を乗せきれていない騎士。
「あなた」
「はい!」
呼ばれた青年が姿勢を正した。
「左足首を痛めていますね」
「いえ、問題ありません!」
「いつです?」
「……昨日の午後です」
「腫れは」
「ほとんど引いております」
「走れますか」
「走れます!」
「長距離は」
青年が一瞬だけ黙った。
エルダーラは、それ以上聞かなかった。
「本陣守備へ」
「ですが――」
「あなたが弱いからではありません」
青年が口を閉じる。
「今日の本陣守備には、長距離を走らない者が必要です。代わりに最後まで立っていてください」
「……はい!」
今度の返事は大きかった。
エルダーラは次へ行く。
「あなたは伝令」
「自分がですか?」
「午前の訓練で最も早く戻っていました」
「見ておられたのですか」
「見なければ決められませんでしょう?」
さらに十数名を振り分けていく。
足の速い者。
盾の扱いが巧い者。
声が通る者。
林での移動に慣れている者。
剣より槍で間合いを保つのが得意な者。
配置を聞いた副官役の騎士が、地図を見つめた。
「レグランド様」
「はい」
「前衛が薄くありませんか」
「薄いですわね」
「中央もです」
「ええ」
「殿下側は、おそらく中央へかなりの戦力を集めます」
「そうでしょうね」
副官役の騎士が少し困った顔をした。
「でしたら、なおさら中央を厚くすべきでは」
「なぜです?」
「突破されます」
「突破していただきます」
副官役の騎士が完全に黙った。
エルダーラは地図の中央を指でなぞる。
演習場は平坦ではない。
東側には林。
西には、夏場になるとほとんど水のなくなる涸れ川。
中央には古い荷馬車道が南北へ延びている。
荷馬車道の北側には、左右を低い丘に挟まれた場所がある。
広くはないが、騎士40、50名程度なら十分に通れる。
「第1隊は正面。交戦してはいけません」
「交戦しない?」
「殿下が来たら退いてください」
「どこまで」
「ここまで」
エルダーラが地図を指す。
「ただし、一度に退かないでください。10名ずつ。相手に、あと少しで捕まえられると思わせる程度に」
「……誘導ですか」
「移動していただくだけです」
「同じでは?」
「だいぶ違いますわ」
副官役の騎士は納得していないようだったが、質問はやめた。
「第2隊は東の林へ。殿下側から姿を見せないこと。第3隊は西。涸れ川の縁を使って北上」
「本陣が薄くなります」
「構いません」
「旗を取られれば終わります」
「殿下は旗へ来ません」
副官役の騎士が顔を上げた。
「なぜ、そう言い切れるのです?」
「殿下だからです」
「……説明になっておりません」
「では、あとで」
遠くで角笛が鳴った。
開始5分前。
エルダーラは120名を見渡した。
緊張した顔。
楽しそうな顔。
王太子軍と戦うことに怯えている者もいる。
当然だ。
相手は王太子。
しかも強い。
「一つだけ」
エルダーラが声を上げると、ざわめきが消えた。
「今日は勝ちます」
何人かが息を呑む。
「ですが、勝つこと自体は難しくありません」
今度は別の意味でざわめいた。
エルダーラは続ける。
「問題は、誰も欠けずに勝つことです」
120名を、一人ずつ見るように視線を動かした。
「戦闘不能判定を受けた者は、そこで演習終了です」
「はい!」
「ですが、実際の戦場なら違います」
返事が止まる。
「腕を失えば、その先があります。足を失っても、その先があります。生きて帰れば家族に会えます」
静かになった。
「今日、そこまで考える必要はないとおっしゃる方もいるでしょう」
ルーヴァンもそう言った。
模擬戦だから。
実戦ではないから。
「ですが、模擬戦で捨てる癖のついた一人を、実戦だけ大切にできるとは思いません」
少し間を置く。
「ですから、勝ちます」
エルダーラは言った。
「全員で戻ってきてください」
角笛が鳴った。
南では、ルーヴァンが迷わず中央へ戦力を集めていた。
奇策ではない。
むしろ合理的だった。
演習場の中央を通る荷馬車道は、最短で敵本陣へ向かえる。
東の林へ大軍を入れれば速度が落ちる。西の涸れ川は足場が悪い。
ならば中央を主力で突破し、敵軍を二分する。その後、一隊を敵本陣へ向かわせ、残りで分断した敵を各個撃破する。
実際、ルーヴァン軍の前衛には突破力の高い騎士が揃っていた。
開始から10分。
最初の接触。
エルダーラ軍の前衛20名が見えた。
「少ないな」
「ああ」
「林へ回しているのでしょうか」
「あり得る」
ルーヴァンは東を見た。
木々の間に動きはない。
「斥候を2人」
「はっ」
騎士2人が東へ離れた。
その間にも中央の距離は縮まる。
エルダーラ軍前衛は盾を並べた。
20対40。
正面からぶつかれば勝負にならない。
「押すぞ」
「はっ!」
ルーヴァン軍が速度を上げた。
ぶつかる。
その直前。
エルダーラ軍の盾列が下がった。
「退いた?」
一歩。
二歩。
そのまま背を向ける。
「追え!」
誰かが叫んだ。
ルーヴァンは一瞬考えた。
敵の退却が早すぎる。
だが、前衛20名。こちら40名。
受ければ潰れると判断したなら、退くのは当然だった。
「追う。ただし深入りするな!」
「はっ!」
速度を維持する。
敵は速い。
だが全力ではない。
あと少し。
もう少し。
追いつけそうで、追いつかない。
5分。
10分。
前方に、さらに10名の敵兵が現れた。
退いていた20名と合流する。
「30か」
ルーヴァンが呟いた。
今度こそ受けるかと思った。
だが30名も退いた。
「殿下。誘われている可能性がございます」
「ああ」
「なら停止を?」
「いや」
前方。
敵は退いている。
こちらには後続もいる。
東へ出した斥候から、まだ報告はない。
西も静かだ。
敵がこちらを中央へ誘導している可能性は高い。
ならば。
「誘っているのなら、その前に中央を抜く」
「ですが」
「罠は、完成して初めて罠だ」
ルーヴァンが剣を抜く。
「相手が閉じる前に突破する」
騎士たちの顔に力が戻った。
「速度を上げろ!」
「おおっ!」
40名が走る。
後続も続く。
ルーヴァン自身が先頭近くへ出た。
その姿を見て、騎士たちの速度も上がる。
王太子が先頭にいる。
それだけで士気は上がる。
その能力もまた、ルーヴァンの強さだった。
北。
低い丘の向こう。
伝令が駆け込んできた。
「殿下軍主力、速度を上げました!」
「何名」
「確認できただけで70以上!」
副官役の騎士が息を呑む。
「来た」
エルダーラは立ち上がった。
「第2隊、予定位置へ。第3隊も動かしてください」
「本当に中央へ来ましたね」
「ええ」
「罠を疑わなかったのでしょうか」
「疑っておられます」
「では、なぜ」
エルダーラは手袋を直した。
「ご自分なら突破できると知っておられるからです」
副官役の騎士が黙る。
「殿下は強い方です。剣も、体力も、統率も」
「はい」
「そして、ご自分が強いことを正確に理解しておられます」
「それが?」
「人は、自信のあるものほど頼ります」
遠くから声が聞こえる。
ルーヴァン軍が近い。
「自信のない方は迷います。右か左か。進むか退くか。いくつもの選択肢を考える」
エルダーラは丘の上へ歩いた。
「ですが、自信のある方は違います」
前方。
狭くなった荷馬車道へ、ルーヴァン軍の先頭が見え始めた。
「最後には、自分が最も得意な答えを選ぶ」
「だから、読みやすい?」
「ええ」
エルダーラは微笑んだ。
「殿下なら、必ず来てくださると思っておりました」
ルーヴァンが異変に気づいたのは、前衛が北側の狭い区画へ入ってからだった。
敵が消えた。
それまで目前を走っていた30名が、左右へ分かれる。
東の丘。
西の斜面。
追うには狭い。
「止まれ!」
ルーヴァンが叫んだ。
前衛が速度を落とす。
そのとき、後方から角笛が鳴った。
一度。
二度。
味方の合図ではない。
振り返る。
遠く。
今まで何もなかった東の林から、人影が出てくる。
「敵!」
後続が叫んだ。
20。
30。
数が増える。
西からも、涸れ川沿いを北上していた兵がルーヴァン軍の後方へ回り込んでいた。
「反転!」
ルーヴァンは即座に命じた。
判断は早かった。
完全に閉じられる前に後方を破る。
正しい。
だが、後続の動きが鈍い。
「何をしている!」
「伝令が戻っておりません!」
「斥候は!」
「東へ出た2名、未帰還!」
その瞬間、ルーヴァンは理解した。
斥候を傷つけたわけではない。
演習なのだから、おそらく囲まれて戦闘不能判定を受けたか、降伏させられた。
情報だけが戻ってこない。
「後方隊へ伝令!」
「はっ!」
若い騎士が走り出す。
だが丘を回ったところで、3人の敵兵が現れた。
剣を交える音がした。
短い。
すぐに審判の声。
「戦闘不能!」
伝令が消えた。
「……なるほどな」
ルーヴァンは歯を食いしばった。
前から攻撃してこない。
後ろも、まだ来ない。
敵は周囲を固めるだけ。
こちらに判断させようとしている。
「殿下!」
東側で声が上がった。
10名ほどが突破を試みる。
敵は20名。
正面衝突にはならなかった。
エルダーラ軍は盾で進路を塞ぎ、槍で間合いを取る。攻撃を急がず、一人が前へ出れば三方向から剣先を向ける。
審判が即座に声を上げた。
「そこまで! 実戦なら三方向から刺されている。戦闘継続不能!」
一人。
また一人。
東へ出た隊が削られていく。
「殿下、中央を! このままでは包囲されます!」
ルーヴァンも分かっている。
後ろを破る。
左右へ抜ける。
それとも。
前。
敵本陣方向。
北側だけ、まだ道が空いている。
その先にエルダーラがいる。
「……前へ出る」
「殿下!」
「後ろは既に閉じられつつある。左右は狭い。なら前だ」
「しかし、それこそ――」
「分かっている!」
罠だ。
分かっている。
それでも、前へ出れば敵指揮官へ届く可能性がある。
エルダーラを戦闘不能にすれば勝ちだ。
兵数で劣勢になっても、指揮官さえ取れば終わる。
「30名、私について来い!」
ルーヴァンが走った。
30名が続く。
その選択も、間違いではなかった。
「来ました」
「来ましたわね」
「ここまで予定通りですか」
「少し早いです」
「早い?」
「7分ほど」
エルダーラは前方を見る。
ルーヴァン軍30余名。
速い。
正面突破を捨てていない。
むしろ包囲されたことで、さらに速度を上げていた。
「第3予備隊を12名」
「12?」
「十分です」
「殿下を含めて30以上おります」
「こちらへ全員は来ません」
実際、途中でエルダーラ軍の小隊が左右から出た。
襲いかからない。
進路を狭める。
ルーヴァン軍のうち何人かが迎撃へ回り、数が減る。
「止まるな!」
ルーヴァンの声が響く。
残った者は進む。
22。
18。
15。
その一人一人を、エルダーラは見ていた。
「前へ」
12名が出る。
「ただし、殿下には触れないでください」
「は?」
「他を止めます」
「殿下一人を通すのですか?」
「はい」
「危険です! あなたが戦闘不能になれば終わります!」
「ならないようにします」
あまりにも普通に言われて、副官役の騎士は言葉を失った。
エルダーラは腰の剣へ手を置いた。
だが、抜かない。
ルーヴァンは気づいた。
目の前の敵が、自分を止めようとしていない。
周囲の騎士だけを狙っている。
「殿下!」
一人が止められる。
「行ってください!」
さらに一人。
「くそっ!」
ルーヴァンは前へ出た。
残り10。
8。
5。
そして、道が開けた。
少し離れた場所に、エルダーラが立っている。
隣には本陣旗。
「エルダーラ!」
ルーヴァンが剣を抜いた。
エルダーラは動かない。
「殿下」
「これで終わりだ!」
距離を詰める。
5歩。
4歩。
3歩。
その瞬間。
エルダーラが言った。
「終了ですわ」
ルーヴァンの足が止まった。
「何?」
後ろから、審判の角笛。
長い音が3度。
戦闘終了を示す合図だった。
「なぜだ!」
振り返る。
自分についてきた騎士は、もう一人もいない。
さらに遠く。
包囲された主力も、武器を地面へ置いていた。
何十本もの剣。
槍。
盾。
その間を審判役が歩いている。
「ルーヴァン殿下軍!」
老騎士の声が演習場へ響いた。
「戦闘不能および降伏判定、既に7割を超えている!」
ルーヴァンの顔が強張る。
老騎士は続けた。
「残存兵の配置、指揮系統、包囲状況を確認した!」
紙を見る。
「戦闘継続可能者――1名!」
ルーヴァンが固まった。
「1名?」
「殿下のみだ」
周囲から小さなどよめきが起きた。
「よって審判団は、ルーヴァン殿下軍の戦闘継続を不能と判断する!」
ルーヴァンはエルダーラを見た。
「私を、わざと通したのか」
「はい」
「なぜ」
「殿下を止めるために人数を割く必要がございませんでしたので」
「……何?」
「殿下がこちらへ来れば、そのぶん後方に指揮官がおりませんでしょう?」
ルーヴァンの顔が強張った。
確かに、自分は前へ出た。
自分なら突破できると思った。
敵指揮官を取れば終わると思った。
その結果、自軍の残りを指揮官不在にした。
エルダーラは、自分を倒す必要すらなかった。
「勝者、エルダーラ・レグランド軍!」
宣言。
一瞬、演習場が静まった。
それから大きなざわめきが起きた。
観覧席にいた貴族たちも立ち上がっている。
騎士団関係者。
軍務官。
王宮関係者。
今回の演習は、将来国を支える王太子とその婚約者がどれほど軍を理解しているのかを見る意味も持っている。
当然、多くの目があった。
「損耗を確認!」
審判役たちが各隊の記録を集める。
ルーヴァンは黙ったまま立っていた。
エルダーラは、剣へ触れてすらいない。
やがて老騎士が結果を読み上げた。
「ルーヴァン殿下軍、戦闘不能判定58。降伏判定61。戦闘継続1」
ざわめき。
「よって全滅判定」
さらに大きくなる。
ルーヴァンは拳を握った。
「エルダーラ・レグランド軍」
老騎士が一度、紙を見直した。
「戦闘不能判定――0」
今度は、ざわめきすら止まった。
「降伏判定0。戦闘継続120」
誰かが小さく呟いた。
「全員?」
「全員だ」
120対120。
一方は全滅。
一方は損害なし。
0対120。
あり得ない、と言いたげな視線がエルダーラへ集まった。
その中で、エルダーラは別のことを聞いた。
「実負傷者は?」
老騎士が目を細める。
「そちらを先に聞くか」
「はい」
「確認中だ」
エルダーラは待った。
数分後、各所から報告が集まった。
一人、転倒による手の擦過傷。
一人、盾を受けた際の軽い打撲。
それ以外なし。
医務担当の騎士が声を上げる。
「治療を必要とする負傷者、双方とも0!」
その瞬間、エルダーラは初めて、はっきり息を吐いた。
「よかった」
「……何がだ」
エルダーラは振り向いた。
「誰も怪我をいたしませんでした」
「そこか?」
「はい?」
「120人を一人も失わず、こちらを全滅させた。それより先に気にするのが怪我人なのか」
エルダーラは少し不思議そうな顔をした。
「模擬戦ですもの」
「……」
「勝つために、本当に怪我をする必要はございませんでしょう?」
開始前と同じ言葉。
今度は、ルーヴァンは笑わなかった。
演習場では、戦闘不能判定を受けた騎士たちも戻り始めていた。
悔しそうな者。
笑っている者。
何が起きたのか仲間へ説明している者。
そして、エルダーラ軍の騎士たち。
120名。
誰一人欠けずに戻ってくる。
一人がエルダーラへ深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「何がです?」
「全員で戻れました」
「模擬戦ですわよ」
「それでもです」
別の騎士も笑った。
「最初は、交戦するなと言われて正直不安でした」
「そうでしょうね」
「でも、終わってみれば剣をまともに合わせたのは数回だけでした」
「その方が安全ですから」
「はい」
騎士はもう一度頭を下げる。
「あなたの下なら、生きて帰れそうです」
エルダーラが少し困った顔をした。
「今日は模擬戦です」
また同じことを言った。
周囲から笑いが起きる。
悪意のない笑いだった。
好意と、尊敬と、安堵。
それらが混ざったもの。
エルダーラ自身は、その意味にあまり気づいていなかった。
けれど、ルーヴァンには見えた。
騎士たちがエルダーラへ向ける目は、自分へ向けられるものとは違う。
王太子だからでもない。
身分が高いからでもない。
単純に強いからでもない。
この人についていけば、生きて帰れる。
そんな信頼だった。
「殿下」
エルダーラが近づいた。
ルーヴァンは返事をしなかった。
「お怪我はございませんか?」
何の含みもない。
本当に心配しているだけ。
それが今のルーヴァンには、ひどく腹立たしかった。
「ない」
「よかったですわ」
「……エルダーラ」
「はい」
「一つ聞く」
「何でしょう」
「最初から、私が中央へ来ると分かっていたのか」
「かなり高い確率で」
「なぜだ」
「中央は最短です。殿下側には突破力のある騎士も多い。第一候補になるのは当然ですわ」
「なら、お前も中央を厚くするのが普通だろう」
「そうすれば、殿下は別の場所へ行かれたでしょう?」
「私に中央を選ばせるために?」
「はい」
「私が罠だと疑うとは考えなかったのか」
「考えました」
「なら、なぜ」
エルダーラは少しだけ笑った。
「疑っても、殿下なら来られると思いましたので」
「なぜだ!」
思ったより大きな声が出た。
周囲が静かになる。
エルダーラだけが変わらない。
「殿下は、ご自分なら突破できると知っておられます」
「……」
「それは自惚れではございません。実際、殿下にはその力があります」
褒められている。
なのに、なぜこれほど腹が立つのか。
「自信は強さです」
エルダーラは穏やかに言った。
「ですが同時に、癖でもあります」
ルーヴァンは何も言えなかった。
負けたこと自体なら、まだよかった。
模擬戦なのだから次がある。戦術を学び直せばいい。
だが、自分の強さも、自分がこれまで積み上げてきたものも、そのすべてを材料にされて負けた。
しかもエルダーラは、勝ち誇りもしない。
ただ当然のように、最適な手を選んだだけだと言う。
それが何より、ルーヴァンの中に残った。
エルダーラは、もう自軍の騎士たちへ戻ろうとしていた。
「待て」
「はい?」
ルーヴァンは腰の剣へ手をかけた。
演習用の剣。
まだ白い染料もほとんどついていない。
「軍の指揮では、私の負けだ」
周囲が静まった。
エルダーラも待つ。
「だが」
ルーヴァンは剣を抜いた。
「一対一なら話は別だ」
エルダーラが剣を見る。
それからルーヴァンを見る。
「殿下?」
「私と一騎打ちをしろ」
しばらく、エルダーラは瞬きをした。
「今からですか?」
「そうだ」
「お疲れでは?」
「問題ない」
「わたくしは少々お腹が空いておりますけれど」
「エルダーラ!」
「はい」
怒鳴られて、エルダーラは仕方なさそうに腰の剣へ手を置いた。
「分かりました」
周囲の騎士たちが、またざわつく。
ルーヴァンは剣を構えた。
今度は軍ではない。
地形も兵もなく、読み合うべき120人もいない。
自分とエルダーラ。
ただ二人だ。
これならば、負けるはずがない。
エルダーラはそんなルーヴァンを見て、ほんの少しだけ困ったように眉を下げた。




